国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

大東亜戦争と関ヶ原の戦い

2012年09月08日 | 日本国内
●関ヶ原からの離脱


小池陣地からの撤退路。島津隊は鋒矢の陣形を取り一文字に敵中を突破していった。


上石津町発行のパンフレットより
http://www.mirai.ne.jp/~wakita/simadu/nokiguti.htm




●釣り野伏せと捨てがまり

さて義弘といえば、少数精鋭を用いた薩摩戦法完成の祖として有名です。
 ここでは、島津家が用いた戦法「釣り野伏せ」と「捨てがまり」について紹介しましょう。

 釣り野伏せ
 釣り野伏せは、義弘をはじめ兄義久・弟歳久・家久など、島津家の者が得意とした戦法です。
 これは囮となる先攻部隊を敵と戦わせ、機を見て徐々に退却させます。そしてその退路にあらかじめ伏兵を置いておき、先攻部隊に誘い込まれた敵を一斉に包囲し、壊滅させる戦法です。
 こうしてみてみると、これはいかにも簡単な戦法のように思われますが、実際には、先攻部隊が押して引き、押して引きを繰り返し、いかに自然な負けを演出し退却するか、というところに指揮官の技量が問われる難しい戦法です。
 この戦法は沖田畷の戦い・戸次川の戦い・更には泗川の戦いなどで用いられ、それぞれ「龍造寺隆信の討ち取り」「仙石秀久軍の撃破と長宗我部信親の討ち取り」「董一元軍の撃破」と、かなりの成果を挙げています。

 捨てがまり
 捨てがまりとは、関ヶ原の戦いの際に使われた戦法で、「総大将を逃がすこと」だけを目的としたものです。別名「座禅陣」ともいわれます。
 これは、退却の際、殿軍となった部隊がその場にとどまり(あぐらをかいて座ったともいわれている)鉄砲を構え、敵が近づいたら一斉射撃。殿軍は敵軍と交戦しながら鉄砲の弾を装填し、再び一斉射撃。これを繰り返せるだけ繰り返し、殿軍が壊滅したら、部隊の最後尾の者達が殿軍となり、またその繰り返し…という、壮絶な戦法です。
 殿軍となった者たちを表す表現は「十中十死」。
 そう、殿軍となった者には、死しか道がないのです。
 実際にこの戦法が用いられた関ヶ原の戦いでは、義弘の甥である豊久など、名だたる武将が次々と討死し、義弘がようやく伊勢街道に到着したときには、義弘の軍勢は百にも満たない数であったと言われています。
 ですがこの戦法を用いたために、島津方の兵は死兵(死を覚悟した兵)となり、そのため義弘勢を追撃した井伊直政・松平忠吉らの軍勢は大打撃を受け、前述の二人は追撃という有利な立場にある軍の大将でありながらも重傷を負いました。
http://homepage2.nifty.com/inutomononohu/newpage(simaduyosihiro9).htm





●島津の戦法

穿ち抜け(うがちぬけ)・鋒矢(ほうし)の陣形

 隊形を弓矢の先のような形にして鉄砲を持つ者が外を固め、中に槍を持った者が並び、一団となって鉄砲を撃ち掛けては中の槍を持った兵が突進し、一気に敵陣へ突入して大将の首を取るという戦法。



捨て奸(すてかまり)

 退却戦で独り敵に向かい、槍を突き立てて座り、鉄砲を構えて敵を待つ。敵が至近距離に来たところでめぼしい武将めがけて狙いを定め狙撃する。相手がひるんだ隙に槍を構えて突撃するという殿(しんがり)戦法。自分が生きて帰る望みは無く、ひたすら味方を退かす為の捨て身の戦法
http://www.mirai.ne.jp/~wakita/simadu/senpou.htm#sute





●島津義弘の関ヶ原の戦い

西暦2000年は関ヶ原の戦い(1600年)から400年目の年にあたります。関ヶ原の戦いや宝暦治水工事(1753~1755年)など島津家薩摩藩は美濃の国岐阜県と多分に関わりがあります。

島津義弘と関ヶ原の戦い、島津の退き口について。



 島津氏の三州統一

 戦国時代末期、本州では織田信長や豊臣秀吉が全国統一を掲げ戦乱にあけくれていた頃、九州では義久を中心に義弘・歳久・家久の兄弟四人が協力して、島津氏が薩摩・大隈・日向の三州を統一した。



 秀吉の九州征伐

 島津氏はさらに九州を統一すべく肥後・豊後・筑前に進出していった。しかし、本州統一を果たした秀吉は大友氏からの要請を受け、秀長や諸大名を率いて九州に進み、戦いを繰り返しながら旧領に押し戻した。義久は剃髪して龍伯と号して秀吉に降伏した。これにより秀吉の日本統一はほぼ確実なものとなった。



 島津氏の分封

 九州の諸地域を諸大名に分け与えた秀吉は、島津氏に対しても旧領を四人兄弟に分封して、その勢力を削ごうとした。これが意見の統一を欠くという島津藩の奇妙な行動の始まりとなり、義久は国元に、義弘は大坂に居てその意見はまとまらず。その後の島津家にとって大きな影響を与えていく。



 秀吉の朝鮮侵略

 天正20年(1592)3月13日秀吉から朝鮮への渡海命令が発せられ、諸大名は肥前名護屋から続々と朝鮮へ出陣していった。(文禄の役)
 命令により出陣した島津義弘と子の久保をはじめ家臣たちは、義久らの非協力で国元から軍船が来なかった為に賃船で細々と渡海していったが、「日本一の遅陣」としてその面目は大いに失われた。また島津氏の部将による肥後領への侵攻という一大事も起こり、弟の歳久はその責任をとり自害した。義弘らは朝鮮の各地を転戦していったが、このような状況の中、長男の久保が陣中で亡くなり、次男の忠恒を日本から呼び寄せ
た。さらに転戦を重ね、文禄4年(1595)5月10日、義弘は朝鮮を出発して、6月5日に大坂に着いた。


 太閤検地

 秀吉は朱印状を発して、島津家の領主を戦功のあった義弘にした。しかし島津家の当主は義久であり、当事者とその家臣たちに大きな動揺を与えた。さらに太閤検地によって、所領の大掛かりな移動があり、混乱と動揺はさらに深まり、島津家の家臣たちは分裂していった。



 泗川の戦い

 慶長の役(1597)が始まり、義弘は家中の非協力の中、少ない人数で渡海し各地を転戦した。
 やがて秀吉の死により、朝鮮より撤兵するが、この時に日本中にその勇猛をとどろかせたのが、義弘が行った泗川の戦いである。

 慶長3年(1598)9月、明の提督董一元は20万の大軍を率いて晋州城を攻め徳川江をはさみ島津軍と対峙した。島津軍は泗川古城を放棄し、泗川新城まで退いた。 10月1日明軍の攻撃が始まり、島津軍は僅か5千ほどの兵力で応戦した。激しい戦闘の末、ついに明軍を退却させた。この時明軍の戦死者は3万8717人と報告され。味方の戦死者は僅か2人という。この大勝利で島津氏の戦功は不動のものとなり、明・朝鮮軍では、島津氏を「石曼子(シマヅ)」と称され、その強さを恐れられた。

日本軍の退却でもその殿(しんがり)を務め、「日本の軍勢十万余が帰陣できたのも、義弘殿の一戦の大勝利のおかげです。」と賞賛された。
 その後、秀吉の死後禁止されていた領地の加増が、島津氏のみになされたことも、その戦功の大きさを表している。また義弘は慶長4年高野山に日本と朝鮮・明両軍の戦没者慰霊碑を建てて、その霊を供養している。



 庄内の乱

 島津忠恒は伏見の屋敷で重臣の伊集院幸侃を惨殺した。幸侃は島津家の家臣でありながら、秀吉の九州征伐後豊臣政権と親密になり家中での発言力を増しつつあった。

 子の伊集院忠真は庄内(都城)に立てこもった。義弘は娘を忠真に嫁がせている関係もあり、その説得に努めた。この乱も1年ほど続いたが、家康の助成や義弘の説得によって、忠真が降伏する事によって収まった。島津の国内は、戦乱状態に陥り、乱の鎮圧に忙殺され、長く続いた戦乱も合わさり疲弊した。



 関ヶ原の戦いへ

 慶長5年(1600)義弘は僅かな家臣を伴い、伏見の屋敷に上洛していた。その前年、五大老の上杉氏が領地に戻ったまま上洛せず。五奉行の石田三成が加藤清正ら七将に襲われ、領地の佐和山に蟄居するなど、世情は混乱していた。上杉征伐も決まり、義弘は国元に兵の増強を要請するが国内の疲弊もあり色よい返事はなかった。



 6月18日、家康は上杉討伐軍を率い伏見を出発した。その軍が下野の国小山に着く頃、石田三成は家康征伐の挙兵をはかる準備を進めた。

 7月17日、三奉行の連署で家康への弾劾状を諸大名に発して、その軍を募った。これに応じて毛利・小早川・宇喜多らの大名が大坂に集合し、西軍のその数は9万人ほどに及んだ。

 その頃、義弘はどちらにつくか態度を曖昧にし情勢を見ていた。家康の家臣が守る伏見城に入ることを求めたが拒否された。このような状況の中、三成のさいさんの申し入れを受け西軍に加わることになった。

8月1日、伏見城が落城した。8月15日、義弘は伏見を出発し、大津より船行して近江佐和山に到着した。8月17日、義弘は美濃の垂井に陣を移した。

 この時、義弘のもとには200人ほどの兵しか居なかった。さらに国元に兵の増強を要請するが、国元からの大規模な派兵はなかった。しかし義弘を慕い6月5日に甥の島津忠久、7月28日に家老の新納旅庵らが大坂に着き、8月の伏見城落城後の時点でも、その兵力は1000人に満たなかった。その後も義弘を慕う兵は各々に着陣し、関ヶ原の戦い直前の9月13日には、阿多長寿院盛淳・山田有栄らが大垣に着陣し、最終的にその兵力は1500人ほどになった。

 時に島津義弘66歳。島津家の命運を賭けて、老将はこの戦いに望んだ。



 関ヶ原の戦い 前哨戦

 清洲に集まっていた東軍は、まず岐阜城を攻略した。8月22日、関ヶ原と大垣の中間地点の垂井に陣をしいていた義弘は、三成からの要請で墨俣に兵を進めた。ここは大垣城の東、揖斐川を渡り、清洲と大垣を結ぶ美濃路街道の長良川の川渡し宿である。

 三成は小西行長らと大垣城を出て、城の北東呂久川(揖斐川の支流)下流の澤渡村に出た。また家臣の舞兵庫を石田の兵を関ヶ原と岐阜を結ぶ中山道の合渡川(長良川の支流)の渡しに配置して東軍の西進に備えた。

 8月23日岐阜城の攻略で戦功の無かった黒田長政・田中吉政・藤堂高虎らは大垣城へ進むべく中山道を西に進み、合渡川(河渡川)において石田の兵を撃破して侵攻した。

 朝より島津・小西を陣に招き、戦略を議論していた三成は合渡川の敗戦の報告を聞き、大きく狼狽した。

 この時、義弘は墨俣に陣を張る豊久ら島津の兵を退却させてから退却するべきだと主張したが、取り入れられなかった。

 義弘の家臣の新納弥太右衛門・川上久右衛門らが三成の馬のくつわを押さえて、「惟新主従を死地に陥れひとり退くのは卑怯ではないか。」と罵ったが、三成は対応策を議論することなく、すぐさま大垣城に退却した。



 自らの兵を墨俣に出していた義弘は孤立していた豊久をはじめ島津兵に撤退の命令を出す一方、その間、呂久川の堤の上に手持ちの兵を並ばせて東軍に対した。しかし東軍からの攻撃は無く義弘は大垣へ戻り、大垣城の北の楽田に陣を敷いた。この夜半に東軍の先発隊は呂久川を渡り、大垣城の北北西の赤坂に進み陣を張った。

 23日に大垣に着ついた宇喜多秀家は、赤坂に着いた東軍は本日の戦いで疲れているので、夜襲をもってこれを攻撃するべきだとして三成にせまった。義弘もこれを良しとして参加を申し出たが、三成はこの案を退けた。島津軍は度重なる冷遇と軍議での意見の違いなどで、不信がつのり西軍の一員としての戦意を失っていく。

9月13日、楽田の陣に阿多長寿院盛淳・山田有栄・伊勢貞成らが兵を70人ほど引き連れて着陣した。すぐさまその中の2人が陣の北の曽根城に奇襲をかけた。兵力は少なかったが、義弘を慕い国元より三々五々集まった島津軍の団結は固かった。

 家康が清洲から岐阜経由で赤坂へ向かう途中、北方のあたりで島津隊の偵察隊と遭遇し鉄砲の一斉射撃を受け、危うい場面があったと伝えられる。

9月14日昼頃、家康が赤坂に到着する。西軍は杭瀬川の戦いで小戦を勝利し大垣城での攻防戦を準備していた。

義弘は再度赤坂への夜襲を提案するが三成に退けられた。

 東軍が赤阪から西に向かい大坂に向かうとの情報を入手した三成は夜半から大垣城の諸隊を関ヶ原へ移動させた。

雨の中、大垣城を出た西軍は美濃路・中山道を進まず、西に位置する南宮山の南麓へ迂回し、牧田を通り、伊勢路から関ヶ原に向かった。

 島津隊は9月15日午前4時ごろに関ヶ原に着き、北陸へと向かう北国街道を石田隊と挟むように小池の地に陣を張った。



 関ヶ原の戦い

 9月15日午前8時ごろ、朝もやの中、戦闘は始まった。東軍の攻撃は、笹尾山の石田隊と宇喜多・小西隊に集中した。島津隊はその真中に位置したが、その朝鮮の戦い以来の強悍ゆえ、容易に攻め込まれなかった。

 島津隊は兵を分け、前方に島津豊久その右に山田有栄、後方に島津義弘という配置で、矢のような陣形を取り、攻め込む東軍には鉄砲の一斉射撃で追い払ったが、積極的に攻撃には参加せず、防戦に終始した。

 三成の家臣が東軍への攻撃を二度にわたり要請したが取り合わず、戦いを傍観した。
 また、石田三成が自ら島津豊久の陣へ攻撃参加の督促に来たが、「本日の合戦はめいめいに戦いたい。」として取り合わなかった。

 しかし両軍入り乱れての混戦の中、数度と東軍を押し戻したが敵との間合いは徐々に狭まり、乱戦となって島津の兵力は減少していった。

 昼過ぎには、小早川秀秋らが東軍に寝返り攻撃を始めた為、西軍は総崩れになり、敗走を始めた。西軍の敗走兵が自陣に逃げ込むのを防ぎながら東軍に防戦したが、戦いの勝敗はほぼ東軍の勝利に決するなか、逃げず留まった島津隊は戦場に孤立し取り残された。
 

 島津の退き口

 西軍の敗走が続く中、陣を構えているのは島津隊のみであった。後ろには西軍の敗走兵とそれを追う東軍の兵が満ち溢れていた。
 数百メートル前方に家康の本陣が移動していたので、義弘はここに最後の戦いを挑むことを考えた。
 しかし、義弘を思い島津家の将来をうれう豊久や盛淳の戦場離脱のすすめがあり、これに応じて退却することに決めた。

  その方法は後ろに引かず前方の東軍の中を敵中突破で突抜け、南宮山と松尾山の間、前日来た道を南に抜けるという。前に退くという方法は前代未聞であり、その島津隊の勇敢さをしてこの退却戦を「島津の退き口」と称された。


午後2時ごろ、東軍の勝利がもはや決まろうとしていた、戦闘も小康状態になった。

 生き残った兵をまとめた島津隊はこれを4隊に分け、鋒矢(ほうし)の陣形をとり豊久を先頭に穿ち抜けして東南に進み始めた。鬼気迫る勢いで突進してくる島津隊に押され、東軍についた部将と兵は唖然として見送った。

 猛将と言われた福島正則でさえ手を出さず、子の正之も家臣が「死に狂いする敵に戦はせぬもの」と言い押しとどめられた。

 譜代の家臣たちがその前面を固めていた家康の本陣の前方を駆けぬけた島津隊は関ヶ原の戦場を脱し、山間の牧田方面へ向かった

 東軍参加の諸将は見送ったが、家康の家臣本多忠勝・井伊直政や子の松平忠吉らが島津隊を追撃した。


 烏頭坂での殿戦

 関ヶ原の戦場を一文字に脱した島津隊は山間の間道「烏頭坂」にたどり着いた。ここまでたどり着いた島津隊は200人あまり。
 ここでそれまで先鋒であった豊久の隊は最後尾に回りこみ、追撃してくる東軍を迎え撃ち、殿(しんがり)として戦った。島津豊久は島津惟新を名乗り追撃を引き付け、先を行く島津隊を
進めた。豊久は本多忠勝の兵に囲まれ、四方八方から槍で突き上げられるうちに義弘の身代わりとして着ていた猩々緋の陣羽織は散々に飛び散った。豊久に従った13人の部将もことごとく討ち死にしたといわれる。

豊久については、ここで亡くなった説や重傷を負いながら烏頭坂を脱出した説など諸説がある。 正面の木立の向こうが牧田上野地区。遠くに養老山地が見える。





 阿多長寿院盛淳の殿戦

 烏頭坂を越えて牧田上野の集落に達してもさらに東軍の追撃は激しかった。追撃の先鋒の井伊直政と松平忠吉らの軍勢が島津隊に迫った。

 義弘はもはやこれまでと覚悟を決めて敵に斬れ込もうとするが、阿多長寿院盛淳が押し止めた。盛淳は「一軍の大将たる人が簡単に命を捨ててはいけません。天命があるまで生き長らえ、千人が一人になっても、今日この戦場から脱出してください。私が身代わりになります。」と言って僅かな兵を引き連れ「われこそ島津兵庫入道惟新なっるぞ」と叫びながら敵中に突進して討ち死にした。

さらに殿戦は激しさを増し、捨てかまりの戦法によって追撃隊の将、井伊直政と松平忠吉は島津兵の鉄砲で狙撃され負傷した。

 後の宝暦治水工事の時、薩摩藩士は再びこの地にやって来た。この戦いに参加した島津の子孫たちは、工事の合間に小さな石造りの五輪塔を作り、先祖の供養したと伝えられている。

 島津豊久の墓

 牧田上野の集落より南に10キロほど、伊勢街道をたどり勝地峠を越えて山間の道を進んだ所に上多良樫原の集落がある。ここに瑠璃光寺という寺があり、島津豊久の位牌が奉られ、その近くのカンリン藪(高取)と呼ばれている所に豊久の墓がある。

 村の伝承によると、烏頭坂の激戦で重傷を負った豊久の一行は井伊直政・松平忠吉・小早川らの追い迫る敵より逃れて伊勢街道の勝地峠にたどり着く。ここで待ち伏せ戦術をとって敵を退かせた。

残兵たちは瀕死の豊久を介護しながら街道を南下して、上多良の白拍子の谷に隠れた。そしてさらに名及から樫原の地に逃れてきたところ、瑠璃光寺の僧や名主の三輪内助入道一斉などがこれをかくまい傷の手当てをした。

 しかし、豊久の傷は重く、足手まといになることを憂慮して、かくまわれていた農家で自刃したと伝えられる。瑠璃光寺の裏手の森には島津塚と呼ばれる豊久の墓がある。

 また言い伝えでは島津家は参勤交代の途中に寺へ使者を送ってその礼を謝して、祭祀料も欠かさなかったといわれている。

(「上石津 道をたずねて」より)


 その後の脱出ルート

 島津隊の近江の国、水口へ至る撤退路については諸説がある。大きく分けると三つのルートがある。 また追っ手を惑わすため、いくつかの隊に分けて逃げ延びた可能性もある。
 豊久の隊及び殿戦で生き残った兵は勝地峠を越え、さらに霊山山地を越えて近江水口へ走った。
義弘の隊は昨夜大垣城からの転進した道筋を走り、南宮山の東麓に布陣していた長束正家に陣払いを伝える使者を出した。
正家は近江国水口城主で、家臣数名を付け道案内させた。さらに南に走ると東軍についている高須城がありそれを避けて養老山地の南麓駒野峠を越え、伊勢の国に入り関ヶ原と伊勢を結ぶ街道に出た。
さらに時村で他の隊と合流し、霊山山地を越えて東軍の進む中仙道を避けながら近江水口へ向かったといわれる。
後に島津越えと呼ばれるこのルートでは小林新六郎や甲賀衆を道案内としてしている。
また駒野峠を越えてから南下して後の東海道沿いに伊勢の関や鈴鹿峠を通り水口に至ったという説もある。
 どのルートも水口に立ち寄っているので、バラバラに逃げても、ここで合流することが伝えられていたのだろうか。
信楽では数百人の落人狩りに囲まれたが家臣が義弘を守り切り抜けた。
 いずれにしても義弘は無事に堺まで逃げ切り、大阪城に人質になっていた夫人と忠恒の夫人を救い出して、船行して日向、薩摩の地へたどり着いた。
この時、義弘に従う者は80人ほどであったと言われる。しかし三々五々帰着した者もおり数は定かではない。
 義弘は従ってきた兵に感状と少ないながら禄を与えている。



 所領安堵

 西軍参加の主要な大名のうち所領を守りきったのは島津のみである。
義弘が大坂の人質を救い無事に帰還した後、島津は国境を固めながら、義久・忠恒らの数年に渡る粘り強い交渉の末その所領が安堵された。また家康は島津へ他の大名へは見られない寛大な処置を行っている。
 これらは朝鮮出兵のおりの島津の活躍と、関ヶ原での大軍をも恐れぬ撤退戦が大きな影響を与えていると思う。
関ヶ原で西軍大名や三成を討ち、豊臣秀頼の大阪城に圧力を加えるも、まだ世情は混沌としていた。
秀吉の島津征伐の折には日本中の大名が動員されたが、島津は防ぎきった。
天下を手中に収めたい家康は島津への懐柔の道を選んだ。



 その後

 所領安堵の後、薩摩藩は参勤交代の道筋として中仙道を使い、近江や美濃の地を通っている。
後に、近江高宮では薩摩藩の御用人の問い合わせに対して、島津の撤退の様子を地元の役人が調べて答えている。
 島津の撤退については、参加した家臣達が各々覚書を残しているが、途中からはぐれたり、すさまじい殿戦の中事の前後がはっきりしなかったりする。

 島津の存亡をかけた美濃での関ヶ原の戦いは、その後、薩摩藩の人々に語り継がれた。
さらに宝暦4年(1754)2月5日、薩摩藩は再び藩の存亡をかけ、御手伝い普請の為、美濃の地にやってきたのである。




島津義弘についてはいろいろな本に書かれていますが、最近読んでとても面白かった物を紹介します。是非読んでみて下さい。 
島津義弘の賭け 山本 博文 読売新聞社 ISBN-643-97074-X C0021
島津奔る  上 池宮彰一郎 新潮社 ISBN4-10-387205-5 C0093
島津奔る  下 池宮彰一郎 新潮社 ISBN4-10-387206-3 C0093
島津義弘のすべて 三木 靖 編 新人物往来社 ISBN4-404-01356-6 C0021
関ヶ原島津血戦記 立石 定夫 新人物往来社 ISBN4-404-01238-1 C0021
チェスト関ヶ原
 島津義弘と薩摩精神 西田 実 春苑堂書店

島津義弘 加野 厚志 PHP文庫

惟新公関原合戦記 北川 鉄三 人物往来社 島津史料集
惟新公御自記 北川 鉄三 人物往来社 島津史料集
http://www.mirai.ne.jp/~wakita/simadu/simazu.htm









【私のコメント】

国際金融資本支配による「短い20世紀(英国の歴史家ホブズボームはこれを1914年の第一次世界対戦開始から1991年のソ連崩壊までと定義する)」は1913年12月23日のFRB設立に始まり、2012年6月1日の日中通貨直接取引開始で終焉した。21世紀の世界は日中印露独などの地域大国による勢力均衡の時代になる。今年6月以降進行している東アジアや中近東での緊張はこの体制変動を反映したものである。それは、20世紀に犯罪国家の汚名を着せられた日独両国の名誉回復と、日独両国を犯罪国家と罵る為に建国された韓国・イスラエル両国の滅亡を意味し、それが今年中に起きると私は予想している。

今回の記事では、この国際情勢の激動から離れて、20世紀の歴史の謎に迫りたい。そのテーマは、真珠湾攻撃の謎である。1941年12月8日の日本による真珠湾攻撃は日本にとって自殺行為であった。日本が英国とオランダのみを対象に宣戦布告するならば、アメリカが第二次大戦に参加することは出来ず、従って枢軸国が勝利していた可能性が高いからだ。問題となる石油の禁輸も東南アジアの油田で事足りたと思われる。更に謎なのは、三国同盟では宣戦布告の義務がない(例えばドイツとソ連が激しく戦っている間も日本はソ連に宣戦布告することは無かった)にも関わらず、ドイツが真珠湾攻撃の直後に対米宣戦布告したことである。これでドイツの敗北も確定したのだ。この日独両国の対米宣戦布告は両国の支配階層の熟慮の末に合理的に決定されたと私は考える。この決断の理由が分からない人間に20世紀の歴史を語る資格はないだろう。その前に、19世紀と20世紀の概略を述べておこう。

ホブズボームの言う「長い19世紀」はフランス革命に始まる。欧州大陸の二つの超大国であるフランスとオーストリアがルイ16世とマリーアントワネットの結婚によって統一されることを恐れた英国本拠の国際金融資本が革命を扇動してフランスを滅ぼし、世界覇権を維持した時代である。しかし、19世紀後半には英国で発明された鉄道が欧州内陸国で大量に建設され、ドイツやロシアなどの東欧諸国の経済が劇的に発展して英国を追い抜きつつあった。この覇権喪失の危機に生まれた学問が地政学である。マッキンダーが「東欧を支配する者はハートランドを支配し、ハートランドを支配する者は世界島を支配し、世界島を支配する者は世界を支配する」と語ったことは、当時の英国が鉄道建設による東欧の発展を如何に脅威視していたかを示している。丁度現在の米国が中国を含む東アジアの経済発展を脅威視しているのと似ている。

この危機に英国本拠の国際金融資本が考えた解決策は以下の通りであった。
1.アメリカ・ウォール街の国際金融資本と協力して米国で私設の中央銀行を設立し米国政府を乗っ取る。
2.東欧のハザール系ユダヤ人と協力してロシア革命を起こしロシア政府を乗っ取る。
3.米露二極を中心に世界大戦を起こして、それ以外の地域大国である日本・ドイツ・オーストリア・清・オスマントルコなどを滅亡させ属国として支配する。また、君主制は国家の統合性を高めるので、国際金融資本の本拠地のある英蘭両国と北欧の小国以外の属国地域では君主制を廃止する。

この計画は第一次世界大戦でかなりの部分が成就された。残る日独を滅亡させて属国化する為に第二次世界大戦が計画され、ハルノートなどの過酷な対日制裁が行われていたと私は考える。

このような現状を認識した上で、日本支配階層はたとえドイツと手を組んでも国際金融資本の計画に対抗する事は困難であり、敗北は避けられないと認識した。その場合、他の地域大国全てで君主制が崩壊している事を考慮すると、日本で建国以来継続されてきた皇室(当時は国体と呼んだ)が途絶えることは避けられない。この皇室を如何に存続するかが最大の争点になったと思われる。日本支配階層は、アメリカを第二次世界大戦に参加させるという国際金融資本の計画に日本が悪役として参加することと引き替えに皇室維持の約束を取り付けたのだと私は想像する。

しかしながら、国際金融資本が皇室維持の約束を守る保証は全くない。結局、日本が敗北し属国化した段階でも、皇室を維持する為には、皇室を維持した方が米国にとって日本統治のコストが安いと認識させる必要がある。その為には、日本人が皇室を守るために死にものぐるいで戦う姿を米軍に見せつける事が必要不可欠であった。日本軍が敗北確実な状態でも神風特攻隊などで命がけで戦った理由はそこにあると私は考える。

 今回の記事の題名は「大東亜戦争と関ヶ原の戦い」である。この二つの大戦争には大きな共通点がある。

1.関ヶ原の戦いで島津軍は敵中で孤立し敗北確実な情勢であった。これは大東亜戦争直前のABCD包囲網に囲まれて孤立した日本と類似している。

2.島津軍は東軍に寝返ることはせず、降伏もせず、東軍の総大将に向けて総攻撃をかけ、そのまま敵の大軍の中央を突破した。これは、日本がハルノートを受諾せず、連合国の太平洋艦隊の中枢のある真珠湾を攻撃したことと類似している。

3.島津軍は撤退の途中で「捨てがまり」という決死の戦術をとり大きな戦果を挙げた。これは、神風特攻隊として大東亜戦争で再現された。この戦術により、総大将の島津義弘は生きて鹿児島の地に生還した。大戦末期に鹿児島県の知覧に特攻隊の基地が設けられたことは偶然ではあるまい。

4.関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った武将は多くが取り潰された。いつまた徳川家から寝返るか分からないからだろう。また、関ヶ原の戦いで敗れた武将の多くは地域住民との繋がりを断って弱体化させる目的で別の領土に移動させられた。島津家は西軍の武将の中で取り潰されず、別の領土に移動させられることもなかった唯一の武将である。鎌倉時代始めからの守護大名である島津家は関ヶ原の時点で約4世紀の間鹿児島を領有し続けており、たとえ取り潰されることが無くとも地元との繋がりを断たれることは致命的であっただろう。これは、国際金融資本の支配下に入った多くの地域大国が君主制を失った(それは特に第一次大戦前後に集中している)中で、日本のみが皇室を維持することに成功したことと類似している。

長州藩と並んで明治維新の立役者であった薩摩藩は多くの人材を新政府に供給した。彼らは関ヶ原での島津藩の戦いの事を学んでいた筈である。真珠湾攻撃の決定には島津義弘の関ヶ原の戦いが取り上げられていたと私は想像する。

2012年6月1日に日中通貨直接取引が開始されて国際金融資本の支配するドル覇権が決定的に崩壊した。敗戦後の長い米軍による占領体制は終わりつつある。その後に来るのは、国際金融資系国家である南朝鮮の滅亡と大東亜共栄圏の中核である朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮と略す)の半島統一である。この統一戦争にも島津の戦法である「釣り野伏せ」が取り入れられている。

朝鮮は実際には日本によるアジア支配を正義と見なす立場だが、これまでは日本による侵略を糾弾するという対日姿勢を採り続けてきた。これは、南朝鮮を日本との深刻な対立に引き込むための戦略的撤退である。そして南朝鮮はその演出に引き込まれ、竹島問題や従軍慰安婦問題で日本との決定的対立に至った。更に、米軍と一体となってシナ大陸に駐留する南朝鮮軍を中国は大きな脅威と認識している。南朝鮮に対する伏兵であるこの日本と中国という二つの地域大国が今後竹島問題や離於島問題で南朝鮮に宣戦布告して南朝鮮を海上封鎖し経済や軍隊や食糧供給を麻痺させることになる。その後に朝鮮が戦略的撤退から攻勢に転じ、大東亜共栄圏の正義を掲げて、世界に例を見ない残虐な日本の植民地支配を糾弾するために建国された南朝鮮を殲滅する。江沢民等の親日派が支配する中国が日本や北朝鮮とともに大東亜共栄圏の正義に賛同することは言うまでも無い。

なお、ドイツの対米宣戦布告も、日本が皇室の維持を取引材料にしたのと同様に、ヒトラーにとって最も重要な事柄を取引材料にしたと思われる。それは、ヒトラーの祖国であるオーストリアと、その友邦であるカトリックドイツのバイエルン州(かつては王国)である。第二次大戦でドイツは犯罪国家と認定され国家が消滅したが、オーストリアはヒトラーに併合された被害者と認定され、ウィーンを占領したソ連軍はまもなく撤退し国家の独立と名誉が維持された。冷戦時代の東西分割線を見るとウィーンは西側から東側に大きく突出しており不自然にまで優遇されている。この優遇を勝ち得ることがヒトラーの第一の目的であったと思われる。更に、カトリックドイツの中心であるバイエルンは日本と同様に全土が米軍の占領下となり、その一方でバイエルンの宿敵であるプロテスタントのプロイセンは東プロイセンが消滅、西プロイセンもソ連占領下で脱宗教化の影響を受け冷戦時代に無宗教化が進んでいる。この計画に気づいたドイツ人がドイツの国益を守ろうとしたのがヒトラー暗殺計画であったと思われる。




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147 コメント

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Unknown (Unknown)
2012-09-08 16:20:54
島津の戦略は非常にいい。
対して今の日本の戦略は非常に悪い。
この点を考慮して決断を下して欲しい。

日本の戦略さえよければ南朝鮮如きに遅れをとることはないということを肝に銘じるべき。
返信する
Unknown (Unknown)
2012-09-08 16:28:40
そもそも、韓国を甘やかして付け上がらせたのは自民党だろが
返信する
Unknown (Unknown)
2012-09-08 16:56:19
最近の流行だから仕方ないわな。
このブログのような思考様式は。
最初から実力がないから戦争するなって類の話を持ち出すと話が詰んじゃうからな。

浅井朝倉家も参考にするべきでは?
軍事力が強ければ三姉妹は苦労しないってっか。
返信する
Unknown (Unknown)
2012-09-08 16:57:46
っていうか島津は勝つ見込みのない戦争や現実を無視した無駄なことは一切しないんだっけか。
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Unknown (Unknown)
2012-09-08 16:58:53
まさか王子様の予期した東アジア情勢にまんまなるとはな。
まあ王子様の戦略には賛成しかねるが。
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ギブミーチョコレート (ZRX)
2012-09-08 17:57:43
管理人様の見解に、深く賛意をしめします。

しかしながら、大日本帝国の精神と、その後の Give me chocolate. は大きく離反します。

その辺りの身軽さも、日本が長く続いている根拠のような気がします。

返信する
中共を味方に出来ますか? (とーと伊勢)
2012-09-08 19:59:38
鋭い分析力には敬服致します。
が、
>江沢民等の親日派が支配する中国が日本や北朝鮮とともに大東亜共栄圏の正義に賛同することは~
が理解出来ない。
 民度の劣る国家と連携する事は、日本の国家として力を削がれ、他の東南アジア諸国と共に中共に隷属する事になりはしないか。
 満州国建設以降の日本がどれほど中国大陸での泥沼に苦しんだことか。お忘れではあるまいに。
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Unknown (Unknown)
2012-09-08 20:23:36
中共よりは北朝鮮の方が味方にしやすい
返信する
Unknown (ニコライ・スミルノフ)
2012-09-08 20:37:24
ロシアを味方にすれば百人力だよ
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Unknown (Unknown)
2012-09-08 20:57:50
>とーと伊勢 さんへ

> 民度の劣る国家と連携する事は、

日本が連携すべき近隣の国々の中で、民度の劣っていない国家とは例えばどこの国でしょうか?
返信する

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