蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

43年前の7月9日

2010-07-09 21:07:48 | 神戸布引谷での出来事

43年前、7月9日、午後9時頃、この村のほとんどが消えた。

我が布引谷・山の家から500m程“奥”のこの集落の中心地、集中豪雨で多くの村民が避難していた大きな茶店を山津波が襲って、21名が亡くなった。
世継山の北側を横切る高圧線の鉄塔に落雷し、その衝撃で雨水で飽和状態になった山の北面が崩れた。
その原因はゴルフ場の開発で山肌が脆弱したから、と言われた。 

当時中学生だったワタクシ、その原因は素直に理解できた。 

しかし、その当時の事を憶えている住民はもう3人しかいない。と言うか、残った人は順次この村を去っていき、今ここに住んでいるのは7人程になっている。 

今朝、21人の命日、“奥”へ行ってみた。

Imgp2019_2  この先に、駐在所、民家、その先に茶店があってに賑わっていた。

Imgp2020  茶店の跡地から世継山を見上げる。落雷した鉄塔が見える。

Imgp2021  茶店の跡地には砂防工事の必要性を説明する看板が。

今はもう、このあたりを歩く ハイカーのほとんどが知らないようだ。 
現在ハーブ園がある処に、43年前ゴルフ場があって、それを作るために人の住む集落上部を開発し、それが原因で大災害が起きた事を。 


夢のあと

2010-07-09 20:23:23 | 車でブラブラ

昨日は御影の上にある老人ホームに、肌ブトン3枚、毛布1枚を持ち込んだ。 ワタクシが27歳まで棲息していた部屋から出てきたもの、古いが未使用(のハズ)。 この老人ホームは叔母が以前デイサービスを受けていた。 5月の終わりに階段下の押入れを片づけていて出てきた紙オムツ、尿もれパット、ゴミ袋2袋分、「要りませんか」とTELしたら引き取ってくれた。 その後毛糸一袋も。編み物が趣味の人が入居者の中にそこそこいるらしい。 「超」が付く程ではないが(失礼!)、そこそこ高級そうな老人ホームなのに、「頂けるンですか、アリガトウございます」、今回も快く引取って頂いた。 燃えるゴミになる運命だったモノが、あと少し役立っている。ありがたい。

時間はまだ9時半。帰るには早い。 梅雨時、失業者の一日は長い。取りあえず、近所の霊園へ。オヤジとオカンが入ってます。雑草引いて、オセンコ3本立てて、ナムアミダブツ。 それでもまだ残りは長い。 ブラっと走るか。 50m先のタバコ屋へセルシオで行くオジサンがいるらしい。歩いても数分のダイエーにワンボックスカーで行くオバサンもいるらしい。 ワタクシ、そう言う処へは歩くが、あてのない処へは車を飛ばす。 それが楽しい。 

まず東へ山手幹線を芦屋、夙川と走る。その後R171に出て、門戸厄神から阪急沿いに仁川、宝塚南口。生瀬を通りR176。いつの間にかJR三田駅前に来ていた、さぁこれからどうするか。 

ここから東北方向、後川方面へ走ると20年以上前、よく通ったサラダ工場があった。大手マヨネーズメーカーの系列だったはず、その年の売上の数ヶ月分がその工場立ち上げに伴うものだった。 工場長は船のエンジニアだったので、一般的なほとんどの機械を扱える、しかも何から何まだ自分でヤル、ナイスガイだった。 機械を納入した翌日、挨拶に行くと、今から設置し配線するとの事。 「お一人で、ですか?」 「ウン」 手伝うしかない。まだオイシイお付き合いが続くかも知れない。 結局夜中まで、その日の余ったポテトサラダを頬張りながら、スーツを着たまま作業に付き合った。 若かった。元気だった。どんな引き合いにも食らいつくダボハゼだった。 納めた機械は未経験的な要素も多く、不安も多かった。しかし、調子よく動いていて、別の工場が出来るときにも、ほぼ同仕様のものを採用してくれた。

その数年後、工場が閉鎖された、と聞いた。 理由はO175の影響で、惣菜産業の先行きが怪しい、との経営判断、と聞いた。 今どうなっているンだろうか。

有馬富士の裏側にまわりImgp2017 集落の角を曲がって進むと 建屋はまだあった。 しかし誰もいなかった。不安を伴いながら機械を納めた搬入口はシャッターが閉ざされていた。Imgp2016

夢のあと、だった。

その後、JR相野駅に出で、吉川、東条と山田錦のタンボをの中を突っ走り、三木、西神中央をかすめ戻ると、まだ14時前。 あぁ、一日は長い。