アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

念仏の必要回数

2023-04-12 18:52:27 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎念仏の効果の多様性

(2009-11-06)

 

一回念仏をしただけで往生できると法然は云い、また別の浄土門の聖は何万遍も念仏しないと浄土に往生できないという。

 

只管打坐で坐り続けていても、霊能力が開けて優れたクンダリーニ・ヨーギになって、中心太陽への突入を目指すことになるかもしれない。

 

また念仏を日がな唱え続けているうちに、自分が南無阿弥陀仏というマントラになりきった時から、浄土に往生できるかどうかではなく、この世も地獄も浄土ももともとなかったという禅的悟りを得る人もいるかもしれない。

 

日蓮だって、自筆曼陀羅の中に天照大神を書き入れて、自ら宗派の壁を超えた。

 

ことほど左様に冥想修行の形式と行く先は、思惑どおり論理的に展開するとは限られない場合がある。

 

だから最近の歴聖が、「現代人は、ちょっと坐っただけですぐ悟れる」と口を揃えるのは、現代人なら、「どうしても浄土に往生したいと思い詰めたなら」念仏は一回で良しとすることを暗示している。

 

でも浄土に転生することと、念仏を唱えるというマントラ念唱は、本来別々のものであって、善導や法然が、念仏と往生を結びつけてしまったので、それが先入観になっているということがある。

マントラ念唱自体は、古今東西様々な宗派で利用されている。

 

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神仏を拝まない

2023-04-12 18:48:02 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎どちらでもOK

(2006-11-26)

 

日本には、もともと八百万の神々がおはしまし、その上仏教伝来後は仏教系の神々も輸入されてきたので、神々や諸仏のいることは、とてもにぎやかなことであった。

 

法然や親鸞が出てきて、阿弥陀仏だけ拝みましょうという運動を始めたのは、非常に革命的なことであったに相違ない。何しろ天照大神、素盞鳴命から大日如来など数しれぬ大物神祇、高級神霊をさしおいて、阿弥陀仏だけ拝みましょうという運動だったからだ。実際に法然や親鸞の当時は阿弥陀仏以外は拝まなかったようだ。

 

そうすると他の神祇、高級神霊を拝まないのは、拝んでくれない尊格からの天罰仏罰があるのではないかという不安がかき立てられ、親鸞直系の存覚の頃になると、「阿弥陀仏は、すべての神祇の本地つまり、あらゆる仏菩薩の総元締めであり、かつ天津神、国津神、八百万神の総元締めであるから、阿弥陀仏以外を拝むことは、阿弥陀仏を拝むことである」という理論づけに変わり、他の神仏を拝むことも容認して行った。

 

こうした流れからすると、日蓮の法華経に帰依しましょうという運動は、更に一歩大胆に踏み出したものに思われる。日蓮は、神仏ではなく、法華経への帰依を打ち出したからである。もっとも日蓮の大曼陀羅には、釈迦、多宝仏の他、天照大神や八幡大神も出てくるので、日蓮のイメージの中には諸神祇を排斥するつもりはなく、取り込んでいたつもりだったのだろう。日蓮自身も、虚空蔵菩薩に願をかけたり、諸神霊の加護に祈念している

 

なお、このブログでは、南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もマントラ禅の分類にしており、マントラになりきることによるマントラ・シッディによる大慈大悲・愛の直観が本質と見ているので、神でも仏でもどちらでもOKです。

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冥想(瞑想)の種類と分類-3

2023-04-12 06:47:48 | 冥想いろいろ
◎体験とは言えない体験に耐えられるかどうか

2. 悟りを目指す求道冥想

これまでのセラピー瞑想については、「精神療法と瞑想 心を解くセラピー&メディテーションガイダンス 宝島編集部/編 JICC出版局」を参照してきたが、セラピーではない悟りを目指す求道冥想については、これまでどおり準備冥想と本番の悟りに至る冥想を述べる。

OSHOバグワンは、多数の準備冥想を発案・紹介しているのだが、それでストレス発散やカタルシス、頭の想念・思考の掃除をやることが多い。そうした技法と究極に至るヴィパッサナーや只管打坐、クンダリーニ・ヨーガなどの技法を同列には論じられない。

そして何よりも大事なことは、自分自身が究極と言う体験とは言えない体験に耐えられるかどうかということであって、それを無視して、瞑想技法の種類と効果だけを論じるわけにはいかない。

またクンダリーニ・ヨーガ系(古神道、道教内丹、チベット密教、西洋錬金術等)などは段階があるが、只管打坐は段階なくいきなり窮極に到達する。また冥想といえば、坐相ポスチャーだが、意識状態が坐相を決めるという側面があり、その姿勢を自分ではとったと思っても正確に求められる坐の姿勢をとれたかどうかは別である。その一方でその坐相の効果の絶対性というものもある。
参考:【Overview of the meditation 冥想の全体像】

(1)冥想の準備
 (a)柔軟体操(柔軟体操)
 (b)食事・嗜好品(食事・嗜好品)
 (c)呼吸法(呼吸法)
 (d) マインド・コントロール対策

(2)単体冥想のいろいろ
 (a)イメージ・トレーニング(観想法)
 (b)気功、導引
 (c)ハタ・ヨーガ
 (d)カーマ・ヨーガ(性愛冥想)
 (e)ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)
 (f)占星術
 (g)マントラ禅
 (h)只管打坐
 (i)クンダリーニ・ヨーガ
 (j)丹田禅

もちろん冥想法には、宗派による区分もある。一例として、クンダリーニ・ヨーガ系のカバラ瞑想では、観想法である「イメージ形成」「イメージ想起」に加え、「神の姿勢」という椅子上の坐法があり、呼吸法もある(参照:魔法修行/W.E.バトラー)。この冥想法は西洋魔術、魔法と呼ばれるが、これもいくつかの冥想技法の集合体ではある。どこの宗派のそれも大方冥想技法の集合体であって、宗派に関係ないマインドフルネスとかフルフィルメントであっても冥想技法の集合体である。

ところで、このように準備冥想メニューや窮極に至る単体冥想メニューを並べてみたが、ホテルの朝食ビュッフェよろしく、自分の気に入った冥想メニューばかりやってはならない。いろいろな宗派の「いろいろな行法を混ぜてはいけない」(魔法修行/W.E.バトラー/平河出版社P60から引用)のだ。

同様に、日蓮が、禅天魔、念仏無間、真言亡国、律国賊と他宗派排撃を言っているのは、「いろいろな行法を混ぜてはいけない」から南無妙法蓮華経を専一に唱えなさいと言っているだけのことである。禅にも、念仏にも、真言にも・律にも覚者は出ているし、それが証拠に日蓮直筆の曼荼羅に天照大神が記載されているのは、そのような消息である。どの宗派においても、その宗派の冥想技法一本でやりなさいと言うものだ。

準備冥想であっても単体冥想であっても、人をトランスに導き不安定にさせる可能性がある以上は、悟った正師の指導を受ける必要があるのは言うまでもない。
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