国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

耽羅(たんら)国の再興

2012年10月24日 | 済州島
●耽羅 - Wikipedia

耽羅(たんら, 朝鮮語: 탐라)は朝鮮の済州島に古代から中世にかけて存在した王国である。百済、統一新羅、高麗に内属し、15世紀初め李氏朝鮮に完全併合された。耽牟羅、屯羅[1]などとも表記される。

目次
1 歴史
2 略年表
3 脚注
4 関連項目
5 参考文献と外部リンク


[編集] 歴史 耽羅の起源については太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする三姓穴の伝説[2]もあるが、歴史的な記録としては3世紀の中国の史書『三国志』魏志東夷伝に見える州胡[3]が初見であり、韓族とは言語系統を異なるものとするのが通説である(これには異説もある)。

『三国史記』では耽羅が476年に百済の文周王に朝貢し[4]、498年に百済の東城王に服属した[5]とあるように、498年以後は百済に朝貢していた。しかし660年百済が唐・新羅連合軍の侵攻によって突如滅亡すると、耽羅は大混乱に陥った。662年には新羅に服属したとみられる[6]が、このとき唐から帰国する日本の遣唐使船がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅はしばらく日本に朝貢を送り続けたという記録が『日本書紀』にある。また、継体天皇二年(五〇八)『南海中耽羅人初通百済国』とあり、日本書紀では、百済と初めて通じたのが508年と記録されている。

当時の記録によれば、耽羅には既にピョル主(ピョルチュ、별주)または星主(ソンジュ、성주)、王子(ワンジャ、왕자)または星子(ソンジャ、성자)、徒内(トネ、도내)と呼ばれる支配者が存在していた。これらの称号は新羅文武王が与えたとする文献もある。いずれにせよ、耽羅支配者のこのような称号は後世まで続いた。耽羅星主が筆頭格で、これを王とする。

935年に新羅が滅亡すると、耽羅はしばらく独立したが、938年には高麗に服属した。高麗は1105年に耽羅郡を設置し、1121年には済州と改称したが、星主、王子など旧来の支配者の称号は認めていた。元は高麗を制圧すると1274年に耽羅を直轄地にして牧場を置いたが、1294年に高麗に返した。

高麗に代わった李氏朝鮮は、1404年に星主、王子などの伝統ある称号を廃止し、1416年には済州牧使の下に県も設置した。これより内地(韓国では陸地という)と同様の地方支配体制となった。

[編集] 略年表なお、ここの月は旧暦表示である。

476年4月 百済の文周王に朝貢した(『三国史記』)。
498年9月 百済の東城王に服属した(『三国史記』)。
508年12月 南海中の耽羅人が初めて百済国と通じた(『日本書紀』)[7]。
梁職貢図に百済の附庸国で下枕羅
660年6月 百済滅亡
661年5月 王子の阿波伎らを派遣して日本に対して初めて朝貢を行った[8]。
662年2月 新羅の文武王に来降し、これ以後は新羅の属国となった(『三国史記』)。
665年8月 日本へ使者を送って来朝した[9]。
666年1月 王子の姑如らを日本に派遣して朝貢した[10]。
667年7月 佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した[11]。
669年3月 王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した。日本は耽羅王に五穀の種を賜い、その上で耽羅の王子らは帰国した[12]。
673年5月 王子の久麻藝や都羅、宇麻らを送って日本に朝貢した[13]。
673年8月 天武天皇即位にあたり耽羅王と王子の久麻藝らに大乙上の冠位を賜る。
675年9月 王子の久麻伎が入貢し筑紫に宿泊する。
675年9月 耽羅王姑如が難波に来朝する。
676年2月 天武天皇が耽羅の使者に船一艘を賜る。
677年8月 王子の都羅らを日本に送って朝貢した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%BD%E7%BE%85





●三姓穴(サンソンヒョル):済州島.com[saisyuutou.com]
 
国家指定文化財史跡第134号に指定されている三姓穴(サンソンヒョル)は太古にタンラ(済州道の古名)を創建した高(ゴ)氏、良(ヤン)氏、夫(ブ)氏の三神が湧出したと伝えられる場所である。古記(高麗史など)によれば、三神人は狩猟生活をしながら捕らえた獲物を皮衣肉食として暮らしていたが、東海の碧浪国から五穀の種子と六畜を持って来た三人の姫と婚礼をした後、各々が生活の拠点として都を定めた。この済州を第1徒(済州)、第2徒(大静)、第3徒(旌義)の3つに分割し、部族国家を建て産業を起こし繁栄したと言う。この三神人が出た穴は品の字の形をしているため、この穴の中には雨水や雪が入り込まない。また、周辺の木が穴の方を向いている姿がまるで三神人にお辞儀をしているように見え、ここを探す人々にとっては驚異的な存在となっている。ここには樹齢5百年余の老松と楠、百日紅などがうっそうと生い茂り、都心の中に森を演出しているようである。
http://www.saisyuutou.com/tour/samsung/samsung.htm





●【耽羅民族(済州島民)】 わしらは韓国人ではない ~独立を目指し大虐殺された悲劇の民族 | 速報☆東亜政経 (`・ω・´)

「わしらは韓国人であって韓国人じゃないのよ。 わしらはチェジュの人間よ。 今は韓国人、昔は日本人(併合時代)やったけど、チェジュの人間やで」
by元チェジュ独立運動関係者

済州島の歴史

チェジュは歴史的には李氏朝鮮に完全征服されるまでは耽羅王国っていう一つの独立国 基本的にチェジュ島民は朝鮮人と比べて厳しい自然環境を克服するため協同精神が発達しており、 半島民の気性の激しさとは対照的に性格も温和で純朴だと言われる。(wikiより)

そして李氏朝鮮時代になると高麗時代の政府の王族貴族の流刑地となり その後は政敵と見なされた両班や官僚が流される政治犯流刑場となっていた。 (白丁が流されたというのは誤解。正しくは流刑になった両班が白丁と同一視された。)

そして、戦後に起こったのがチェジュ4・3事件
韓国政府が成立しかけた1948年頃から「チェジュ島で共産主義ゲリラが発生した」として、 国軍&右翼団体&アメリカ軍が大挙介入し、現地住民を虐殺しまくった。 現地のお年寄りによると、チェジュ島が韓国領土に正式に組み込まれる前に耽羅国を再建するのだと、 チェジュ独立運動派が立ち上がったらしい。(共産ゲリラは口実で実際は運動鎮圧のため) 事件の結果、10年かけて8万人ほどが虐殺され、一部が日本に逃亡した。

事件から逃れて日本に密航した済州島出身の在日韓国人は、 その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めている(wiki)
http://touaseikei.matomesakura.com/?eid=404






●解放直後・在日済州島出身者の生活史調査 -高蘭姫さんへのインタビュー-

8親等のいとこにあたる第19代済州市長の高玟洙(コ・ミンス)が王位殿の建設事業への募金を募っていたという情報あり。

*18 高氏王位殿. 済州市我羅一洞の墓域一帯約5,300坪の敷地に建立された耽羅国高氏宗廟内の建物の一つ。高氏中央宗門会と高氏宗門会総本部が,祖先を祀り ,「王家」の伝統を受け継ぐ事業. として,済州道内外の高氏一族からの献金により2002 年11月に着工、2004年4月に竣工した。両団体によれば、済州島の神話で始祖神とされる高乙那・良(梁)乙那・夫乙那の三神人のうち最も優勢だった高乙那が、4300年前に耽羅国を建国し、高氏が45代3275年間にわたって耽羅王国を統治したという。王位殿には高乙那から子堅王まで45位の耽羅国王の位牌が奉安されている。
http://journal.osaka-sandai.ac.jp/pdf/0809jin-125-147.pdf






●〈生涯現役〉 11時間の心臓手術に耐え抜いた-高蘭姫さん

学ぶ以上に大切なものはない

 九死に一生を得る、とはこんな体験を言うのか。今年2月4日朝8時30分。いつものように、隣の喫茶店でモーニングを食べている時、急に倒れて意識不明に。持病の心臓の回廊が破れるという絶体絶命の事態に突然見舞われてしまったのだ。

 「医者には、次倒れると危ないから、人工バイパス手術を受けるように何度も宣告されていたが、80歳近くもなって、手術は金輪際、いやだと逃げていた」

 しかし、この人は類まれな幸運の持ち主。まず、この日が土曜で在宅中の長男が救急車をすぐ手配し、近所の医師が適切な応急措置を取ってくれたこと、かかりつけの病院に搬送され、主治医がカルテを持って救急車に同乗、専門病院で緊急手術を受けられるように付き添ってくれた。こうした幸運が重なり、2回、11時間にわたる大手術、11リットルにおよぶ輸血に耐え、「奇跡的に命拾い」したのだった。しかも、家族が心配した後遺症も何一つなく、2カ月後に元気に退院した。

4.3事件を体験

 1930年、神戸生まれ。父は済州島から徴用されてきた。苦しい家計の中から高さんを高等女学校まで出してくれた優しい父だった。

 祖国解放を迎えたのは15歳のときだった。間もなく父と一緒に帰郷。少女にとって、洋々たる未来が待ち受けているかのような高揚感があった。しかし、それから3年後、朝鮮近代史の中でも最も凄惨な血塗られた事件が平和の島で起きた。米軍による祖国分断固定化を目の前にして済州島民が一斉蜂起した4.3事件。米軍の指揮の下、軍警、西北青年団による過酷な焦土化作戦によって、3万人以上の島民が虐殺されたのだ。

 高さんの家族も例外ではなかった。民族主義者でもあった父はパルチザン活動に協力したが、密告によって捕まり、拷問のすえ銃殺された。「家族に知らせが来たのは、死後1カ月が経ってから。母が遺体を引き取りにいくと、すでに朽ち果てて…」。弟も生きたまま井戸に放り込まれて殺された。高さんの友人の少女も見せしめのため、市庁の前ではりつけの刑を受け、虐殺された。高さん自身も、パルチザンに協力して、秘密文書を夜陰に乗じて運んだりしたという。

 「捕まれば、もうそれで一巻の終わり」。家族、親せき、知人、あらゆる人々が理不尽に命を奪われていった虐殺の時代を必死に生き延びた高さんだった。捕まる直前、父の機転によって、娘は命からがら大阪へ。

 それから2年、済州島出身の8歳年上の青年と出会い、結婚。のちに大阪経済法科大教授、科協大阪支部会長となった故文道平氏である。「夫も4.3事件で父と弟3人が殺されて天涯孤独の身。互いに似たような境遇なので、友人が勧めてくれた」。

一家に3人の博士




高氏宗廟王位殿懸板除幕式のもよう(03年4月9日)

 大阪・西成の小さな部屋で新婚生活がスタートした。夫は中大阪朝鮮学校の教員だった。もちろん、一銭のお金も夫に期待してはいけない時代だった。2男5女の子宝に恵まれたが、生活のすべては高さんが賄った。

 「洋服のまとめやボタン付けの仕事を小さな子どもと一緒に家族でこなした。一日100枚以上の洋服の注文があり、寝る間もなかった」。製品を子どもたちが配達して、家事も子どもたちが担った。かまどの薪を拾いに歩く子、はっぱを拾いに歩く子。親も子も生きるのに必死だった。

 貧しいが充実した毎日。その間、高さんは朝鮮学校の給食作りにも精を出した。バイタリティあふれる一家は5年後には、2階建ての家を建てた。そんな時だ、夫からこんな申し入れがあったのは。

 「わし、40歳になったやろ。この家売って、わしを学者にしてや」。肝っ玉母さんの返事は迷いなく一言、「ええで」。夫は大阪大学の研究員として学究生活に戻り、50歳で工学博士に。その後大学に職を得る。「やっと、経済的に楽になると思いきや、今度は科協の仕事に精を出して」。

 その間、女性同盟生野南支部副委員長としてバリバリ活動し、7人の子ども全員を朝大に進ませ、孫14人がウリハッキョに通う。「何よりの私の自慢は、長男も父のあとを継いで有機化学の博士号を取得、結婚したそのつれあいも阪大のドクターコースを出て、理学博士になったこと」だと語る。植民地時代の悲惨な時代を体験した身にとって、祖国の統一と繁栄のためには、「学ぶこと以上に大事なことはない」と肌身に染みている。

 今、高さんが余生を捧げようとしているのは、故郷済州島に耽羅の国の始祖王・高乙那の宗廟を建立することだ。「今年は6.15から6年。こんな時代が来るとは予想もしていなかった。4.3事件のおびただしい犠牲者たちが夢にまで見た民族の統一はもう目前。これからは、豊かな文化と歴史を甦らせるこうした文化事業が大切だと思う」と語る。(朴日粉記者) 
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2006/06/0606j0722-00006.htm






●日本における済州島史についての研究動向(16世紀以前) 高橋公明

4 1105年以後
政治史的には、1105年の高麗の耽羅郡設置により耽羅王朝は終わりを告げる。しかしながら、それ以降もこの地域には独自の動きが確認できる。
村井章介は三別抄の乱を総括的に検討し、モンゴルの膨張という大きな歴史的変動という文脈なかでこの乱を位置づけようとした(1982年)。ここで注目したいのは、三別抄の敗北に至るまでの三別抄の根拠地の移動である。まず1270年に江華島を離れ、千隻以上の船で朝鮮半島西岸を南下し、珍島を根拠地と定めた。ついで1271年、蒙古・高麗連合軍に攻略されると済州島に逃れた。以上の経緯は三別抄の乱が海上勢力によって支援されているということを示している。さらに最後に済州島に逃れ、そこで受け入れられたということは、逆にこの島が高麗との一体感を強くもっていなかったことを示すものであろう。
高橋公明は、三別抄の乱が鎮圧された以後も、モンゴルによる済州島の直轄管理とか、元の衰退後のモンゴル系の人々による反乱などによって示されるように、高麗は済州島を十分に支配下に置くことはできなかったことを強調した(2001年)。
藤田明良は、朝鮮で編纂された明の公文書集『吏文』のなかから、海域世界の研究にとってきわめて興味深い記述を発見した(1997年)。時期はまさに元明交替期、すなわち倭寇が活発化する時期である。
1368年、朱元璋は即位して明の初代皇帝となると明軍を浙江省に派遣し、海上交通の掌握を試みる。この動きに対し、舟山列島を根拠地とする海上勢力、すなわち船を持ち海外とも交易する能力のある人々が蜂起し、200隻余りが明軍の立てこもる明州府城を攻撃した。最終的に、この蜂起は明軍によって制圧される。この蜂起の背景には、海上勢力をも管理下に置こうとする明政府の方針に、この海域で比較的自由に交易をしていた人々の強い反発があったのではないだろうか。藤田はこの蜂起を蘭秀山の乱と名づけた。史料のなかで、この勢力を「蘭秀山賊」などとしているからである。おそらく、この反乱の中心人物が舟山列島のひとつの島、蘭秀山島を根拠地としていたからだと藤田は推測し
ている。いうまでもないが、蘭秀山島の勢力だけではなく、舟山列島各地の海上勢力がこの戦いに参加していた。この反乱の鎮圧によって事件は決着したわけではない。
のちに逮捕された舟山列島の人たちは、そのあと「耽羅」に逃げて「海菜」(ワカメ)を買い集め、そこから高麗に向かう。2年後の1370年、明からの通報で高麗政府も蘭秀山の乱の参加者を捜索し、その結果、妻子とあわせ100余人が逮捕され、彼らの資産とともに明に送還されている。
ここで注目したいのは、舟山列島の海上勢力が、戦いに敗れたのち、済州島に立ち寄って、海藻を手に入れることができたり、全羅道を拠点とする浙江出身の海上勢力がいたり、さらには高伯一という済州島出身の可能性のある人物が反乱勢力に加わっていたことである。この記述から推定できることは、海を越えて人々が交易などを通じて関わりあっていることである。そして二年もの間、乱の参加者である外国人が活動できるということは、海上勢力のネットワークを公権力が掌握していなかったことも示している。倭寇という現象は、まさにこのような時期に発生しているのである。
田中健夫は倭寇の構成を検討し、民族的にも地域的にも多様であると推論した(1987年)。その検討のなかで、「倭寇活動と済州島の関係を直接実証する史料はとぼしいが、その存在は充分注目に値する」と述べるとともに、耽羅の歴史を概観し、「済州島が完全に朝鮮王朝の領域に入るのは世宗朝以後」と位置づけている。また、1277年以降、元がこの島を直轄して牧場とした史実に注目し、倭寇集団の大量の馬匹は、済州から供給されたものではないかと推定し、1482年の「成宗実録」(『朝鮮王朝実録』)の記事に済州の人々が沿海地域に自由に出入りし、倭人の言語・衣服を模倣して海賊を行なうとあることから、「済州島民は朝鮮王朝に対する帰属意識が薄かっただけでなく、倭寇そのものであった」可能性を示唆した。
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/8993/1/12309009-231.pdf/2012/09/26/2012092600758.html






●ヤン教授の北朝鮮情報

2009/04/10(金) 何でも知っている 和田アキ子.
「北朝鮮と日本は,“世襲国家" という意味では ソックリ だ!」
と,ヤン教授は,ギクリ! とすることを言う.
…だから,飯山さん,北朝鮮も,金正日の息子達が “跡継ぎ” になる.ただし,困ったことに金正日の息子達は,全員,大変な “親日派” (チニルバ) なのだ.
なにしろ,彼らのお母さん(オモニ)は,大阪育ちの裕福な在日だったのだから.オモニの名前は,高英姫(コヨンヒ).
あ,高英姫は,和田アキ子の幼なじみというか,和田アキ子には随分と可愛がられたらしい.
当時の和田アキ子は,金海福子という名前で,実家は,大阪・鶴橋の 『金海道場』 という格闘技の修行道場だった.
この 『金海道場』 で,高英姫の父親,大同山又道というプロレスラーが修行していた.
大同山は,近所の 『金海道場』 に練習に行くとき,娘の高英姫をよく連れていった.
父親が練習している間,高英姫は,和田アキ子に遊んでもらっていた.
この少女時代の甘く楽しい想い出を胸に,高英姫は父親とともに北朝鮮に渡る….
このとき,高英姫は9才,和田アキ子は12才になっていた.

TOP
◆2009/04/11(土) 大阪の街を自由に歩く 金正日.
「北朝鮮に渡った高英姫父子の “出世物語”.あれは金正日の自作自演だ.」
と言うヤン教授の口調は断定的だ.

…飯山さん,金正日 (ユーリ・イルセノビッチ・キム) は,朝鮮族系のロシア人だ.
満州族の血も入っている.…このへんの情報には,済州島人は詳しい.
ようするに,金正日は朝鮮人ではない,朝鮮族でもない,満州族でもない.ロシア人でもない.つまり,金正日は,根無し草なのだ.
いっぽう…,
高英姫の父親,プロレスラーの大同山又道.彼の本名は高泰文 (コ・テムン).
済州島最高位の超名門,“高氏” の出だ.
「済州島の始祖は地中から湧き出てきた “高氏・梁氏・夫氏” という三氏である.」
これが済州島に伝わる 『三姓神話』 だ.
プロレスラー・大同山又道は,この“高氏” につながる名門の出だったので,北朝鮮でも大出世できた.と,多くの済州島人は思っている.そのとおりだろう.
.
大同山又道(高泰文)・高英姫の “高貴な血筋” を,金正日に教えたのは力道山だ.
力道山は,北朝鮮には多大な貢献(大金を送金)しており,金正日の “お忍び来日” の際の諸経費も力道山がもっていた.
金正日の “お忍び来日” は数多いが,金正男のように捕まるようなヘマはしなかった.
というよりも,当時の日本は “ノーズロ” (飯山さん,私,凄い日本語知ってるだろ?)
状態で,三国人だろうが,密航者だろうが,入出国自由,“開放” されていた. (笑)
そういうわけで,金正日も,たびたび来日しては,大阪の街を自由に歩いていた.
大阪の街で,和田アキ子と金正日が会ったことがあるかどうか?
これはないと思うが…,
大阪の街で“済州島と北朝鮮の秘密の関係” を知ったことは,確かなようだ.

いったい, “済州島と北朝鮮の秘密の関係” とは,どんな関係なのか?
TOP
◆2009/04/12(日) 北朝鮮に大量の物資を送るアメリカと済州島.

済州産みかんと人参が北へ
北朝鮮に送る済州産みかんと人参を船積する港湾労組員と(社)南北協力済州島民連動本部 (2009年1月16日午後,済州港第4埠頭で.)「北朝鮮は,済州島から良く見える!」 …これは,ヤン教授独特の言い回しだ.北朝鮮の情報が,済州島にはどんどん入ってくる,とヤン教授は言いたいのだろう.
…飯山さん,昔,日本にも“泥棒に追い銭,乞食に追い飯” という諺があったでしょ?
この諺を済州島は千年以上も実践してきた.
「憎むな! 施せ!」 …これが済州島人の生き方だ.北朝鮮にたいしても同じ.済州島から北朝鮮に何千トンもの野菜や果物を船積みしている写真を見てほしい.これは,貿易ではなく,民間交流を促進しよう! という民間の非営利運働だ.
アメリカは昨年末,50万トンもの食糧を北朝鮮に送っているが,これには “不純な動機” が感じられる.
日本は,偏向したマスコミ報道によって,北朝鮮を激しく憎悪する社会になってしまったが,アメリカや中国の“思う壺”だ.
北朝鮮は,冷戦時代から “危険な無法者国家” として国際社会から徹底的に排除されてきた.あれだけイジメられれば性格もゆがむし,時には犯罪も犯す….こういう北朝鮮を可哀相だと思う心情は,日本人には分からないだろう.
TOP
◆2009/04/13(月) 北朝鮮に流れはじめた 古代・百済国の “血”.
 「北朝鮮,済州島,日本.この三者には同じ血が流れている.先祖も共通だ.」
と,ヤン教授は,日本人には知られていない驚きの歴史を端的に話し始めた.
…飯山さん.あなたが 『飯山一郎の古代史』 に書いたように,百済国は,北朝鮮から遼東,遼西にかけた広大な地域が版図であった.
百済国の滅亡後,その王族・貴族は済州島を経て日本列島に逃亡してきた.
この王族の一人「大海人皇子」が,やがて「天武天皇」となられ日本国を建国した.
済州島は,古代,「耽羅国」(日本書紀)といい,百済の属国だった.
済州島の 『三姓神話』 の “高氏・梁氏・夫氏” は,百済の王族だった.
このことは,鳥越憲三郎博士が『古代朝鮮と倭族』で克明にしておられる.

金正日は,済州島の貴族の娘・高英姫を執拗に口説き,“側室” に迎え,やがて…,金正哲が誕生する. すなわち! ここに…,
北朝鮮の “金王朝” には,古代・百済国の王族の “血” が注入されたのである.
http://grnba.com/iiyama/proyan.html





●「金正恩の祖父、日本へ渡る前は済州の官職」 2012年02月10日17時43分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)労働党中央軍事委員会副委員長の祖父は済州道(チェジュド)で官職だった済州高氏31世孫と把握された。

米国自由アジア放送(RFA)は、済州高氏霊谷公派の族譜を調べた結果、金正恩の祖父・高京沢(コ・ギョンテク)は済州高氏霊谷公派中始祖31世孫と確認されたと9日、伝えた。 高京沢は金正恩の生母・高英姫(コ・ヨンヒ)の父。 高京沢は1929年に日本に渡るまで、済州市朝天邑(チョチョンウプ)に住んでいたと推定される。

高京沢は日本に渡り、1952年6月26日に娘の高英姫が生まれた。 その後、家族は1962年10月21日、第99次「帰還船」に乗って北朝鮮に渡ったという。

金正恩の祖父の高京沢の家庭は、当時の済州道の貧しい生活水準に比べて余裕があったみられる。 高京沢の父・高永玉(コ・ヨンオク)が「従仕郎」という官職だったと族譜に記録されているからだ。

済州高氏霊谷公派宗門会のコ・シホン会長はRFAとのインタビューで、「高京沢の兄弟の中に朝天面長を務めた人がいて、当時、高永玉は従仕郎だった。最近でいえば主事級だが、当時は日帝時代だったため高い職責と見るべきだ」とし 「当時の生活水準を今とは比較できないが、中級程度にはなったはず」と説明した。
http://japanese.joins.com/article/184/148184.html











【私のコメント】

最近忙しい仕事の合間を縫って南朝鮮の済州島を訪問した。

建国神話の場所である三姓穴では、済州島の3神人が東方にあるとされる碧浪国からの3人の女性を妻として迎えたとの説明があった。これは明らかに耽羅(たんら)の建国に日本(当時は倭国)が深く関与していることを示している。

三姓穴では5月10日と10月10日に春秋大祭の儀式が施行されるが、この儀式には三姓の中で最も有力であり耽羅の王族であった高氏一族の代表が主催しているという。また、12月10日の乾始大祭の儀式は済州道知事と地元有志が行うらしい。春秋大祭を主催する高氏一族の代表は、済州島が独立したときに耽羅国の君主(伝統的な呼称は星主・王子)になるべき人物であろう。2004年に竣工した高氏王位殿は、耽羅国の再建計画が着々と進んでいることの証である。

耽羅国の建国は3世紀頃とされる。1105年に高麗に併合され、1404年に星主・王子などの呼称が廃止されて完全に滅亡した。しかし、600年の時を経て耽羅が再興される日が近づいている。

立憲君主制の耽羅国が再興されることは日本に利益が大きい。日本の皇室(卑弥呼=天照とすると3世紀初頭が建国時期)に近い長い歴史を持つ君主制の安定した島国が日本と大陸の間に生まれて緩衝国家になることは安全保障上も、皇室の維持のためにも有益である。君主制は国民のアイデンティティーに貢献し、重要な観光資源となる。星主を君主とする耽羅国のみならず、ハーンを君主とするモンゴル帝国、皇帝を君主とする満州国、ダライラマを元首とするチベット、ハワイ王国などの君主制国家を復活させるべきである。ロシア帝国や明も王室の後継者をツァーリや皇帝にして再興できないものだろうか?

三姓穴の他は済州4.3平和公園と済州ハンパドゥリ抗蒙遺跡址が重要である。済州4.3平和公園では豊富な展示と資料がある。在日済州島出身者は島の東部の出身が多いが、4.3事件の虐殺は島全域で行われていたとのこと。在日に東部出身者が多いのは、済州島東部は西部と比較して噴火から日が浅く農業に不適な溶岩台地が広がっているため、人口増加を農業で吸収できなかったからではないかとのコメントだった。ハワイ諸島・天皇海山列と同様に済州島もホットスポットによって出来た火山島であり、プレートの移動によって島が西に移動しながら島の東端に新たな火山が誕生し続けてきたのではないかと想像する。また、済州ハンパドゥリ抗蒙遺跡址で戦い全滅した高麗の三別抄の武士達の勇猛さが李氏朝鮮には受け継がれなかったことも不思議に思われた。









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55 コメント

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Unknown (ZRX)
2012-10-24 22:31:35
今の情報化社会の中で、支配の理由につき、正当化する理由もなく、王室・皇室を復活させるのは、非常に無理があると考える。

現在、真の権力者は、表に出ない方法を選ぶのが常道手段であり、その面がらいっても、表の看板を立てるには無理がある。国民皆兵ならぬ、皆(奴隷・下層社会)に夢を持たせて、働かせるという近代を維持するにも、表看板は立身出世の神話を持たせるような方向に行くはず。

prince氏は、他に導きたい結論があって、この話をだしているのだと思いますが。

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。。。 (。。。)
2012-10-25 00:12:33
ほほう、竹島問題真っ只中で南チョンに行ってきたんですねぇ。大変でしたねぇ。

ところで、前エントリーに出てきたnewsUSは云々と書いたけど、

http://www.news-us.jp/article/298854583.html
【拡散希望】韓国は北朝鮮に乗っ取られたのです。盧武鉉は北のスパイです。韓国は完全に敵国です。日本の癌かつ不法入国犯罪者集団である在日朝鮮人を追放しましょう。国を売った諸君。靖国神社でも良い、特攻隊記念館の前ででも良い。自決しなさい。私達はもう許しません。

なんて書いてるようじゃお話にならん。

「じゃあそもそも北チョンてなんなの?」って話だよ。
何で日本領土に鉄砲の一発も撃って来ないの?
ということだ。説明できまい?米軍がいるからとか言ったら返り討ちにしてあげよう。
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。。。 (。。。)
2012-10-25 00:14:37
>ところで、前エントリーに出てきたnewsUSは云々と書いたけど、

前エントリーの「コメント欄」に出てきた、ね。
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Unknown (Unknown)
2012-10-25 08:58:40
自分も前から北朝鮮は敵ではない気がしてました。
(味方とは思ってませんでしたけどね)

マスコミが持ち上げる韓国こそ、日本の敵だと思ってました。

ただ、敵国認定から味方認定に変更しようと思えば、いろいろな問題があります。
北に関わるものすべての行動を解釈しなおす必要が生じます。
社民党の件は、前回理解しました。

ただ、自分にとって、大きな問題は、総連の存在です。
これって、どう考えたら、日本の味方になるの?
なってくれるなら、心強いですがね。
すると、パチンコも簡単に排斥しちゃダメってことですよね?

ちなみに前エントリーにて、news usのことかいたの自分です。
丁寧にお答え頂きありがとうございました。
よくわかりました。
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Unknown (Unknown)
2012-10-25 10:00:45
琉球王室も復活しないかな。
沖縄も仲井真のようなチンピラにいいように振り回されてると余計にそうおもうな。
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Unknown (Unknown)
2012-10-25 11:22:15
大同山又道(高泰文)ってどの位強かったんだ?
デストロイヤーやルーテーズとも戦ったのか?
猪木とどっちが強いんだ?
ビデオないか?
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Unknown (Unknown)
2012-10-25 11:23:45
和田アキ子をNew耽羅国の女帝にしろ!
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Unknown (Unknown)
2012-10-25 11:25:39
でも、台湾やサハリンのように、王室が無かった島はどうするんだ?
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Unknown (Unknown)
2012-10-25 11:30:22
確かに何故和田アキ子が芸能界から消えないで残っているのか
不思議だよな。普通に実力ある日本人芸能人でも
あそこまで長年に渡り継続してTVに出続けることは不可能。
なんらかの政治的メッセージがあるのだと思うよ。
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Unknown (ウラジミール・ドカチンスキー)
2012-10-25 11:34:54
ロシア王室も忘れるなよ!
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