◎その生い立ち
(2009-07-31)
正受慧端は、1642年信州松代藩主真田信之(真田幸村の兄)の庶子として生まれ、飯山城主松平忠倶侯に養われていた。正受13歳のころ、城下の曹洞宗大聖寺の奪心禅師の登城した時に、侯の子供達が、禅師に紙を差し出し仏名を書いて頂いていた折り、正受も請うたところ、禅師は「正受には観世音がついておられるので、仏名を差し上げられない」と断られた。
正受がその意味を問うと、禅師は「自分に訊いてみなさい、他人に問うてはならない」と戒められた。この時正受は、将来の自分の成道の予感を持つことになる。
以後、出家こそしていないが、修行に専念するようになり、しばしば寝食を忘れ、大疑団に集中し、立っては坐ることを忘れ、坐っては立つことを忘れ、城内で行方不明になることも多く、雪隠(トイレ)で発見されることが多かったので、松平忠倶侯は、正受のことを強情な白痴だろうと言うほどであった。
正受16歳の時、たまたま2階に上がろうとして、階段の半分位のところで、立ったまま定に入り、階段から転げ落ちて、気絶した。
人々が驚いてこれに水をかけて呼ぶと、蘇生して、手を打って大声で笑いだしたので、人々はこれは発狂したのだと思ったが、実は大悟したのであった。
その後19歳の時、江戸に出て、菰一つだけで寝たり坐ったりする極貧の、麻布の至道無難禅師について出家した。(いつの世も、極貧が本物のサインであって、豪壮な本部を構えている本物はまずない。マンモンの神は本物には寄りつかない。)
大器は、遅くとも思春期のころから悟りのボーダーにいる。思春期の頃から無常を生きているわけだから、生きるのはつらいものだと思う。また部屋住みとはいえ、藩主の子が出家するのはなかなかの覚悟がなければできることではない。
実母も長生だったようだから、覚者によくある両親の早世というインパクトがなくても、充分にこの世の思い通りにならぬことを骨身にしみて承知していたから、16歳で大悟したということだろう。
飢え死にする危険はほとんどないけれども、いまや小学校でも三分の一が片親家庭、失業率も高く、うつ病の生涯有病率は8人に一人と、充分に不安定な精神の者が大量に出現する時代。物質的にはそこそこで、精神的には不安定、そんな現代の環境は正受の生い立ちによく似ている。よって自覚さえあれば、大悟への道は開けやすいとも言える。
衣食住の環境は整い、精神は成熟した。今や待たれているのは、政治でも経済でもそうなのだが、精神世界でも『次世代のビジョン』である。そろそろ出ないと、あらゆるものが混乱のうちにコントロールを失って失速する虞がある。