国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

ミアシャイマーとウォルトのイスラエルロビー批判論文の日本語訳part6

2006年05月08日 | イスラエルロビー批判論文の日本語訳

     )イスラエル系圧力団体とイラク戦争

米国国内では、この戦争の推進力は新保守主義者の小さな集団であり、その多くはリクードとの関係があった。しかし、イスラエル系圧力団体の主要組織の指導者たちはこの運動への発言を引き受けた。「ブッシュ大統領がイラクでの戦争を(国民に)受け入れさせようとした時、米国の最も重要なユダヤ系組織は団結して彼を弁護した。共同体の指導者達はサダム=フセインと彼の大量破壊兵器を世界から取り除くことの必要性を強調する声明を次々と発表した。」とフォワード誌は報道した。その論説は「イスラエルの安全への関心は当然なことに、主要なユダヤ系団体の討議という因子に因数分解された。」と続けた。

新保守主義者や他の圧力団体の指導者達はイラク侵略を渇望していたが、米国のユダヤ系共同体全体はそうではなかった。戦争開始直後、サミュエル=フリードマンは「ピュー調査センターが行った全国規模の世論調査によれば、ユダヤ系は国民全体に比べてイラク戦争への支持が52%対62%でより少ない傾向にあった」と報告した。イラクでの戦争の責任を「ユダヤ人の影響」のせいにするのは明らかに間違いだ。むしろ、それはおおむねイスラエル系圧力団体、特にその中の新保守主義者たちの影響力のせいであった。

新保守主義者たちはブッシュが大統領になる以前からサダムを打倒することを決意していた。彼らは早くも1998年にサダムを権力の座から追放することを呼びかける二通の公開書簡をクリントンに送ったことで騒ぎを起こしている。その署名者の多くは安全保障問題ユダヤ研究所やワシントン近東研究所などの親イスラエル団体と親密な繋がりを持つ者であり、エリオット=アブラムス、ジョン=ボルトン、ダグラス=フェイス、ウィリアム=クリストル、バーナード=ルイス、ドナルド=ラムズフェルド、リチャード=パール、ポール=ウォルフウィッツ等を含む。彼らはクリントン政権を説得しサダムを追放するという総合的な目標を容易に採択させた。しかし、彼らはその目的を達成するための戦争を受け入れさせることが出来なかった。彼らはブッシュ政権初期にもイラクに侵略することへの熱狂を作り出すことが出来なかった。彼らは目的を達成するための助けを必要としていた。9/11とともにその助けが到来した。その日に起きた出来事がブッシュとチェイニーに進路を反転させ、予防的戦争の強い支持者にした。

9月15日のブッシュとの重要な会合で、ウォルフウィッツはアフガニスタンの前にイラクを攻撃することを提唱した。サダムが米国への攻撃に関与したという証拠が無く、ビン=ラディンがアフガニスタンにいると分かっていたのにも関わらずである。ブッシュは彼の忠告を拒否し、アブガニスタンの後に回した。しかし、イラクとの戦争は深刻な可能性があると見なされ、9月21日には大統領は軍隊にイラク侵略の具体的計画を作成するよう命令した。

一方、その他の新保守主義者たちは政治権力の中心で働いていた。我々はその完全な内容は知らないが、プリンストン大学のバーナード=ルイスやジョンズ=ホプキンス大学のフォアド=アジャミーのような学者たちが戦争が最良の選択であるとチェイニーを説得するのに重要な役割を果たしたと伝えられる。しかし、チェイニーの部下である新保守主義者たち-エリック=エーデルマン、ジョン=ハンナ、チェイニーの首席補佐官で政権の中で最も有力な者の一人であったスクーター=リビー-もまた彼らの役割を果たした。2002年の初めにはチェイニーはブッシュを説得していた。そして、ブッシュとチェイニーが乗ったことで戦争は不可避になった。

政権の外部でも、新保守主義の専門家たちは迅速にイラク侵略が対テロ戦争への勝利に必要不可欠であると主張した。彼らの努力は部分的にはブッシュへの圧力を継続するため、あるいは政権内外の戦争反対勢力にうち勝つためであった。9月20日には有力な新保守主義者とその友人の団体が別の書簡を公開した。それは、「米国への攻撃とイラクとの間に直接の関係がないとしても、テロとその後援者を根絶するためのいかなる戦略も、イラクの政権からサダム=フセインを追放するという断固たる努力が必要不可欠だ」というものだ。その書簡はまた、ブッシュに「イスラエルは国際的なテロに対抗するための米国の最も忠実な同盟国であったし、これからもそうであり続ける」ということを思い起こさせた。10月1日には、ウィークリースタンダード誌の記事でケーガンとクリストルはタリバンを米国が打ち破ったらすぐにイラクの政権交代が必要と主張した。同じ日に、チャールズ=クラウトハマーはワシントンポスト紙で米国のアフガニスタンでの作戦が終わったら、シリアが次であり、その後はイランとイラクであり、我々が「世界で最も危険なテロリスト体制を」終結させるとき、「テロに対する戦争はバグダッドで完了」すると論じた。

これはイラク侵略への支持を得るための容赦のない広報活動運動の始まりに過ぎなかった。そして、その決定的に重要な部分はサダムが差し迫った脅威であるかの様にみせかけるという情報操作であった。例えば、リビーはCIAの分析官に対して戦争に賛成する主張を支持する証拠を見いだすよう働きかけ、現在コリン=パウエルの評判を落としている国連安保理での説明の準備を支援した。国防総省内では、反テロリズム政策評価グループがアル・カイーダとイラクの繋がりを見いだすよう命令されが、情報機関はそれに失敗したと思われる。その鍵となる二人の重要人物は、筋金入りの新保守主義者であるデービッド=ワームサーと、パールと親密な絆を持つレバノン系米国人のマイケル=マルーフである。特別計画室と別の国防総省のグループは、戦争を受け入れさせるのに利用できる証拠を発見する職務を与えられた。これはウォルフウィッツと長期間関係を持つ新保守主義者であるエイブラム=シュルスキーが指揮を執り、親イスラエルのシンクタンクから募集された人々が参加していた。両方の組織は9/11の後に作られ、ダグラス=フェイスに直接報告を行った。

ほぼ全ての新保守主義者と同様に、フェイスもイスラエルに深く関与しているし、リクードとも長期的な関係を有している。彼は1990年代に入植地を支持しイスラエルが占領地区を保持すべきだと主張する記事を書いた。より重要なことは、パールやワームサーと共に1996年にあの有名な「突然の中断」を、当時首相になったばかりのネタニヤフに書いたことである。その中ではネタニヤフに「サダム=フセインをイラクの権力の座から追放することはイスラエル自身の権利において、重要な戦略目標である」と勧めている。更に、中東全体を並び替えることをイスラエルに対して呼びかけている。ネタニヤフは彼らの忠告に従わなかったが、フェイス、パール、ワームサーは間もなくブッシュ政権に対して同じ目標を実行するよう要請していた。ハアレツ紙の特別寄稿者のアキバ・エルダルは、フェイスとパールは「米国への忠誠心とイスラエルの国益の間の細い線の上を歩いている」と警告している。

ウォルフウィッツもまた等しくイスラエルに関与している。フォワード誌はかつて彼を「政権の中で最も強硬な親イスラエル派」と描写し、2002年に自覚的にユダヤの現状改革主義を追求する50人の有名人の筆頭に選んだ。同じ頃、安全保障問題ユダヤ研究所はウォルフウィッツにイスラエルと米国の強い友好関係を増進させた事に対してヘンリー・M・ジャクソン殊勲賞を授与した。エルサレムポスト紙は彼を「心から親イスラエル」と評し、2003年の「最も活躍した人物」と名付けた。

最後に、新保守主義者たちの戦争前のアフマド=チャラビ(訳者注:イラク国民会議代表)への支持については簡潔な言葉で述べるのが適当だろう。彼はイラク国民会議の代表を務めていた恥知らずの亡命者だった。彼らがチャラビを支持したのは、ユダヤ系米国人の集団と親密な関係を樹立しており、政権を握った暁にはイスラエルとの良好な関係を育むと誓ったからである。これこそまさに、親イスラエルの体制転換擁護者たちが聞きたかったことであった。マシュー=バーガーはユダヤジャーナル誌でこの掘り出し物の真髄に酔っている。「イラク国民会議は関係改善を米国政府とイスラエル政府におけるユダヤ人の影響力への打診を行うための方法と考え、その理由のために支持の増大を喚起している。もしイラク国民会議がサダムフセイン体制の後任に関与した時には、ユダヤ系グループは彼らとしてはイスラエルとイラクの間の良好な関係に道を開くための機会を見つけたのだ。」

新保守主義者たちのイスラエルへの献身、イラクへの執着、彼らのブッシュ政権における影響力を考えると、多くの米国人がこの戦争は更なるイスラエルの国益のために計画されたのではないかと疑うのは驚きでない。昨年3月、米国ユダヤ人委員会のバリー=ヤコブは、イスラエルと新保守主義者たちが共謀して米国を対イラク戦争に持ち込んだという信念が情報機関の中で拡散していることに同意した。しかし、そのことを公式の場で口に出す人はほとんど居なかったし、それを行った人の大部分-アーネスト=ホーリングズ上院議員や-ジェームズ=モーラン下院議員を含む-はその問題を取り上げたことを糾弾された。マイケル=キンスレーは2002年に「イスラエルの役割に関する公的な議論が欠如していることは、部屋の中の象(訳者注:非常に目立つが、都合上無視される問題)の諺のようだ。」と述べた。彼は、それに関する議論に気が向かない理由は、反セム主義者と呼ばれることへの恐れであると分析した。イスラエルとイスラエル系圧力団体が開戦の決定の大きな要因であることはほとんど疑いの余地がない。彼らの努力なしには、米国がその決定を行う可能性は遙かに小さかったことだろう。

     )中東地域の体制転換という夢

そして、この戦争は単なる第一段階として予定されていた。開戦直後のウォールストリートジャーナル紙の一面の「大統領の夢:単なる政権転換ではなく、地域の転換:親米的な民主主義地域こそ、イスラエル人と新保守主義者が応援する目標」という見出しが全てを語っている。

 親イスラエルの勢力は長年に渡って、米軍を中東にもっと直接的に関与させることに関心を持っていた。しかし、彼らは冷戦期間中には限定的な成果しか挙げられなかった。米国がこの地域ではオフショア=バランサーとして行動していたからである。中東地域に配備された緊急展開部隊の等の部隊は地平線の向こうの安全な所に駐留していた。これは、現地勢力を別れさせ相互に対立させて、米国に好ましい均衡状態を維持するためである。レーガン政権がイランの革命政権に対抗するサダムをイラン・イラク戦争の期間中支援したのもこれが理由である。

この政策は湾岸戦争の後で変更され、クリントン政権は「二重封じ込め政策」を採用した。かなりの量の米国の軍事力がイランとイラクの両方を封じ込めるためにこの地域に駐留し、以前の相互に監視するという政策は放棄された。この二重封じ込め政策を作ったのは他ならぬマーチン=インディクである。彼は1993年5月にワシントン近東研究所 でこの政策を起草し、その後は国家安全保障会議の中東・南アジア地域の責任者として政策を実行したのだ。

1990年代の半ばには、二重封じ込め政策に対する相当な不満が聞かれるようになった。この政策により米国は相互に憎み会う両国の宿敵となり、米国政府は両方の敵を封じ込めるという重荷を負うことを強いられたからだ。しかし、この戦略はイスラエル系圧力団体にとっては好ましいものであり、彼らは継続するように議会に活発に働きかけた。アメリカ・イスラエル公共問題委員会や他の親イスラエル勢力の圧力を受けて、クリントン大統領はは1995年春にこの政策を強化し、禁輸措置を科した。しかし、アメリカ・イスラエル公共問題委員会や他の圧力団体は更なる措置を求めた。その結果が1996年のイラン・リビア制裁法令であり、イランやリビアの石油資源の開発に関して4000万ドル以上の投資を行った外国企業全てに制裁を科すものであった。ハアレツ紙の軍事問題記者であるゼーフ=シフは「イスラエルは大きな構想の中ではほんの小さな要素に過ぎないが、この環状道路の中(訳者注;ワシントンの環状道路の事を指す)でその構想に影響力を及ぼせないと見くびってはならない。」とその時書き留めている。

1990年代末には、新保守主義者たちは二重封じ込め政策では不十分であり、イラクの政権転換が必須だと議論していた。サダムを追放してイラクを力強い民主主義国にすることで、米国は中東全体を転換するという遠大な過程を引き起こすだろうと彼らは主張した。同様の意見の方針は新保守主義者たちがネタニヤフに向けて書いた「突然の中断」でも明らかであった。イラク侵略が最優先であった2002年には、地域全体の転換は新保守主義者の集団の中ではもはや信条となっていた。

チャールズ=クラウトハマーはこの雄大な構想をナタン=シャランスキーの独創的な考えと述べている。しかし、あらゆる政治領域のイスラエル人は、サダムを追放することは中東をイスラエルに有利に変化させることであると信じていた。アルフ=ベン記者はハアレツ紙でこう述べている(2003年2月17日付)。「イスラエル国防軍の高官と、国家安全保障補佐官のエフライム=ハレヴィのようなアリエル=シャロン首相に近い人々は、イスラエルが戦争の後に期待できる素晴らしい未来のバラ色の光景を描く様になった。彼らはサダム=フセイン体制の崩壊に続いて他のイスラエルの敵も崩壊し、これらの指導者と共にテロや大量破壊兵器も消失するというドミノ効果を想像した。」

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