アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

アヴィラのテレサの語り得ない体験

2022-10-17 05:59:21 | キリスト者の秘蹟neo

◎一瞬の飛翔

 

『私は度々次のように考えました。

空にある太陽は、その光線がひじょうに強いため、太陽は空にとどまっているままで、光線は一瞬のうちに地上にとどいてしまいます。

 

太陽と光線が一つであると同様に、一つである霊魂と精神は自分のいる場所にとどまりながら、正義の真の太陽からくる熱の力で何らかの高貴な部分が自分自身から飛び出すのではなかろうかと。

 

結局私は自分の言っていることが分かっていません。ただ私にわかることは、火縄銃に火をつけたとき、弾丸の飛び出すあの速さで、霊魂の内部に一つの飛翔-私は他に何と呼んだらよいかわかりません。-が行われます。

 

それは音はしませんが、あまりにはっきりした動きなので決して錯覚ではありえません。

 

そして霊魂が自己超越の状態にあるとき、霊魂に分かる限りにおいて、偉大なことが示されます。

 

霊魂が我に帰ったとき、霊魂はこの上なく大きな益で満たされているので、自分の見たものと比べたら、塵にしか見えないこの世のあらゆるものをまったく空しく感じます。

 

それ以降は、この世に生きることは大きな苦しみとなり、前にはいつも楽しみを与えてくれたものを見ても、もはやそこに何の興味も見出せないのです。

 

(中略)

 

このような一瞬のうちに過ぎてしまうことは、大した益にはならないとあなたがたは思うかもしれませんが、それが霊魂に残す益はきわめて大きく、体験したことのある人でなければ、その価値を理解できないでしょう。』

(霊魂の城/アビラの聖女テレサ/聖母文庫P179-280から引用)

 

体験しなければ価値を理解できないものが、それである。しかしそれでは理解していない人々に伝えることは難しい。これもジレンマ。

 

まず霊魂は超高速で飛翔したみたいだ。それは一瞬に起こったが、何だかよくわからなく、起こったことの全部はわからないが偉大なことが起こった。

 

これが彼女の分析した体験のすべてである。これが体験することはしたが、充分に起こったことの全容を理解したとは言い難いという状態なのだろうと思う。窮極の花婿である神に出会ったが、それを分析し理解しきることはできなかったが、その短時間のイベントの与えた影響は大きく、もう戻れない神ジャンキーみたいな感じになってしまうことを言っている。

 

この内容でマスコミに載せても、そのことを知らない人に対して全然説得力などありはしない。

しかしそれでも瓦を磨いて仏にするような一見無駄な努力は要るのだと思う。

 

アヴィラのテレサは、連続的な観想法を用いて神を花婿と見るので、クンダリーニ・ヨーガ的なアプローチを取る。

 

そして飛翔は一瞬にして起こった。中心太陽に突入したのかしなかったのかはわからない。それは複数次元を飛び越えてあの世に行った人が、それを複数の次元を通過したとはわからず三途の川を渡ったと感じるのにも似ている。起こったことのすべてまでは理解できなかったということである。

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女几の房中術

2022-10-17 05:51:30 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎おとこもすなる房中術をおんなもしてみむとすなり

 

中国の周の時代の陳の国に、女几(じょき)と申す酒を売る婦人があった。その酒はたいそう味がよいので評判だった。

 

たまたまさる仙人がその店に立ち寄って酒を飲み、飲み代の質に『素経』五巻を置いていった。女几がその本を開けてみると、それは性を養う男女交接の術(房中術。性愛冥想のこと)を説いたものであった。

そこで女几は、こっそりとこの文の要点を写し取った。そして更に部屋を建て増しして、多数の若者を連れ込んでは美味い酒を飲ませ、部屋に同宿して、本に書かれた方法をトライした。

 

これを続けること30年で、容貌もずっと若返り、二十歳の頃のようであった。

 

数年後仙人がまたやってきて、笑いながら女几を冷やかして、「盗みの道に師匠なし。羽があれば、飛ばずにはいないものじゃのう」と言った。女几は、ついに店をたたみ、仙人の跡を追ったきり、行方がしれなくなった。(参考・列仙伝/平凡社)

 

女性が房中術を行うための基本条件としては、まず男好きであること、単なる異性への権力欲のはけ口としてのセックスではないこと、人生への虚無感の深さを背景として、欲情離脱へと切り替わっていくこと、などであろうが、最も問題なのは、簡単に色餓鬼地獄に落ちやすいことである。

 

性愛冥想や性愛三昧という冥想は、その奥底にこの世の無常・不安を抱えながら、それを性愛冥想の中で直視しようとするものであるから、ままならぬ現実を直視しようとする姿勢がなければ、享楽的刺激を求めるだけの色餓鬼地獄に落ちるだけである。

 

女几の話だけでは、このあたりの深刻さがわかりにくいが、女几も最後には、こうした問題を突破して、「羽を持つことができた」のだから、相当真剣な求道をしたのだと思う。

また「羽を持つことができた」という表現に、上昇するエネルギーを得たというニュアンスがある。

 

女性は、本当は多数の男性の肉体を求めているわけではなく、深く確かなふれあいを求めている。多数ではなく、ただ一つの確実な魂の半身を求めているのである。そうした動機の現れ方は、ある人にとっては、性愛冥想であったり、ある人にとっては、色餓鬼地獄になったりするのだが、性倒錯ですら、そのひとつと見ることができよう。

 

房中術は、男女のエクスタシーの質の違いから、男性側の冥想である。女几の話では、男性と同様に、女性も房中術ができるのかどうかという疑問があり、それは本当に房中術だったのか疑問に思うところがある。

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女丹 女の悟り-3

2022-10-17 05:47:11 | 道教neo

◎オルガズムを生涯一度も体験したことがない女性が多い

 

ある日、ダンテス・ダイジがとある喫茶店でとても静かなバイブレーションを放つ女性がいることに気がついた。

 

そのバイブレーションが起こる原因は、彼女のオルガズムにあると彼は言った。世に夜のむつ言を交わす男女は多いが、女性がいかに十分なオルガズムを得ることが稀なことよ。

 

その事情は、単身世帯が増え、結婚する人が減り、4割がおひとりさまで暮らしている現在では、更に悪化しているのだろう。

 

エロスとタナトス、性と死を語る識者、マスコミは多い。だが死を語るのでは本も売れずアクセス数も増えず、コンビニに並ぶ本の主流はエロ系である。紙メディアでもwebでも男性の性的満足の視点で書かれるものばかりで、女性の性的満足で書かれるものは女性週刊誌の一部くらいのものではないか。

 

黙示録では、世の終わりの原因は叫びであって、平たく言えば、自己実現しないことへの欲求不満と男女の性的欲求不満から来るものが叫びとして表現されると思う。性的欲求不満はより女性において問題は大きい。

 

世界平和は夫婦の和合からという古いスローガンもそれを暗示している。

 

ウーマン・リブ、女性解放運動は、いろいろな側面はあるのだろうが、昔は性倒錯とされていたレズビアンが、LGBTとして公認されるという逆流を見ている。

 

だがそれは、本来の課題である女性のオルガズムの実現とは何の関係もない。

 

女性の悟りの位置づけは、女性にとってのオルガズムの位置づけと切り離せないところがある。

 

女性のオルガズムの問題では、オルガズムを生涯一度も体験したことがない女性が多く、“女性のオルガズム”をまともに議論するのがとても難しいという側面がある。

 

それは男性の側の問題でもあり、社会全体の問題でもある。

この議論は、世情大いに誤解を招くだろうが敢えて出さざるを得ない。

 

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女丹 女の悟り-2

2022-10-17 05:46:23 | 道教neo

◎太陰煉形で月経を止める

 

道教では、男性は射精を止めて太陽煉氣で気を用いる。女性は月経を止めて太陰煉形で、血を気に変える。月経を止めるのは斬赤龍(太陰煉形の主目的。月経が止まった後は男性と同様の冥想法となる由)と呼ぶが、その過程で乳房は小さくなり童女のような身体に戻るという。男性への性転換はしない

 

さて仏教における女人成仏の代表的な話は、法華経提婆達多品で、8歳の龍王の娘が、大神力(超能力)により、公衆の面前で性転換を遂げて男性になり成仏したエピソードである。

 

月経が止まるようになりホルモンバランスが崩れると、乳房が小さくなるようなことはあるのだろう。

それにしても女性の肉体は神人合一に耐えられるものなのだろうか。

 

スピリチュアル・シーンでは、女性はチャネリングの媒体として登場してくることが多いが、成道のエピソードはほとんどない。数少ない道教での女性成道者としては、孫不二が代表的だが、そのエピソードを見ると男性成道者と遜色ない境地であると思う。

 

女性の内丹を研究するのにどの書物が本当らしいかということの他に、誰が真の成道者であるかという点と、本当に男性並みの神人合一を目指す女性が多かったのかという視点は捨てることはできない。

 

法華経では、女性の成仏を強引に性転換エピソードとし、女性が男性と同様の死を賭したニルヴァーナへの進む道をあきらめさせようとしたふしがある。それはなぜなのか。

 

そのあたりに、プロセスとテクニックに行く前の、女性の覚醒、女性本来の人生の目標が隠れているように思う。

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女丹 女の悟り-1

2022-10-17 05:45:45 | 道教neo

◎女丹合編通俗序

 

先日、久々に神田神保町に行って、新刊の『煉丹術の世界/大修館書店』が平積みされていたのを買った。

 

その中に女性の悟りについてヒントとなるようなことが書いてあった。

 

女丹合編通俗序:

『男の命(生命エネルギーの源)は、炁穴(下丹田)の中にあり、女の命は乳房の中にある。・・・男は精を作り、その色は白く、名づけて白虎といい、女は血を作り、その色は赤く、赤龍という。』

(上掲書P238から引用)

【該当部分の原文:男命在炁穴中女命在乳房中、男以腰爲腎女以血爲腎、男爲精其色白名白虎、女爲血其色赤名赤龍。】

 

下丹田は、スワジスターナ・チャクラ

 

更に、

『男は先に本源を煉成してその後に形質を煉成するが、女は先に形質を煉成してその後に本源を煉成する。

 

男の陽気は下へ漏れていき、女の陽気は上へ昇っていく。

 

男は修練すると精液が漏れないようになり、これを「白虎を降す」という。女は修練すると経血が漏れないようになり、これを「赤龍を斬る」という。

 

男の精液は逆行して(上に昇ることで)神仙となり、女の経血はまっすぐ上へ昇って心竅(中丹田)に帰っていく。』

(上掲書P239から引用)

【該当部分の原文:

男先煉本元後煉形質、女先煉形質後煉本元、男陽從下洩、女陽從上升、男修成不漏精謂之降白虎、女修成不漏經謂之斬赤龍。

男精逆行而成仙、女血直騰歸心竅。】

 

以上は、男性はスワジスターナ・チャクラ(下丹田)をスタート地点として、サハスラーラから出神を目指す一方で、女性は、乳房にある気の中心から胸のアナハタ・チャクラを目指すということを述べている。

 

要するに男性は、体外離脱からの昇仙、つまり天上(中心太陽)に遊び帰って行き、死の世界の至福(坤徳)を味わうことを目標とする。それに対して女性は、ハートの充足、満足が最終的なゴールであるとしている。

 

求道というのは、おおむね人間からの超出だが、女性の場合は、必ずしもそうではないと言っているわけである。

 

原文では、これに続いて【男七蓮難放易收、女七蓮易放易收。男修曰太陽煉氣、女修曰太陰煉形、男曰胎女曰息。】とあり、

 

男の7チャクラは、開くのは難しいが、閉じるのは簡単、女の7チャクラは、開くのも閉じるのも簡単ということだろう。

 

これは、女性はスワジスターナ・チャクラがもともと開いている(肝が据わっている、できているということ)が、男性は閉じており開く努力をせねばならないということだろう。 

 

また一般論として、中途半端にチャクラが開くのは百害あって一利なしとされる。

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深い愛の中

2022-10-17 05:32:51 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎ゆらぎ

 

カーマ・ヨーガの簡潔な説明。

前提条件として、「両方の体がどこまでもリラックスし、お互いに対してどこまでもオープンになり、何の恐怖も何の抵抗もないとき」を挙げているので、不倫の場合はそれだけでアウト。

 

(上部は胸で、下部は陰部)

『男と女が出会う時、男の陰極は上部にあり、陽極は下部にある。

女の陽極は上部にあり、陰極は下部にある。

 

この陽と陰の両極が出会って、円環が形成される。その円環は至福に満ちている。でも普通はそうでない。普通の性行為の中では円環は起こらない。

 

だからこそ、あなたはこれほどセックスに惹きつけられながらたいそう嫌悪するのだ。これほどにセックスを追い求め、ほしがりながら、いったんそれが与えられると、がっかりしてしまう。何も起こらない。

 

円環が可能となるのは、両方の体がどこまでもリラックスし、お互いに対してどこまでもオープンになり、何の恐怖も何の抵抗もないときだ。そのようにして、自らをどこまでもゆだねたとき、両方の電気は出会い、溶け合って、ひとつの円環となる。

 

 

するとじつに奇妙な現象が起こる。タントラはそれを記録している。

あなたは聞いたことがないかもしれないが、この現象はたいそう奇妙なものだ。二人の恋人が真に出会い、一個の円環となるとき、そこに「ゆらぎ」が起こる。

 

少しの間彼が彼女に、彼女が彼になる。そして次の瞬間、彼は彼に、彼女は彼女に戻る。少しの間、男性が女性になり、女性が男性になる。それは円環状にエネルギーが働いているからだ。エネルギーは一つの円環となっている。

 

それでこんなことが起こる。男性がしばらくの間活動的になり、それからリラックスする。すると今度は女性が活動的になる。つまり、男性エネルギーが女性の体に移る。すると彼女が活動的になり、彼は受動的になる。そしてそれが続く。通常、あなたは男であるか、女であるかのどちらかだ。

 

でも深い愛の中、深いオルガスムの中で、しばしの間、男が女になり、女が男になるということがある。この受動性の変化は明らかなものだ。はっきり感じられ、認識される。』

(生の神秘/和尚/市民出版社p117-118から引用)

 

だからと言って、男の方が意図的に女になろうとしたり、女の方が故意に男になりきろうとしたりするのは、的外れなことなのだと思う。

 

いずれにせよ、このカーマ・ヨーガの話は断片的なのが多い。

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タントラの現実

2022-10-17 05:30:02 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎谷体験

 

和尚バグワンのタントリック・セックスの見方。それは週刊プレイボーイや女性セブンのセックス観とは全く異なったものとなっている。

 

『タントラはセックスを教えているわけではない。ただたんに、セックスは至福の源泉となりうると言っているまでだ。そしていったんその至福を知ったら、その先へと進むことができる。なぜならあなたはもう真実に基礎を据えているからだ。

 

セックスとは永遠にとどまるべきところではなく、跳躍点として使うものだ。これこそタントラの意味するところだ。セックスは跳躍点として使える。いったんセックスのエクスタシーを知ったら、神秘家の語っている、より大きなエクスタシー、宇宙的オーガズムが理解できるようになる。』

(愛の円環/和尚/市民出版社p55-56から引用)

 

『タントラ的セックスとは、根本的に、まったく正反対であり、違っている。それは放出ではない。エネルギーを外に放つことではない。それは射精なしで、エネルギーの放出なしで、性行為の中にとどまることだ。溶けあったまま性行為の中にとどまる・・・・・・性行為の後半部ではなく、前半部にとどまる。これによって性行為の質は変わる。質がすっかり別のものとなる。

 

(中略)

 

そして第二点。興奮とは始まりでしかない。ひとたび男が挿入したら、ふたりはくつろぐことができる。動きはまったくいらない。ふたりは愛深い抱擁の中でくつろいでいればいい。ただ男なり女なりが、勃起の減退を感じたら、そのときにだけ、多少の動きなり興奮が必要になる。でもそれからまたくつろぐ。この深い抱擁は、射精なしで何時間も続けられる。それからふたりは共に深い眠りの中へと入ればいい。

 

これこそが谷オーガズムだ。ふたりはくつろいでいる――――ふたつのくつろいだ存在として出会う。

 

(中略)

 

しかしタントラとはあくまで谷オーガズムだ。頂上体験ではなくて、谷体験だ!』

(同上書p63-67から引用)

 

 

タントラは、男性の側の修行法のはずだが、和尚バグワンは女性が誤解するだろうなんてことにはお構いなしだ。(巻末に女性が体験談を載せているが、妙な感じである。)

 

冥想修行者はセックスをもジャンプ台に使うのだが、修行者は男性に限られる。相手の女性について条件はあるが、女性にとってそれがどうかなんてことは、本筋ではないせいか、饒舌な和尚バグワンですらほとんど言及はない。ただ「ゆらぎ」は男女双方に起こるとする。

 

最初はくつろぎ、谷に入り、やがてゆらぎ、円環となる。これが和尚バグワンの見方。谷体験とは独特の表現なのだが、タントラ技法って本当にこれを極とするのかどうか疑問が残る。ジャンプしていないからである。

 

谷神が死んでいないところをまだ見ていないからである。

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女性的自我なる鉢かづき姫

2022-10-17 05:25:58 | 究極というものの可能性neo

◎最愛の男性を超えて

 

美人でしとやかな若い女性が、なぜ鉢をかぶって世を生きなければならないのだろう。これが、童話鉢かづき姫を知った幼児における最初のインプレッションである。

 

おとぎ草子では、姫が13歳のみぎり、母が病気となって、死を予感する。そこで母は、一人残される姫のことを案じて、なぜか鉢を姫の頭にかぶせる。これが鉢かづき姫の始まり。

 

母の死後、父は再婚するが、継母によって鉢かづき姫は追放され、大きな川に身を投げる。ところが鉢が浮き袋となって沈まず、親切な漁師に引き上げてもらう。

 

九死に一生を得た鉢かづき姫だが、村人は頭に鉢のある奇妙な姿をみて嘲り笑う。

 

ここにリッチマン山蔭の中将が現れて、鉢かづき姫に自宅の湯殿で働くことを命じる。なぜか湯殿。やがて山蔭の中将の四男が鉢かづき姫に一目惚れし、湯殿で出会って、やがて一夜の契りを結ぶ(関係ができちゃうこと)。

 

さて鉢かづきのような嫁ができるのは一族の恥と、鉢かづきを追い出そうとして企画された嫁比べイベントの直前になった。四男は、嫁比べで恥をかくよりは、家を出奔しようと鉢かづき姫と一緒に戸に手をかけた瞬間、鉢がポロリとはずれた。

 

すると中から金塊、金盃、銀のバッグ、砂金の橘などなど数々の宝物がでてきて、パッピーエンドとなった。

 

ここには、2つの重要なモチーフがある。一つは錬金術での窮極。湯殿で汗をかいて、人間的限界を超えるのは、錬金術における浄化であり、ニルヴァーナとの接触である。

 

精神分析のC.G.ユングによれば、浄化は、錬金術においては、哲学者の薔薇園のように天からしたたる滴、シャワーと表現されることもあれば、湯殿で汗をかくという表現として出てくることもある。

 

男性と女性が湯殿で出会って汗をかいて合体するのは、王と女王が合体して汗をかく構図そのものである。

 

もう一つのモチーフは、女性的自我が、最愛の男性つまり魂の伴侶と結ばれることによって充足することが鉢であること。

 

グリム童話にも灰かぶり姫が母と死別してから、台所のかまどのすみで、ぼろを着て、常に灰にまみれていたが、後王子に見初められ、女性として幸福になるというシンデレラという物語がある。

 

こちらのモチーフは更に起源が古く、古い錬金術書「ホルスからイシスへ」に登場してくる魔神的な天使アムナエルが容器を頭にかぶっており、その容器の中にはイシスが探し求める秘密の物質が入っている。

 

ユングの弟子のマリー・ルイズ・フォン・フランツによると、この頭の上に載った容器は、女性の秘儀であるという。つまり、女性が精神的変容(つまり覚醒、神との合一)に至るためには、頭の上に載った容器を叩き壊すことがまず必要となる。

(参考:ユングコレクション4:アイオーンP328/人文書院)

 

すなわち頭の上に載った容器とは、最愛の男性と結ばれることによって充足するという

女性的自我の本源的な傾向のシンボルなのである。

 

女性は、窮極を目指す時に、龍や蛇の頭として現れる女性的自我のシンボルを踏みつぶしていくというモチーフもあるが、そのバリエーションのひとつが鉢が落ちる鉢かづき姫であると考えることができる

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真の幸福とは何か-3

2022-10-17 05:22:37 | 覚醒のアーキテクチャー

◎女性の幸福と男性の幸福

 

冥想は、大方は男性のための修行法である。女性にとっては、女性のための幸福の道筋がある。

このことは、冥想修行者にとっては、ほとんど常識と言ってよいもののはずだが、OSHOバグワンもダンテス・ダイジもあまりそのことをしつこく言わない。そのことは自明だが、強調すること得策ではないと考えていたのだろう。

 

さて女性には女性的自我がある。それは、女性は生まれつき肚(丹田)ができているということにおいて女性的自我のスタート地点があり、それを男性との違いとして注目すべきなのだろうと思う。

 

童話鉢かづき姫では、女性的自我が、最愛の男性つまり魂の伴侶と結ばれることによって充足することがかぶった鉢であることが示される。またこれには、湯殿で汗をかいて合体することに、錬金術的な沐浴と浄化の秘儀が秘められている。

 

また古い錬金術書「ホルスからイシスへ」に登場してくる魔神的な天使アムナエルが容器を頭にかぶっており、その容器の中にはイシスが探し求める秘密の物質が入っている。この容器が女性的自我。

 

このように女性的悟りがある一方で、仏教では女人成仏があり、道教では女几のように男性もなるような成仙が何人もいて、キリスト教でもアヴィラのテレサのように七つ目の最終段階まで承知した人物が出ている。つまり女性であっても男性と同様の究極の悟りには到達することはできるが、それをあまり強調してはいけないということなのか。

 

またキリスト教の女性神秘家のエピソードを見ると、女性的自我の充足を見る場合が多いことは、承知しておくべきだろう。仏教や道教では、そういうエピソードは取り上げないものだ。

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