蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

年々変になる、燃えない秋

2011-12-15 11:35:17 | 朽ちゆく草の想い

005 これは08年12月2日。見事に燃える秋。

139 これは10年12月4日。大きなモミジは繁りすぎたので、前年の冬に大枝をカット。そのせいで元気のない紅葉になった。しかし、周りの森もあまりキレイに燃えていない。

Imgp2803 これは先日の日曜日、12月11日。既に散っている部分とまだ青い部分がある。

燃えた秋と燃えない秋。年々、秋は変になって行く様な気がする。

昨年11月、上高地行のバスを沢渡の駐車場で待っていた時、バス停の案内のオニイチャンも、最近、カラマツの黄葉が段々オカシクなってきた、と言っていた。
その後、雪が降り続き、奥穂は登れなかった。その前の年も登れなかった。その時期、毎年登っていたのに。
オカシクなってきたのは、ワタクシの方かも知れない。奈川の金色の森はそれまでと同じ、見事だったし

日曜日、約1ヶ月ぶりに山に戻ると、玄関はカメムシの死骸だらけ。Imgp2800

庭は散った紅葉の赤い絨毯。Imgp2801

これを見ると、少し前はそこそこ燃える秋になっていたのかも知れない。

周りの山もほぼ枯れ落ちて、Imgp2805 

振り返ると夕映えの世継ぎ山。Imgp2806

この色は紅葉の色ではない。枯れ落ちた山に夕日が当たっているだけ。昔、学校からの帰りに見た景色、ナンカ寂しい。


市ケ原 から通った小学生達

2011-12-15 01:41:54 | 神戸布引谷での出来事

布引谷・山の家のワタクシが28歳まで棲息した部屋。その後オフクロはその部屋を物置にしていて、中に残っていた衣類は古着寄付へ、寝具類は老人ホームへ寄付
昨年秋にはほとんど空になって、今残っているのはワタクシが28歳まで使っていたモノだけ。
それらもボチボチ片付けていると、昔通っていた雲中小学校の同窓会名簿が出てきた。

ワタクシが5年生の時、昭和38年、雲中小学校は創立90周年。大々的に記念式典が行われ、その時に配られた名簿の様だ。発行は39年3月。
じっくり見た事は無く、卒業アルバムと一緒に箱に入っていた。
ナンセ湿気の多い家、押入れの奥から出てきたそれらも、長年の湿気で表紙の印刷がビニールのアルバムに溶着していて、無理に剥がそうとしたら、表紙ごと取れてしまった。

くっ付いた表紙を何とか取り除き、アルバムはキレイに掃除。
さて、この名簿は棄てるか、と思いながらペラペラ見ていたら、ハイキングコースである通学路を遊びながら一緒に通った、年長者の名前を見つけた。

市ケ原 と言うのは通称で、この辺りの正式住所は、「中央区(当時は生田区と合併する前で葺合区)葺合町山郡(ヤマゴオリ)1の1」、となる。
「葺合町山郡1の1」、この住所の同窓生は他にどれ位いるのだろうか、眼を皿にして名簿を追いかけて見た。

一番古いのは昭和6年3月卒業のM岡 愛サン。その次が昭和8年のM岡 昇サンとU本 たきえサン。

市ケ原 の川原の側に櫻茶屋と言う茶店がある。ここは今、レイコさんと言う女主人が一人でガンバっておられる。
彼女はワタクシの20歳上、レイコさんにとってワタクシは、始めて出会った頃のガキのままだ。
昔、この茶店は杉の茶屋と言った。そして櫻茶屋は別の所にあった。
市ケ原で一番大きな茶店で、ワタクシの山の家より500m程上流にあり、その辺りがこの集落の中心、駐在所やデパートの山の家や、その他個人の別荘も沢山あった。

M岡さんと言うのは、その櫻茶屋のオーナーで、レイコさんはそのオーナーの義理の姪に当たるらしい。又、U本さんはこの市ケ原に最初に住み付いた一家らしい。

そして、その子供たちは4km以上離れた雲中小学校へ歩いて通っていた。

昭和8年以降も、1年~3年間隔で 市ケ原 から歩いて通った、ワタクシの先輩たちが名簿に続いている。 一人、二人、五人の年もあった。
ミスプリントで、「山郡1の1」がタダの「1の1」になっていたり、「山郡」が「山部」とか「小郡」になっている人もあったが、別の年に同じ名字の人、つまりその兄弟(従兄弟?)がチャンと「山郡1の1」で載っていたりして、結局そんな人達もカウントすると51名いた。

当然、昭和18年には、レイコさんの名前ともう一人、今もひとりで住んでおられるU本サンの名前も登場する。

日曜日、この名簿をレイコさんに見てもらった、これらの人達、憶えありますか?と。

「あぁ、憶えとうわ、これ愛ちゃんや、昇ちゅうのはあのアニキさん、このタキエちゅう人、あのU本の従姉やと思う、他のU本も多分従兄弟やと思う、このヘンの人ら、多分、あの峠の辺りに住んどった人らやと思うわ」
M岡 愛サンとは、旧櫻茶屋オーナーの長女。結婚してT谷さんになったが、昭和42年の水害で亡くなったらしい。
M岡 昇サンはその弟、で旧櫻茶屋オーナーの長男、水害で茶店が流されなければそこの二代目。水害の丁度その時、U本さんの家が流されそうになって、土嚢を積みに出て行っていたので、悲劇から免れた。
U本さんの従姉妹たちは、早くに街へ移り住んでいたそうだ。
また「あの峠辺りに住んでいた人達」の、あの峠とは、今ハーブ園の入り口がある辺りで、昔、貯水池の畔を通るハイキングコースとは別の、その峠を通るハイキングコースがあって、そこに茶店を中心とした集落があったそうだ。

「後、この二人は双子でワタシと仲が良うて、アッこの子、この双子の妹でサーちゃんや」
「葺合町山郡1の1」ではない、灘区と兵庫区の住所の二人、括弧内に書かれた旧姓は同じだった。更に二人、総勢53人が通学していた事になる。

「これ、キヨシ、となっとうけど、ドイのキヨちゃんや、ワタシら同級生やってン」
確かに、我が家の隣の茶店にキヨ子さんと言うオバサンがいた。先代サンと本妻サンとの末娘で、ヒロミちゃんのお母さんだった。
ヒロミちゃんは、ワタクシより2~3歳年下、小学生の頃までよく遊んでいたが、キヨ子さんはその後チョット頭がオカシクなり、母娘共々どこかへ行ってしまった。
キヨ子さんの旦那さん(ヒロミちゃんのオヤジさん)も市ケ原の住民、狭い村の中での結婚だったそうだ。大人しそうなオジサンがいた様な記憶がある。

レイコさんがコメントできるのは、昭和24~25年頃までだった。それ以降は色んな人が住み出したそうで、「今、ハーブ園に上がって行く道、あるやろ、あの辺になんか、ぎょうさん住んどって、よう憶えてヘンわ」と言われていた。

ところで、不思議な事がある。
と言うのは、昭和17年までは住所が記載されていない人、つまりこの名簿が発行された年に所在不明の人が沢山いて、それは当然のことかも知れないが、例えば昭和6年では270名中、住所記載が22名、昭和8年では381名中、112名、昭和10年が368名中、58名、昭和12年が410名中、63名、昭和15年が402名中、156名、昭和17年305名中、65名であり、そして昭和18年になると286名中、281名の住所が記載されている。
昭和17年までは1/3~1/10程度しか住所が判っていない。
何故18年から急に判ってきたのか、と言うのも不思議だが、何故1/3~1/10しか判らないのに、市ケ原の人達は確認出来たのだろう。
街から離れた場所で、少人数で固まって住んでいたからだろうか。
市ケ原へは毎年、遠足等で登っている。それで毎年、判っていたからだろうか。

そして、ワタクシが市ケ原の住民になった昭和32年。
その頃の何人かの苗字には憶えがある。
34年にはM岡 由夫さんと言う名前が出て来る。この人は当時、近大生だったはず。 旧櫻茶屋オーナーの孫、当然、跡取りで、市ケ原の子供たちのリーダーの如くふるまっていた。
しかし、彼も昭和42年の水害で亡くなった。

その後は、同級生の兄、姉の名前が出て来て、昭和38年にゴルフ場が出来、そこの従業員の子供たちが通学児童に加わった。

名簿は39年3月で終わっているが、40年はワタクシ達の卒業の年。5人が卒業したはずだ。

その頃には、車道が開通していて、オヤジ達は車で通勤し出して、車で送り迎えされる子供達も増えだした。斜面上隣に住んでいたカズちゃんは車通学だったはず、一緒に歩いた記憶は無い。

しかし、相変わらず歩いていた子供たち
その頃の小学生、キヨカちゃん、ヒデちゃん、ヒロユキ君と従弟のマーちゃん、ハジメ君とその妹、マリちゃんとその妹。ワタクシ達もチョット遠い葺合中学へ相変わらず歩いて通っていた。

昭和6年から、少なくとも水害で村の半分以上が消える昭和42年まで、延べ60人以上の子供たちが、片道約4kmを歩いて通っていた。

当時、途中の展望台から学校のある方向を眺めると、その先の鉄道の高架沿いに、「〇?△ファウドラー」とか「◎▽エアブレーキ」とかの看板が読み取れ、更にその先のスペースは何か大きな工場の屋根で埋め尽くされているのが見えた。高い何本かの煙突も見えた。

それらの工場がフル稼働していた時代、下界は高度成長の真っ最中。
子供たちはそこで何を作って、何の役に立っているのかは知らなかった。