Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

夢に近づくために、今日もこの一歩

2005年09月18日 | 一般

お前の目はいつも星に向けておけ。
そしてお前の足はしっかりと地面につけておくことだ。
(セオドア・ルーズベルト)



夢を持たない人は不しあわせな人だ。
人間なのに、動物のように食い扶持に追われて生きるなんて…

夢がなければ生きてはゆけない。
夢があるから、今日の地味でわずかばかりの一歩に意味がある。

夢はかならず叶えたい、
せっかく人間として生まれてきたのだから。

夢を叶えてみせる、きっと。
だから今日をあせらず一歩を踏みしめよう。

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わたしの感情と思考は、もう誰にも操作させない!

2005年09月18日 | 一般
ちょっと気色悪い文章をひとつふたつ、拾ってみます。

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自民党圧勝の理由を、メディアはいろいろ分析して見せるが、腑に落ちるようで落ちない。その中でハッとしたのは、毎日新聞12日朝刊に載った、作家の高賛侑(コウ・チャニュウ)さんの、「ここ数年、日本には『批判しない』傾向が強い」というコメントだ。

昨年イラクで人質になり、果てに殺害された人たちや家族が、中傷の嵐にさらされたことを思い出す。彼らの行動の意味は度外視され、国の言うことを聞かずに迷惑をかけた、「お上に逆らうな」と。そんな空気が、今回の選挙と通低してはいまいか。首相が「改革」と言うから。党首の見栄えがいいから。

思い過ごしかもしれないが、それが今回の選挙の「風」の理由なら、日本人は批判することを忘れ、物分りが良くなっただけじゃないか。…(略)…私は改憲も増税もイヤだ。「改革」の犠牲になりたくない。これって、ものわかりが悪いだけ?

毎日新聞9月17日付朝刊 「発信箱」より




報道被害の問題がマスメディアへの批判の主流であると言われる。犯罪報道に名を借りて、罪もない被害者のプライバシーを暴き立てたり、悲しみのどん底にいる遺族をよってたかって取り囲んでみたり。耐え切れずに抗議してみれば、まるでお役所のような木で鼻をくくった対応で二重の屈辱を受けたと振り返る人たちに、これまでどれほど出会ったことか。

しかもよくよく考えてみよう。
報道被害は多くの場合、マスメディアが当局に踊らされた結果としてもたらされている。

松本サリン事件で無実の河野義行さんを犯人呼ばわりする醜態を演じたのは、長野県警の見込み捜査をそのまま伝えたためだった。

桶川女子大生殺人事件では、ストーカーにつけねらわれているという被害者の訴えを無視し続けていた埼玉県警による、責任回避のための情報操作に乗せられて、「ふしだらな女性」というイメージ作りの片棒をマスメディア(もちろん新聞も含む)は担いだ。

「大物」政治家のスキャンダルも、マスメディアは追いかけてはいる。鈴木宗男ネタにしろ田中真紀子ネタにしろ、途中まではよかった。隠蔽されていた悪行を情熱的なジャーナリストが週刊誌などで詳らか(つまびらか)にした。ところが、新聞が本格的な後追いを開始したのは、その後に自民党本件なり外務省筋などが便乗して、彼らの追い落としにかかってからなのである。バッシングのこういう背景が素人目にも露骨だったから、宗男にしろ真紀子にしろ、叩かれて当然の「政治屋」なのに、まるで報道被害者のようにさえ見えたのである。

より上位の権力のお墨付きがないと書かない傾向は、年々強まっている。食肉偽装事件のように企業にまつわる不祥事については立派な記事も少なくはない。しかしそれらも結局、監督官庁の権限拡大にばかりつながってゆく。地球規模での歴史の転換点を迎えた現在、当局のリークに頼らない、マスメディア独自の価値観と取材による調査報道は、従来にもまして求められている。

いまやマスメディアには本気で権力のチェック機能たらんとする意気も、いわんや真っ向から立ち向かう度胸もありはしない。わたしは「個人情報保護法拒否! 共同アピールの会」の末席に名を連ね、メディア規制に反対する運動に積極的に加わっている。だがそこにこんな辛らつな批判が投げかけられた。

「あんたたちは口を開けばメディア規制で、政治家や官僚のスキャンダルが書けなくなるって言うけれどさ。個人情報保護法がない今だって、宗男や真紀子のような“切り捨てられた”奴らのことしか書けないんじゃないか。その黒幕、俺たちの運命を勝手気ままに動かしているおおもとの権力と正面から戦ったことがあるのかい?ないだろう。何をいまさら…」

グウの音も出なかった。

平和と平等を理想とした社会がこのままなし崩しになって行ったら、次にやってくる秩序体制はどのようなすがたをしているのか。それは規制緩和によって小さく、しかし強力になった行政権力が社会の構成員を、改正住民基本台帳法による、国民総背番号制度を利用して、ひとりひとり緻密にコントロールする監視社会、管理社会である。5年間同じテーマにこだわって取材し続けた末に、私はこう確信している。

(「特権化したマスメディアに存在価値があるか」/「論座」2002・12号/斎藤貴男)

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昨年の春、「自己責任」論争を引き起こしたイラクでの日本人人質事件。3人の男女が囚われたあの事件。みなさんはあの時どうお感じになりました? 一般の風潮と同様、人質となった彼ら自身へ憤りのようなものを感じませんでしたか。わたしもじつはそのひとりです。週刊誌は露骨に、新聞も遠まわしに、彼ら自身の生きかた、考えかたに対してさえ攻撃を加えました。しかし、思想、信条は憲法によって自由が保障されているものなのです。彼ら自身の行動を規制するのは憲法に違背しています。今だからこんなことが言えるのですけれど。ではどうしてあの時は、このように思えなかったのでしょうか。

あのときに流れた情報は「自作自演説」そしてそのあとに「自己責任説」。じつは両方とも首相官邸が発信地だったのです。首相官邸の正確な情報を何一つ把握していないで判断したことだから、思い込みと妄想で「自作自演説」を非公式にだけど垂れ流し、それをマスメディアが鵜呑みにして増幅して報道する。自己責任論も首相官邸が責任を彼ら自身にあることを確認する意図がありました。あの3人としてはイラクに行くときにそれは覚悟していたことなのに。なぜ彼らはここまで侮辱されなければならなかったのでしょう。当時自衛隊のイラク撤退が焦点となったからです。人質となった3人はみな、自衛隊のイラク派遣に反対の立場を取っていた人たちでした。

詳しくは、斎藤貴男氏の「安心のファシズム」から機会があればお見せしたいですが、政府方針に逆らう考えがマスコミによって叩かれ、それにわたし達が追従する、というのはとても健全とは言えないのです。エホバの証人時代の悪夢をもっと大規模に味わうことになります。ものごとを判断する際は、大新聞や有名週刊誌・月刊誌だけに頼っていてはいけない、いまわたしはこのように決意しています。もう感情を操られるのはまっぴらだから。ほんとうに自由で知的でありたいから。つまり、自立した人間の成人でありたいから。
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今日はHIGHだからどんどん書きます!

2005年09月18日 | 一般
心配性はいろいろな面で損をもたらします。「口ぐせの法則」というのをお聞きになったことがありますか。ことば遣いで、自分も、自分をとりまく人間関係も改善してゆくことができるのです…。

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「私の手に負えない」
「私には無理だ」
「できません。不可能です」
「もうダメかもしれない(おわりだ…)」etc...

公私を問わず、日常生活でこのようなことばを頻繁に用いてはいませんか。もし、思い当たるフシがあれば、今日から、いえたった今から、意識して慎むように心がけましょう。なぜかというと、それらのことばは敗北・失望・失敗・不安・心配といったマイナスのニュアンスを意味するため、そういうことばばかり口にしていると、できることまで不可能に思えてくるようになり、ものごとに挑む前から自信を喪失してしまうからです。

そればかりではありません。マイナスの自己暗示となってしまって潜在意識にインプットされてしまうために、実力が十分に発揮できず、ほんとうに期待はずれの結果に終わってしまうのです。言い換えれば、信念を強めるためには、ものごとに対して自信を持つことが重要なのであり、じつは自信の有無というものは、日ごろの言葉遣いによっても大きく左右されるのです。

そこで、まずはそういうことばを口にしないように努めましょう。だれかと会話している最中に口にしそうになったら、意識的にスイッチ・チェンジを行うように心がけてください。そしてそれがある程度、習慣として身についたら、今度はウソでもいいから
「できます」
「だいじょうぶです」
「何とかやれそうです」etc...
…というプラスで元気が出ることばをできるだけ多く用いるように心がけてください。
しょく
初めのうちは、抵抗を感じたり、戸惑うことも多々あるかもしれません。でも一ヶ月、二ヶ月と続けていけば考えかたや行動もしだいにことばと馴染むようになり、いつしか、今までできそうになかったことがほんとうにできるように思えてきます。そうなれば、少しずつですが自分の信念が強まっていると考えてよいでしょう。

意識した「肯定的な言葉遣い」が自信を養い、引いては信念を強めるポイントになるのです。

また、
「私の手に負えない」
「私には無理だ」
「できません。不可能です」
「もうダメかもしれない(おわりだ…)」
…というようなことば遣いばかりしていると、そのことばの印象がそのまま自分というひととなりの印象につながってしまうため、人から疎まれてしまうのです。早い話、相手は「この人と話していると、こっちまで気分がふさいでしまう」、「気が重くなってくる」、「不快になる」という気持ちを抱くため、相手は好感を持たなくなってしまいます。わかりやすい例を引き合いに出しましょう。

男性:ねえ、この夏休みに海水浴に行かない?
 A子:泳げないから海には行きたくないわ。
 B子:あたし泳げないけれど、ビーチでマリンスポーツをするのも悪くないわ。

人はこういう場合には、B子さんのほうに好感を持つものです。それどころか、A子さんに対しては不快の気持ちをさえ抱くようになり、「もうあの人を誘うのはやめにしよう」と思うかもしれません。

そこで、「できない」、「むりだ」、「不可能だ」ということばを会話の中でどうしても使わなければならないときには、B子さんのように、返事に工夫を凝らしてみてください。つまり、マイナスのことばを口にしたあと、少しでも相手の気分がよくなったり、なごんだりするプラスのことばを意識的につけ加えるのです。

「ゴメン! 今日残業なの。だから今日の食事会は欠席するわ。
でもこの借りは返すからね。来週イタメシ奢るね」

「すみません、課長。この仕事を今日中に済ませるのはムリです。
明日のお昼まで待っていただけませんか」

いわんとする中身は同じであっても、このようなことばをさりげなく付け加えるだけでも、自分の印象、自分に対する評価はガラリと変わってくるはずです。

要約
1.「私の手に負えない」
 「私には無理だ」
 「できません。不可能です」
 「もうダメかもしれない(おわりだ…)」
…ということばは人生に不幸をもたらします。心ではそう感じていても、口に出して言うのは慎みましょう。

2.ことば遣いに工夫を凝らすだけで、相手のあなたに対する印象は180度違ってきます。



(「気になる『あの人』に好かれる90の法則」/上西聡・著)
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