Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「絶対観」は原始的な思考です(2)

2005年04月01日 | 一般

人間と動物の違いは宗教心の有無である、とエホバの証人は言います。「あなたのことを気遣う創造者がおられますか」という、ものみの塔聖書冊子協会が出版した小さい書籍には次のような引用文があります。

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「宗教心は人間の本質に深く根ざし,経済的地位や教育的背景を問わずどんな人も抱くものである」。
これは,アリスター・ハーディー教授が,「人の精神的本質」(The Spiritual Nature of Man)という本に載せた研究の要約として述べた言葉です。これは他のさまざまな研究が立証してきたこと,すなわち,人間は神を意識するものであるという点を裏付けています。個人的には無神論を標榜する人々がいるとしても,国民がこぞってそうであるということはありません。
「神は唯一の実在か」(Is God the Only Reality?)という本はこう書いています。「物事の意義の宗教的探究は……人類の出現以来,あらゆる文化,あらゆる年齢層に共通する経験である」。
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「物事の意義の宗教的探求」とはつまりこういう問題についての疑問を言います。前掲書より、

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これらの問いはどこか聞き覚えがあることでしょう。物事を考える多くの人が,これと同じような問いかけをしています。人間の科学と技術面での進歩について述べたのち,ウォールストリート・ジャーナル紙の一編集者はこう書きました。
「人間そのもの,また人間が陥っているジレンマ,この宇宙で人間の占めている位置などを静かに考えてみると,我々は時間が始まって以来ほとんど進歩していない。人間とはいったい何なのか,なぜ存在しているのか,今後どうなるのかという疑問はそのまま残っている」。
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別に学者でなくても、誰でも一度は自分が生きている意味とかの思いをはせることはあるでしょう。確かに宗教がまずこの種の問題の探求に着手したのでした。「哲学ってなんだ」にはこのように説明されています。

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 どんな人でも生活の中で日々の具体的な諸問題だけでなく、むしろ「生きること」そのものにかかわるような疑問が湧いてくる。たとえばこの世界はいったいどうして存在するようになったのか、どのように? 人間は何のために生きているのか。死んだら人間はどうなるのか。なぜこの私がこの世に存在しているのか…など。
 こういった問いは、そう日々の話題になるわけではないが、でも誰にとってもかなり気になる問いだ。そしてこのような疑問を人間は大昔から持っていた。そのことは宗教というもののありかたを見ればよく分かる。
 人類のどの文明でも、哲学の前には宗教があり、宗教は例外なく神話を持っていた。神話は典型的には世界の起源や創世を「物語」として伝える。ギリシャ神話では、はじめにカオス(混沌)があり、つぎにガイア(大地)とエロス(生命)が生まれ、ガイアがウラノス(天)を生み、その子としてクロノス(時)が生まれたとされている。ペルシャのゾロアスター教では、世界は光(善)の神と闇(悪)の神がいて太古からせめぎあっていると言われる。これらは、世界がどのように生まれてきたか、なぜ世界は存在しているのか、という疑問に対する答えになっているのだ。
 
 聖書の創世記はもっといきいきとこのことを示している。
 ヤハウェはまず六日で世界を創り七日目に休んだ。はじめに天地を創り、つぎに大地の土から男を創り、男のあばら骨から女を創り、二人をエデンの園という楽園に住まわせた。しかし女は蛇にたぶらかされて禁断の木の実(知恵の木の実)を食べ、これを男にも食べさせ、このことで人間は罪に堕ちた。神は怒って彼らを楽園から追放し、人間に死という運命を与えた(はじめは不死だった)。また女には産みの苦しみを、男には日々の糧を労働によって得る労苦を罰として課した。
 これは創世記のごくはじめの部分だが、それでもこれだけの話のうちに、
・世界はなぜ、いかに存在しているのか、
・人間はなぜ生きているのか、
・人間の生にはなぜ苦しみや死があるのか、
といったあのやっかいな「生と世界の問い」がほとんど答えられていることが分かる。宗教的神話は、人々に「世界の意味」を教え、説明するという役割を果たしてきたのである。
 
 宗教は神話によって「世界の意味」を説明するが、それは基本的に「物語」の形で語られる。しかし「物語」は検証も実証もできない。また物語による世界説明にはいろいろ長所もあるが、世界説明として一つの決定的な限界をも持っている。それは宗教的物語は、自分たちの共同体=文化を超えて広がることができない、ということだ。
 ギリシャの神話はエジプトに行くと通用しないし、ユダヤ教の神話はペルシャでは嫌われる。宗教の世界説明にはしばしば深い知恵が込められているのだが、それはある共同体の枠内でだけ通用し、その外では通用しない。それどころか異なった世界像を持つために、共同体どうしで戦いあうということも起こる。
 そこで哲学と言う独自の思考方法が編み出された。
 哲学は宗教=神話の次に登場した世界説明の新しい方法だった。哲学の思考法基本原則を整理するとつぎの三つになる。
(1)物語を使わず、「概念」を論理的に使って世界を説明する。
(2)「原理」(=キーワード)を提出する。
(3)つねに一からやりなおす。

 これらの方法によって哲学は、神話が持っている文化的、空間的枠組みの限界を超え出るのである。すなわち、宗教的「物語」は文化の枠を超えることができないが、「概念」ならば一定の水準に達した文化なら共通に持っており、そのことで、これはいわば誰でもがそこに参加できる「世界説明の言語ゲーム」となるのである。つまり、物語を使わず概念を論理的に使うという方法によって、哲学は、文化、宗教、民族を超えた世界説明のゲームを生み出した、と言える。
 ヨーロッパでは哲学は紀元前5,6世紀ころにギリシャで始まった。今のトルコにあるミレトスのタレスという人が、哲学の創始者と言われている。彼は「万物の原理は水である」と説いた。これがなぜ哲学か。まずここでは「物語」による世界説明は禁止されている。哲学は「物語」を使わず、その代わりに「概念」を使う。ここで「万物」とか「原理」とか「水」という言葉もある意味で「概念」として使われている。「概念」とは、もっと典型的には、一、多、同、他、完全、不完全、有限、無限、生、死、変化、静止、といった言葉のことだ。これらの言葉は文化、宗教、民族に限定されず通用する。したがってこれらの「概念」を組み合わせて立てられた論理もやはり文化、宗教、民族に限定されずに通用する。
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 宗教は神話物語によって、人間が生きている意味、世界が存在する理由など根源的な問題を説明するが、それは検証も実証もできない。しかもそれは文化的、民族的に限られた範囲でだけ受け入れられ、その限定された共同体の根強いアイデンティティとなって、ある共同体と別の共同体とを深刻な対立を引き起こすひとつの理由となる。そこで世界説明を文化、宗教、民族を超えて通用する説明の方法として、哲学という思考法が編み出された。それは「概念」によって論理を組み立てて、ある原理を導くという方法である…ということです。
 エホバの証人が、「科学では説明できず、神からの啓示がなければ知りえない」と言う世界の存在する意味、理由というような問題を説明する方法が進歩した形が「哲学」なのです。宗教は他の宗教を認めない傾向が甚だしく強いのに対し、哲学は文化の多様性を容認しつつ、結び合わせようとする寛容な態度の表れであると言えるのではないでしょうか。
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