アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

あがきすぎる、何も手を打たない、完全にあるがままにある

2022-11-26 06:50:18 | 密教neo
◎自分自身を成長させる意志

ソギャム・リンポチェの問答から。
『Q
非常な混乱を感じ、その混乱から脱け出そうとすることはあがきすぎのように思われます。しかし、何も手を打とうとしないことは自分を騙しているだけだといつかは気づくのではないでしょうか?

A
そうだ。しかしあがきすぎるか何も手を打たないかの、両極端の生き方しかないわけではない。

完全に〈あるがままにある〉という〈中道〉的な生き方を見いだすべきだ。これを説明する言葉にはこと欠かないが、実際に自分でやるほかはない。本当に中道を生きはじめたとき、あなたはそれを理解し見いだすだろう。

自分自身を信頼し、自分の知性を信頼することを自分に許さなければならない。私たちは本来豊かな人間であり、豊かなものを内にもっている。ただ自分がありのままの自分であることを許すべきだ。

外的な救いは役に立たない。自分自身を成長させる意志がなければ、混乱して自己破壊のプロセスに陥るだけだ。それは外部からの破壊ではなく自己破壊であり、だからこそ効力があるのだ。』
(タントラへの道/チョギャム・トゥルンパ・リンポチェ/メルクマール社P35から引用)

さすがにリンポチェだけあって、本当にわかっている人物であることがわかる。混乱を感じることは誰にでもできるが、その混乱から抜け出すことは誰にでもできるというわけにはいかない。「自分自身を成長させる意志」というある種の生きる熱源、パワーを必要とする。それなくしてあがくだけであれば、スピードや程度の違いはあれ、自己破壊が進行していくだけである。

ところが「自分自身を成長させる意志」とは、実は生得的、先天的なものであって、いわば自分ではどうにもならないところのものであるように思う。

この質問者が、その意志をどの程度有していたのかはわからないが、そのことに言及すべき質問者だったのだろう。
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