Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「絶対観」は原始的な思考です(3)

2005年04月03日 | 一般
 哲学、そして哲学思考を洗練した科学という思考手法は宗教的世界説明方法より進んだ、したがって高い方法です。以下、「哲学ってなんだ」より引用を続けます。

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 哲学は、概念を論理的に使って世界を説明するが、とくに重要な秘訣があって、それは「原理」を提出するということだ。

 たとえばタレスは「万物の原理は水である」と言ったが、彼の意は、世界の森羅万象は「水」というもっとも基本の単位から構成されている、ということだ。これは、世界のあらゆる事物は、原子というもっとも基本の単位から構成されている、という近代の自然科学の考えの、歴史的な始発点なのである。だがここで大事なのは、この言い方には、世界をある「おおもとの単位」から構成されたものと考えてみよう、という提案があるということだ。そこが「世界は実はかくかく生じました」と説明する物語と違うところである。

 タレスの直弟子にアナクシマンドロスという人がいる。彼は師匠の説に対して、こう説いた。「万物の原理は<無限なるもの>である」と。「水」が「おおもとの単位」だとすると、森羅万象の驚くべき多様性をうまく説明できない。そこで彼は、そもそもの「おおもとの単位」自体を「無限の性質を含んでいるもの」と考えればよい、と考えたのだ。

 アナクシマンドロスのそのまた弟子がアナクシメネスで、彼はさらに師に反対して、「万物の原理は空気(=気息:プネウマ)であると説いた。彼はおそらくこう考えた。「水」という原理はたしかに世界の事物の絶えざる変化、多様性をうまく説明できない。でも、「無限なるもの」という原理もそれがほんとうにあるかどうか誰も確かめられない。まったく架空の原理ではなくて、世界の変化や多様性を説明するには、「空気=気息(プネウマ)」というのがベストであると。

 気息は<無限なるもの>のように有るかどうかを確かめられないものとは違って、すべての生命あるものをつかさどる根本現象である。森羅万象の変化と多様性も、事物と生き物の間の関係も、これで統一的に説明がつくのではないか。仮説として、空気は何かの理由で圧縮されたり弛緩したりして、気体や液体や固体に変化するのではないだろうか。おそらくそんなふうにアナクシメネスは考えた。

 タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスというギリシャ哲学のはじまりのシーンにおける3人の哲学者たちは、イオニア自然学派と呼ばれている。彼らは「世界」を自然ととらえ、そのなりたちを「物語」ではなく「概念」と「原理」を使って説明しようとしたはじめの人々だった。重要なのは、ここで「原理」とは、べつに絶対的な「真理」ではなく、どういう言葉を使えばより多くの人間が納得できるような世界説明になるか、といったいわば「キーワード」を意味しているということだ。そしてまさしくこの発想こそ、現代の自然科学の発想の原型をなしているのである。
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 哲学と宗教との決定的な違いというのがこの時点でわたしはぼんやりと見えてきました。それは、宗教はカリスマ的な人物が提示したひとつの世界理解を神格化して、それをみんなで無批判的に信用して尊重するのに対し、哲学は反対に、一人一人の人間が自分の固有の生と世界に対する自分なりの理解をまとめ上げ、しかも民族や宗教や文化が違っていても、誰にでも理解できる仕方で説明し、それを世に問うてすすんで批判にさらす、という態度であるのです。これは哲学的手法、さらにそこから洗練された科学的手法と宗教的思考との決定的な相違を生み出します。さらに「哲学ってなんだ」から引用を続けます。


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 われわれは一般的に自然科学を客観科学、つまり世界を「あるがままに」捉える学問だと考えているが、ここにも大きな誤解がある。哲学と科学は、物語を使わずに「概念」と「原理」を使って世界を説明するが、このことで世界のあるがままの客観、つまり「真理」が把握されるのではない。じつはむしろただ、「誰もが納得できる幅広い説明方式が得られる」というに過ぎない。「普遍的なもの」とは、誰でもが共有できる世界の理解の仕方ということであって、「絶対的な真理」ではないのである。

 科学の知見は、一見絶対的なものに見えても少しずつ進歩する。必要がある場合、新しい現象が現れた場合はいつでも訂正可能なものだが、そのことは「概念」と「原理」を使う説明方法であることではじめて可能になっているのだ。要するに、科学も哲学も、「絶対的な真理」を捉えるものではなく、「普遍的な(=誰でもが納得できる)理解」をより深く広範なものにしていくための思考方法なのである。
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 エホバの証人は自分たちの教理が「科学的な調査にも堪えうる」と主張します。創造者の実在まで「科学的に」支持されうるといいます。エホバの証人がそのような論調を繰り返すのは、協会の作成した教理に権威を与え、「何が何でも従うべきもの」に仕立て上げるためなのです。ですが科学的な手法では世界は造物主によって創造されたのかどうかを突きとめることはできません。なぜなら科学は実際に存在しているものごと、森羅万象を文化、宗教を超えて一般的に理解できる仕方で表現しようというものだからです。造物主は宗教神話の中でしか見当たりません。

 聖書筆者である使徒パウロは、「神の見えない特質、その力と神性とは、造られたものを通して認められるので、世界の創造以来明らかである(ローマ書1:19/新世界訳)」と書きました。これは世界に存在する自然世界の森羅万象には「仕組み」があり、そのような仕組みによって「創造説」と「創造者」の実在をうかがい知ることができるのだ、というように解釈できる、エホバの証人はこのように説明します。しかしそれは「エホバという造物主が世界を創造した」という聖書の物語に立脚した説明の方法です。

 科学は自然世界の森羅万象に見られる「仕組み」を明らかにし、地球上のどの民族の人にも理解できる仕方で表現しようとしているのです。そこにはひとつのルールがあり、宗教神話という物語の先入観を捨てるというのがそのルールです。エホバの証人はエホバ神話によって説明しようとするかもしれませんが、別の宗教の人はその宗教の神話によって説明しようとするでしょう。そんなことをしていたら「誰でもが共有できる世界説明」はなりたたないのです。ですからまず、宗教神話はあたまからはずす。純粋に存在し、実証、あるいは検証できる「概念」を選び、論理を組み立てて「原理」を導き出します。科学の視点は宗教の視点より広くて理性的なのです。
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