蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

ハルナちゃんのその後

2013-06-28 14:36:44 | 幾夜のフィクション

’09年、マンション同階にハルナちゃんが引っ越しして来て、何度かオシャベリをした。
遭遇すれば必ず「コンニチワ」とカワイイ声で挨拶してくれるので、ついつい色々話しかけてしまう。
それは世間とほとんどお付き合いのない日々の、一瞬の“キラメキ”だった。

12月の冷たい風が吹く夕方、ハルナちゃんは部屋の前で膝を抱え、しゃがみ込んでいた。お母さんの帰りを待っていたのだ。
鍵を持たされていなかったのか、以前からそう言うシーンを何度か見た。

過ごしやすい季節なら外でボォ~っとしているのもいいが、その日は冬の寒い夕方。小学校の帰り、防寒着など、着ておらず、実際ハルナちゃんは寒そうにしていた。
しかしハルナちゃんは、「寒いけど頑張る」、と言った。
「コジハルのハルナちゃんやモンね」、とワタクシは励ますしかなかった。
「コジハルのハルナ」とは、半年ほど前、初めて言葉を交わした時、自己紹介で彼女が使ったフレーズだった。ワタクシ、その意味が判っていなかったが、ナゼかそのフレーズは覚えていた。

’10年になり、ワタクシはまた信州・雪山通いを始め、それは5月の終わりまで続いた
6月からは前年同様、布引谷・山の家を片付けながらの日々になった。

そして、ハルナちゃんとまた遭遇することになった。彼女は中学校の制服を着ていた。

しかしもう、「コンニチワ」と挨拶してくれなくなった。エレベーターのドアギリギリの所に背を向けて立ち、ドアが開くとサッと出て、サッと部屋に入っていった。

何故挨拶してくれなくなったのか?いつも独りでフラフラしているオジサンと話ししちゃダメ、とオカアサンから言われたのだろうか?
しかし、オカアサンは相変わらず会釈してきたし、エレベーターの中では「暑くなりましたネ」と話しかけてきたし、「オジョウサンとお二人、よく似てはりますね」と言うと、「ウルサイ、クソババアなんて言って、色々生意気になって ・ ・ ・ 」、と会話も続いたので、母親から禁止令が出たとも思えない。

それは、中学生になってオッサンやジジイが疎ましくなったのかも知れない。
ウチの娘も中学生になってから口を利かなくなった。「オカエリ」とも言ってくれなかったし、二人でお出かけなどなくなった。
きっとハルナちゃんもそう言う“オトシゴロ”なんだろう。実のオヤジにだって口を利かない。ヨソのシラガのオヤジになど気味が悪い、近寄りたくもない。ナルホド、少女の必ず通る道。
ハルナちゃんの“オトシゴロ”を察してあげないといけない。
前の年、色々おしゃべりしてくれただけで“御の字”なのだ。

しかし相変わらず、エレベーターを出ると、部屋の前で膝を抱え、しゃがみ込んでいるハルナちゃんと遭遇する。中学生になっても鍵は持たされていなかった様だ。
彼女はチラッとワタクシを見上げ、全く関心がない様に視線を遠くに逸らした。
当然、「コンニチワ」とは言ってくれない。ワタクシも話しかけない。

人との付き合いは「つかず離れず、来るモノ拒まず去るモノ追わず」がイイ。ワタクシも極力関心がないフリをした。
そしてお互い無視し合う“仲”になった。

いつの間にかエレベーターを出たパイプスペースの前の空間は、ハルナちゃんのもう一つの部屋の様になっていた。
カバンや手提げ袋を周りに置き、お菓子やジュースを飲みながら教科書や漫画を読んでいた。制服の時もあったし、体操服の時もあった。オカアサンが戻るまでテキトーに寛いでいたのだ。

友達を連れて来ていた事もあった。友達の少女はワタクシを見て、「コンニチワ」と微笑んだが、ハルナちゃんはつまらなさそうに遠くを見ていた。
ワタクシが視界から消えると、ハルナちゃんは友達と「キャハハハ」とはしゃいだのだろうか。

ある日曜日の朝、お出かけするハルナちゃんとオカアサンに出くわした。よく似た衣装で着飾っていた。そして同じ様な髪飾り。
オカアサンはいつもの様に軽く会釈したが、ハルナちゃんは以前同様、つまらなさそうにしていた。

冬になって、荷物だけがエレベーターの前の“もう一つの部屋”で散乱していた事があった。
ハルナちゃんは友達の部屋へ、トイレを借りにでも行ったのだろう、と思った。彼女との最後のオシャベリの時、「オシッコ行きたくなったら、トモダチのお家、行くし」、と言っていたからだ。
自分の部屋に戻り、郵便物を回収していない事を思い出した。こう言う事はしょっちゅうだ。毎日必ず何かを忘れる。
再度クツを履き、1階の集合ポストから郵便物を回収し、エレベーターで戻ると、相変わらずハルナちゃんの荷物だけが散乱していた。
エレベーターの正面にはハルナちゃんの部屋のパイプスペースがある。それは他の部屋のパイプスペースより大きめで、扉ののぞき窓がほぼ眼の高さにある。電気のメーターを確認するための窓だと思う。
その窓にナント、ハルナちゃんの顔の一部があった。左眼でこちらを見ていた。
ナルホド、うまい風避け、寒さ避けを見つけたものだ。
「ヤルなぁ、ハルナちゃん」と、思わず声を掛けそうになったが、直ぐ窓から彼女は隠れて消えた。

そんなハルナちゃんとの遭遇はその後も続いた。無視し合った状況は変わらない。

今年の信州・雪山通いは4月初めに終わり、布引谷・山の家への移住はもう諦めたので、最近はひきこもりの日々が続いている。

そして時々溜まった郵便物を回収しに部屋を出るが、エレベーター前の“もう一つの部屋”で膝を抱え、しゃがんでいるハルナちゃんと遭遇する事は、もうなくなった。

彼女はどうしたのだろう。
そうか、3年前ハルナちゃんは中学生になっていたので、今年は高校生になったのだ。
高校生になって鍵を持たせてもらえるようになったのか、帰りの時間がオカアサンの帰りより遅くなったのか、それとも遠くの高校に入って、引っ越したのかも知れない。
そう言えばオカアサンとの遭遇もなくなった。表札は残っているけど、ハルナちゃんは引っ越ししたのだろうと思う。

窓の下の公園ではいつも午後には子供達が騒いでいる。女の子のキャーキャーと言った歓声が聞こえて来る。ハシが転がっても面白いオトシゴロ、とはいくつの歳の事なんだろうか。
ハルナちゃんのニコッとしたお顔を拝見出来たのは小学生の時だけで、その後はいつもつまらなそうにしていた。
ヨソのシラガのオヤジに対してニコッとしないのは当然だか、それとは関係なく、ベースの生活がつまらなそうに見えた。

ハルナちゃんがエレベーター前の“もう一つの部屋”で、オカアサンの帰りを待っていた頻度が、どの程度のモノだったかは判らないが、その都度ワタクシを含め何人かの大人に、膝を抱え、しゃがんでいる自分の姿をさらす事になる。
「この子ォ、ようここでしゃがみこんどうけど、ナニしとおん?」と言う眼で見られた事もあるかも知れない。
楽しい思い出もなかったかもしれない。

このマンションにいてもツマラナイ、楽しい思い出もない、それなら住いを替えた方がイイ。

女の子3人組の映画を見たことがある。何年か前の神戸映画サークルの例会だったと記憶している。
主人公は有名なマンガ家サン。スランプに陥った彼女が昔暮らした海辺の街へ行き、当時の事を思い出す。
小学生の時、主人公は彼の地へ引っ越しして来て、そこで二人の親友が出来た。
それぞれの家庭は貧しく、色々問題ありだが、少女3人組は、正に天真爛漫、やりたい放題。
しかし高校生になり、男との付き合いが始まると徐々に不幸になる。
二人の友達が結婚した男は働かず、暴力をふるい、トンデモナイ不幸な日々を過ごす。
最後に主人公は友達の一人からケンカを売られる。
この友達は、「ナンデうちらは幸せになられヘンの?シアワセてナニ?」と言う。
そして、「アンタはもうここから出ていき、そして二度と戻って来るな」と言う。
このシーンは良かった、泣けた。ケンカを売る友達を演じる女優は、ビンボーとはかけ離れたレベルの超美人。この女性はなにかのモデル(?)
しかし、そんなキレイな女の子が「ナンデ幸せになられヘンの?」、なんて言うと、オッチャン、ボロボロ泣いてしまう。
ワタシが不幸な生活を送っているこの地から、アンタは出ていけ、ワタシの様に不幸になるな、親友からそんな事を言われ、主人公は出ていって、漫画家しとて成功をおさめる。
そしてこの女の子達の事を書くことで、スランプから復活する。
そんなストーリーだった、と記憶している。

ハルナちゃんも、つまらない、面白くない生活をここでしていたのなら、出ていった方が良かったのでは、と思う。そう、それがイイ。

ハルナちゃんとのファーストコンタクト、ワタクシの後を「コンニチワ~」と言って走り去った季節から4年が経った。
4年前と同様、公園の木々にはまだ若葉が残っており、近くのゴルフ場の森ではホトトギスが鳴いている。

ところで、「コジハルのハルナ」、の「コジハル」てナニ?


’09年、ハルナちゃんとの春・夏・秋・冬

2013-06-25 21:46:42 | 山とスキーでブラブラ

季節は6月初め、公園の木々にはまだ若葉が残っており、近くのゴルフ場の森ではホトトギスが鳴いていた。

そんな気持ちのイイある日、マンションのエレベーターの前で「カゴ」が来るのを、ボォ~と待っていた。
すると、外階段をタ、タ、タッと下って来た少女が、ワタクシの後ろを、「コンニチワ~」と挨拶しながら通りすぎ、エレベーター横の部屋のドアを開け、中へ消えていった。

すがすがしい少女のソプラノは、気持ちのイイ季節の「風のささやき」だった。微かに若い女性の香りがした。
でもあれはタダのシャンプーの香り(?)、“お独りサマ”になって、部屋から女性のシャンプーの香りが消え、5年近く経っていた。

’09年は会社を早期退職して2年目。信州・雪山通いも2年目。
オフクロの一周忌を済ませた後も雪山へ通い続け、5月には白馬大雪渓、翌週剣沢、6月も槍ヶ岳へ登って槍沢を滑った。
まだまだ元気だった、と言うか、約30年のミヤヅカエ、溜まりに溜まったストレスがまだ燃え尽きていなかったのだ、と思う。

031 5月27日の白馬テッペン。

033_3 大雪渓を末端まで滑り降り白馬岳を見上げる。

035_4 6月1日の剣沢、平蔵谷出合。

007_2 6月9日の槍のテッペン。

010 槍沢の大曲から下は一面デブリだった。

その後、この年の山スキーはオシマイにした。

当時ワタクシは、オフクロが亡くなった後の布引谷・山の家に戻るべく、色々準備していた。

そこは新神戸からハイキングコースを辿って1時間弱で着く山の中にある、ワタクシが5歳から28歳まで棲息していた実家。幼稚園から小中高、大学、会社まで歩いて通った。
都会では当たり前の、コックをひねるとお湯が出るという生活、レバーを廻すと排せつ物が流れ去ると言う生活とは、28歳まで無縁で過ごした。
中学3年生の時、大雨による土砂崩れで近隣住民に21人もの犠牲者が出て、集落の大半はなくなった。
しかし10軒ほどが、その後もしつこく住み続けた。
オヤジはその17年後、肝臓ガンで亡くなり、オフクロはさらに24年後、急性心筋梗塞で亡くなった。

オヤジやオフクロは、布引谷に特に拘りがあった訳ではない。市街地で家を構えられるほどのお金が無かっただけだ。
そして、山の暮らしに慣れると、「ここは安気なトコでエエわ」と言っていた。ケンカが絶えなかったこの夫婦、この点だけは意見が一致していた。
しかし、独りムスコは大変だ。学校から1時間弱かけて帰って来て、遊ぶ同級生は周りにいない。
ワタクシのこの“お独りサマ”好きのヘンな性格は、この時成形したものだと思う。

だから、逆に棄てられなかった。

ワタクシはオフクロが遺して逝ったモノを、山の家で寝泊まりしながら片付け、週に数日は垂水へ戻っていた。

その戻る時間が、いつも小学生の下校時間と一緒の時間帯だった。マンションの階段付近、エントランスは小学生だらけだった。エレベーターでも一緒だった。
そして、一人の女の子がエレベーターを降りて、直ぐ横の部屋に消えていくのを何度か見た。いつも小さな声で「サヨウナラ」と挨拶していった。
そこは2LDKの狭い部屋。長い間表札がかかっておらず、人が出入りするのを見た記憶がほとんどない。彼女の一家はいつ引っ越しして来たのだろう。

すがすがしい彼女の「風のささやき」を聴いてしばらく経った後、山から帰って来てエレベーターに乗り、ドアが閉まりかけた時、彼女が小走りで入って来た。小さな声で「コンニチワ」と挨拶した。
「こんにちは、お名前は?」と、訊いてみた。
「〇?△ハルナ」と、彼女は応えてくれた。
「そうか、ハルナちゃん、て言うんだぁ~」、ワタクシ、ナゼか関東弁になっていた。
「そう、コジハルのハルナぁ」、彼女はワタクシをチラッと見上げ、ニコっとした。
「コジハル???」
「AKBのコジハルぅ」
おニャん子 ・ ・ ・ とかモーニング ・ ・ ・ とかと同じ様な女の子グループがまた出来て、AKBと言う名だけは知っていた。
「あぁ、そ、そうね、エーケービーのね、こじはるねぇ、そう言えばよう似とうやン」
「知らなかったくせに、フフフ」、エレベーターが目的階に着くまでの数十秒、久しぶりの楽しいひと時だった。

7月になると、山の家の庭は草が生え放題、周りの木々は伸び放題になり、家の片付けより、草引きや枝払いが作業のメインになった。
そんなある日、枝を払っていて、鉈で右親指先端の爪1/4程を飛ばしてしまった。これは痛かった。

フツーの擦り傷や切り傷とは違う。ヨーチンを塗ったり、バンドエイドを貼ったりで済むものではない。大体血が止まるのだろうか。
バンドエイドを何枚か貼ってその上から包帯巻いて、何とか血は止まった。しかし、一日1回、それらを交換する時が、メッチャ、ムッチャ痛い。
そもそもそんなコトやってて治るのか、不安になって来た。
ネットで色々調べると、そう言う深い傷は乾かすより、サランラップを巻いて蒸らして治せ、と言うサイトが目に付いた。よし、これで一回やってみよう。
しかし、指はズキズキ、ジンジン、何もする気がしない。終日部屋でボォ~ッとしていることが多くなった。

ある夜、郵便物が溜まっている事に気が付いた。大分溜まっているハズだ。
それを取りに行こうとエレベーターまで行くと、ハルナちゃんが部屋のドアの前で膝を抱えて座っていた。
時間は午後9時を廻っていた。会社勤めの頃のワタクシの定時だが、その頃そんな時間に部屋を出た事は無い。
ハルナちゃんの雰囲気は当然、いつもの下校時とは違っていた。

「どないしたン?」
「オコラレタ」、呟くようにハルナちゃんは言った。自分がやったおフザケを後悔、反省している様子が窺えた。ナゼか少し可笑しかった。
「ハハハ、そらぁ、謝り倒すしかないなぁ」
「ウン」
エレベーターに乗ってから、急に心配になった、ヒョットしてハルナちゃんは虐待されているのでは。もしそうだったらワタクシはどうしたらいいのか。
しかし、郵便物を回収し上がって来ると、ハルナちゃんはもういなかった。あの後直ぐお許しを得られた様だ。彼女はチョットお灸をすえられたのだろう。

8月半ば、指のケガが完治し、山の家への行き来を自転車にした。
小束山から神和台を抜け運動公園、落合、白川台から鵯台、鈴蘭台、洞川、再度公園経由で行って、帰りはR2の海沿いルート。行きを海沿いにすると新神戸からの超激坂を登らないといけない、これはさすがにシンドい。

そして9月、西脇のへそ公園まで往復100キロコースを走り、その後乗鞍へ行った。

038 鈴蘭から畳平まで2時間半かかってしまったが、何とか登れた。

この翌週、畳平のバスターミナルにクマが出て、男性が襲われた。
男性はクマのオープンプローを受け、アゴが飛ばされ、まだ治療が続いている、と言う話しを翌年11月、沢渡のバスターミナルの係員から聞いた。1年以上経っても完治しない大ケガ。
ツキノワグマ位の大きさなら蹴飛ばせる、と思っていたが、やはりクマは猛獣なのだ。しかし森林限界を越えた3000m近い所にまでクマが出るとは驚きだった。

049_2 9月下旬は裏磐梯の高原を走った。

それは喜多方と会津若松で催された酒蔵コンサートの合間のサイクリングだった。

福島在住のボサノバシンガーを長谷川きよしサンのHPで知り、彼女のコンサートが2夜連続であることを知った。

この女性は主にギターの弾き語りでボサノバやサンバカンソンを唄っていて、その囁くような優しいポルトガル語は“お独りの様サマ”のイイ慰め、その彼女が2夜連続でコンサートをする、しかも酒蔵で、これは行かずに居れるモノか。

初めて裏磐梯高原を走り、彼女の「追っかけ」をして、福島の地酒を買って帰った。
フクシマを大地震と大津波が襲い、核の平和利用とか言う「ゴマカシ」を破壊する1年半前だった。

涼しさが戻って来て過ごしやすくなったある夕方、エレベーターを出るとハルナちゃんがしゃがみ込んでいた。ランドセルや荷物に囲まれ、パイプスペースの扉を背にしていた。彼女の部屋には少し大きめのパイプスペースがエレベーター乗り場にあった。
「どないしたン?」
「オカアサン、待ってるノ」
「帰ンの早すぎたンか」
「ウウン、オカアサンが遅れてるノ、でもすぐ帰るって」
「ああそう、じゃあイイね」
「サヨナラ」

その部屋から大人の女性が出入りするのは、何回か見た。エレベーターの横なので、他の部屋と違って通りすぎる事は無い、必ず数秒以上立ち止まる。そこの住民と遭遇する機会は多いのだ。
線の細い女性、と言う印象だった。レースの飾りがヒラヒラ付いた服と髪飾り、そんな印象もあった。そして、いつも軽く会釈してきた。
ハルナちゃんはこのオカアサンと二人暮らしだったのだろうと思う。
この低所得者救済マンションは、我が3LDKでもかなり狭い。2DKを無理矢理3LDKにしたように感じで、彼女達の住む2LDKはどう考えても、親子3人はムリだと思われたからだ。

11月初め、小屋締め時期の奥穂、何年もの間登り続けていたが、この年は登れなかった。
他の皆さんは前週末に登られた様で、その後雪が降り、ワタクシが行った11月4日、白出のコルからハシゴ場を越えてからのトラバースにはトレースなく、クラストした急斜面が続いていた。
慎重に足場を作りながら進んだが、どうしても足元直下の滑落止めワイヤーが眼に入り、正直コワイ。更にその下からは小屋締め作業の音、声が聞こえ、もしスリップしたら死ななくても大ケガは間違いない、彼らにメイワクかかるし、ビールも呑みたくなって、ヤメた。
トレースがなければ登れない。要は今まで登らせて頂いていたのだ。あぁナサケナイ。

030 結局、反対側の涸沢岳を登って終わり。この夜の穂高小屋の客は30歳半ば(?)の女性と二人だった。

寒気がツーンと鼻の奥まで侵入する時期になり嬉しくなっていた。後1ヶ月でまた雪山通いが始まる。翌シーズンから使用する深雪用ファットの板も入手した。
山の家も大分片付いた。古い家具は分解し、それでフロを炊いた。
初冬の寒い日、木材で炊いたフロはサイコーだった。

そんな寒い夕方、エレベーターを出ると、ハルナちゃんが又しゃがみ込んでいた。以前同様、ランドセルや荷物に囲まれ、パイプスペースの扉を背にしていた。
しかし、以前と違って、もう寒い、すがすがしい秋の夕方ではない。実際、冷たい風が吹いていた。

ハルナちゃんはワタクシを見上げ、「コンニチワ」と挨拶した。
「こんにちわ、寒いやろ、大丈夫か?でもオカアサン、直ぐ帰って来るンやろゥ」
「ウウン、今日は少し遅れるって」
冷たい風が吹いている、このまま放っておいていいのだろうか。しかし、“お独りサマ”のオヤジの家で保護する訳にはいかない、おもてなしの仕方も判らない、どうしたらいいのか。

そんなワタクシの気持ちを察してか、「ダイジョウブ、ワタシ寒いけど頑張る、オシッコ行きたくなったら、トモダチのお家、行くし」、とハルナちゃんは言った。
「そうか、頑張って、コジハルのハルナちゃんやモンね」、とワタクシは彼女が以前言ったフレーズを引用して励ました。
「そう、ワタシ、コジハルのハルナぁ」、彼女はニコっと笑った。
「ンじゃ、ガンバってねぇ」
「サヨナラ」

それがハルナちゃんと交わした最後のオシャベリだった。

002 山の家の石垣の端には大きなモミジがあって、それが道の方向へ枝を大きく延ばしていた。それは晩秋に紅葉をふんだんに散らし、周りに「赤い絨毯」を敷き詰めていた。

その生命力はスゴイもので、道側に倒れるものかと、根を逆に伸ばし、石垣を割り崩す様な勢いがあった。
しかし、石垣が崩れると大変だ、オフクロはその延びた枝を大胆にカットしたい、と言っていた。
そうすると盛んに繁って陽の光を遮っていた葉っぱもなくなって、日当たりもよくなる、と期待していた。

しかし、ナンセ高い所の枝、下の道からは3階以上の所にある、切ろうとして落ちたら死ぬかも知れない。
オフクロは、「まぁ無理せんでエエわ、アンタがケガしたら大変やし」、と言っていたが、もうオフクロはいない、コワイモンなし。
ハシゴで登ったり、高枝バサミを使ったりしてほぼ切り落した。

そうして、’09年は終わった。


コルトレーンで始まったハタチの頃

2013-06-15 23:10:20 | 駆け抜けた一回性の記憶

梅雨明けの様な晴天が続くが、これは太平洋高気圧ではないそうで、まだ梅雨は続く。

しかし気温は真夏。外へ出るとワタクシの脳ミソは溶けてしまうと思う。それで相変わらずひきこもり。

ひきこもった室内に流れているのはFM COCOLO、選曲がワタクシに合っている。
時々、曲名を忘れてしまったJazzのスタンダードや、曲名を知らなかったPopsなどが流れて来ると、FM COCOLOのサイトを見る。[Now Playing]にそれが載っている。アリガタイ。

そして、その隣にある[この曲のCDを買う]のボタンを押して、CDを確認。
楽天やamazonで一番安いのを探して購入する事もある。
翌日か翌々日に受け取り。支払いはカード決済。もう三ノ宮へ買いに出かける必要もなくなった。益々ひきこもり。

先日もそんな感じで購入しようとして、思い直した、「これあるンちゃう」

探したら、あった。
存在を忘れていたチェット・ベイカー。多分、出張からの帰り、新神戸駅に隣接するショッピング街のレコード屋でゲットしたモノだと思う。

’90年から10年以上、バブル崩壊後の失われた10年間、ワタクシの営業テリトリーは中四国。
毎週出張し、余った出張費でCDを買い漁っていた。ウサを晴らすかのように。
気が付けば、CDは300枚以上溜まって、ほとんどがモダン・ジャズのLPより多くなってしまった。

ビンボーだった学生の頃、ムリして買ったLPなら多分忘れないだろうが、余った出張費で買い漁ったCDは忘れてしまう。よくあることです。

Imgp5079 これは絶対に忘れない初めてのジャズのLP、ジョン・コルトレーンの「ジャイアントステップス」。
LPは40年以上前のモノ。録音は更に10年以上遡った’59年。
Printed in U.S.Aではなく日本語の解説が付いているが、ジャケットの裏のライナーノーツを書いているのはナット・ヘントフ。

40年前、この国は70年安保、ベトナム反戦、学生運動の時代。
政治、社会、文化、あらゆる面での変革を求め、試された頃。
変革と言っても、昨今ハヤリの弱者切り捨てをも含む「改革」ではなく、あくまでも弱者救済が目的のモノだった。

アメリカでも、と言うか、世界的に同じ様な変革の動きがあり、その原動力は民衆の力。
その根底にあるモノと、ハードパップから前衛へと昇華するジャズのエネルギーを関連させる様な論考が、その頃のジャズの雑誌によく載っていた。
とは言え、そう言う論文、批評は今読んでもよく判りません。

しかし、「ジャズはアメリカで生まれ、ヨーロッパで(音楽として)認識され、ニホンで思想として確立された(?)」、そんな一文を何かで読んだが、当時のジャズを思想として解析しているのは中々面白かった。

ワタクシは週に2~3日、ジャズ喫茶でそう言う雑誌を読みながら、当時の流行りのJazzを聴いた。

ジャズ喫茶にいるのは2時間ほど。LPは片面しか掛らないから、その間聴くLPは大体6枚分。その中にしばしばコルトレーンはあった。
そしてこの“若き怒りのテナー”が、前衛に至る“LIVE”なジャズシーンの主人公であると言う事を知った。

ある日、全く印刷のないジャケットのLPが掛った。
曲は「Bye Bye Blackbard」、片面1曲延々と続くライブ盤だった。印刷がないのでなにがなんだかサッパリ判らないが、コルトレーンクァルテットだと言う事は判った。
ジャズ喫茶のマスターに訊くと、ヨーロッパでのライブ盤で、従来のレコード会社から出されたモノではない、と教えてくれた。確かスウェーデン(?)製。

しばらく経って三ノ宮駅山側にある小さなジャズレコード専門店を覗くと、コルトレーンを集めた一画に印刷のないジャケットのLPが並んでいた。店主に訊くとジャズ喫茶のマスターと同じ事を言っていた。これはゲットしないと。

お金は無かったが、まだ親の脛かじり、喰うには困らない。3枚一気に買って、布引谷・山の家に持って帰った。

レコードのラベルにも何も書かれていない。ただ乱雑に書かれたメモが付いていた。これを失くすとホントになにがなんだか判らなくなる。早速それをジャケットとラベルに書き写した。

当然それは今も残っている。20年程前のワタクシの幼稚な字ィ。

Imgp5085 HISTORIC PERFORMANCES HPLP-1(M) 1961.11.22.と1963.10.22.のEuropean Concert。
’61年はEric Dolrhyが同行している。ペースは’61年がReggie Workman、’63年はJimmy Garrisonになっている。「My Favorite Things」は片面1曲全て、Eric Dolrhyはフルートを吹いている。

Imgp5086_3 HISTORIC PERFORMANCES HPLP-2(M) 1962.11.19.のEuropean Concert。
「Bye Bye Blackbard」は片面1曲全て。「The Inch Worm」でコルトレーンはソプラノサックスを吹いている。

Imgp5087_2 HISTORIC PERFORMANCES HPLP-3(M) 1962.11.19.のEuropean Concert。つまりHPLP-2(M)と同じ日の演奏。
「Training in」は片面1面、前半はピアノトリオだけの演奏で、後半コルトレーンが入って来てその後終わるまで延々と吹きまくっている。

その後、コルトレーン特集の雑誌で、HISTORIC PERFORMANCESとはスウェーデンの私家盤で、他にも1961.11.22.のHPLP-5と、1963.10.22.のHPLP-6がある、と言う事が判った。どうでもイイけど、(M)でナンやろ。
要するに、‘61年、‘62年、‘63年のヨーロッパでのライブなのだ。

私家盤と言う事はプロの技師が録音していないと言うコト(?)、確かに洞穴の奥から聞こえて来るような感じ。
いずれも、Live On Mount Meruとなっているが、大体Mount Meru、てドコ(?)、拍手の具合から想像するに、それほど広くない会場の様な気がする。
スウェーデンにそんな会場があるのだろうか。Mount Meruとは「須弥山=六道輪廻の中心」と言う意味だそうだが、まぁナント凄い名前の会場で演ったものだ。

先日、梅雨の晴天の日の午後、これらを順番に聴いて、夕方になってヤメた。

50年程前のライブ演奏とは言え、Jimmy Garrisonはひたすらボンボンボンボンと一定のフレーズでペースを弾き、McCoy Tynerはピアノソロ以外はほとんど聞こえず、コルトレーンは延々と吹き続け、Elvin Jonesの特にバスドラムがドコドコドコドコ響き、特にエンディングは終わりそうにないエネルギーで、多分フツーに暮らしている人達は聴いた事ない爆音、いつお隣サンから苦情が来てもおかしくない。
皆さんが一家ダンランを迎える前にヤメるのが常識でしょう。青い夜になって酔っ払って、音の大きさが判断できなくなったら、エライ事だし。

しかし、“LIVE”とはよく言ったものだ。この時の彼らの大半はお亡くなりだが、レコードを聴く限りは“生きて”いる。それも凄い生命力で。

手元にある古いジャズ雑誌のコルトレーンのバイオグラフィーを再度見る。

コルトレーンは’26年に生まれ、’67年に亡くなった。
一緒に演奏を重ねたドルフィーとは’54年に知り合い、そのドルフィーは’64年にベルリンで客死している。
’61年、ヨーロッパでの演奏旅行が始まる年に「impulse!」からレコードを出す様になり、ヨーロッパへ行く前に「Live at The Village Vangurad」と「Impressions」が出ている。
その後「Ballads」、’62年に「Dnke Elligton and John Coltraine」、その年またヨーロッパへ行って、帰って来てから「And Johnnny Hartman」、そして’63年に「Selflessness」、「At Birdland」を録音した後、またまたヨーロッパでの10.22.のLIVE。

この間のLPは全てビンボーだったハタチの頃、’72年頃ゲットしたモノ。既にコルトレーンもドルフィーもこの世にいなかったが、“LIVE”だった。

そして、今もワタクシの「My Favorite Things」なのだ。今は棚で寝てルことが多いけど、時々お隣サンに気を遣いながら聴くのもイイ。

コルトレーンが’66年に来日した時、その全コンサートに同行し、楽器を運ぶのを手伝ったり、旅費が無くなるとコルトレーンにお金を借りたりした若者がいたらしい。その若者も’76に亡くなったそうだ。ワタクシより5歳年上だったらしいが夭逝。
コルトレーンも、ドルフィも、クリフォード・ブラウンも、スコット・ラファロも、みんな夭逝。ある意味、羨ましい。

ワタクシは今、還暦を過ぎて40年程前のLPを聴きながら、ハタチの頃の気分になっている。
ダルい、シンドい、もうエエわ、で体力的には益々衰えていくばかりだか、気分はハタチ。
反戦、反核、反権力、弱者救済、相互扶助などの考えも、ハタチの時と同じです。


赤ちゃんのようなジャガイモとタマネギをカレーで煮て喰らう

2013-06-12 22:06:47 | マンジャーレ、マンジャーレ

梅雨入り、と言われてチョコッと雨が続いて、その後梅雨明けの様な晴天が続く。

そんな梅雨入り後の晴天は以前からもあって、何年か前の数年、6月の第1周か第2週は晴天の中、槍ヶ岳へ登って槍沢を滑ることにしていた。

024 これは’07年6月5日のもの。誕生日の一日前だったが、無事一つ歳をとることを槍のテッペンで確認した。

そう言う「オタンジョウビ」をその数年前から続けていた訳だが、最後は’09年。

071 翌’10年は5月下旬に涸沢から白出のコルへ登った後、急にやる気なくなって、その後も行く気が起こらず、今年もダルい、シンドい、もうエエわ、でひきこもっている。

さて、今日の天気、台風が東へ逸れて、外は梅雨明け(?)、イヤ台風一過の秋のすがすがしさ。
これなら6月第3週だって槍沢は滑れたハズ。タダ、ワタクシの元気がないだけ。

いずれにせよ、明らかに気象は異常です。

ひきこもりの日々、先週もファーマー“昔のトモダチ”サンから、タマネギ、ジャガイモを貰って、早速ポテトサラダなどを作ってそれをアテに呑んでいた。

そして今日はカレーでそれらを煮て喰らう事にした。

カレーは硬く安っすい牛肉を美味く喰らう方法であり、ヤサイを喰う為の「鍋」だと思う。

昔はルゥを使わない方法でやっていたが、最近は市販のルゥを使う。これもスーパーで並んでいる一番安いモノ。
硬く安っすい牛肉を柔かく喰えるまで長く煮るので、ヤスモンのルゥでも安モンの肉からダシが出て美味い。大体、ルゥのパッケージの裏に書かれている成分はどのメーカーのモノも同じだし。

で、とにかくパッケージに描かれた分量に従って煮るが、ナンセこれは鍋なのだ。
まず、分量より少し多めのタマネギと、親ゆび程度のニンニクとショウガをフードプロセッサーでミジンにする。
次に安モンの硬い肉を常温にして塩コショウし、アツアツの鍋で焼き色をつける。
そこにミジンにしたタマネギ他を入れて、グチュグチュ炒めて、テキトーに混ざったら、カレー粉を加え少し炒めて、カレーっぽい香りがしてきたら分量の水を入れ、沸騰したらアクを取り、月桂樹の葉ァを2枚ほど入れ、パッケージに描かれた時間より長めに煮る。煮ていたのを忘れる程、煮る。
煮ていたのを思い出した頃、火を消してルゥを溶かし、また忘れるほどまた煮る。
煮ているのを忘れていても、ガスレンジは1時間で止まる様に制御されているので安全です。

そしていよいよ「鍋」にする。

貰ったジャガイモ、包丁で皮を剥こうとすると、表面の薄いやわ肌がペロンと剥ける。エエッ!ナンデ?生のままヤのに。
そして赤ちゃんと言うかピチピチギャルと言うか、そんなツル肌が現れる。思わず頬ズリしたくなりそうになる。
これは包丁で分断してはいけない。そのまま「鍋」に放り込む。

次に小さいタマネギ。これも極力やわ肌を残して丸々放り込む。

そして忘れるほど煮ると、とても美味い「鍋」の完成。

Imgp5080 ジャガイモは表面の1割程にカレーが浸み、程良く煮られていた。
タマネギも同様にカレーが浸み、独特の甘さがにじみ出ていた。ヤスモンの硬い肉も数時間煮て、箸で千切れるほどに柔かくなっていた。

Imgp5082_2 前に貰ったキャベツとタマネギでコールスローも作った。

この夜のBGMは、ボサノバの美しきミューズ、「ナラ・レオン」、CDの最初の曲は“インセンシティブ”。
これ確か、「こんなに愛してル私の気持ちが判らないおバカさん(インセンシティブ)」とか言う意味だったと思う。

でも今回はワタクシ、赤ちゃんと言うかピチピチギャルの様な、柔いタマネギとジャガイモの気持ちは判りましたけど。
まだ「彼女達」タマネギとジャガイモは残っている。しばらく「鍋」のカレーは楽しめそうだ。


今年の古着寄付

2013-06-10 13:43:34 | 朽ちゆく草の想い

3年前、オフクロの3回忌も済んだので、布引谷・山の家に残っていた衣服等を片付けることにした。

片付けていくと、初めて見るモノも多く、明らかにオフクロの趣味ではないモノも沢山あった。多分、親戚などからの形見分けだと思う。
オフクロは供養の意味でもらって、そのままタンスに仕舞っておいたのだろう。一度も袖を通すことなしに。

形見分けとはそう言う運命を辿るモノなのかも知れない。
大体、この国には衣服が溢れている。シーズンインに直ぐバーゲン、流行りのモノがナンボでも安く手に入る。
死んだ人が遺していった服を貰っても着る機会はない。

で、オフクロが遺して逝った衣類は、色々調べた結果、某NGOがやっている古着支援でミャンマーにある難民キャンプに引き取ってもらった。100リッター程の段ボール2箱分。
東京の倉庫まで元払いで送り、現地までの輸送費等¥1,500.-/箱を寄付するというシステムだった。

一昨年は叔母の服を同様に処理した。

叔母は胃ろうで生かされている状態で、その頃からほとんど横になって眼は閉じたまま。住吉の家に残した服を着ることはない。
しかし、大して残っていなかった。叔母を超高級老人ホームへ入居させた友人が、金めのモノと一緒に片付けたのかも知れない。
それでも段ボール1箱になった。
ワタクシの古い衣類と、山の家で別に出て来たモノも含めて、一昨年も段ボール2箱。

叔母はオフクロより口うるさかったもう一人のオフクロ。二人のオフクロの残り物を処分するのは一人ムスコの仕事。
昨年も色々片付けて段ボール1箱。

結局2軒の家に残された衣類を3年がかりで片付けた。

難民キャンプは山岳地帯にあり、夜は寒いらしく、昨年はスキーウェアも古着支援の対象となっていて、冬山用のアウターも引き取ってもらった。

このNGOが古着支援を行うのは6月の初めの約10日間。丁度衣替えの頃。
衣替えのついでに、不要な衣服を引き取って頂いていた事になる。少しココロ苦しい。
しかも募集サイトに載っている、「特に幼児服、子供服が必要です」の一文が気になっていた。

幼児服、子供服の古着など山の家にも叔母の家にもなく、当然ワタクシの家にもない。どうするか。難民キャンプでは幼児服、子供服を待っている。

古着は、「クリーニングに出したもの、あるいは自分で洗濯してアイロンをかけたもの」となっている。
それなら、新品を買って袋から出して、ラベルとか値札を取れば同じ状態になる。

と言う事で先週木曜日、近所の子供服屋サンへ行って、「ゴソッと買うから袋から出して、ラベルを外して、キレイに畳んで、段ボールにいれた状態で受け取れる様にしてもらえますか」、と売り場のオネエサンに訊いてみた。オネエサンは快く了解してくれた。

そして、夜は寒いと言う事なので、長袖のシャツやズボンを、トータル1万円程度を目標に、テキトーにカゴに入れていった。商品は全てハンガーに吊るされた状態で並べられていた。
近くでは若いオカアサン二人が、「ワァ、これカワイイッ!」「キャー、これもカワイイッ!」とか言いながら買物をしている。そんなカワイイッ!のもカゴに入れた。

段ボールは50センチ角に近い大きさのモノをお願いしていたが、中々一杯にならない。
レジへ運ぶこと3回目で、ほぼ目標に届いた。30点あった。
「明日の朝、引き取りにきますので、ラベル、値札、チャンと外して畳んどいてください」、と言って精算した。

翌日、それを引き取って、空いた部分に自分が出した古着を詰めて発送した。ココロ苦しさは少しマシになった。

これからもこの方法で不要な衣服を引き取ってもらおうと思う。

“お独り様”になって益々モノが増えている。
自転車は3台になった。スキーとブーツは2セット増えた。ついつい本とCDを買ってしまう。
せめて衣服だけは徐々に片付けていこう。いつ死んでもエエように。