ぱそらぼ (ぱぁと1)

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キョウイク、キョウヨウ

2014年09月18日 | 命の生き方
あちらこちらで引用されている場面に出くわしますが、「年寄りにはキョウヨウとキョウイクが必要だと言われます。先輩が言ったとか、職員が言ったとか、諸説あるようで(笑)、朝日新聞の天声人語にも引用されたらしいのですが、多湖輝さんの著書に紹介されていたとか。その多湖輝さんも大先輩から教わったと書いておられるらしい。

年寄りに必要だと言っている「キョウヨウ」と「キョウイク」とは、もちろん「教養」と「教育」ではありません。(それも必要でしょうけれど…) 「今日、行く」「今日、用」 つまり、今日行くところがあるということが大切なのだということのようです。今日、用事があることが大切なのだと。言い得て妙です。逆に言うならば、「今日、行く」ところを求める気持ちが大切だということなのだろうと思います。実際に行くところがあってするべき用事があることが理想ですが、たとえなくても「今日、用」があれば良いのにと思えることが大切で、その意欲を失くしてしまっているお年寄りには、何を言っても厚い壁に跳ね返されるような無力さを感じます。

但し、これはキット年寄りに限らず、人間は皆そうなのだろうと思います。年齢にふさわしい社会活動をしていない者、できない者を「引きこもり」と呼んで、社会的に注目するようになったのはいつ頃からでしょうか。高校や大学を卒業した後、仕事に就くことなく、自宅に閉じこもって、親の収入に依存した生活を送っている人たちの数は100万人とも言われています。彼らには「今日、行く」ところがありません。正しくは「今日、行く」ところを求めてはいません。

人は多分、自分のためだけには生きられない…と、私自身は思っています。所詮人間は、多かれ少なかれ自己中心的な考え方を持っています。自分さえよければ…というのは、非難されはしますが、誰の心の中にもある感情に違いありません。それでも、人は自分のためだけには、意欲を持つことはできないのだと思います。他人に関心を持たず、社会に背を向けて拒絶している人が、心の闇に入ってしまうと、「今日、行く」ところを求めることも、「今日、用」があることが幸せだとも思えなくなってしまいます。

誰かのために何かをしていることが大切なのだろうと思います。今の教育は「自己」を大切にするよう教えています。自分を愛せない者には、人なんか愛せない。が、もしかすると逆なのかも知れません。誰かのために身を砕くことのできる人間こそが、自分自身をもいとおしんでやることができるのかも知れません。




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