ぱそらぼ (ぱぁと1)

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コロナ禍

2020年03月08日 | 社会派らぼ
コロナウィルス騒動が続いています。子ども達の学校は休校になり、人が多く集まるスポーツ大会などは中止、もしくは無観客試合となり、観光地はがら空き。マスクやトイレットペーパーの売場が空になって、途方に暮れる人も。なかなか出口が見えません。というかそもそも出口なんてあるんだろうか…状態です。

終わりが見えない騒動で「コロナ疲れ」「コロナ鬱」が見え始めていると言います。何らかの我慢を強いられた状態で不安ばかりが先に立ち、先行きが見えないのでは、仕方がないのかも知れません。一時走った緊張感は、長くは続くものではなく、やがて倦怠感・厭世観に繋がっていくことが予想できます。

我が家にはテレビがありません(笑)。何度かここでも書いているのでご存知かも知れませんが、地デジ移行の際に、不便を感じるまで取り敢えず撤去してみたら、以来不便を感じません。ですから、ワイドショー的なニュースを見ることもありません。昨年10月の台風19合襲来の時、テレビのある場所に居たのですが、テレビニュースが声を張り上げて恐怖感を煽るのに「?」を感じたことがありました。危険を伝えるのは、報道の大切な役割です。川が今にも氾濫しそうな動画は、それだけでインパクトが強く、視聴者の危機意識に強く訴えます。更に、テレビは誰しもが見る時間が定まっているわけではありませんから、「今スイッチを入れた人」のために繰り返しニュースを伝えなくてはなりません。

恐らく、コロナ報道も同じように、終日これでもか…と不安を煽る報道が繰り返されているのではないかと思います。短期で収拾するニュースであればそれでも構わないのかもしれませんが、長期化が懸念される今回は、ニュースの報道の仕方にも一思案必要なのではないかと思います。

…というより、報道の在り方そのものを根本的に見直すべきなのではないだろうかと思います。コメンテーターとやらを揃えて、あぁでもないこぅでもないという蘊蓄を、私たちは聞きたいわけではありません。会社がニュースをチョイスして、その報道の軽重も会社が定め、シナリオ通りのトーンで提供されるニュースではないカタチにできないものでしょうか。

テレビなどのニュースが一方向的だった時代から、双方向性のものに変わりつつあります。ニュースの解説は不要ですから、いつでも安定したニュースソースを提供してもらえないものでしょうか。例えば新たに〇人発症!と報じるのでなく、患者人数を見れば、日にちの経過と患者数の増加を各都道府県ごとに見ることができる、もしくは世界の患者数分布を見ることができる…と言った風に。私たちは、テレビやネットに流された情報だけを受け取るのでなく、安定した「事実」の報道を入手したいのです。そうした人数表が載せられた時だけ目にする…というのでなく、見たい時に見られる事が必要だと感じます。専門家の意見も、ただ受け身で流れて来るものを見聞きするのでなく、並べられた肩書と名前を見て、その人の意見を見に行く…といった風に。ですから、一旦コメンテーターとして登録?された方は、時間の経過とともに、一日単位くらいでコメントを撮り直していただきたい。情勢が変われば、対処なども変わらねばなりませんから。

新聞記事は、その冒頭部分を読んだだけで、後ろを読まなくても内容が分からないといけない…と聞いた事があります。ニュースの冒頭部には、「〇〇が、いつ、どこで、何をした」が書かれなければならないというものです。ニュースの在り方の原点だと思います。

転んでもただでは起きない…という言葉があります。コロナ騒動はあって欲しくはありませんでしたが、これを機に「物品の国産化の大切さ」や「報道あり方」「人の上げ足ばかり取るのでなく、ともかく協力して事に当たる大切さ」…etc.が見直されることを願います。



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