蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

ブラウン管との別れ方

2013-12-31 16:55:53 | 朽ちゆく草の想い

お独り様になって、つまりTVを見る家族がいなくいなって、TVはほとんど点けなくなった。
その後早期退職して遊び呆けるようになると、全く点けなくなった。

そもそもTVが点いていても画面は見ていなかった。要するにTVは聞いていただけなので、聞くだけならラジオにした。

そして点けても点かなくなった。

点いても見ないのだから、別にそれでイイのだが、故障したモノをそのままにしておくのはナンカ落ち着かない。
取りあえず取説を探し出して読んでみた。’98年に印刷されたらしい取説は、ナント色刷りだった。
本体前面下のランプの点滅回数をサービス窓口に連絡せよ、と書いてあったのでその通りした。

数日後、修理のオニイチャンが来て無事、点くようになったが、画面全体が薄赤くなっているのも故障で、これは直らない、また製造後10年経つと修理部品がなくなるので、今回と同じ故障がまた起きたら、もう修理できない、と言われた。

「最近の電気製品の寿命は10年と言うコト?」
「イヤ10年以上もつモノもあります、ただ10年以上経って壊れたら修理できない、と言う事です」
「つまり10年以上の寿命は保証しませんよ、ちゅうコトやろ」

いずれにせよ、どうせ見ないのだからまぁイイでしょ。DVDは、パソコンやポータブルフレーヤーがあるので、小さい画面をガマンすればフツーに楽しめるし。

そしてまた、点けても点かなくなった。ついにジ・エンド、TVはその後、大きなオブジェとしてリビングルームに鎮座する事になった。
山の家に残っていたン十年も前のTVは、六甲アイランドの引取場所に持っていった。いくばくかのリサイクル料金を支払った。
コイツもそうしようと考えたこともある。しかし、重い。ビクともしない。
以前カーペットを張り替えた時、別の部屋に動かしたことがあるハズだ。独りでやったハズだ。その時はどうやって動かしたのか、若かったから動かせたのか、ほんの5年程前だったのに。

とにかくブラウン管が重い原因らしい。いずれにせよ、鎮座させておくしかない。そう諦めたのはもう何年も前。

ところが、12月初め、久しぶりに郵便受けに溜まったチラシを片付けていたら、「不要な家電製品無料で引き取ります」と、書かれたチラシを何枚か見付けた。チラシに書かれた日時にゴミステーションへ出しておけば、勝手に持ち去ってくれるようになっていた。
しかし、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、ブラウン管モニターは有料で連絡が必要だった。確かにそう言うモノはゴミステーションまで運ぶことが出来ない。お金を出してでも引き取りに来て頂くしかない。

取りあえずナンボかかるのか、一つの業者にTELしてみた。

ヨボヨボのオジイサンの様な声だった。三千円だと言われた。リサイクル料金込みです、と言っていた。ほう、そんなモンか、と思った。
ついでにもう一社にもTELした。その業者のチラシには、古物商許可番号と産業廃棄物許可番号がキチンと書かれていた。
丁寧な話し方のオジサンの声で、千五百円と言われた。
エエッ、さっきの業者よりエライ安いヤン、リサイクル料金が別なのか、「イヤ、要りません」、ではどうするンだろう。
いずれにせよそれ以上の詮索はヤメ、千五百円で部屋まで取りに来てもらえることを確認して、日時を決めた。

12月11日、予定時間にやって来た業者は、TELの声よりかなりお年寄りの、日焼けしたオジイサンだった。しかも一人。
一緒に玄関外の台車まで運んだ。
「重いですねぇ」
「買うた時のカタログ、残ってて、見ると50ンキロて書いてました」
「ホゥ」

台車に載せて、千五百円支払って、「トラックに一人で積まれヘンでしょ、下まで行って手伝いますワ」と言ったら、「イヤ、ダイジョウブです」、玄関でサヨナラした。

領収書等のやり取りもなく、ブラウン管とのお別れはあっけなかった。そして、リビングルームには大きな空間がうまれ、お独り様の部屋はますます広くなった。


緩慢な自殺願望の日々、自殺者が辿った布引谷の通学路

2013-12-31 01:21:00 | 神戸布引谷での出来事

「ウキヨの  バカが  おきてはたらく  かァ  ああァ」、そう言い放って部長はフトンに潜った。

確か春の初めの頃、夕方、伊豆半島南端の温泉地の旅館で部長と合流、翌日はその温泉地にある小さな造船所へ行く予定だった。

当時、造船業は既に斜陽産業、ワタクシが勤める舶用艤装品メーカーも傾きかけていて、先輩営業マンの多くはクビになったり、ヤメていったりで、ワタクシが大阪から清水までをフォローしていた。しかし小さな造船所ばかり。
津には大きな造船所があったが、そこは首都にある本社から発注の為、東京支社の担当だった。
そして、この伊豆半島南端の造船所は、東京支社からは忘れられていた。
「東京から行けへんのなら、ボク、清水まで行ったついでに寄って来ますワ」、そう部長に言ったら、「それやったらワシも行くわ、一度表敬訪問せんとな」と言う事で、同行する事になった。

傾きかけていたそのメーカーには、既に別の資本が入っていた。
長年、やりたい放題の創業者に仕えたあげく、新しく入って来た経営陣からは、業績悪化の責任を問われ、部長にとってはシンドい日々が続いていたのだろう。「ねるほど  ラクは  なかりけり、もう眼ェ覚めんでもエエわァ」

その後、部長は取締役になってしばらくしてクビになり、ワタクシもその舶用艤装品メーカーを辞めた。
そして特殊機械メーカーに再就職して数年後、その部長が亡くなったウワサを聞いた。まだ60歳そこそこだったと思う。

「もう眼ェ覚めんでもエエわァ」、ワタクシもそう呟いた事が、何度かあった。ワンルームマンションで一人、広島で単身赴任していた頃。特殊機械メーカーに転職して10年程経って、ワタクシは広島の営業所長だった。

広島には、その以前にも営業所があったらしいが、それは自宅を兼ねたモノ、1年程で閉鎖された歴史があった。
広島にはいつかキチンとした営業所を、と言う意向は経営TOPにもあったようだが、絶対に、と言う程の強いモノではなかった。
確かに神戸から通っても営業活動に不利、不自由、不都合はなかった。ワタクシも当時の中四国地担当者もそう思っていた。
しかし、営業のTOPは、異状と思えるほど広島営業所に拘泥していた。それはその男の、一時の熱病、ワガママ、気まぐれだったと思う。そう言う計画を強引にでも進めることにより、自己の存在意義を示したかったのだろう。

しかし、広島営業所メンバーとなる予定の、その中四国地区担当者は、社内不倫の挙句、会社をヤメる、と言い出した。

ワタクシ一人が単身赴任して営業所を出しても、それはキチンとした営業所にはならない。キチンとした営業所にはリーダーとメンバーが必要だ。
そう言うワケがあってかあらずか、ナントその営業のTOPは、離婚調停がスムーズに進まない中四国地区担当者に、「離婚を成立させるには、まず別居の事実が必要や、とにかく彼女と広島へ引っ越せ、広島での家賃とかは会社でメンドー見たる」、と言い出した。
これにはオドロいた。ワタクシのみならず、不倫事件を起こしてクビになっても仕方ない、と思っていた当事者もオドロいた。

これは、この中四国地区担当者の離婚を会社があと押しし、広島営業所出店に利用したとも捉えられる。
ある夜、この営業のTOPと総務のTOP、3人で呑んでいて、ワタクシがそう指摘したら、総務のTOPもそれを気にしていたと応え、営業TOPは少しうろたえた。そして、何やら言い訳めいたコトを言ったが、何を言ったかはよく覚えていない。

その後予定通り広島営業所とワタクシの単身赴任はスタートしたが、こんな社内不倫の離婚騒動を利用してまで設立した営業所など、上手くいくハズない。
いや営業所そのものは、地元採用の女性アシスタントも懸命に支えてくれ、面白い価値ある仕事も多く、それなりに上手くなり立っていた、と思う。
しかし、社内不倫の離婚騒動を営業のTOPに利用された本人は、いつも不満気で、不安げで、次々と問題を起こしていた。
そんなニンゲンだから不倫離婚騒動をおこすのか、不倫離婚騒動が彼をそんなニンゲンにさせたのか。

いずれにせよ、一緒にいるのが面白くない。女性アシスタントもよくグチをこぼしていた。
明らかに、営業所にとって不快、不要な人物だった。しかし、ワタクシには彼をクビにする権限はない。

そして面白くない単身赴任生活は続いていた。
四国で一泊二日の出張からウィークリーマンションへ戻って来た夜、「もう眼ェ覚めんでもエエわァ」、ワタクシはそう呟き、これはヒョットしたら緩慢な自殺願望なのかも知れない、と思った。

昨年は自殺者が3万人以下になったそうだが、それでも3万人近い人は亡くなっていて、未遂者はその10倍程だそうだが、こう言う緩慢な自殺願望者はどれ位いるンだろう。100倍?1000倍?

思えば、我が山の家のある布引谷は自殺名所と呼ばれていた。

一緒に幼稚園へ通ったタケモト君のオヤジは夜中歩いて帰っていた時、コツンと頭にあたるモノがあって、懐中電灯で上を照らすと死体がぶら下がっていた、らしい。
夏休みの暑い午後、天狗峡の滝ツボへ飛び込んだ同級生は、底に沈んでいた入水心中のアベックを見付けた、らしい。女性の長い髪が水の流れに不気味に漂っていたとか。

先々週の日曜日、12月になって繁っていた葉っぱは散り落ち、昔の通学路、ハイキングコースの周りが見えるようになった。

Imgp0212 山の家から数100m下った所、毎日この辺りを通る度にヘンな匂いがしていて、貯水池の管理事務所の職員が見に行くと、服毒自殺の腐乱死体があったそうだ。あの黒い木の根元辺りだったハズだ。

Imgp0213 貯水池ダム横の、通称“七曲がり”を下って少し行った対岸の繁みには、オーバーコート姿の男がぶら下がっていた。

Imgp0215 大きな木から延びた枝にぶら下がっていて、管理事務所の職員、数名が近付いて行くのを眺めながら、我々小中学生は学校へ急いだ。

Imgp0216 冬の夕暮れ、街が赤く染まった展望台からの眺め。ワタクシが通っていた頃には、当然湾岸の人工島などなかった。

Imgp0218 展望台の下を廻り込んで、お寺の裏を熊内へ抜ける道で、中2の時、死体を見付けた。ワタクシ一人で登校中だった。

当時はまだ木々が鬱蒼と繁っていなくて、この斜面は雑草が生い茂っていた。キレイに積みあげられた石垣もなく、展望台から投げ捨てられたゴミが雑草に混じっていた。
その中に靴底が見えた。最初ワタクシは、誰かがクツを捨てたのか、と思った。しかし近寄ってよく見ると、クツは靴下に履かれており、その上にズボンが繋がっていた。オッサンが倒れている、と言うより、死んでいると直感した。
早くオトナに知らせないと、そう思って少し戻ると、布引側から母娘(オバアサンとオバサン)が登って来た。その人達に死体があることを伝えて、ワタクシは学校へ急いだ。

フツーに授業を受けていたが、何時限目かに校長室へ呼ばれた。刑事が2人いた。発見した時のコトを教えてくれ、誰かほかに見掛けなかったか、と言われたが、あの母娘としか遭わなかった、と応えた。
タダの転落者かと思っていたが、クビにヒモが巻きついていたので、殺人として捜査していたらしい。
死んだオッサンは保険の外交員だったそうで、空のカバンも雄滝の滝ツボ辺りで見つかった。
しかし、ヒモの結び目にはそのオッサンの指紋しか残っておらず、結局、お金、使い込んで夜、展望台で死のうとクビにヒモ巻きつけて、苦しんでいる内に落ちた、と言うストーリーで決着した、と記憶している。

世継山のテッペン付近にゴルフ場が出来、その従業員が布引谷・市ケ原に住み始め、小学校5年の時に一緒に通学する仲間が増えた。
そして、中学校3年の時に、そのゴルフ場開発で脆弱になった山の斜面が、梅雨末期の集中豪雨で崩れ、21名が亡くなり、ゴルフ場もなくなり、一緒に通学する仲間もいなくなった。

その後、自殺騒ぎも聞かなくなった。

ワタクシはその後も布引谷から通い続け、30歳前に街で所帯を持つようになった。

数年前、オフクロが亡くなった後、また布引谷で生活すべく準備をしていた頃、久しぶりに自殺騒ぎがあった。家から数100m下った所、服毒自殺の腐乱死体があった場所の近くで首を吊っていたそうだ。
秋の終わりの頃の日曜日、ニホンジンのハイカーはそれに気がつかず、背の高い外人がフツーにハイキングコースを歩いていて見つけたとか。
しかしその後は、相変わらず自殺騒ぎは聞かない。

ワタクシが自殺者の側を歩いて通学していた頃は、まだ高度成長期が続いていた。最近の自殺者数はその頃の1.5倍以上だそうだ。

そして死ぬのは布引谷の山中ではなく、マンションから飛び降りたり、電車に飛び込んだりしている。
しかもオッサンではなく、暴行されたり、ゆすられたり、たかられたりした子供達も。
10日程前の新聞で、踏切で電車に飛び込んだ母娘と見られる女性二人の身元が、事故後10日経っても判らない、という記事を読んだ。70代と40代とみられる2人の唯一の所持品は、2体のクマのぬいぐるみだったそうだ。

ところでワタクシ、経済のコトは詳しく存じませんが、通貨危機の後、IMFの管理下になって、非常にエグい競争社会になった隣国では、ニホンより多くの自殺者を生み出しているらしい。


冬枯れの布引谷の、慾ドシイ夫婦が引き起こしたご近所トラブル

2013-12-17 11:36:03 | 神戸布引谷での出来事

日曜日、2ヶ月振りに布引谷・山の家に戻った。

Imgp0208 昨年の同時期、山はまだ赤かった が、今年はもうスッカリ枯れていた。

Imgp0209 家の周りの紅葉も散り去っていた。

Imgp0210 庭は相変わらずイノシシが荒らし放題。喰いモンなんてもうないハズなのに、ホンマ懲りないヤツら。

取りあえず片付けながら落ち葉を燃やしていたら、煙に気がついた隣人のM氏が声を掛けてきた。

M氏は春日道の飲食店経営者だとか。
数年前に隣の茶店から土地を購入、昼間は毎日、布引谷に登って来て野良仕事を楽しんでいる。ワタクシより4~5歳下の奄美出身だと言っていた。

そう言えば、この布引谷にも昔、奄美出身者が住んでいた。一緒に幼稚園、小・中学校を通ったタケモト君も、確か奄美出身。
M氏とタケモト君、風貌が似ているような感じがする。気のせいかもしれないが。そして、荒れ放題になっていた隣地をお行儀よく耕し、色んな野菜を収穫している、らしい。

らしい、と言うのは、実は一年以上、お眼にかかっていない。
彼がいるのはいつも13時過ぎまで、ワタクシが家に着くのは14時過ぎ。

しかし、何度か電話を掛けてきた。スズメバチの巣はどうやって始末すンの?とか、ゴーヤのツルが延びて石垣に垂れて鬱陶しいけど、ゴメンとか。
そして、周囲の土地の境界、所有者の事など。

ここから500m程上流に、大きな茶店を中心とした集落があった。百貨店の別荘もありそこそこの大きさだった。
しかし ’67年の集中豪雨で21名の命と共にそれは流され、その後誰もいなくなった。

残ったのは、住民以外が農作を楽しんでいる畑だけ。それも今は少し荒れ気味だ。
農作を楽しんでいる彼らが何者なのか、全く知らないが、朝早く登って来て昼過ぎ帰っていくようだ。

彼らの存在を知ってM氏も農作を楽しもうと思ったのだろう。しかしアテが無い。取りあえず、隣の茶店に事情を尋ねたらしい。そして隣地を、最初は借りた。

フルサト奄美では農作は日常のコトだったのか、M氏は雑草を引き抜き、キレイに整地し、畝を作り、タネをまき、収穫が始まった頃、貸主の茶店がイッソその土地を買って欲しい、と言い出したそうだ。

ジジババ、中高年のハイカーに山ガール、布引谷にもそう言ったハイカーは多い。しかし、彼らは茶店を素通りしていく。
土日の朝、ここまで登って来て茶店で飲食して帰る、昔はそう言う文化があって茶店はそこそこ賑わっていた。先代サンは茶店を含め周囲の山林もキレイにメンテしていて、布引山中の鄙びた茶店、そんな雰囲気だった。

しかし、今はそういう“粋”を楽しむ客は減り、茶店はスタレている。
茶店の主人は近くの空き地、そこは神戸市所有の保安林なのだが、そこにプレハブ事務所を建て、建機のレンタルや中古機の販売をやっているが、それも大した商売にはならない。
そう言う不景気な事情を、常々ワタクシも聞いていた。

要するにお金がない。そして、先代サンから相続した土地を売り放した。

M氏は自分のモノになった土地の、整地されていない部分を開墾し、毎年延びて農作の邪魔になる竹の根を掘り出し、無骨なフェンスを木の柵で飾り、隣地はカントリーっぽくキレイになった。
前の持ち主だった茶店の主人は、とにかくダラしなかった。そのオトコが手をつけると、そこはゴミ捨て場のようになる。プレハブ事務所の周囲もそうなっている。
そんなゴミ捨て場をM氏は見事に甦らせた。

昨年9月の終わり頃、M氏はカントリーっぽく甦らせた自分の“ファーム”をワタクシに見せた。毎日が楽しそうだった。

その翌週、M氏から電話がかかって来た。内容は自分の“ファーム”の斜面上、緑のフェンスの外側はダレの所有か、と言う質問。

と言うのは、M氏が植えたゴーヤのツルがフェンスの外へ延びて、自分はそこが手つかずの山林だと思い放置していたら、茶店のヨメハンが、「そこはウチの土地やから、ゴーヤ延ばさんといて」と、言ってきたとのこと。
「ワシ、茶店の主人にゴーヤ延ばしてエエて了解、とってたンやでぇ、それがナンヤ、あのオバハン、一体どうなっとンねン、あの夫婦ッ」と、非常にお怒りの様子。
ワタクシ、「そんなン、放っといたらエエ、フェンスの外は神戸市の保安林、茶店の土地と違う、ゴーヤのツル延ばしても神戸市もモンク言わん、大体あの夫婦はオカシイねん、アイツらあの辺全部、自分のモンやと思とうけど、アイツらの土地なんて、大したコトない、あのプレハブ事務所建ってるトコも神戸市の土地、硬い言い方すると不法占拠や、自分ら勝手なコトしてエラそうに言うな、ちゅうたったらエエわ」と、教えて差し上げた。
「ほうか、よう判った、色々アリガト」、怒りが収まったM氏はそう言って電話を切った。

今年11月の中頃、またM氏から電話がかかって来た。
「ゴメン、またチョット教えて欲しいンやけど、上の家の石垣、最近崩れて来よんねんけど、あれ、上の人に直せ、言うてエエもんなん?」
「そうや、石垣はお宅の敷地の外にあるハズや、上の人のモンやから、上のO女史に直せ、言うたらエエ、大体、あの石垣、崩れそうやて茶店の夫婦、知っとったハズや、買う時に言われんかったン?」
「そんなン、ナンモ聞いてへん、そやけど、O女史が直すモンやったら、ワシ、連絡してそう言うわ」
「O女子、茶店のオバハンのトモダチやけど、あのオバハンと違うてフツーの人やから、キチンとしてくれると思うで、連絡先判らなンだらオバハンに聞いたらエエわ」
「イヤ、ワシも知っとう、色々アリガト、ゴメンなぁ」

そして日曜日、石垣の件は、来年の春、O女史が直す、と言う事で決着した、とM氏は報告してきた。それはヨカッタと、ワタクシは昨年電話で説明した境界のコト、所有者のコト、前の所有者のコトなどを、実地で説明した。

そもそも、ワタクシは境界とか所有者とかどうでもよかった。
’67年の集中豪雨で21名が亡くなった“事件”をキッカケに、この辺りは市街化調整区域となり、新築、増築は出来なくなった。
つまり、いくら広い土地があってもそこには何も建てられない。土地には何の価値もなくなった。もう40年以上前からそうなっている。

しかし、隣の茶店の夫婦は、ここの土地の価値を上げたい ので、地目を保安林から山林に替えたいと言い出した。3年前の事だ。
ナントこの夫婦、ここが市街化調整区域だと言う事を知らなかった。
ワタクシはその事情を説明し、山林に替えても開発等なにも出来ない、むしろ保安林として維持しておくべき、と諭した。

そのすぐ後、彼らはウチの物置が境界を越えているので移動してくれ、と言い出した。
所有地一切を売却するので境界に柵を立て、所有範囲を明確にしたい、そんな始めて聞く事情と理由を言った。
しかしその物置はオヤジが30年ほど前に設置したモノ、百人乗ってもダイジョウブなヤツ、簡単には動かせない。なに言うとンやコイツら。
とは言え、ホントに境界を越えているのなら移動しないといけない。そもそも境界とはどこなのか。

それは地積測量図を見ればイイ、と司法書士が教えてくれた。それに従って顕著な地点から巻き尺でも使って計ればイイ、と土地調査士が教えてくれた。
そして実際に計ると、物置は境界の内側にチャンとあった。

そのドアホ夫婦の無知、非常識が引き起こした腹立たしいコトは、その後もあったが、それに対し調べていると、周囲の境界と所有者のコトやその他諸々が判って来た。
あのゴミ捨て場のようになっているプレハブ事務所が、不法建築、不法占拠であることも判った。
また、このドアホ夫婦が他の人ともモメていたこと も知った。

同時にそれは、今まで関わることなく過ごしてきた民法についても知ることになり、それなりに面白かった。

そんなこれまでの物語も、ついでにM氏にお話しした。

ゴーヤのツルを自分の土地、つまりフェンス側へ延ばすな、と言われたM氏は、逆に上からフェンスを押し下げてくる土砂を何とかせよ、と茶店のオバハンに言ったらしい。
するとオバハンは、「そんなン、神戸市に言うて」と、返したらしい。そして大ゲンカになり、怒鳴りあったそうだ。
「ホンマ、なに言うとンネン、あのオバハン、自分の土地、言うとったやないか、そやけど今までのハナシ、色々聞いとったら、あの夫婦、要するに慾ドシイ、ちゅうンやなぁ」
「ご近所トラブル、ちゅうやろ、ボクやアンタ以外とも、色々モメとったらしいわ」
「トラブルメーカーかぁ、ホンマ、こんなエエ自然の中におって、ナサケナイ奴らやぁ」

M氏が飲食店を開ける準備の時間になったらしい。「ほなまた、何かあったら電話するから頼むわぁ」と、M氏は帰って行った。

隣の茶店は一応営業していたが、客で賑わっていたかどうかは、判らなかった。まぁ、どうでもイイことだけど。

 

 

 

 

 

 


無為に過ぎゆく日々、思い出す6年前の立山川

2013-12-14 23:39:02 | 山とスキーでブラブラ

Imgp0070  夏の終わり頃から自転車でチョコチョコ走っていて、11/14は江井ケ島の浜辺から淡路島が穏やかに見えた。

しかし、穏やかな自転車日和はこの週まで。その後強風、寒風の日が続き、またひきこもりが続く。

取りあえず、年が明けるとまた、信州雪山通いを続けることにして、今年もまた、栂池シーズンパスを早割でGETすることにした。
今年からはネットでその手続きが出来ることになったそうで、しかも支払いはカード払いとなっていた。

早速、白馬観光のサイトを見たが、「前売りパック券」には「インターネット購入」のボタンがあるのに、「早割シーズン券」に替えるとそのボタンが無くなる。ナ、ナンデェ?
信州・栂池へTELして、やり方聞こうかとも思ったが、まぁ年一回の現金書留、面倒だけど郵便局と付き合いますか。
とにかく11月末までに処理しないといけない。まず現金書留の封筒を買いに行かなくっちゃ。ホンマ、面倒です。まぁヒマやからエエけど。

それが出かける前、もう一度チョコチョコやっていたら、不思議と出来た。
顔写真を添付して送信すると、その後すぐ写真のファイルが開かない、との返事あり、再送信。そして22日、無事オワリ。
後は年明けを待つのみ。ワタクシのスキーシーズンは正月休みが終わってから。

それがナント、11月にもう滑っている人達がいて、23日には雪崩で7人も亡くなってしまった。

そしてこの雪崩事故を受け、立山黒部アルペンルート周辺へは入山届けが義務付けられる、との方針が富山県から示された、と今週月曜の夕刊に載っていた。

まぁ当然でしょう。
なにしろ、イノチ知らず、と言われても仕方ないようなジジババが山スキーにやってくるのだから。
しかしこれは登山口でチョコチョコと書くモノなのか、それとも剣周辺の危険地区に必要な従来の届け出の範囲が、立山周辺にまで広がった、と言うコトなのか。

しかしそれにしても、今回の事故、入山届け云々とかの前に、ナンカ腑に落ちない。
と言うのは事故の前日まで、富山側からのバスが不通になる程の降雪が続いていたのにナゼ、富山県警とかその他関係者が、雪崩に対しての注意、勧告、警告、立入禁止などをしなかったのか。

思い起こせばワタクシ、07年5月、別山乗越の小屋で富山県警から警告、勧告を受けました。

そのシーズンは初日、一の越から板を担いで立山三山を縦走。富士ノ折手から板を履いたが、真砂岳から別山のコルへの斜面は氷結していて、スリップしたら大走の谷底へストン。それはメッチャ、ムッチャ怖かった。

翌日は真砂沢を滑って別山乗越の小屋に再泊。

そして、小屋のオニイチャンに「明日はどこへ?」と訊かれ、立山川を降りると言ったら、夕食前にワザワザ部屋までやって来て、「立山川は雪が割れれてヤバいらしいです、県警の人達によく情報、訊いて下さい」と言われた。
小屋には登山客と同じ服装のオマワリさんが常駐していた。

いずれにせよ、行くな、と警告、勧告されるだけ、しかし山岳警備隊の若いノとモメたくもないし、同行していた若いノ2人に、「取りあえずお話し、訊くだけ訊いて来たら」、と言ったが、「イヤ、そんなぁ、一緒に訊いて下さいよゥ」
立山のオマワリさんは小屋の奥の部屋にいた。

彼らは、東大谷の辺りから川の流れが表れ始め、その先からは滑れない、登山靴でないと歩けない、そんなコトを言っていた。

ナンデェ?兼用靴やから歩けるヤン。
大体、仲間の若い一人は、その2、3年前、フツーのスキーブーツで馬場島まで歩いていた。そもそも、東大谷から先はダラ~っとした河原状で、その後はゴルジュ状、どうせ雪があっても楽しくは滑れない。

しかし警備隊の若いノも、少ない人数で警備する範囲は広くて、ワケの判らんノのがアチコチで好きなコトして、色々大変なのはよく判る。ここはオトナの対応が必要だ。
とりあえず、ハイハイ判りました、と引き下がった。

部屋に戻って、仲間の若い2人はシュ~ンとしていたが、「イヤ、行けるで、行こう」とワタクシは言った。何より、警備隊が言った一言が気にいらなかった。
「この辺でオトナシク滑っといて下さい」、確かそんな言い方だった。

オトナシク滑るだけなら、ワザワザ剣立山まで来る必要はない。まだゲレンデの上の方でリフトが動いているスキー場へ行けば良いのだ。

055 と、言う事で予定通り立山川を降りた。

056 東大谷出合で大休止。

058 チョットした滝場を避けて、ガレを降る所もあったが、まぁ想定範囲。

特にヤバい箇所もなく、無事、馬場島へ辿りついた。

荷物を片付けながら、他のグループに挨拶して、立山川を下って来た、と言ったら、「エエッ!立山川はもう下れないンじゃないンですか」、と言われた。
「イヤ、登った人の跡もズゥ~っとありましたよ」

明らかに、シール登高した新しいトレースがあった。それはどうやら、金沢のスーパー登山家医師とその仲間がつけたモノらしかった。

スーパー登山家医師達は山小屋に泊る事もないし、山岳警備隊から警告、勧告を受けることはないようだか、ワタクシはタダのヘタレ、今後も彼らに「オトナシク滑っといて下さい」と言われることもある。
しかし、ズッと降雪が続いて雪崩がヤバい、と警告されたら、きっと従うでしょうけどね。