Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

再録

2005年09月25日 | 一般
ここ一週間、忙しくて更新できませんでした。手抜きだけれど、前にある掲示板に書き込んだものを、過去ログから探し出してきて、再録します。一週間に一度は更新したいんです…

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愛の気持ちから出たことだから、許すべきなんだろうか。
「親も間違っていたかもしれないが、それも愛する気持ちだったんだ」と言うが。

その愛は誰に対する愛だったのか、決して子どものためじゃなかった。自分のための愛なのに、それを子どものためと思う気持ちと言い換えてる。いや、本当にそう思い込んでいるのかもしれない。

今となっては責めるつもりはないが、親友のように心を開こうとも思わない。お母さん、あなたが求めているのは、子どもであるわたしから自分が必要とされているという自覚であって、わたしの幸福じゃない。

ほんとうにわたしの幸福を思うなら、わたしを一人前の社会人であると認めて。あれこれ指図したり、余計なお世話をしないで。ああしたほうがいいの、こうしなさいって言わないで。あなたがそうしたことを言うのは、あなたがいなければわたしは何ごとも自分でできない人間だって言うのと同じこと。そう思いたいのよね。あなたはそうすることでしか生きている意味を見出せない。

残酷な人。でもあなたのような母親は多い。子どもから離れられないあわれな人。無能な人。はっきり言うよ、もうわたしにとってあなたは「いなければならない人」じゃない。あなたには求めるべき助言もない。あなたにはそんな知恵もない。私の声を聞いたでしょ? 機械のように無表情な声。あなたへの失望ではない、だってもう何も期待していないんだもん。ただ、いい年をして何一つ知恵も実績も生み出さず、夫に蔑まれたのに、なおしがみついて生きるしかなかったあなたが、かわいそう。わたしなら、離婚するよ。

あなたは後悔の気持ちでむかしを懐かしむことだろう。世の中には昔を懐かしむのを楽しむ人もいる。ただひとつでも、自分の目標を追い求めて何がしかの結果を得た人たちだ。わたしもその道を進みます。あなたには決して理解のできない道を。

「いちいち逆らわなくていいの。はい、はいって言ってれば、ぶたれないで済むんだから。上手に機嫌を取るのは大人よ」。
こんな悲しいことばで人生を総括するような生き方はしたくないから。愛し方を知らないあなたたち。こんなボタンの掛け違いはどこから始まったんだろう…。



親子のわだかまり、どう対処するか、どう親とつきあってゆくか…。米国ワシントン州エドモンドにある、パシフィック嗜癖(しへき)回復センター所長の意見を紹介します。

***

2001年11月に施行された「児童虐待防止法」は4つのタイプの虐待を規定している。身体的虐待、性的虐待、養育の怠慢・拒否(ネグレクト)、そして心理的虐待の四つである。

身体的虐待とネグレクトは、折檻の末の殺害や食事を与えずに子どもを餓死させたというような事件として報道され、この十年ほどのあいだに、その存在と危険性がはっきりと認識されるようになった。性的虐待についても少しずつ報告されはじめ、著者も最近、その実態を暴いた告発書の翻訳を手伝った。

ところが言葉や態度によって、心に深刻な傷を残す心理的虐待の問題を正面から取り上げた本はどこにも見当たらない。…(略)…心理的虐待に関する本が少ないのは、それがあまりにもありふれた「ふつうのこと」だからだ。しかも、それは目に見える痕跡を残さないので立証しにくい。だが、この「見えない虐待」は誰にも気づかれずに猛威を振る舞う。それらがどんな弊害を及ぼすかは本署の第三部に詳しい。

たとえば、人間関係がうまくいかなくてつらい日々を送っている人は、もしかしたら昔被った心理的虐待にその原因があるのかもしれない、と考えてみると良い。原因が分かれば、対策が分かってくる。最も単純だけれども最も有効な対策は「虐待的な人とつきあわないこと」である。そういう人との交際はできるだけ避けて、「受容や承認を出し渋らない人や、自分を見捨ててどこかへ行ってしまわない人を見つけるのだ」と著者は述べている。結局、人間関係のなかで傷つけられた心は、人間関係のなかでしか癒されないのだ。

本署の第十一章では、この外にもさまざまな対処法を紹介しているが、そのなかの一つに、「相手を許す」というのがある。この「許す」という考えかたに戸惑いを覚えた読者は少なくないだろう。だが、ここでいう「許す」とは、虐待者と和解して今までどおりのつきあいを続ける、ということではなく、「相手への執着を断つ」という意味だ。相手を恨み続けるということは、相手に振りまわされ続けているのに等しい。

変えられないものは受け入れるしかない。たとえば、「あの親のもとに生まれた」という事実は変えられない。しかし、変えられるものはあるはずだ。自分の力で変えられるものは何だろう。変えられるものを変えていく努力を少しずつでも続けていれば、私たちは必ず、変われるのである。
(「あなたは変われる・言葉や態度に傷つけられた心を救う本/グレゴリー・L・ジャンツ/白根伊登恵・訳」訳者あとがきより一部分引用)

***

この本でわたしにとって特に助けになったのは、

最も単純だけれども最も有効な対策は「虐待的な人とつきあわないこと」である。そういう人との交際はできるだけ避けて、「受容や承認を出し渋らない人や、自分を見捨ててどこかへ行ってしまわない人を見つけるのだ」

という点でした。わたしにとって周囲のエホバの証人たちは「心理的虐待者」でした。ところがそれを証明する手立てがないのです…。しかしとにかくエホバの証人の世界から逃げ出しました。これはわたしの人生の中でも最も勇気ある決断と行動でした。

わたしにとって、脱エホバの証人系の掲示板で悔しい思いをするのは、おなじ「元エホバの証人」、あるいはエホバの証人には反対していても、心に傷を負った人を一般の常識や礼儀の観点に立って見下しをする人、エホバの証人用語を使って言い換えれば「裁く」人が次から次へと現れることです。なぜそんな人が現れるかというと、理解がないからです。理解がないのは無知だからです。

上記の本の訳者が述べるとおり、

心理的虐待に関する本が少ないのは、それがあまりにもありふれた「ふつうのこと」だからだ。しかも、それは目に見える痕跡を残さないので立証しにくい。

…ものだからです、心理的虐待の残す傷というものは。心理的な傷を、負っている本人の責任だと断罪し、弱さ・未熟さと決めつけて、信仰によって克服できるとか、前向きに考えれば解決できるとかいう言い分を、精神主義な含みで言ってしまう、そんな風潮の世の中とはまた異なる場所として、わたしはインターネットは必要なものだと考えています。

コメント (4)
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