アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

釈迦の超能力

2022-10-19 05:55:51 | 超能力・霊能力neo

◎第一の関心事は冥想修行

 

釈迦は、超能力をなにげなく用いる。

 

ジャータカ(釈迦前生譚)の320話に薄情者前生物語というのがあり、この中に釈迦が二人の資産家夫婦の訪問をアポなしで受ける場面がある。(師は釈迦)

 

『二人は、ジェータ林の近くに来て、

「水を飲もう」と僧林に入り、水を飲んだ。師は早朝にその二人が<聖者の最初の境地>に達する可能性があることを見ぬき、〔二人が〕やってくるのをお待ちになりながら、香気ある房舎の一室で六色の仏の光明を放ちつつすわっておられた。

 

二人は水を飲んでからやって来て、師を拝んですわった。』

 

釈迦が早朝に、その超能力で、二人の夫婦が来訪することを予知し、なおかつその二人が<聖者の最初の境地>に達する可能性があるのを真っ先に見ぬいたことがポイント。

 

占い者なら、金持ちなのか、健康なのか、夫婦仲がうまくいっているのかなどと、通俗的なことを見たがるものだろうが、釈迦の関心はその一事にある。まずは冥想修行であって、そしてどうやって悟りに導けるかが第一。

 

ジャータカは史実ではないのだろうが、釈迦であったらこうだろうという、気軽な超能力使用を含めた日常の所作がうかがえる一場面である。

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過去世記憶の取扱い

2022-10-19 05:53:36 | 超能力・霊能力neo

◎「過去世と意識の進化」の罠

 

書物には、人間の書いたものと神の書いたものがある。神の書いたものとは、神を知る人間が時代の移り変わりによっても変わることのない言葉を書いたものである。

 

その観点からすると、「過去世と意識の進化/ワグナー・アレグレッティ/Voice社」は、人間の書いた書物であるといえる。

 

『進化上のメリット

 

 

多次元的自己認識

 

わたしたちは、数千年にわたるパズルのピースを集め、組み立てることによって、物質次元を超えた自分の過去の記録を発見し、いつかは、多次元に存在して多数の生を生きてきた自叙伝を書くことができるようになります。

 

それはつまり、いまのわたしたちが数千年にわたるカリキユラムの成果であり、過去の集大成であることを認識することです。

 

はるかな昔から今日まで培われ、確立された自分の条件付けや固定観念、洗脳、侵入による汚れ、道徳からの逸脱、抑圧のパターンなどを認識しなければなりません。 したがって、過去世回帰を抜きにして自己認識のレベルを高めることは、不可能です。

 

意識学によれば、意識の進化の過程において、過去世回帰は避けて通れないものなのです。』

(過去世と意識の進化/ワグナー・アレグレッティ/Voice社P168から引用)

 

過去世記憶を取り扱う前提として最も問題なのが、人は古い時代から順々に過去世を生きてきて、輪廻転生を繰り返し、現世を生きているという転生観である。

 

これは、先の記事『必滅の肉体+不死の霊魂セットは、うそっぽい』で指摘した考え方とは正反対の見方になる。つまり現世はリアル、過去世の人生と未来世の人生はドリームであるが、それぞれは同時に並立して存在しているわけではないようだということ。

 

ワグナー・アレグレッティのように「現世もリアル、過去世もリアル。でもって現世の私は過去世の集大成」と語るとき、もともと現世も過去世も同時並立しないのであれば、集大成なぞありえないことに思い当る。

 

こうしたワグナー・アレグレッティのような過去世観こそ霊能力者特有のもので、誤りに陥りがちな危険な考え方であると思う。霊能力者の世界観では、ほとんどが「自分と大神・ニルヴァーナとは、絶対に一体化することはない別物である」という考え方をまず出ることがないものであるからである。

こういう見方も「霊がかり」と呼んで注意しておくべきものだろうと思う。

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葉隠を見抜く

2022-10-19 05:51:25 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎浮き世から何里あらうか山桜

 

葉隠といえば、「武士道とは死ぬことことと見つけたり」で知られる。

それで死ぬのは肉体か、自我か。

一般には肉体が死ぬと思われて、それで終る。

 

禅者澤木興道はそうは見ない。

 

『禅は教外別伝、不立文字で、学術レコード放送局ができても放送できない。葉隠武士道の中に、「もろもろのよきことをするといふはこらえることなり」ということがある。これを倫理学とか、心理学とかいうものがあって、とかく難しく言っているが、言っている中にボーッとして、後の動きがとれなくなる。結末がつかぬ。

 

そんならどうしたらよいかとなると、実際方面では一向わからぬ。それを「もろもろのよきことをするといふはこらえることなり」と、これくらい分かりのよいことはあるまい。これは禅の教外別伝、不立文字である。「無明の実性即仏性、幻化の空身即法身」というのはそれだけのものである。

 

『葉隠』の著者、山本常朝が、「浮き世から何里あらうか山桜」と詠んだ気持ちはここではないか。幻化の空身と法身との間は大変に隔たっている。生命があると無いとの違いである。そこが十万億土の隔たりである。

 

山本常朝は殉死するはずであったが、生き残って隠退した。実をいうと生命をつかんだのである。

 

生命の息の伝わっていない者に、この「浮き世から何里あらうか・・・」の深い意味は分かったことではない。そんな奴は金の話でもしておればよい。この句は証道歌の大意を歌ったような気持ちがする。証道歌の大意のみならず、禅の大意であり、仏法の要領である。実に微妙な一句である。』

(禅のさとり/澤木興道/大法輪閣から引用)

 

「もろもろのよきことをする」とは、悟った人が善行のみを為していく姿。それを表現すると「こらえること」である・・・というところだろうか。

 

この世が「浮世」、窮極・ニルヴァーナ・タオが「山桜」、その距離は測りしれない。勿論、窮極・ニルヴァーナ・タオは、通俗的心霊スピリチュアルのことではない。

 

「武士道とは死ぬことことと見つけたり」で死ぬのは、肉の身ではなく、自我が死ぬ。自分勝手で気ままな自我である「浮世」が死んで、山桜が咲く。武士道とは切腹することではない。

 

およそ悟った人でないと、この句がそれを指しているなどとは気がつきもすまい。

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必滅の肉体+不死の霊魂セットは、うそっぽい

2022-10-19 05:48:41 | 究極というものの可能性neo

◎浮き世から何里あらうか山桜

 

スピリチュアリズムに関心を持っている人のほとんどは、滅ぶべき肉体に不死不滅なる霊魂が宿っていて、その霊魂は輪廻転生するなどと漠然と思い込んでいるものだ。残念ながら私自身もそういう通念が無意識に染み込んでいるので、それを基本とした考え方が表に出ることがままあって、きっと迷惑をかけている。

 

しかし、真相は、滅ぶべき物質・肉体世界と、物質も精神も超えた不生不滅の久遠の世界が二つあるのではないようだ。どちらが現実かといえば、物質・肉体ではない久遠の世界の方だと、仏典を含めまともな宗教ならそういう。

これはいわば通俗的経典解釈者の説明。

 

ところが、覚者の見ている現実は、そうではないようなのだ。生という場合には、すべてが生であり、生以外のものは生の中に隠れる。桜と言えばすべてが桜であり、すべてが桜の中に隠れる。

 

葉隠の作者山本常朝の句に、「浮き世から何里あらうか山桜」というのがある。私はこれを『「武士道とは死ぬことことと見つけたり」で死ぬのは、肉の身ではなく、自我が死ぬ。自分勝手で気ままな自我である「浮世」が死んで、山桜が咲く。武士道とは肉体を切腹することではない。』と見たが、これでは足りない。

 

浮世とは必滅なる肉体と物質の世界の比喩、山桜とは不滅のニルヴァーナの比喩であるというところは、いいのだと思う。しかし山桜という時には、すべてが山桜の世界しかない、浮世は山桜に隠れる。また浮世という場合には浮世しかない、山桜は浮世に隠れる。

 

従って、山桜と浮世は、決して同じ地平に現れることなどないのだから、山桜と浮世の距離を測るなどナンセンスであると山本常朝は歌っているのではないか。

 

難波のことは夢のまた夢・・・・この世はリアルでもありドリームでもあるとは、そのまま受け入れれば単なる理屈に止まるが、難波といえばこの世こそリアルであって、夢の中に退こうとするときは夢こそリアル。

 

その消息は、邯鄲の夢や荘子胡蝶の夢などでも語られる。

 

リアルとドリームの二つの世界は同時に並立して存在しているわけではなく、世界観の転換というある体験とはいえない体験を経た後には、世界の実感はそう変わるのだろう。

 

だから永遠に不滅の霊魂が、せいぜい100年程度で死ぬ肉体に同時に存在しているなどという考え方は大きな誤りだと覚者たちは、繰り返し指摘する。不滅と必滅が同時に存在することはありえないからである。しかしそれは、それを体験した者だけに自明であって、それを未体験の者が理屈の説明だけでわかる場合は、これは機根が高いというのだろう。このような理屈の説明を経典や教義というが、そうした世界の転換体験こそが百万言の説明に勝るという説明も繰り返されてきたところである。

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霊言、チャネリングの見極め方

2022-10-19 05:40:29 | 超能力・霊能力neo

◎審神者の資格としての見神

 

霊言、霊告、霊界レポート、チャネリングと言えば、洋ものでいえば、古くはダンテの神曲、スェデンボルグ、最近ではバシャール、あとはヘミシンクによる霊界フォーカス探訪、それと日本ものではX教祖の霊言などいくらでもある。

 

霊言、霊告、霊界レポートは、読んでみると、あまり世間で言わないことも言っているし、未来予言あり、過去の大事件の真相が暴露あり、もの珍しい霊界=無意識世界の風物もあって、それなりに面白かったりする。

 

そうしたものに共通して問われるのは、どの霊界を見ているのかってことである。たとえばヘミシンク霊界ではフォーカス○○なんていかにも霊界が数十とか数百しかないようなイメージを呈示しているけれど、霊界は見る人の分だけあると言ってもよいのではないか。つまり何十億とあるのではないか。またその人の思いが変わる都度霊界の数は増える。

 

天国な霊界あり、地獄な霊界あり、また現実化していく霊界あり、現実化しない霊界あり、現実化するかと見えた霊界も現実化を待つ間に変化を加えることもある。

 

こうして無数の霊界ある中で、わざわざ語られている霊告、霊言が眉唾でない可能性は極めて低いのではないか。

 

眉唾でない可能性を見極めるメソッドは一つであって、審神である。日本は審神先進国であって、神功皇后の時代から審神をやっているが、審神のテクノロジーについてきちんとまとめたのは、出口王仁三郎であった。

 

審神のテクノロジーの核心は、その霊言をどの霊が語っているかを見極めるということである。霊言とは神霊が憑依して語るということであるが、何が憑依しているかを見極めるということが課題となる。

 

見極めるためには、コーザル体以下(一霊四魂)の認識を持ち、天神地祇(本田親徳は、無形にありては、天津神(天神)、有形にありては、国津神(地祇)とする)を区別できなければ、ならないが、そこまでできるのは、最低でも見神以上でなければならないってこと。

要するに審神者は悟っていなければならない。

 

つまり審神のない、霊言、霊告、霊界レポート、チャネリングは、その真偽に疑惑があるのである。

 

一方審神を経た霊言としては、大本神諭、霊界物語があり、カルロス・カスタネダのシリーズでもドン・ファン・マトゥスの語りは正しいと思う。

 

霊言、霊告、チャネリングが、多数集積され、ビッグ・データになるのは良いが、そのほとんどがものの役には立たない代物だろう。

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ギャンブルと巨億の富

2022-10-19 05:38:10 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎自分が食べる分以上にどれだけ持っているかの意味

 

道教系の求道者笹目秀和氏が、戦前に満州で草競馬の当たりを知人に予言してやった。知人は一レースで5百万円儲かったが、事前に笹目秀和からその金は公共のために用いることときつく戒められていたのにもかかわらず、私したために、悲惨な最期を遂げた。

 

現代の巨億の富といえば、数兆円を保有すると言われる中国の富豪であり、ビル・ゲーツであり、ヘッジファンドの経営者などがいる。だが、どんな富豪でも死後にその富を持っていくことはできない。

 

イエスが病気や不具者を超能力で治療してあげるが、その時は彼らは幸福の絶頂にあるが、彼らの人生はそれだけでは終わらず、老いから死に至る続編が必ずあり、トータルで見れば、イエスの治療を受けたことが必ずしも幸福であるとは限らないのではないか。

 

富豪たちも同様に富を保持している間は幸福だが、やはり老いから死に至る続編が必ずあり、やはりそれが必ずしも幸福であるとは限らない。スポーツ界、芸能界のヒーローやスターたちも同じこと。富や名声をゲットしている間すら、それをいつ失うかもしれないという不安にさいなまれる。

 

人の人生はトータルで見るのが、最も公平でシリアスな見方なのではないか。富はトータルな人生の一側面。人の人生は、せんじ詰めれば、一生が終わったところでどれだけ神に近づくことができたかということ。

 

富というアスペクトに限って言えば、人はたとえ飢え死にで終わろうと一生の食い扶持を持って生まれてきていることに間違いはない。自分が食べる分以上にどれだけ持っているかが富の多寡ということになるが、それに本質的な意味はあるのだろうか。イエスも釈迦もそれには関心を払わなかった。

 

今や人は無形の価値を求めるために、有形のブランドを買う。それは自分の外側であり、自分の真の姿の一部とはいえない。

 

富は、白狐、ホワイト・フォックスの技。ダンテス・ダイジが『もはや、ホワイト・フォックスには何の期待もしない』とつぶやいた所以はこの辺ではないだろうか。

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超能力の落とし穴

2022-10-19 05:33:16 | 超能力・霊能力neo

◎超能力者を中心としたカルト化

超能力の特筆すべき問題点は、超能力者を中心とした集団ができた時に、大きな社会問題となることが多いことである。そういった傾向は、過去むしろ西欧において顕著であった。

 

日本では、仏教における超能力の考え方が抑制的であったことや、神道においては審神(さにわ)と呼ばれる憑依した神霊の貴賤高低を鑑定する技法があったためか,歴史的にあまりそういう例は多くはないが、最近の某カルト教団の例もある。

 

超能力ができることを神の子とか預言者である証拠とし、信者に対し、好き放題に振る舞ったカルト教団の教祖は古来いくらでも事例がある。それほど一般の人は超能力者に弱く、超能力者を全能の者と見たがり、祭り上げる傾向がある。

 

超能力者は祭り上げられることにより、権力の甘さを知るとともに、自分が預言者なぞではないことを知っているが故に、信者に法外の要求を繰り返し、それを実現させることにより、自分の表面的なカリスマ性を維持する手口が多い。

 

実例としては、17世紀のトルコのサバタイ・ゼビから、最近では人民寺院のジェームズ・ジョーンズ(1978年南米ガイアナで900人以上が集団自殺)や、ブランチ・ディビディアンのデビッド・コレシュ(1993年米当局と武力抗戦、死者4、負傷者16)がある。

※コリン・ウイルソンの『カリスマへの階段』に実例が多数挙がっている。

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真の幸福とは何か-5

2022-10-19 05:18:23 | 覚醒のアーキテクチャー

◎霊や超能力の誘惑-2

 

2.超能力

超能力の種類と言えば、仏教では六神通。

天眼通(千里眼:遠くのものが見える)、

天耳通(地獄耳:遠くの音が聞こえる)、

他心通(他人の心の中が判ること)、

宿命通(自分や他人の過去・現在・未来が分かる)、

神足通(どこへでも自由に行くことができる=アストラル・トリップ)、

漏尽通(煩悩がない)

がそれ。

 

この中で、漏尽通は、いわゆる超能力とは言えない。漏尽通は解脱であり、究極=ニルヴァーナに触れないと煩悩がなくなることはない。また携帯電話の発達により、ほとんどの人が天耳通は実現している有り様なので、神通力としての天耳通のありがたみはあまりない。

 

密教者がなぜ超能力を用いるかと言えば、人間の生活を助けるためである。またあまり知られていないかもしれないが、悟った人は、つまり漏尽通を得た人は、恣意的に超能力を用いることができない。

 

世の超能力志向カルトや超能力開発セミナーみたいなものでは、この2点がわかっていないのだろうと思う。

 

冥想修行者は、恣意的に超能力を用いたり、超能力にこだわった場合、進境は止まってしまう。これは、霊能力も同様であって、恣意的に霊能力を用いたり、霊能力にこだわった場合、進境は止まってしまう。

 

道教、古神道、などのクンダリーニ・ヨーガ系では、修行の中間段階で超能力が発現することがあるために、前もって恣意的に超能力を用いたり、超能力にこだわった場合、進境は止まることを修行者に伝えておくものだ。

 

これらを承知していれば、超能力で、当たり馬券を事前に知るとか、急騰する株式の銘柄を事前に知るとか、受験テストの内容を事前に知るとかの不品行なことは考えないはずである。

 

さらに超能力の悪用については、超能力者はカルトを形成しがちであることが世間的には影響が大きい。だが、未来予知に関して言えば、覚者と俗人では、過去現在未来のとらえ方が全く異なるということも挙げておくべきである。それは、葉隠の著者、山本常朝の句『浮き世から何里あらうか山桜』などでわかる。

 

また覚者の予知能力は求道方面で用いるのが常道。

 

人に隠れてずるいこと悪いことをするのに躊躇がない隣国があるが、その影響のせいかどうかは知らないが、日本でもそういう人が増えてきた。超能力の悪用は、人に隠れてずるいこと悪いことをする一種であるから、それにまつわる前例はいくらでもある。

かくして超能力の悪用は、幸福とは無縁である。

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