アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

悟りと生きる情熱の多寡-1

2023-08-17 06:43:16 | アヴァターラ神のまにまに

◎人間は結局は死ぬだけなんだ

 

悟りを考える上で、冥想方法や教義や正師や精神の成熟度の他に、生きる情熱の多寡という問題は避けて通れない。

悟りには三種あり、神下ろし、見ること(見神、見仏、見性)、神人合一とあるが、そのような形式と道具立てをいくら聞いたり読んだり理解したり、あるいはどんなに悟りたいと師にだだをこねてもできないことはできないということもある。

以下のダンテス・ダイジと弟子の会話は、思いつくままにばらばらに話が進んでいくようだが、ダンテス・ダイジの悟り観が散りばめられている。

 

『渡辺「玉城さんがね、冥想の中でさ、最後まで光がね、通らないような部分を感じるっていうのは、そ の自己なわけ?」

ダン「そう。つまり、哲学者玉城康四郎の持っている癖だ。」

渡辺「なるほどね。それは人によって最後に残るみたいなものが違うわけ?」

ダン「うん、もちろん残ったとしてもさ、完全に生き切る人もいる。」

渡辺「残ったままで?」

ダン「うん、残ったままで。それはね、クリスチャンなんかの場合でも、神と人間は絶対結び付かないという立場があるんだ。一つの立場としてね。キリストの教えじゃあないんだ。でも、そういうふうに、絶対結び付かないっていう中を、とても素敵に生きる人もいる。」

 

渡辺「どういうことなの?それは?」

ダン「うん、人はだから、それぞれっていうことさ。例えばね『ああ、この世はさ、結局死ぬだけなんだ』っていうふうに理解したとするとさ、『うん、この世はそんなもんなんだ』と理解したとしても、その中にいつでもバィヴレートしてるものがある人もいる。大切なことはね、彼がどういうことを語るかじゃあなくて、その語っている言葉が、どっから出て来るかだ。

 

いい?ある人が生きている。そしていろんな混乱に晒されている。で、突然死ぬんだっていうことを、何かのきっかけで理解する。理解した時、全てが吹き飛んじゃう。そうすれば、奴はまず、めったに人には語らないだろう。でも、同じだけ人生に直面した人に向かっては、ひょっとしたら漏らすかも知れない。『うん、そうなんだ。人間は結局は死ぬだけなんだ』その時、彼が言ってることはさ、普通よくこの社会の人達がさ、空しさとか倦怠感とかさ、不安とかの中で喋る意味ではなく、もっともっと深い彼自身の実感があるんだ。『死ぬだけなんだ』」

 

渡辺「例えば、パウロがさ、霊と肉と分けて言う時の肉みたいな、そういう感じ?」

ダン「ううん。パウロみたいな生き方ではないだろうな。恐らく完全にもし、タイプで分けるとすれば、 社会の中に貢献するっていうようなタイプに属する人の場合は、そういうふうな悟りの開き方っていうのかな、をする人は多いよ。ああ、人生はさ、全て過ぎ去って行くんだな。ということ。それだけで沢山だ。」

渡辺「いわゆる空しさとは違うわけ?」

ダン「うん、違う。空しさではない。だから、人はこういうふうに言うこと。

『人生なんて結局思い通りにならないのだ』『うーん、人生なんか本当に重いんだ。みんな死んじゃうんだ』

こういうふうに言うこともあるよ。うん。『人生は思い通りにならないな。人間は自分勝手に生きてるわけじゃあないんだから。人間は結局死ぬな』って。」』

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P53-54から引用)

 

ここでは、神と人間は絶対結び付かないという立場とは、人は『死ぬだけなんだ』と感得しつつ、根源からバイブレートするものを感じながら生きられる人々の立場のこと。そういう人たちは、『社会の中に貢献するっていうようなタイプに属する人』の中に多いとしている。

 

人は『死ぬだけなんだ』という気づきは、例の隙間の気づきである。

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