アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ころんだ龐居士を娘が助ける

2022-10-06 07:23:04 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎素直さと勢い

 

龐(ほう)居士一家は、三人家族。居士と妻と娘霊照である。

 

龐(ほう)居士が、ざるを売りに出た時、太鼓橋を下りる途中でつまづいて転んだ。それを見た娘霊照は、駆け寄って、自分もころんでみせた。

龐居士「おまえは何をやっているんだ?」

霊照「お父さんがころんだので、助け起こしてあげるのです。」

龐居士「誰も見ていなかったからよかった。」

 

 

これは、一見コントや漫才にあるシーン。だが、困窮し悲嘆にくれる相手になりきる。それも瞬時になりきるのは、平素から油断なく一瞬の隙もなく菩薩として生きていなければ、いきなりこのような慈悲の行いが発現するものではないだろう。

 

とかく娘霊照と龐居士のどちらの悟境が上かと見がちだが、死に際して、龐居士の準備した時刻と席で、霊照の方が躊躇なく坐脱していった娘らしい素直さに勢いを感じる。

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茶の湯の作法即仏法

2022-10-06 07:18:50 | 時代のおわりneo

◎油断なく

 

相国寺の有馬頼底氏が雲水として修行中であったとき、同じく修行に励んでいたあるドイツの老婦人に、禅を修行して何が一番印象に残ったかを聞いてみた。すると老婦人は、「それは食事です。僧堂の生活をとおして、食事の時の清新な印象を忘れられない。質、量ともに素朴な料理であることが嬉しかった。それにもまして、黙々として給仕する僧の厳しいキビキビした流れるような端正な所作が良い。実に合理的な作法に接して、現代の世界中のどのような食事からも得られないような清潔感と、そして厳粛な充足感がそこにあることを知った。」と答えている。

 

もとより、禅堂は、厨房であっても、真剣勝負の場。一挙手一投足も、注意深く真剣におかなければならない。禅堂の食事作法は、赴粥飯法などの清規にのっとって行われる。懐石料理は、千利休に至って、茶懐石と呼ばれるが、その精神は、禅堂での食事作法に異ならなかったはずで、求道の一端としてあったはずである。

 

最近は豪華絢爛、山海の珍味をとりまぜたコース料理のことを茶懐石と称するようで、求道の精神の片鱗も失われてしまっている。食事中のおしゃべりは、だめ。食器などで余計な音を出してもいけない。ということがまず守られなければいけない。

 

ただし千利休が、集中的冥想セッションの場での食事作法、喫茶作法を当時の大名などの上流人士に広めたことの狙いが、果たして仏道を広めることであったかどうか怪しいところがあるようには思う。禅の専門道場は、修道院と同様に相当精神的に煮詰まった者のみが集まって生活するところ。作法に則った食事と喫茶で、そうした場所の雰囲気に触れることはできても、そこで生活、求道しなければ、何も起こらないのである。そこに怪訝な印象を持ってしまう。

 

中国の唐の時代に雪峰という禅僧が、師匠の洞山(曹洞の洞の字はこの洞山から来た)のところで飯炊き係をやっていた。ある日雪峰が、米の中の砂を選り分けていると、そこへ洞山がやってきて、「砂を選り去って米か?米をより去って砂か?」と問うた。雪峰は、「砂と米を一緒により去るのです」と答えた。

 

すると洞山は、「それでは、皆さんは何を食べるのか。」と追い打ちの質問をする。すると。雪峰は持っていた盆をひっくり返したのである。

これを見た洞山は「お前は、以後別の師につくだろう」と言った。

 

この問答は、洞山が、「迷いを除いて悟りを得るのか、それとも迷いと悟りの中から悟りだけを選別しようとするのか」という質問に対し、雪峰が、「悟りも迷いも一緒に捨てるのである」と盆をひっくり返したものである。

 

このように雪峰は、目の前の調理の仕事ですら一心に気迫をこめてしていたから、油断することなく、洞山のひっかけ質問にだまされなかったわけである。米盆をひっくり返しても、人生の重大事に比べれば何のそのという覚悟もある。

雪峰は、他人の粗末にする残り物を集めて、これを煮て食べたという徹底ぶりであった。

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スーパーヒーローとメンタル・ヘルス

2022-10-06 07:17:22 | 究極というものの可能性neo

◎孤独と不安

 

2016年往年の野球の名選手清原和博選手が覚醒剤で逮捕された。当時はマスコミから、あまりにも彼周辺の情報が細大漏らさず流れ過ぎて辟易するほどであった。そうした中で、彼への同情からか、改めてスポーツ・ヒーローとメンタルヘルスの問題を問う論調も見かけるようになった。

 

スポーツで成功して、フェラーリとかマセラッティなどの高級車に乗り、妻子がいても毎晩若い女性ととっかえひっかえ遊び、高級住宅に住み、高額所得を手にし、毎日高級グルメを召し上がり、マスコミには寵児とされ情報を提供する。

 

こういうのが、成功したスポーツヒーローのプロトタイプである。サッカーJリーグでは、このように成功する選手は一握りであり、現役時の反社会的勢力との応対の仕方や、サッカー界からリストラされた後の進路指導まで行っているというのでわかっている対応をしている。

 

問題なのは、そのごく一握りのスーパーヒーローだって、孤独と不安にさいなまれるのだという事実を、ほとんどマスコミは無視して報道するから、スーパーヒーローにはしばしば清原選手のような運命が降りかかるというところ。

 

ヒーローが孤独と不安にさいなまれるのは、アメリカの男の中の男にして猟銃自殺した大作家のヘミングウェイ、AKB48、俳優高倉健など枚挙にいとまがない。

 

裏返せば、人間にとって公的な部分は人生の半分に過ぎず、残りの半分は私的なものであること。ホロスコープの上半分は公的部分で下半分は私的部分。吉の惑星の数が万人にとって同じ数であることは、人間はある部分が恵まれていることはあるが、すべての人生上の側面において恵まれることはないことを示す。

 

ただごくまれに、公的にも私的にも恵まれている人はいるだろうと思う。人間はそのように目指すべきであり、それが天上と地上のバランスを取るという“真釣り”である。

 

「恵まれている」とは何か、イエスも釈迦も、そこのどんな困窮にあえいでいる人に対しても「今ここ」で何の不足もないなどと言う。

いわんやスポーツ界のスーパーヒーローに何の不足があろうか。

 

世俗的に恵まれていることや、世間的に恵まれていることと、それにすら満足できず真に自分が恵まれていることを渇望することは、全く異なる。

 

要するにスポーツ界のスーパーヒーローは、世俗で成功した人たちなのである。そこから先、別の世俗分野(あるいは感覚刺激の)のスーパーヒーローになることを目指すか、真のスーパーヒーローになるか道が分かれる。

 

現代の真のスーパーヒーローは、異次元を目指す。クンダリーニ・ヨーガや只管打坐で、卑小な情けない自分を越える道を選ぶのだ。今や真の未開のフロンティアはその方面しかない。宇宙旅行もヒマラヤ登山も今やフロンティアとは言えない。

 

この辺がスーパーヒーロー達の混迷の仕組みだと思う。

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人と神の「実際のところ」-1

2022-10-06 06:26:23 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集老子狂言に「実際のところ」という詩がある。

 

率直に言って、自分が20代の頃、彼の文章は、せいぜい三分の一しか理解できていないというのが実情だった。この詩は、当時おそらく理解できない文章の一つだったと思われる。そこで、現代の冥想とか何かまともに生きたいとか、もっとしっくり来るものを捜し当てたいという人にとっても、やはり彼の文章は取りつきにくいかもしれないので、注釈してみる。

 

(原文1)

『【実際のところ・・・】

 

実際のところ帝王とは奴隷である。

だから宇宙の奴隷になるがいい。

 

支配者はつねに

被支配者とファッキングしている。

創造主はつねにつねに

被造物とファッキングしている。

———この認識が、すでに

誰かと誰かのファッキングなのだ。

 

だから本当に

破れかぶれになればいい!

それは一つの素直さであり得る。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

金も権力も権威も得た世俗の帝王とは、聖者から見れば、何の救いもないみじめで情けない人間の一人であって、それは、アイドルやスポーツのヒーローが内心では、死におびえ、老いを恐れ、人間関係に苦悩しているのと同じ。

 

だが、帝王は奴隷あっての帝王であって、一人では帝王にはならない。また帝王は、見果てぬ夢を見ている英雄だが、その夢は必ず破れる。

そして光は闇あっての光であり、悟りも迷いあっての悟りであり、支配者と被支配者、創造主と被造物の関係も同じ。

 

だが、そういう見方は、二元を前提しており、その見方自体がトラップである。二元と言えばかた苦しいが、好きなものと好きでもないものがあること自体が、二元トラップだとは気づきにくい。『だから宇宙の奴隷になるがいい。』と是認する。

 

その二元トラップである『誰かと誰かのファッキング』を脱却する一つの手段は、『破れかぶれ』。それは、どう『破れかぶれ』なのかとか、『破れかぶれ』は、向こうから来るのか、内発的なのか、などと頭でっかちでなく、とにかく『破れかぶれ』なのだろう。でもその時、本当に『破れかぶれ』は起きるのか?

 

『破れかぶれ』は、窮極の肯定キーワード『素直さ』で裏打ちされている。

(続く)

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