アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

イングリッシュ・ペイシェント

2023-04-05 14:56:04 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎愛に生きる

(2007-02-11)

珍しく映画を通しで見たので感想など。イングリッシュ・ペイシェントは97年のアカデミー賞作品賞他9部門獲得だそうです。こんないい映画があるのかと驚きました。

 

あら筋:

第二次世界大戦下のチュニジアの砂漠を舞台とした、ハンガリー人青年と探検家の妻の不倫物語。探検家は、最後に妻の不倫への怒りで自暴自棄になって、砂漠で、妻と同乗した複葉機での着陸に失敗して死ぬ。その不倫相手である青年は、墜落で重傷の探検家の妻を、泳者の洞窟に運び込み、救援を呼びに行くと称して洞窟から出かけてしまう。

 

結局そのために、彼女は洞窟の中で孤独な死を迎えた。

 

死後何日も経って、ようやく青年は飛行機で彼女を迎えに行くが、彼女の亡骸を積んだ飛行機は、砂漠の上空で撃墜される。青年は全身火傷で、イタリアで療養を続けるが、まもなく亡くなってしまう。

 

感想:

彼女が亡くなる寸前に、共に墜落した夫の安否のことを、不倫相手の青年にしきりに問うていた。結婚わずか一年で不倫して、不倫相手の青年も愛していたとしても、夫のことは格別な存在として、意識の中を占めているもので、まして結婚生活の破綻が一般的には大きなトラウマになってしまう消息がここにある。

 

瀕死の重傷を負った彼女を洞窟に置き去りにして孤独な死を迎えさせたことが、青年の大きな悔恨になった。あそこは砂漠の中で水も食糧も医療設備もない。であれば、何もなくとも彼女と一緒にいて、その死を看取ってあげるのが、愛人としての務めではなかったか。看取ることが原因で自分も飢え死にしても、そこは身を捨てて看取るのが、一度でも狂おしい愛の時間を共に過ごした者のあり方ではなかったか。

 

これから迎えるであろう彼女の死の重さに堪えきれなかったのか、青年はその場を立ち去った。こういうのはカルマになる。愛を全うするためには、平素から自分を捨てる覚悟がないと、いざという時に、捨てられるものではない。

 

その悔恨が、生きる気力をも失わせ、最後に青年は安楽死を選ぶ。青年の次の人生では、同じ失敗を繰り返さないことができるのだろうか。

 

一見気楽に始まった恋愛でも、最後には相手の全人生を負う結末が待っているもの。映画ならやり直せるが、実人生は一回限り。

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運命は最初から決定されているという見方

2023-04-05 07:18:45 | 無限の見方・無限の可能性

◎苦難と幸福をも越えて

 

第二次世界大戦末期にABCD包囲陣というのがあった。これは、アメリカA、イギリスB(Britain)、中国C(china)、オランダD(Dutch、蘭領のインドネシア)に、日本が包囲されていたということ。

 

大本神諭には、世界各国が日本を分捕ろうと攻め入って来る様を「末に日本をとる仕組み」と表現している。それを踏まえたのかは知らないが、いまや周辺国の中国、ロシア、北朝鮮、韓国、と軍事同盟国アメリカまでも、政治、経済、文化方面で、日本を分捕ろうと余念がない状態はようやく最近マスコミでも伝えられるようになった。

 

この他にも日本に限らず人類全体を人口激減から滅亡に至らしめようという勢力も、新規の疫病や〇〇BTや昆虫食や〇境問題解決の美名の下に世界中で活動している。

つまりいじめ撲滅、差別防止のレトリックを旗印に、男女の結婚・妊娠件数を減少させ、全体を不健康とし、貧困化させ、生きづらくさせようとする勢力が日々大手を振って大活躍している。

 

こうした状況は、学校でポジティブ思考であるべきと教えられた青少年や若い世代には、極めて理解しづらい状況ではないかと思う。この困った状況を見て、時に運命は最初から決定されているという見方に陥ることもあるかも知れない。

 

自分の個人の運命ですら、中学入試、高校入試、大学入試、就活、そして社会人になってからの成功失敗、恋愛の行く末、結婚の成否なども最初から決定されているという見方もある。日々一生懸命に生きている人もそうでない人も、その運命は最初から決定されているという見方を採る場合、人は、自分という役柄を一生かけて演じるということになる。

 

ある日、ダンテス・ダイジが最初の大悟覚醒後に、一生で出会う人物の顔を一人一人すべて見ていった。その話を聞いた弟子が、「自分の一生が最初から最後までわかるというのは、つまらないのではないか?」と訊いてきた。

ダンテス・ダイジは、「事前に知った人生を味わうということもある。」と答えた。

 

OSHOバグワンは、運命は最初から決定されているという見方は、自分が演技手あるいは人生を演じる役者だと見ることになり、それは、役者の背後に居る神を洞察させるための方便だと指摘している。(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(1瞑想)OSHO P263-271)

 

自分を人生の役者と見れば、人生はこの一回きりでも、何度も輪廻転生しようが理屈的には問題はない。だが実際のところ、苦しい人生であればあるほど、今回の一生だけで十分であって転生したいとは思わなかったりする。逆に富貴な楽な人生なら何度でも転生してやろうと思ったりする。そこには、苦痛、苦悩と快楽や幸福が入り混じり、せめぎあい、天国と地獄が目先にちらちらする。

 

そこで人生を一演技手としてみる場合、天国と地獄、苦悩と快楽を越えねばならないという直観が兆す。まともな宗教ならば必ず天国と地獄を越えたところを説くものだ。

 

つまり、運命は最初から決定されているという見方は、天国と地獄、幸福と不幸を超える生き方にたどり着くのだ。それは、やや人間的ではないと感じられる人もいるのだろうと思うが。

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