●楊海英(ヤン ハイイン)に第14回、司馬遼太郎賞 2011年12月19日掲載 モンゴル自由連盟党
司馬遼太郎賞に楊海英さんの「墓標なき草原」. 第14回司馬遼太郎賞(司馬遼太郎記念財団主催)は8日、静岡大教授の楊海英(ようかいえい)さん(46)の「墓標なき草原」(岩波書店刊)に決まった。 内モンゴル自治区における文化大革命の実態を独自の聞き取り調査や史料で明 らかにした点が評価された。副賞100万円。
<贈賞理由>
この作品の主題である反エスノセントリズムを、迫害された人間の叫びと歴史の 周到な取材に基づいて再現した日本語表現の迫真力を高く評価した。
<楊海英氏の略歴>
1964(昭和39)年、内モンゴル自治区オルドス生まれ。モンゴル名オーノス・チョクト。 北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。89年3月来日。国立民族学博物館総合研究大学院大学博士課程修了。文学博士。1997年〜1998年 : 中京女子大学 / 人文学部 / 助教授 ,1999年〜2001年 : 静岡大学 / 人文学部 / 助教授 ,2003年〜2007年 : 静岡大学 / 人文学部 / 助教授 ,2007年〜2008年 : 静岡大学 / 人文学部 / 教授 , 2010年 : 静岡大学 / 人文学部 / 教授 ,静岡大学人文学部助教授を経て現職。
http://www.hss.shizuoka.ac.jp/research/staffs/soci/yang.html
選考委員はドナルド・キーン、柳田邦男、養老孟司、松本健一、関川夏央氏の5氏です。
静岡大人文学部教授。文学博士。日本人女性と結婚し、00年、日本国籍取得。66年からの文化大革命期、モンゴル族が受けた民族虐待を証言や史料で明らかにした。文革は漢民族によるジェノサイドでモンゴル族の死者は5万人と言われている。
内モンゴルは日本の大陸政策の結果として出現し対日協力が民族虐殺の口実の一つにされた。受賞作は”墓標なき草原(上、下)”岩波書店。
司馬遼太郎賞に楊海英さんの「墓標なき草原」. 第14回司馬遼太郎賞(司馬遼太郎記念財団主催)は8日、静岡大教授の楊海英(ようかいえい)さん(46)の「墓標なき草原」(岩波書店刊)に決まった。 内モンゴル自治区における文化大革命の実態を独自の聞き取り調査や史料で明 らかにした点が評価された。副賞100万円。
<贈賞理由>
この作品の主題である反エスノセントリズムを、迫害された人間の叫びと歴史の 周到な取材に基づいて再現した日本語表現の迫真力を高く評価した。
<楊海英氏の略歴>
1964(昭和39)年、内モンゴル自治区オルドス生まれ。モンゴル名オーノス・チョクト。 北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。89年3月来日。国立民族学博物館総合研究大学院大学博士課程修了。文学博士。1997年〜1998年 : 中京女子大学 / 人文学部 / 助教授 ,1999年〜2001年 : 静岡大学 / 人文学部 / 助教授 ,2003年〜2007年 : 静岡大学 / 人文学部 / 助教授 ,2007年〜2008年 : 静岡大学 / 人文学部 / 教授 , 2010年 : 静岡大学 / 人文学部 / 教授 ,静岡大学人文学部助教授を経て現職。
http://www.hss.shizuoka.ac.jp/research/staffs/soci/yang.html
選考委員はドナルド・キーン、柳田邦男、養老孟司、松本健一、関川夏央氏の5氏です。
静岡大人文学部教授。文学博士。日本人女性と結婚し、00年、日本国籍取得。66年からの文化大革命期、モンゴル族が受けた民族虐待を証言や史料で明らかにした。文革は漢民族によるジェノサイドでモンゴル族の死者は5万人と言われている。
内モンゴルは日本の大陸政策の結果として出現し対日協力が民族虐殺の口実の一つにされた。受賞作は”墓標なき草原(上、下)”岩波書店。
「墓標なき草原」
―― 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録 ―― ■構成 全2巻 -- 楊 海英
文革の凄惨な階級闘争は少数民族地域には及ばなかったとされるが,事実は決してそうではない.文革時期に五人に一人が「民族分裂主義者」とみなされ,公式発表でも3万人近くが殺害された内モンゴルで,何があったのか.体験者への綿密な聞き取り, 同時代資料,国内外の研究を渉猟して明らかにした,隠蔽されたままの過去.
司馬遼太郎賞(しばりょうたろうしょう)は財団法人・司馬遼太郎記念財団が主催する文芸、学芸、ジャーナリズムを対象とした賞。以降年一回発表されている。受賞は選考委員の合議によって決定される。受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与される。また、第9回より小説・評論を対象とした著作に授与される。
http://www.lupm.org/japanese/pages/101222j.htm
●【書評】『続・墓標なき草原』楊海英著 - MSN産経ニュース 2011.12.18
モンゴル人大量殺戮の証言
本書は、昨年に第14回司馬遼太郎賞を受賞した『墓標なき草原』上下2巻の続編であり、3巻を合わせると約900ページに及ぶ大著である。
楊海英氏は、中国・内モンゴル自治区での文化大革命期のモンゴル人大量殺戮(ジェノサイド)を生き抜いた貴重な証人の生の声を真摯(しんし)に聞くとともに、文献資料と照らしあわせて検証し、想像を絶する被害の実態を明らかにした。また『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料』(風響社)を一昨年から毎年公刊し、計2700ページに及ぶ膨大な資料を提出している(全10巻予定)。私は漢民族の一人として、この残忍極まりない史実を知り、痛切な罪責感に打ちのめされたが、良知とは何かを深く考えなおす契機(モーメント)ともなった。
本書終章は、現在の中国でモンゴル人が「ネーション(民族)ではなく(「中華民族」内の)エスニック・グループである」などのレトリックによって、民族の精神的絶滅が推し進められている「文化的ジェノサイド」の実情を剔抉(てっけつ)する。史実の反省どころか、ますますジェノサイドが徹底化しているのである。
本書を読み、私はシンボルスカ(ポーランドの女性詩人、1996年ノーベル文学賞)の詩句「言葉は涙の底に落ちていった」を想起した。暴力に対して言葉は無力のように見えるが、しかし言葉は「死者を呼び戻」すこともできる。正続『墓標なき草原』の言葉一つ一つは虐殺された死者を甦(よみがえ)らせ、ジェノサイドを証言せしめている。
楊氏は悠揚と「『坂の上の雲』は確実にモンゴルの青空の上を美しく飛んでいます」と本書を結んでいる。読者は身体的・精神的ジェノサイドを凌駕(りょうが)する強靱(きょうじん)かつ明朗な精神に励まされ、残虐な暴力を乗り越え記憶のモニュメントを現代史に構築できるという確信を得られるだろう。
そして、その力強いメッセージは、読了して終わりというものではない。本書は人道に反する時効のない犯罪を裁くべく将来開かれる法廷の「序章」でもあるからだ。まさに、絶望的な暗闇に光を織りなし、読み継がれていくに足る歴史に残る良書である。(岩波書店・3360円)
評・劉燕子(作家、現代中国文学者)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/111218/bks11121807410011-n1.htm
●内モンゴル独立運動 - Wikipedia
満州国・蒙古聯合自治政府
1932年に清朝皇帝であった溥儀が関東軍の協力のもとで満州国を建国した。これにより内モンゴル東部は満州国となった。満洲国では清王朝以来続く満洲・モンゴルの友好血縁関係からモンゴル人は積極的に満州国皇帝に仕えた。1935年3月、ソビエトは内モンゴル東部(満州国内)に権益を持っていた北満鉄道を満州国に売却する。内モンゴルの中部ではデムチュクドンロブ(徳王)やユンデン・ワンチュク(雲王)などの王族によって自治要求運動がなされるようになり、1936年には自治を求める内モンゴル軍(ru)と中華民国軍とが全面衝突した(綏遠事件)。1939年、デムチュクドンロブは日本の支援を受けて蒙古聯合自治政府を樹立し内モンゴルにモンゴル人による自治政府が誕生した。満州国と蒙古聯合自治政府はそれぞれ独自の行政機関・軍事組織・通貨をもつなど中国本土とは完全に分離した政治経済体制であった。
1941年4月13日、日ソ中立条約がソビエトと日本の間で締結され、満州国(内モンゴル東部)とモンゴル人民共和国(外モンゴル)の領土保全と相互不可侵を約束した共同声明が出された[3]。ところが、1945年2月11日にソビエト・アメリカ合衆国・大英帝国はヤルタ会談を開き、満州を中華民国のものとし、北満鉄道・南満州鉄道をソビエト・中華民国共同のものとすることを取決め、外モンゴルのみをソビエト・中華民国の影響下とした上で現状維持とすることをモンゴル人・満州人の意志とは関係なく決定した[4]。
1945年8月9日に突如としてソビエト軍が満州国と内モンゴルに侵略してきたことによって満州国・蒙古自治邦政府(1941年に蒙古聯合自治政府から改称)は崩壊した(ソビエト参戦)。内モンゴル東部はソビエト軍の占領下におかれ、それを引き継いだ中国共産党の支配下に入った。内モンゴル中部は、ソビエト兵から難民を守るために根本博中将揮下の駐蒙軍が終戦日を過ぎた8月21日までソビエト軍の進撃を食い止めた後、中華民国軍に引き渡したことによって中華民国政府の支配下に入った。
中華人民共和国
1945年8月以降、中華民国政府と反政府勢力の中国共産党との間で国共内戦が起きた。国共内戦のさなかである1947年5月1日、中国共産党員のウランフは内モンゴルに内蒙古自治区を設置し、自分はその主席に就任した[5]。1949年に中華人民共和国が建国された後もウランフは主席として君臨していたが、1966年7月12日に小平がウランフを「分裂主義者」であるとして失脚させると中国政府は内モンゴル人民革命党粛清事件と呼ばれるモンゴル人への大粛清を行った。これにより数十万人が粛清された[5][6]。さらに中国共産党は漢民族数千万人を内モンゴルに移入させることによってモンゴル人の割合を人口の20%余りにした。これによりモンゴル人は内モンゴル自治区における少数民族になり[1][7]、漢民族は人口の80%を占めるにいたった[7]。このような漢民族による移入政策は古くから行われている。古くは苗族が先住していた揚子江以南への移入によって苗族を西南部の山間部に追いやっており、現在はチベットや東トルキスタンでも行われている[8]。
1989年の天安門事件以降、内モンゴル独立運動も再び活発になり、1995年に内モンゴルではハダ等によって中国からの独立を目指す南モンゴル民主連盟が設立された[9]。しかし1995年12月10日、代表のハダと連盟員は中国政府によって逮捕され、ハダはスパイ、国家分裂主義者として刑務所に送られた[10][11]。このため、これ以降のモンゴル人は国内よりも海外で活動を積極化させていった。1997年には内モンゴル人民党がアメリカ合衆国で設立し、2006年にはモンゴル自由連盟党が日本で設立された。同時に南モンゴル人権情報センターはメディアに南モンゴルの人権情報を発信している[7]。内モンゴル人民党やモンゴル自由連盟党はヨーロッパにも支部を設置するなどしてヨーロッパ人とともに中国政府による人権抑圧への抗議活動を行っている[6]。独立を目指す団体は共同して抗議活動や声明文を出すなど協力関係を保っている[10][6]。
2010年には内モンゴル人民革命党粛清事件における民族浄化を描いた楊海英静岡大学教授の『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』が司馬遼太郎賞を受賞した[12]。 2010年12月10日のハダの刑期満了日以降、ハダとその家族が行方不明となっており、アムネスティ・インターナショナル日本などから中国政府に対する非難が上がっている[13]。このハダ失踪事件が国際的に報道されたことでチベットや東トルキスタン同様に内モンゴルの人権問題に注目が集まっている[7][14][15][9]。
現在、内モンゴルは東トルキスタン・チベットと並んで中国におけるレアメタル等の鉱物資源の主要産地となっていることや中国政府による漢民族移入政策によって、中国からの独立を図ることが困難になりつつある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95
●モンゴル、OSCE加盟へ 「第3の隣国」と距離縮める 「人民網日本語版」2012年6月6日
モンゴルのザンダンシャタル外相は4日、モンゴルを訪問中の欧州安全保障協力機構(OSCE)のランベルト・ツァニエル事務総長らと会談した。OSCE加盟や今後の協力などについて意見交換を行い、会談後には共同記者会見を開いた。中国共産党の機関紙、人民日報が5日付で伝えた。
モンゴルは今年3月に北大西洋条約機構(NATO)のパートナーとなったばかり。年内にもOSCEの加盟国になると見込まれ、こうした動きは「第3の隣国」政策の具体的な現れだ、とアナリストは指摘する。
「第3の隣国」は、モンゴルの外交関係を論じる際、最も頻繁に登場する概念。モンゴル国家安全保障委員会・戦略問題研究所のゴンバット所長によると、具体的には米国、日本、韓国、インド、トルコ、欧州連合(EU)などを指すという。
▽モンゴル引き込みを図るOSCEとNATO 戦略的地位が狙い
2004年にOSCEのパートナーとなって8年を迎えた今年、モンゴルは正式加盟国になろうとしている。こうした急速な発展は双方のニーズと切り離せない。モンゴルの専門家は、モンゴルがOSCEとの距離を縮め、加盟に向けて動いている主な理由として以下の3点を挙げる。(1)「第3の隣国」を通じて国家の安全を保障する(2)多国間協力により経済発展を促進する(3)国際社会での評判を高める-----。
米国主導のOSCEとNATOがモンゴルを引き込もうとしている最大の理由は、中国とロシアの間に位置する戦略的地位にある、とアナリストは指摘する。モンゴルは中央アジアと北東アジアを結ぶ要所でもあり、対中牽制(けんせい)の意図は明らかだという。(編集YT)
http://j.people.com.cn/94474/7838226.html
●レコードチャイナ:かんしゃく持ちの中国には北極評議会入りは無理=ノルウェー... 配信日時:2012年6月7日 11時1分
2012年6月5日、米ラジオ局ボイス・オブ・アメリカ中国語サイトは記事「かんしゃく持ちの中国は北極評議会に入るべきではない=ノルウェーの疑念」を掲載した。
北極の氷が薄くなれば移動時間が大きく短縮される北極回り航路が開ける。また北極には全世界の埋蔵量の20%に相当する石油、天然ガスが眠っているとされ資源的にも魅力だ。北極への関心が高まる中、中国もまた北極における発言権を高めようとし、北極評議会へのオブザーバー参加を申請している。
中国の動きに神経をとがらせているのがノルウェーだ。2010年、中国の民主化活動家・劉暁波(リウ・シャオボー)がノーベル平和賞を受賞した際、中国は自由貿易協定(FTA)交渉のストップ、外交官への冷たい対応、ノルウェー産サーモンの輸入障壁など、報復措置を取った。
多国間の協調を旨とする北極評議会に中国はふさわしくないとの反対論も浮上している。北極評議会には透明性が担保された政治的対話が必要だとノルウェーのストーレ外相は説く。ノーベル平和賞問題でかんしゃくを起こし、不可解な報復措置を取った中国はその条件を満たしていないと示唆している。(翻訳・編集/KT)
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=61905&type=
●砂漠化する内モンゴル自治区の蒙古族のアイデンティティー - 国際情勢の分析と予測 2006年06月18日
【私のコメント】
来日している中国人留学生の中に五千人もの蒙古族が含まれていることは余り知られていない。蒙古族が中国の人口の0.44%に過ぎないことを考えると異常な高率である。中国の大学ではモンゴル語の部門の卒業生には就職口がないことが原因の一つらしい。来日した彼らはモンゴル国出身者、日本のモンゴル文化研究に触れてモンゴル人との自覚を取り戻し、その一部は中国では決して使わなかったモンゴル語の名を名乗る様になる。
中国国籍の蒙古族の方がモンゴル国出身者よりモンゴル文化に興味を示すという話は実に興味深い。辺境的立場だからこそアイデンティティを探し求めるという構図がそこにある。
日本で盛んな中国砂漠化防止植林運動も、主に内蒙古自治区のモンゴル族の多い地域で行われている。これらは内蒙古の中国からの分離独立を日本が支援する活動の一環と考えられる。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/28a0af0fca29537b6b7af9c244c67a63
【私のコメント】
モンゴルが欧州安全保障協力機構に年内にも正式加盟することになるという。既にモンゴルは欧州安全保障協力機構及び北大西洋条約機構にパートナーとして参加しているが、そこから更に欧州との軍事関係を深化させることになる。欧州本土から遠く離れたモンゴルがなぜ欧州安全保障協力機構の正式会員になれるのかというと、中国の脅威に対抗するためとしか考えられない。
ロシアを含む広義の欧州文明にとっての最大の脅威は儒教・イスラム連合であることは故サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」で1990年代で既に指摘している。ただ、イスラム文明もアラブ・イラン・トルコ・パキスタン・インドネシアと多様性に富む。周辺国を含む広義の儒教文明圏も中国・日本・朝鮮・モンゴル・チベット・ベトナム等多様性に富む。そして、イスラム・儒教文明の中で最大集団であり地理的にも隣接しているアラブと漢民族が最大の敵であることは間違いない。欧州は恐らく、アラブと対抗するためにトルコやイランと手を結び、漢民族に対抗するためにモンゴルや日本と手を組むことを検討しているのだと思われる。トルコ・カザフスタン・モンゴルは欧州文明とアラブ・漢民族との緩衝地域としての役割も期待できる。
司馬遼太郎賞を受賞した静岡大学人文学部の楊海英(ヤン ハイイン)教授の著書「墓標なき草原」と続編の「続・墓標なき草原」を最近読んだ。文化大革命の時期に内モンゴル自治区で漢民族によるモンゴル族の大虐殺が行われ、知識人階級がほとんど全員殺されたという事実を楊海英氏は丹念な現地取材と関係者への直接インタビューを通じて明らかにしている。冷静な文体が貫かれているが、この本からはモンゴル族の漢民族に対する激しい憎悪が伝わってくる。外国人でありながらこれほど見事な日本語を書く能力は驚嘆に値する。楊海英氏は間違いなくわずかに生き残ったモンゴル族知識人の一人であり、使命感に基づいて漢民族によるモンゴル族大虐殺という歴史的事件を調査して記録しているのだろう。
漢民族は混乱期には内部で壮絶な殺し合いを行うが、辺境部では一致団結して先住民族を虐殺する傾向があるのだと思われる。また、文化大革命の時期にはソ連はハザール系ユダヤ人が追放されて反国際金融資本勢力に寝返っており、毛沢東は親国際金融資本勢力として東アジアで孤立していた。ソ連の属国であり反国際金融資本であったモンゴル国との内通を漢民族が恐れたことが内モンゴル自治区でのモンゴル族虐殺に繋がったのだと思われる。文化大革命の時期には内モンゴル自治区が分割されその大部分が漢族支配の省に併合されていたことは、毛沢東らが如何に内モンゴル自治区のモンゴル族を恐れていたかを示している。
今後国際金融資本の世界支配が崩壊すれば、文化大革命時の中国での少数民族大虐殺が明るみに出ることになる。戦争時の便衣兵問題という南京大虐殺とは質的に異なる、民族消滅作戦である。そして、中国はその罰を受けてチベットやウイグルを分離独立させることになるだろう。内モンゴルは住民の大部分が漢民族になってしまっているが、漢民族の農耕が砂漠化の原因であることを考えると、漢民族を全員長城の南に移住させて内モンゴルをモンゴル族だけの国民国家にしてモンゴル国と統合するのが良いと思われる。
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司馬遼太郎賞に楊海英さんの「墓標なき草原」. 第14回司馬遼太郎賞(司馬遼太郎記念財団主催)は8日、静岡大教授の楊海英(ようかいえい)さん(46)の「墓標なき草原」(岩波書店刊)に決まった。 内モンゴル自治区における文化大革命の実態を独自の聞き取り調査や史料で明 らかにした点が評価された。副賞100万円。
<贈賞理由>
この作品の主題である反エスノセントリズムを、迫害された人間の叫びと歴史の 周到な取材に基づいて再現した日本語表現の迫真力を高く評価した。
<楊海英氏の略歴>
1964(昭和39)年、内モンゴル自治区オルドス生まれ。モンゴル名オーノス・チョクト。 北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。89年3月来日。国立民族学博物館総合研究大学院大学博士課程修了。文学博士。1997年〜1998年 : 中京女子大学 / 人文学部 / 助教授 ,1999年〜2001年 : 静岡大学 / 人文学部 / 助教授 ,2003年〜2007年 : 静岡大学 / 人文学部 / 助教授 ,2007年〜2008年 : 静岡大学 / 人文学部 / 教授 , 2010年 : 静岡大学 / 人文学部 / 教授 ,静岡大学人文学部助教授を経て現職。
http://www.hss.shizuoka.ac.jp/research/staffs/soci/yang.html
選考委員はドナルド・キーン、柳田邦男、養老孟司、松本健一、関川夏央氏の5氏です。
静岡大人文学部教授。文学博士。日本人女性と結婚し、00年、日本国籍取得。66年からの文化大革命期、モンゴル族が受けた民族虐待を証言や史料で明らかにした。文革は漢民族によるジェノサイドでモンゴル族の死者は5万人と言われている。
内モンゴルは日本の大陸政策の結果として出現し対日協力が民族虐殺の口実の一つにされた。受賞作は”墓標なき草原(上、下)”岩波書店。
司馬遼太郎賞に楊海英さんの「墓標なき草原」. 第14回司馬遼太郎賞(司馬遼太郎記念財団主催)は8日、静岡大教授の楊海英(ようかいえい)さん(46)の「墓標なき草原」(岩波書店刊)に決まった。 内モンゴル自治区における文化大革命の実態を独自の聞き取り調査や史料で明 らかにした点が評価された。副賞100万円。
<贈賞理由>
この作品の主題である反エスノセントリズムを、迫害された人間の叫びと歴史の 周到な取材に基づいて再現した日本語表現の迫真力を高く評価した。
<楊海英氏の略歴>
1964(昭和39)年、内モンゴル自治区オルドス生まれ。モンゴル名オーノス・チョクト。 北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。89年3月来日。国立民族学博物館総合研究大学院大学博士課程修了。文学博士。1997年〜1998年 : 中京女子大学 / 人文学部 / 助教授 ,1999年〜2001年 : 静岡大学 / 人文学部 / 助教授 ,2003年〜2007年 : 静岡大学 / 人文学部 / 助教授 ,2007年〜2008年 : 静岡大学 / 人文学部 / 教授 , 2010年 : 静岡大学 / 人文学部 / 教授 ,静岡大学人文学部助教授を経て現職。
http://www.hss.shizuoka.ac.jp/research/staffs/soci/yang.html
選考委員はドナルド・キーン、柳田邦男、養老孟司、松本健一、関川夏央氏の5氏です。
静岡大人文学部教授。文学博士。日本人女性と結婚し、00年、日本国籍取得。66年からの文化大革命期、モンゴル族が受けた民族虐待を証言や史料で明らかにした。文革は漢民族によるジェノサイドでモンゴル族の死者は5万人と言われている。
内モンゴルは日本の大陸政策の結果として出現し対日協力が民族虐殺の口実の一つにされた。受賞作は”墓標なき草原(上、下)”岩波書店。
「墓標なき草原」
―― 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録 ―― ■構成 全2巻 -- 楊 海英
文革の凄惨な階級闘争は少数民族地域には及ばなかったとされるが,事実は決してそうではない.文革時期に五人に一人が「民族分裂主義者」とみなされ,公式発表でも3万人近くが殺害された内モンゴルで,何があったのか.体験者への綿密な聞き取り, 同時代資料,国内外の研究を渉猟して明らかにした,隠蔽されたままの過去.
司馬遼太郎賞(しばりょうたろうしょう)は財団法人・司馬遼太郎記念財団が主催する文芸、学芸、ジャーナリズムを対象とした賞。以降年一回発表されている。受賞は選考委員の合議によって決定される。受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与される。また、第9回より小説・評論を対象とした著作に授与される。
http://www.lupm.org/japanese/pages/101222j.htm
●【書評】『続・墓標なき草原』楊海英著 - MSN産経ニュース 2011.12.18
モンゴル人大量殺戮の証言
本書は、昨年に第14回司馬遼太郎賞を受賞した『墓標なき草原』上下2巻の続編であり、3巻を合わせると約900ページに及ぶ大著である。
楊海英氏は、中国・内モンゴル自治区での文化大革命期のモンゴル人大量殺戮(ジェノサイド)を生き抜いた貴重な証人の生の声を真摯(しんし)に聞くとともに、文献資料と照らしあわせて検証し、想像を絶する被害の実態を明らかにした。また『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料』(風響社)を一昨年から毎年公刊し、計2700ページに及ぶ膨大な資料を提出している(全10巻予定)。私は漢民族の一人として、この残忍極まりない史実を知り、痛切な罪責感に打ちのめされたが、良知とは何かを深く考えなおす契機(モーメント)ともなった。
本書終章は、現在の中国でモンゴル人が「ネーション(民族)ではなく(「中華民族」内の)エスニック・グループである」などのレトリックによって、民族の精神的絶滅が推し進められている「文化的ジェノサイド」の実情を剔抉(てっけつ)する。史実の反省どころか、ますますジェノサイドが徹底化しているのである。
本書を読み、私はシンボルスカ(ポーランドの女性詩人、1996年ノーベル文学賞)の詩句「言葉は涙の底に落ちていった」を想起した。暴力に対して言葉は無力のように見えるが、しかし言葉は「死者を呼び戻」すこともできる。正続『墓標なき草原』の言葉一つ一つは虐殺された死者を甦(よみがえ)らせ、ジェノサイドを証言せしめている。
楊氏は悠揚と「『坂の上の雲』は確実にモンゴルの青空の上を美しく飛んでいます」と本書を結んでいる。読者は身体的・精神的ジェノサイドを凌駕(りょうが)する強靱(きょうじん)かつ明朗な精神に励まされ、残虐な暴力を乗り越え記憶のモニュメントを現代史に構築できるという確信を得られるだろう。
そして、その力強いメッセージは、読了して終わりというものではない。本書は人道に反する時効のない犯罪を裁くべく将来開かれる法廷の「序章」でもあるからだ。まさに、絶望的な暗闇に光を織りなし、読み継がれていくに足る歴史に残る良書である。(岩波書店・3360円)
評・劉燕子(作家、現代中国文学者)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/111218/bks11121807410011-n1.htm
●内モンゴル独立運動 - Wikipedia
満州国・蒙古聯合自治政府
1932年に清朝皇帝であった溥儀が関東軍の協力のもとで満州国を建国した。これにより内モンゴル東部は満州国となった。満洲国では清王朝以来続く満洲・モンゴルの友好血縁関係からモンゴル人は積極的に満州国皇帝に仕えた。1935年3月、ソビエトは内モンゴル東部(満州国内)に権益を持っていた北満鉄道を満州国に売却する。内モンゴルの中部ではデムチュクドンロブ(徳王)やユンデン・ワンチュク(雲王)などの王族によって自治要求運動がなされるようになり、1936年には自治を求める内モンゴル軍(ru)と中華民国軍とが全面衝突した(綏遠事件)。1939年、デムチュクドンロブは日本の支援を受けて蒙古聯合自治政府を樹立し内モンゴルにモンゴル人による自治政府が誕生した。満州国と蒙古聯合自治政府はそれぞれ独自の行政機関・軍事組織・通貨をもつなど中国本土とは完全に分離した政治経済体制であった。
1941年4月13日、日ソ中立条約がソビエトと日本の間で締結され、満州国(内モンゴル東部)とモンゴル人民共和国(外モンゴル)の領土保全と相互不可侵を約束した共同声明が出された[3]。ところが、1945年2月11日にソビエト・アメリカ合衆国・大英帝国はヤルタ会談を開き、満州を中華民国のものとし、北満鉄道・南満州鉄道をソビエト・中華民国共同のものとすることを取決め、外モンゴルのみをソビエト・中華民国の影響下とした上で現状維持とすることをモンゴル人・満州人の意志とは関係なく決定した[4]。
1945年8月9日に突如としてソビエト軍が満州国と内モンゴルに侵略してきたことによって満州国・蒙古自治邦政府(1941年に蒙古聯合自治政府から改称)は崩壊した(ソビエト参戦)。内モンゴル東部はソビエト軍の占領下におかれ、それを引き継いだ中国共産党の支配下に入った。内モンゴル中部は、ソビエト兵から難民を守るために根本博中将揮下の駐蒙軍が終戦日を過ぎた8月21日までソビエト軍の進撃を食い止めた後、中華民国軍に引き渡したことによって中華民国政府の支配下に入った。
中華人民共和国
1945年8月以降、中華民国政府と反政府勢力の中国共産党との間で国共内戦が起きた。国共内戦のさなかである1947年5月1日、中国共産党員のウランフは内モンゴルに内蒙古自治区を設置し、自分はその主席に就任した[5]。1949年に中華人民共和国が建国された後もウランフは主席として君臨していたが、1966年7月12日に小平がウランフを「分裂主義者」であるとして失脚させると中国政府は内モンゴル人民革命党粛清事件と呼ばれるモンゴル人への大粛清を行った。これにより数十万人が粛清された[5][6]。さらに中国共産党は漢民族数千万人を内モンゴルに移入させることによってモンゴル人の割合を人口の20%余りにした。これによりモンゴル人は内モンゴル自治区における少数民族になり[1][7]、漢民族は人口の80%を占めるにいたった[7]。このような漢民族による移入政策は古くから行われている。古くは苗族が先住していた揚子江以南への移入によって苗族を西南部の山間部に追いやっており、現在はチベットや東トルキスタンでも行われている[8]。
1989年の天安門事件以降、内モンゴル独立運動も再び活発になり、1995年に内モンゴルではハダ等によって中国からの独立を目指す南モンゴル民主連盟が設立された[9]。しかし1995年12月10日、代表のハダと連盟員は中国政府によって逮捕され、ハダはスパイ、国家分裂主義者として刑務所に送られた[10][11]。このため、これ以降のモンゴル人は国内よりも海外で活動を積極化させていった。1997年には内モンゴル人民党がアメリカ合衆国で設立し、2006年にはモンゴル自由連盟党が日本で設立された。同時に南モンゴル人権情報センターはメディアに南モンゴルの人権情報を発信している[7]。内モンゴル人民党やモンゴル自由連盟党はヨーロッパにも支部を設置するなどしてヨーロッパ人とともに中国政府による人権抑圧への抗議活動を行っている[6]。独立を目指す団体は共同して抗議活動や声明文を出すなど協力関係を保っている[10][6]。
2010年には内モンゴル人民革命党粛清事件における民族浄化を描いた楊海英静岡大学教授の『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』が司馬遼太郎賞を受賞した[12]。 2010年12月10日のハダの刑期満了日以降、ハダとその家族が行方不明となっており、アムネスティ・インターナショナル日本などから中国政府に対する非難が上がっている[13]。このハダ失踪事件が国際的に報道されたことでチベットや東トルキスタン同様に内モンゴルの人権問題に注目が集まっている[7][14][15][9]。
現在、内モンゴルは東トルキスタン・チベットと並んで中国におけるレアメタル等の鉱物資源の主要産地となっていることや中国政府による漢民族移入政策によって、中国からの独立を図ることが困難になりつつある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95
●モンゴル、OSCE加盟へ 「第3の隣国」と距離縮める 「人民網日本語版」2012年6月6日
モンゴルのザンダンシャタル外相は4日、モンゴルを訪問中の欧州安全保障協力機構(OSCE)のランベルト・ツァニエル事務総長らと会談した。OSCE加盟や今後の協力などについて意見交換を行い、会談後には共同記者会見を開いた。中国共産党の機関紙、人民日報が5日付で伝えた。
モンゴルは今年3月に北大西洋条約機構(NATO)のパートナーとなったばかり。年内にもOSCEの加盟国になると見込まれ、こうした動きは「第3の隣国」政策の具体的な現れだ、とアナリストは指摘する。
「第3の隣国」は、モンゴルの外交関係を論じる際、最も頻繁に登場する概念。モンゴル国家安全保障委員会・戦略問題研究所のゴンバット所長によると、具体的には米国、日本、韓国、インド、トルコ、欧州連合(EU)などを指すという。
▽モンゴル引き込みを図るOSCEとNATO 戦略的地位が狙い
2004年にOSCEのパートナーとなって8年を迎えた今年、モンゴルは正式加盟国になろうとしている。こうした急速な発展は双方のニーズと切り離せない。モンゴルの専門家は、モンゴルがOSCEとの距離を縮め、加盟に向けて動いている主な理由として以下の3点を挙げる。(1)「第3の隣国」を通じて国家の安全を保障する(2)多国間協力により経済発展を促進する(3)国際社会での評判を高める-----。
米国主導のOSCEとNATOがモンゴルを引き込もうとしている最大の理由は、中国とロシアの間に位置する戦略的地位にある、とアナリストは指摘する。モンゴルは中央アジアと北東アジアを結ぶ要所でもあり、対中牽制(けんせい)の意図は明らかだという。(編集YT)
http://j.people.com.cn/94474/7838226.html
●レコードチャイナ:かんしゃく持ちの中国には北極評議会入りは無理=ノルウェー... 配信日時:2012年6月7日 11時1分
2012年6月5日、米ラジオ局ボイス・オブ・アメリカ中国語サイトは記事「かんしゃく持ちの中国は北極評議会に入るべきではない=ノルウェーの疑念」を掲載した。
北極の氷が薄くなれば移動時間が大きく短縮される北極回り航路が開ける。また北極には全世界の埋蔵量の20%に相当する石油、天然ガスが眠っているとされ資源的にも魅力だ。北極への関心が高まる中、中国もまた北極における発言権を高めようとし、北極評議会へのオブザーバー参加を申請している。
中国の動きに神経をとがらせているのがノルウェーだ。2010年、中国の民主化活動家・劉暁波(リウ・シャオボー)がノーベル平和賞を受賞した際、中国は自由貿易協定(FTA)交渉のストップ、外交官への冷たい対応、ノルウェー産サーモンの輸入障壁など、報復措置を取った。
多国間の協調を旨とする北極評議会に中国はふさわしくないとの反対論も浮上している。北極評議会には透明性が担保された政治的対話が必要だとノルウェーのストーレ外相は説く。ノーベル平和賞問題でかんしゃくを起こし、不可解な報復措置を取った中国はその条件を満たしていないと示唆している。(翻訳・編集/KT)
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=61905&type=
●砂漠化する内モンゴル自治区の蒙古族のアイデンティティー - 国際情勢の分析と予測 2006年06月18日
【私のコメント】
来日している中国人留学生の中に五千人もの蒙古族が含まれていることは余り知られていない。蒙古族が中国の人口の0.44%に過ぎないことを考えると異常な高率である。中国の大学ではモンゴル語の部門の卒業生には就職口がないことが原因の一つらしい。来日した彼らはモンゴル国出身者、日本のモンゴル文化研究に触れてモンゴル人との自覚を取り戻し、その一部は中国では決して使わなかったモンゴル語の名を名乗る様になる。
中国国籍の蒙古族の方がモンゴル国出身者よりモンゴル文化に興味を示すという話は実に興味深い。辺境的立場だからこそアイデンティティを探し求めるという構図がそこにある。
日本で盛んな中国砂漠化防止植林運動も、主に内蒙古自治区のモンゴル族の多い地域で行われている。これらは内蒙古の中国からの分離独立を日本が支援する活動の一環と考えられる。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/28a0af0fca29537b6b7af9c244c67a63
【私のコメント】
モンゴルが欧州安全保障協力機構に年内にも正式加盟することになるという。既にモンゴルは欧州安全保障協力機構及び北大西洋条約機構にパートナーとして参加しているが、そこから更に欧州との軍事関係を深化させることになる。欧州本土から遠く離れたモンゴルがなぜ欧州安全保障協力機構の正式会員になれるのかというと、中国の脅威に対抗するためとしか考えられない。
ロシアを含む広義の欧州文明にとっての最大の脅威は儒教・イスラム連合であることは故サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」で1990年代で既に指摘している。ただ、イスラム文明もアラブ・イラン・トルコ・パキスタン・インドネシアと多様性に富む。周辺国を含む広義の儒教文明圏も中国・日本・朝鮮・モンゴル・チベット・ベトナム等多様性に富む。そして、イスラム・儒教文明の中で最大集団であり地理的にも隣接しているアラブと漢民族が最大の敵であることは間違いない。欧州は恐らく、アラブと対抗するためにトルコやイランと手を結び、漢民族に対抗するためにモンゴルや日本と手を組むことを検討しているのだと思われる。トルコ・カザフスタン・モンゴルは欧州文明とアラブ・漢民族との緩衝地域としての役割も期待できる。
司馬遼太郎賞を受賞した静岡大学人文学部の楊海英(ヤン ハイイン)教授の著書「墓標なき草原」と続編の「続・墓標なき草原」を最近読んだ。文化大革命の時期に内モンゴル自治区で漢民族によるモンゴル族の大虐殺が行われ、知識人階級がほとんど全員殺されたという事実を楊海英氏は丹念な現地取材と関係者への直接インタビューを通じて明らかにしている。冷静な文体が貫かれているが、この本からはモンゴル族の漢民族に対する激しい憎悪が伝わってくる。外国人でありながらこれほど見事な日本語を書く能力は驚嘆に値する。楊海英氏は間違いなくわずかに生き残ったモンゴル族知識人の一人であり、使命感に基づいて漢民族によるモンゴル族大虐殺という歴史的事件を調査して記録しているのだろう。
漢民族は混乱期には内部で壮絶な殺し合いを行うが、辺境部では一致団結して先住民族を虐殺する傾向があるのだと思われる。また、文化大革命の時期にはソ連はハザール系ユダヤ人が追放されて反国際金融資本勢力に寝返っており、毛沢東は親国際金融資本勢力として東アジアで孤立していた。ソ連の属国であり反国際金融資本であったモンゴル国との内通を漢民族が恐れたことが内モンゴル自治区でのモンゴル族虐殺に繋がったのだと思われる。文化大革命の時期には内モンゴル自治区が分割されその大部分が漢族支配の省に併合されていたことは、毛沢東らが如何に内モンゴル自治区のモンゴル族を恐れていたかを示している。
今後国際金融資本の世界支配が崩壊すれば、文化大革命時の中国での少数民族大虐殺が明るみに出ることになる。戦争時の便衣兵問題という南京大虐殺とは質的に異なる、民族消滅作戦である。そして、中国はその罰を受けてチベットやウイグルを分離独立させることになるだろう。内モンゴルは住民の大部分が漢民族になってしまっているが、漢民族の農耕が砂漠化の原因であることを考えると、漢民族を全員長城の南に移住させて内モンゴルをモンゴル族だけの国民国家にしてモンゴル国と統合するのが良いと思われる。
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本当にそう思うよ。
吐き気がする。
正式なパートナー国と云う事では無くて。
ウズベク・カザフ等、アジアの旧ソ連構成国が入っているので、おかしくないと言えばそうですが。
日本も同様。日本における親中は決して親中ではない。
新帝国主義の時代に旧帝国主義の枠組みで新自由主義的に判断するのはやめたほうがいい。
主の分析能力は非常に優秀なので目を覚ましてほしい。
カタール先制ゴール
これで韓国滅亡だぁ
意味不明ですね。
「新帝国主義」「旧帝国主義」「新自由主義的」という一般的に評価が定まっていない言葉について厳密な定義と分析をしてから出直されるべきです。