◎諸感覚の扉を閉じる
臨死体験ものを読むと、ひどい交通事故などで重傷を負った人が、気がついたら病室の上方から痛みも感じずに、自分の身体を見ている描写がよく出てくる。
OSHOバグワンの高齢の友人が階段から落ち、三か月の安静が必要とされ、毎日鎮痛剤なしでは眠れないほど痛みに苦しんでいた。そこでOSHOバグワンが彼に、「自分がただの石だ、石像だと思い込んでみなさい」と示唆した。
友人は、それを始めて30分間目を開けなかった。そして、この30分間自分の手足やら肉体を動かそうとしても動かせなかったのだが、そんなあらゆる動きが止んだ時、突然世界が消えうせ、自分は自分の奥深くに居て、痛みはすべて消えうせた。(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(1瞑想)OSHO P307-309)
さらに、ダンテス・ダイジがさる事故でひどいやけどになった際に救急車で運ばれたことがあった。その際救急車内で、意識を肉体から後退させ痛みを感じないようにして、救急車の隊員に、「薬を塗ったりなどの手当てをする必要はありません。」と求めた。
救急隊員は、「仕事ですので、少しは薬を塗らせて下さい。」と求められたので、ダンテス・ダイジは、手首のところだけに薬を塗らせた。
ところがその結果、手首のところだけが残念ながらケロイドになってしまった。
ダンテス・ダイジは、このやけどを機に顔を作り替えて、前よりいい男になったと言っている。
昨今、鎮痛剤を常用する人も多いのだろうと思う。医療、薬剤のない危急のシチュエイションでは、このように、肉体から意識を退行させ、痛みを感じさせない技法がある。もちろんこれは、自意識が肉体ではないとわかっている人だけが可能であって、誰もができるわけではない。
またOSHOバグワンは、この技法のことを『諸感覚の扉を閉じる』と称し、諸感覚の扉を閉じれば、その時世界が閉じきることで、ニルヴァーナが起きるとする。
痛みに苦しむ自分は、いったいどこにいるのだろうか。
禅僧白隠は、禅病を軟酥の観で快癒させて喜んでいたが、ダンテス・ダイジはこの点を捉えて、白隠に対する評価は低いところがあるように思う。