蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

どこか・とおくへ・いきたい:謂れのない旅

2012-11-24 23:57:37 | 一人ブラブラ

呑んでヘペレケになった後、遠くへ旅する人がワタクシの周りに何人かいた。主に加古川や姫路にスィートホームがある人だった。
三ノ宮で呑んだ後、九州行き寝台列車に乗ってしまって、広島まで行った人、下関へ行った人。彼らは西の各地へ深夜の旅をした。

関西圏で行ったり来たりした旅人もいた。
枚方へ帰るのに三ノ宮から高槻行き各停に乗って高槻まで行って、大阪へいったん戻ろうとして西明石まで行って、また高槻まで行ったおバカ。ナント3度、乗り換えの大阪駅に近付くと寝込んでしまった、と言う訳だ。

キミは大阪を乗り過ごすのが趣味か。
「イヤ、フツーはチャンと乗り換えてますよぅ、その日はかなり酔っ払っててェ ・ ・ ・ 、結局その後電車なくて、タクシーで帰ったンですよぅ、淀川渡ったら直ぐ枚方ですしネ、最初からそうすりゃよかった、エヘヘ」
その日はたまたま一緒ではなかったので、彼がどれくらい酔っ払っていたのかは判らないが、この逸話はたちまち社内に伝わり、それまでも「変人」のホマレ高かった彼を「大変人」にした。黙ってれゃよかったのに。

ワタクシ、布引谷に住んでいた30歳前までは、酔っていようがいまいが帰宅するのに交通手段を使う事はなく、お金のない学生の頃はヘベレケでも歩いて帰った。
従って、酔っ払った後の旅はなかった。

しかし、途中でよく寝た。
通勤路は市ケ原、再度山、摩耶山に繋がるハイキングコース、横になれるベンチはいくらでもあった。
月給取りになると、時々タクシーにも乗ったが、ナンセ深夜の山の中、帰りの客は見込めないし、とにかく物騒、乗車拒否はしょっちゅうだった。
事情を知らない運チャンの車に運良く乗っても、行き先が山の中のとんでもない所だと言う事が判ると、途中でよく降ろされた。

道路の谷側には当然ガードレールがある。それが丁度腰を降ろせる高さと巾のコンクリート製。タクシー降りて少し歩いて、眠たくなってそこへ座る。そして横になる。寝込んでしまう。
気が付くのは寝返りを打ってそこから落ちる時。幸いいつも道路側。谷側へ落ちて、斜面を更に転がり落ちることはなかった。

ある夜、幸い家の近くまでその夜の運チャンは乗せてくれた。家までは後数100m。
しかし途中の路上で寝てしまった。しばらくしてオヤジが車で帰って来た。

季節は夏。度々浮浪者(今はホームレスとか言われる人たち)が涼みに登って来ている。オヤジはまた浮浪者か、と思って窓から路上就寝者を覗きこんだ。
「ホンなら、我がムスコやぁ、あれは情けなかったわぁ」、後日親戚との酒席で、あきらめがちにそう話していた。
オフクロはもっと情けなかった様で、オヤジからの話を聞いて直ぐ懐中電灯を持って走って来て、「アンタっ!ホンマこんなベロベロになって、もうナサケナイッ」、半泣きでワタクシを脚でこついでいた。

まァ大した出来事ではない。
もっとスゴイこと、色々やっとったでぇ、と呑んだ後日良く聞かされた。「よう、あれでKサツのお世話にならンかったモンやわぁ」

毎回、酔っ払ってヘペレケになって何時間か経って、次に眼が覚めるまで、いつも記憶が飛んでいた。
その間、逮捕もされず、反社会的組織と呼ばれる人達にボコボコにもされなかったのは、オフクロが言う様にオバアチャンが守ってくれていたのかも知れない。

その後、垂水に住むようになってから、何度か西明石まで旅をする事があった。各停にさえ乗れば、網干や赤穂に行くことはない。
しかし、初めて西明石で目が覚めた時はショックだった。
「イヤ、ここまで来て垂水へ帰られる方、沢山いますよぅ」、タクシーの運チャンにそう慰められた。

しかし遂に、東京からの会議出張帰り、姫路まで行ってしまった。
八重洲地下で仲間と呑んで新幹線に乗って、乗ってからも呑んで、名古屋で豪傑が一人降りて、大阪であまり呑めないノのが一人降りて、後残るのは新神戸で降りるワタクシと部下の二人。
新神戸までは20分弱。しかし、二人とも寝入ってしまい、眼が覚めると終点の姫路。戻る電車はない。

部下はソソクサと改札を出て安宿を探しに行った。
ワタクシは構内をフラフラして、結局コインロッカーの中で始発まで待った。
大きな荷物が入れられる、コインロッカーの下段の箱。中はそこそこ温いし、適度な拘束性があり数時間なら座って過ごすことは出来た。当然脚は外。
しかし、まぁまぁスリムでまずケツが入らなければダメ。部下はケツがデカイのでまず入れなかっただろう。
翌朝、上りの始発で新長田まで行き、地下鉄に乗り換えて帰った。いつもの定期で電車に乗るパターンに戻っていた。乗る方向はいつもの朝とは逆だったが。
そして、ワタクシの奇行がまた一つ知れ渡った。「コインロッカーの中で寝たそうですねぇ、寝心地どうでしたぁ、へへへぇ」

呑んだ後の謂れなき旅は、会社を辞めた後も続く。

昨年末は明石まで行った。
しょっちゅう自転車で走っているエリアだから、歩いて帰るのは大したことではない。R2沿いの歩道をヒタスラ歩く。
気が付くと若いオマワリサンに起こされていた。「ダイジョウブですかぁ?」「エエ、多分」「それなら気を付けて帰って下さい」
保護はおろか、何の心配もされなかった。

そして、今週木曜日、京都の手前まで行ってしまった。
その日、我が登山と酒とジャズの師匠でもあり、先輩、そしてザイルパートナーでもあったチッチャイおっちゃんと、チッチャイ者同士でン年ぶりかに呑んだ。
大久保のショッピングセンターのフードコートで、スーパーで酒とツマミを買って15時から呑み始めた。

この人と呑み始めると、ワタクシは完璧に自由になる。足カセなし、赤信号なし、コワイもんなし。

そして何時に、どんなシチュエーションでバイバイしたか覚えていない。
気が付けば、空いた快速のボックス席で脚を伸ばしてリラックスしていた。ここはどこ?
次に停まった駅で取りあえず降りた。島本と言う駅だった。次は山崎となっていた。あ~ぁ。

その後来た下りに乗ったが大阪止まりだった。次の下りに乗らなくっちゃ。
「もう電車ありません、終電おわりました、とにかく一旦駅、閉めますので出て下さい」

大阪駅は最近新しくキレイになったそうだが、冷たいモンである。

ホームから連絡通路に下りると、ナンカか昔見た光景。そこは昔、度々夜行に乗ったホームに続いている。そのままツツツっと進んでホームへ上がる。
ここから何度、信州や富山行きの夜行に乗ったのだろう。「ちくま」「きたぐに」、直ぐにそんな急行がきそうな気がした。
フト、先を見ると煌々と明かりが灯った待合室。トトトっと歩いて中へ入ると温い。ベンチに座ると心地よい。スゥーと寝掛けたら、「お客さん、お客さん、閉めますので出て下さい」

その後、大阪駅の周りをフラフラしていたが、どこをどう歩いたかは判らない。雨が降り出して、外は寒かった。
新装開店したらしい百貨店の庇の下で、男女入れ乱れた若者が、カラフルなシートを敷いてワイワイ楽しそうにダベっていた。彼らも終電を逃したのだろうか。
駅の大きなホテルの裏口は開いていて、ティラウンジで過ごせないかと入ってみたが、夜用(?)のフロントのニィチャンには全く無視された。

結局、コインロッカーが並んでいるエリアに辿りついて、以前の姫路駅の時の様に、大きなロッカーに潜りこんだ。
しかし、直ぐガードマンに起こされた。「おはようゴザイマ~ス」

4時過ぎだった。
始発は5時。取りあえずキップを買って構内に入った。
小便に行って、手を洗った後、ハンカチがないことに気付いた。その夜の奇行の唯一の遺失物だった。

5時の始発はそこそこ人が乗っていた。終電を逃したおバカは少なく、朝イチで仕事に出かける働きザカリがほとんどの様だ。皆さん、大変だぁ。

今度はもう垂水駅を乗り過ごすことはなかった。
今回の謂れなき旅の終わりは、まだ夜明け前、暗かった。昨夜の続きの様だった。


人工の紅葉と里山の黄葉

2012-11-17 12:23:24 | 自転車でブラブラ

昨日は三木の防災公園への60kmコース。12時出発。

学園都市~農業公園前~R175~神鉄・恵比寿駅前~志染窟屋前~防災公園の裏門にはメタセコイアの見事な紅葉。

Imgp4137 メタセコイアは森林植物園などにも沢山植えられていて、どこでも紅葉は見事です。

英名はDAWN REDWOODと言うらしいが、ウディ・ガスリーが歌う「THIS LAND」の ・ ・ ・ from redwood foreat to the Gulf Stream water ・ ・ ・ は、この紅葉の森のことだとズッと思っていた。
しかし、ホントは数10mの高さまで成長する、幹の赤いセコイアの森の事だとか。

Imgp4138 イチョウはもう散り落ちていた。散歩している人がチラホラ。

公演をグル~っと1周して押部谷駅へ下る。

Imgp4139 農業公園近くまで戻ると、黄葉の里山。

16時45分、無事帰宅。そこそこ寒かったが、まだしばらくは走れるかも、まだ飽きてないし。


パンク騒動、徒労の結末

2012-11-15 12:45:05 | 自転車でブラブラ

5年前まで勤めていた特殊機械メーカーの製品は、欧州メーカーのコピィで、ベアリングはグリスを交換しながら使う形になっていた。入社時、研修で組立・分解を習った時、それが常識と思った。
何年か経って、あるお客さんからシールドベアリングが使えないか、と相談を受けた。しかし、僅かに寸法が合わずハウジングに納まらなかった。

なぜシールドボアリングなのか。
ベアリングのグリス交換は確か2万時間毎だったハズだ。8時間/日の運転で10年弱に一度、24時間連続でも3年弱に一度、作業としてはチョット大変だが、そんなに頻繁に必要な作業ではない。
その時古いグリスを拭き取って新しく塗り替えるのがイイのか、それともグリスが封入された新しいベアリングに入れ替えるのがイイのか。
ワタクシは使い捨て文化はキライなので、都度塗り替えて使い続けるべきだと思う。

ロードバイクのメンテの本などにも、車軸の分解・組立の方法が載っていて、ペアリンクのボールまでバラバラにして洗って組んでグリスアップする手順が書かれている。
しかし、ワタクシの自転車三姉妹の末娘のホィールはEASTONと言うアメリカ製。車軸のパイプには黒いユニットがカパッとはめ込まれているだけ。輪行でバラした時、落したりしたら大変だ。
「そうですよ、アメリカ製のホィールはみんなシールドになってます、分解できません、Campaとかヨーロッパのは今でも分解する様になってますけど」と、自転車屋のニイチャンも言っていた。確かに次女に付いているMAVICは分解出来そうだ。

とは言え、産業機械同様、グリスの劣化、交換時間が2万時間なら、20時間/週の走行で20年で初メンテとなる。ジテ通でもしておれば別だか、こう言うメンテは滅多にあり得ない。
ワタクシには生涯、自転車の車軸を分解する必要ない。

しかし10月末、11か月ぶりに自転車を再開してから、自転車三姉妹の長女、小径車の車輪をバラしてばかり。つまりパンク修理に伴うチューブの出し入ればかり。

部屋には穴の開いたタイヤチューブが3つ。開いた穴は4つ。うち2つはリムテープが破れたことによるパンク。後2回は、ホームセンターで購入したママチャリ用のリムテープがずれたことによるパンク。
チャンと専用のモノに替えておけば後2回のパンクは避けられた。と言うか最初の後輪のパンクの時、前輪のリムテープも交換しておけば計3回、パンクは避けられた。メンテの本にはリムテープは消耗品で定期的に交換せよ、と書かれていた。

そしてパンクの都度、補修用のノリ付きパッチを貼って再使用を試みた。直して使えるモノは直すべきだ。使い捨てはキライだ。
しかし、上手く行って1日保てばいい方で、数時間で空気が抜けてしまう時もある。
ただ、ペシャンコになったチューブを取り出し、空気を入れて水につけてもモレの様子はない。
そしてタイヤ装着し5キロのエアでパンパンにすると、見事にシューッと抜けていく。やはり補修用のパッチでは5キロ圧のエアを封じることは無理なのか。

サイトで色々調べていたら、チューブの裂け目と補修用のパッチの対角を合わて貼れ、と書いてあった。

Imgp4114 これまでは何も考えずに貼っていた。

Imgp4115 で、パッチの対角を合わせて貼った。しかし、タイヤに装着し、5キロでエアを入れて3日目の朝、やはりタイヤはペシャンコになっていた。

もうこうなったら、昔からある補修パッチを接着するやり方でいくしかない。ホームセンターで5枚入り¥128.-。

Imgp4116 見た目汚いが、ノリ付きのイージーパッチよりかなりバッチリな感じ。

フト見ると後輪のタイヤ、回転方向を逆に付けている。一昨年のパンク修理の時に逆に付け、そのまま400km以上走っていた。

Imgp4117 付け直すべく、タイヤを外すとリムテープがこんなに凹んでいる。リムテープはまだタップリ余っている。重ね巻きした。

さぁ、これでパンク騒動も終わり。タイヤに装着して5キロの空気でパンパンにしてスタンバイ。10月の終わりから何度、この作業をやっただろう。あぁアホクサ。

しかし、しかし、翌朝、またタイヤはペッシャンコ。エエッ!なんでェ。

チューブを取り出し、空気を入れて水に浸すと、確かに微細な泡が出ている。クソッ。

そして、もう一つのチューブを同様に水に浸すと、ブクブクブク。

Imgp4118 激しくモレている。なんでやろ、ムムム。

思い当たることは、使ったゴム系接着剤。要するにボンドだが、これ確か何年も前からのモノ。
大体のモノはくっ付くが、5キロのエアをピタッと封じる接着力はなかったのか。イヤ、パンク修理用の専用ゴム糊を使わなかったからかも知れない。

まぁもうイイです。もう修理は飽きた。

サイトでチューブ2本とリムテープ1組を通販。溜まったポイント使って合計¥700.-。

2週間の徒労の日々、ホンマ、アホラシ。

Imgp4125 リムテープ、チャンと付けました。

そしてやっと昨日、2週間ぶりの走行。

しかし、寒い、風強い。遠くまで行けない。
自転車着に着替えず、リーバイスのままホームセンターのウインドブレーカーを羽織って、学園都市~農業公園前~R175を往復。

Imgp4136 途中の西神墓地、はるか遠くに淡路島、ほかにはどなたもおられません。


病弱だったオヤジと最近判った不具合の原因

2012-11-13 14:19:46 | 朽ちゆく草の想い

ワタクシが小学校4年生の時、オヤジは胃潰瘍で胃を2/3切除した。

当時オヤジは加古川の運送会社に勤めていた。
頻繁に胃痛で苦しんでいて、ある夜、自ら車を運転して町の病院に行ったこともあった。

オフクロから「アンタが付いて行ったって」と言われ、小学生のワタクシが付き添った。
夜遅い診察室で、昼間喰ったハンバーグが何か影響しているのか、と言う様な事を医者に訊ねていた。
オフクロや叔母が、焦げたモノが胃腸に悪いとか話していた。オヤジもそれを聴いて焦げたミンチを喰ったコトが気になっていたンだろうか。

そして、痛みが治まると、また酒を呑んでいた。

その後、ついに救急車を呼ぶまでの大騒ぎをして、そのまま入院した。日曜日の昼間だった。
オフクロは救急車で病院へ同行した後、戻って来て再度、沢山の荷物を持って病院へ行くことになった。
タクシーを呼んで行くなどと言う経済的余裕はウチにはなく、世間一般の少しお金持ちの家庭にも、そんな贅沢な文化はまだなかったと思う。
家のある布引谷・市ケ原からふもとの布引までは、空身でトトトッと降れば30分程度、当時布引には市民病院があった。当然オヤジはその病院へ放り込まれているハズだ。

しかし、歩いて戻って来た後、また山道(ハイキングコース)を沢山の荷物を持って30分、歩くのは大変だ。
当時、世継山山頂付近にはゴルフ場がほぼ完成していて、その関係らしき車が頻繁に走っていた。我々小学生は学校からの帰り、時々そんな車をヒッチハイクしていた。
その日もそれを期待し、オフクロと連れ添って数100m程歩いた時、「カモ」が来た。小学生のワタクシはサムアップした手を掲げ、母親を街まで乗せてやって欲しい、と頼んだ。オフクロはその車で病院まで送ってもらった。

ワタクシはその夜、お留守番。山の中で一人で寝ることをコワイ、とは思わなかったが、寝る時間になって隣のオニイサン、時々一緒に遊んでいた中学生が泊りに来てくれた。隣は三ノ宮の高架下で床屋を営んでいる一家の「別荘」になっていた。

オヤジの胃にはかなり大きな穴があいていて、そこから出血していた。
手術は野崎通にある外科医院で行った。3年後通う事になる葺合中学と、6年後通う葺合高校の丁度中間にあった。
市民病院ではなくその病院になったのは、叔母がオハリコをしていた洋装店のオトモダチ(経営者)の紹介だった。そのオトモダチの同級生がそこで事務をやっていたらしい。

ワザワザその病院に替える意義がどれだけあるのか。紹介されると手術や治療がよりよくなるのか。
そんなことがあってはいけないハズだが、このオトモダチ周辺の「常識」は、ツテのある病院にまず入院し、直ぐ担当医宅に挨拶に行き、退院する際にはお礼に行く、と言うおバカなものだった。当然、菓子折りは欠かせない。

その1年前の春、オフクロと叔母は母親を亡くしている。ハンセン病の療養所で亡くなった。子宮ガンだったそうだ。
療養所で葬式を済ませ、夜遅く二人は帰って来た。ワタクシには何も知らされず、おばあちゃんがどんな死に方をしたのか、問いただすまでオフクロはそれを語らなかった。
ワタクシが生まれる2年前、この二人は妹も亡くしていた。結核だったそうだ。
家族の「死」は常にそばにある、二人にはそんな感覚があったとしても不思議ではない。もう家族が死ぬのはゴメンだ。
二人はこのオトモダチの「常識」に従って、ツテのある病院にオヤジを入院させ、担当医に菓子折りを運んだ。

そんな効果があってかどうか、オヤジの手術は無事終わって、学校からの帰り病室に入るとオヤジは寝台に横たわっていた。
フトンから手を差し出し、蚊の泣くような声で何か言った。ワタクシの名を呼んだようだった。「手ェ握ったり」、とオフクロに言われワタクシはそうした。

手術は無事終わったが、輸血が原因の肝炎になり、直ぐ退院は出来なかった。
結局オヤジはその夏、3ヶ月弱を病院で過ごした。
病室は古い洋館の様な建屋に移った。薄暗い大部屋だった。当時はエアコンなどなく、蒸し暑くジメジメして南京虫の棲家でもあった。
患者の寝台のそばの床で、付き添いの家族が寝泊まりしていて、オフクロも殺虫剤をまきながら南京虫と寝泊まりしていた。

ワタクシは1学期の期末テストの前から2月期が始まって9月の中頃まで、布引谷の家と病院を行き来した。病院の周りには同級生が何人か住んでいて、一緒に遊んでいた。
しかし衣食住はどうしていたのか、あまり記憶がない。叔母が世話をしに来てくれたこともあったが、一人で過ごした夜も何回かあったと思う。

オヤジの胃潰瘍の原因は酒だとオフクロ達は思っていて、痛い目に遭い、周りにも迷惑をかけて、オヤジはもう酒をヤメる、と周りは思っていた。
しかし、オヤジは直ぐまた呑み始めた。そして、それまでガリガリだったのが、逆にふくよかになり、貫禄も出て来た。

その後「痔」主になった事もあったが、しばらくはまぁまぁ健康だった。

次に入院したのは10年程後、夙川奥の北山公園近くのホテルの様な病院だった。
オヤジはその頃、運送会社の雇われ社長で、何かの検査入院だった。
当然オフクロが付き添う必要はなく、ワタクシも見舞いに行く状況なとなく、ただ友達の車でその辺りを走った時、それらしき建物は判った。確かにリゾートホテルの様だった。
おバカな会社経営者が、病気を理由に組合争議などから隠れる時にも使われている様で、「夜、ナンヤ会社の幹部見たいナンが集まって会議なんか、やっとったわ」とオヤジは言っていた。

そんなプチセレブ的雰囲気の中での数日間が、オヤジの人生の絶頂だったのかも知れない。
5~6年後、オヤジは運送会社を追い出され、その関連の梱包会社の女性経営者とネンゴロになり、そこでまた雇われ社長になった。そして、結核にもなった。

「エエッ!ナンデいまどき結核なン?」
しかし、確かに垂水駅の少し西の丘の上に療養所はあって、そこにオヤジは入っていた。30年程前のことだ。
ひっそりとした室内、寝台横に畳張りの小部屋があって、正に長期療養が必要な患者と家族の為の雰囲気がそこにはあった。

ワタクシは既に所帯を持ち、二宮で別生活をしていたので、罹患、入院までのイキサツは知らなかったが、オフクロと一緒にその部屋に入ると直ぐ、二人はネンゴロになった女性の事でケンカを始めた。

他に患者が何人いたかは判らないが、建屋の中はホントにひっそりしていた。そこで60歳近い男女のナジリ合いが響く。
もうアホらしくてやってられなかったが、ムスコと言うのは何があっても母親のカタを持つもの。
ワタクシは結核患者のオヤジを突き飛ばして、オフクロを山の家に連れ帰った。
「アレ、アンタに突き飛ばされてヨロヨロと倒れかけて、オモロかったなぁ」、とオフクロは喜んでいた。

その3年後、オヤジは阪急御影の高台にある病院に入院し、翌年2月亡くなった。肝臓ガンだった。62歳と4ヶ月の寿命だった。男女二人の孫を持つオジイチャンだった。
オフクロと叔母、そしてネンゴロになった女性に看取られた。3人の女性がワンワンと泣く部屋で、ナンデこの人達はこんなに悲しいのか、一人息子のワタクシは判らなかった。

何故なら新しい命が前年の8月にあったからだ。病室でその孫の女の子を嬉しそうにオヤジは見ていた。
新しい命が一つ現れると、古い命が一つ消えてもいいのでは、とワタクシは思った。

骨になって戻って来て、しばらく経った後、「ホンマあの人はアホや、好きなコトして、あげく病気ばっかりして」とオフクロは呟いた。ワタクシが知らない病気も他に色々あったのかも知れない。
そして「アンタもお父ちゃんの血ィ、ナンボか継しでるンやし、気ィつけンとアカンよぅ」、オフクロはそう言った。

「お父ちゃんの血ィ」とは胃腸系と肝臓が弱い、と言う事か。
確かに、小さい頃からしょっちゅう胸ヤケがあった。朝ゴハンの後はいつも胸ヤケだった。
通学路、つまりふもとの熊内までのハイキングコースは、毎朝胸ヤケの状態で歩いていた。
ボタモチやゼンザイなどのアンコ系を食べた後、デパ地下のコロッケを食べた後などもよく胸ヤケになった。
オフクロは生まれて一度も胸ヤケを知らないニンゲン、「ヤッパリお父ちゃんの血ィ、引いてんねんなぁ」と言っていた。

子供の頃の胸ヤケは、酒を呑むようになって、ナゼか若干減った。そして替わりに呑み過ぎて胃痛になりだした。
大酒飲んだ翌日は、チクチク痛んだり、キリキリ痛んだり、ググっと掴まれた様に痛んだ。しかし、それを楽しむように悪友と競い合って、呑んだ。
そしていつか、オヤジの様に胃潰瘍になる、と思っていた。

会社の仲間たちは、ワタクシの浴びるほどの呑み方を見て、「その内、肝臓やられるでェ」とも言っていた。
しかし健康診断でそれを指摘された事はなかった。
毎回、悪友達は、「今年こそ肝臓悪いて、言われると思てたンやけどなぁ」と残念がった。

ただ一度、バリウム検査で胃潰瘍の可能性を指摘された事があった。遂に来るものが来た、と思った。
覚悟をして、ポーアイに移転した市民病院へ行って、死ぬ思いをしながら胃カメラを飲んだが、結果は異状なし。あぁアホクサ。

その後も何回か、胃潰瘍の再検査を指示されたが、放ったらかしにしていた。
「どうしてキチンと検査しないんです?何かあったらどうするンです?」と、叱り気味の医師もいたが放ったらかし。
いつの間にか「胃潰瘍の可能性あり」が「慢性胃炎」になっていた。

慢性胃炎は胃潰瘍に繋がるのかどうか、よく知らないが、実はその何年か前、偶然胃痛の治め方を発見していた。

ある時、何気なくチクチク痛む胃の上の辺りに手を置いてナデナデしていると、グルっとハラが鳴って発生したガスがプゥ~と出た後、痛みがフゥ~っとなくなった。
その後、胸ヤケの時にもそうすると、同じ様に治まった。
悪いカラダの部分に手を置いて治す、「手当て」とはそこからきている。ナルホド。

外気にさらされ冷たいハズの掌なのに、オナカをナデナデすると、ナンカほわ~ンとする。そしてオナカは心地よくなる。最後に屁は出るけど。
これ、要するにオナカが冷えていると言うだけの話し?
それなら単純にハラマキをすればいい訳か。

数年前、自転車の雑誌か何かで、サイクリングに最適な薄手のハラマキが紹介されていて、早速使ってみた。
圧迫感はかなりあるが確かに温い。ズッと付けていた。
ただ、オナカが痛くない時のハラマキは暑いだけ。で、夏はやはりオテテで治すことにした。

フト思った。冷えると風邪をひく、オナカが痛くなる、これは昔からよく言われること。それならナゼ、小学生のワタクシが胸ヤケした時、オフクロはハラマキをさせなかったのだろうか。胸ヤケを経験したことがないからそう言う発想がなかったのだろうか。
そう言えばオフクロは頭痛も知らないと言っていた。
オヤジと違ってオフクロはとても丈夫だったのかも知れない。
丈夫な女性は良妻賢母になれないのかも知れない。

頭痛に関しては、ワタクシもそれはない。昔からズッとあるのは、「お父ちゃんの血ィ」引いた胸ヤケ、胃痛だけだ。そしてそれもオナカの冷えが原因だとやっと判った。

しかし最近、オナカの冷えだけではないことにも気が付いた。

10月半ばまでは、まだ夏モードのスッポンポンだった。とにかく暑いのはイヤだ。少々寒くてもそれで良い。
そして10月後半、何度かオナカがキリキリし出した。フツーに服を着てハラマキを巻いた。
次にキリキリした時は、シャツを厚手に替えた。
ついでに衣替えをして、カーディガンも羽織ったら治まった。
肩が冷えてもオナカが痛くなるものなのか。

毎晩酔いつぶれるので、寒くも寝てしまう。しかし、寒くて眼が覚めることがあった。
寝ていて肩が冷えているのかもしれない。掛けブトンを出さなくっちゃ。

しかし、シーツが破れてボロボロ、大体、寝具に興味はない。テントの中よりマシ、山小屋のフトンよりマシならそれで結構。
だが今回は、フツーの生活を目指しましょう。

と言う事で先週、近所の「おネダン以上ニトリ」へ。布団は日中、チャンと干しておいた。
日曜の夕方、家族連れがいっぱい。そんなに買うモン、いっぱいあるンやろか。
フトン売り場へ行くと、腕を組んだ若いカップルがお買い物中。何かエロいことを連想をしてしまう。

一人暮らしの還暦オヤジも、柄モノシーツと枕カバーを買って帰った。実は枕カバーも何年か前破れて、その後ズッとタオルを巻いていた。

Imgp4105 多少はフツーの寝床らしくなった。

その後、何回か湯船にキチンとお湯を張ってお風呂に入った。
そして一昨日、ガスファンヒーターを出して点けた。
お蔭サンで、しばらく、キリキリすることはなくなった。

フツーに全身を温めるとオナカは痛くならないだけ、なのだ。

Imgp4129 公園の木はだいぶ赤くなって来た。いよいよ待ちに待った冬です。


神戸憲法集会で木津川計さんの講演を聞く

2012-11-05 14:08:20 | 一人ブラブラ

何年か前までは、毎年11月初めの連休に、奥穂へ登っていた。
稜線あたりは根雪となる新雪に覆われていて、梓川沿いの黄金に輝いていたカラマツは散っていくだけ。そんな世界で遊ぶのが楽しかった。

040 08年の奥穂、3度ここで遭遇した川崎の写真家サンに撮ってもらったモノ。

042 涸沢まで下って来て奥穂を見上げる。

しかし5年も続けると飽きてきて、しかも登ること自体が段々しんどくなって、去年は夏頃から自転車で走りまわってこの連休は100kmに挑戦したり、六甲山へ行ったり。

そして今年は自転車もしんどくなって、結局3日は憲法9条を守ろうと言う人達の集まり、神戸憲法集会で、木津川計さんの講演を聞きに行った。
しんどくなってきたのはナサケナイが、こう言う集会にいくのも大切です。

ワタクシ、護憲派と言うか、反戦派です。

もし、昭和22年5月3日に施行されたこの国の憲法が、あの戦争でヒドイ事をして、ヒドイ事をされたにも関わらず、「陸海空軍その他の戦力を保持し、国際紛争を解決する手段として、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇および武力の行使を行う」、となっていたら改憲派になっていたはず。
戦争を知らない子供達ではあるが、人がコロしあう戦争が絶対ダメ、それはよく判る。

戦争はダメ、こう言う考えの人は昔から沢山いた。しかしそう言う人達は投獄されたり、冤罪で処刑されたり、憲兵に虐殺されたり、もうムチャクチャ弾圧された。
「軍」をもつ国家は、自国の平和を唱える人達にも銃口を向ける野蛮なモノなのだ。

しかし最近、世界で何番目かに強い自衛隊を「軍」にして、国際紛争解決の手段に使おう、というおバカが何人も出て来て、彼らにはナゼか人気があるらしい。
他にも色々勇ましいコトを言うからかも知れない。改革とか維新とかグレートリセットとか。

そして皆さん、「何かしてくれる」と期待して、軽い気持ちで投票してしまう。
おバカ達は言う、「中国や北朝鮮が攻めてきたらどうするのか」と。そう言われるとそこそこ賢い有権者も「そらそうや」となってしまうよネ、あぁアホクサ。
そんなニンゲンの勇ましい感情が高まって、集団ヒステリーとなり、踏み込んではいけない危険なゾーンに入ってしまう。

しかし、武力で争っても、最後は講和、休戦協定とかの話し合い。それなら最初から、話し合い、協議、交渉で解決したらエエやん。そうした方が合理的やん。

合理的であること、それはビジネス、つまり営業活動ではとても重要です。そしてケンカをしていてはモノは売れません。
客に原因があると思われるトラブルでも、ケンカをせずトコトン対応し、誠意をもって説明すると必ず解決します。
そしてその客は大きな御得意サンになっていく。そうやって売り上げは伸びていく、合理的に。

国際紛争も武力で解決してはいけない。それで儲かるのは軍需産業、武器商人だけ。

で、神戸憲法集会、開場は西神中央の区民センター。

しかし区民センターの前に、ここでやってますよ、と言う看板もないし、建物へ入っても、ここから2階の会場へ上がって下さい、と言う案内板もない。
ワタクシ、奥の方へ入ってしまって、その先の階段を上がってやっと受付へ。なんかエライ無アイソです。

Imgp4100 木津川サンの講演題目は「優しさとしての文化」

まず最初に先月亡くなられた藤本儀一サンとのエピソードをお話しされた。木津川サンは雑誌「上方芸能」発行人、お二人はオトモダチ。藤本儀一サンも大阪9条の会の発起人だったそうだ。

その後、自著「優しさとしての文化」の内容に沿って、手塚治虫、山田洋次、長谷川町子、秋田実の、平和希求から発する「優しさ」についてお話しされ、最後に自衛隊イラク派遣の違憲訴訟の原告として、大阪地検で意見陳述された内容を紹介された。
そして、大阪9条の会の発起人が段々亡くなっていってサビシイ、「次は米朝さんでしょうナァ」との冗談でオワリ。
確かに、ここに集まっている、ザッと見て400人(?)のほとんどはワタクシより年上。隣のオジイサン、最初はメモを取っておられたが、いつの間にかオネンネ。当然、若いオネエチャンは一人も見当たらない。
木津川サンはこの後、立命大での教え子OBの集まりがあるとかで、京都へ向かわれるとの事。そちらの会場ではもっと若い人が待っているらしい。

休憩をはさんで、各地の9条の会の活動報告。伊丹や宝塚、東灘、北区、西神のオジサン達、皆さんマジメそう。地域のお年寄りの戦争体験談を文集にしているグループがいくつかあった。

「優しさとしての文化」を構築して来た人達は、戦争に行った人達と言うより、戦争中は小中学生の子供、所謂戦中派が多い様な気がする。
テンノウは神サンで、お前らもオトナになったらテンノウヘイカの為に戦え、と教え込まれ、しかし勇ましい経験をする機会はなく、だだ空襲等でヒドイ目にあっただけの人達だ。
そして多くは今、9条を守るという立場、皆さん80歳近いお年寄り。

この人達がいなくなると、残るのは「戦争を知らない子供たち」だけ。学生の頃はベトナム反戦デモに参加していたのも多かったはずだが、今も反戦精神は残っているのだろうか。
とは言え、ワタクシもこう言う集会はホントに久し振りだったが ・ ・ ・ 。