蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

これも縁、あれも縁、たぶん縁

2010-11-24 23:26:10 | 車でブラブラ

何年か前から度々、メガネのネジが緩んで、左のレンズがポロっと落ちる、色んな場面で。
いつも爪でネジを締め、付け直している。

電車の中で本を読んでいて、足元にポロっと落ちた事もあった。 近くにいた女子高校生サン、二人。 ハシが転んでも可笑しいお年頃、メガネのレンズがポロッと落ちたのを見て、必死に笑いをこらえていた。

昨日も落ちた。 ナント片側二車線が交わる交差点で。 ミニバイクで走っていて、いきなり左の視界がぼやけてビックリ。  交差点を出て数m、止まってバイクのステップ辺りを見てもレンズは見あたらない。 振り返ると祭日の交差点は沢山の車が行き来している。 もうダメ、諦めて眼鏡やサンで新調してもらうしかないか、と思ったが、取りあえずバイクのスタンド立てて、信号が変わった交差点を捜してみた。
あった、ちょうど真ん中あたり。 どの車にも轢かれておらず、落ちた時のキズもなかった。 これはラッキー、何かの縁?
そのまま眼鏡屋サンへ行って、ネジを付け替えてもらった、タダで。

この時に乗っていたミニバイク、 初代ジョグ、スピードメーターは70km/hのもの。 主な用途は通勤、垂水駅の駐輪場で引きずり廻されて、ハンドルのロックは潰れている。 何度も行方不明になったが、その都度少し離れた所でヒッソリ放置されているのが見つかった。  そして20数年のお付き合い。 何度か乗り換えようと思ったが、近所のバイク屋さんが懲りもせずメンテしてくれている。 これも縁?

縁と言うのは、全ては繋がっている、と言うことだそうだ。  このレンズもバイクも何故かワタクシに繋がっている。 切れて当然の時も幾度かあったのに。

繋がりたい人には繋がらず、繋がりたくない人には繋がっている。 嗚呼、縁。

今日は " やしろの森公園 " へ、家から北へ車で1時間の場所。 ここには売店も食堂もゴミ箱もない。 それがイイ。 何年も前からの縁。

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人が暮らしてはダメな場所かも

2010-11-22 15:31:11 | 神戸布引谷での出来事

布引、新神戸駅の裏から急な登りを約100m上がると、展望台に出る。

そこは、雄滝の落ち口とほぼ同じ高さになる。 ハイキングコースはその横の門を入って貯水池へ続く。
門の脇には監視所跡がある。 昔 ( 戦前、いやもう少し前か )この先の重要な水源を守るため、不審者の侵入を監視していたらしい。 今でも犬を連れて入ってはいけない事になっている。
これと同じ監視所は貯水池を越え、更に約500m進んだ所にもあった。

上下ふたつの監視所、その間は神戸の水道の聖域。

その聖域の上流に昔、20世帯以上、50人は住んでいた集落があった。

20世紀の初め、布引貯水池堰堤の工事に従事した人達が、そのまま居ついて集落が出来たらしい。 古来からこの列島に住んでいた山民系の集落かな、思っていたが、歴史は案外新しい。
その後居留地の外人達が毎朝登山を始め、茶店も出来たのだろう。 住みついた人たちは高知の出身者が多く、村では土佐弁が飛び交っていた。
駐在所があり、百貨店の別荘もあった。 そこから幼稚園へ通う男児3人。

その一人がワタクシ、 もう一人は駐在所のムスコさん。 もう一人はよく覚えていない、 確か父子家庭の末っ子だったと思う。
50年以上前の話しだ。 当時はハイキングコースの上部を並行して通る車道はなく、通勤、通学は歩くしかない。 引っ越し時の家財道具は馬で運び上げた。

この山へ移る前、我々一家は大阪に住んでいた。 オヤジの勤め先が神戸で見つかって越してきたが、なんでこんな山の中に、と誰もが思うはずだ。
しかし、下界とは案外近い。 オヤジの勤め先がある二宮までは歩いて1時間程、昔はそれ位歩くのは苦ではなかったし、三ノ宮には叔母が住んでいた。 鈴蘭台近辺も検討したらしいが、神鉄、市電を乗り継がないと二宮へは行けない。

だが一番の理由は、手に入れることが出来る安い物件が市街地に無かったからだ。 しかもオフクロはとにかく早く、姑、小姑と一緒の生活から抜け出したかった、と言っていた。
オフクロは事前に見に行きもせず、いきなり引っ越してきて、さすがしばらくは塞いでいたらしい。
その後、オヤジはこの地で27年暮し、オフクロは51年暮し、亡くなった。 この間、それなりにお金も溜まったはずだ。
それでもこの地に留まったのは 「 ここは隣近所に気がねもなく、安気で良い」 からだ。 
毎日必ず、何かのきっかけで喧嘩を絶やさなかったこの夫婦、 この評価では一致していた。
一人息子は、雨の日も風の日も毎日、麓の学校へ歩いて通っていたのに。

わざわざこの地を選んで移り住む人には、2つのパターンがあったと思う。 ここしか手に入らなかった人と、山が好きな人。
山が好きな人は、更に2タイプに分かれる。 自然を開拓し収奪するのが好きな人と、自然を守ろうとする人。

我々の数年後、隣に引っ越しして来た人は、登山が趣味。大学生の頃の立山登山の様子などを撮った8ミリ映写会を、近所の茶店でやったりしていたが、布引ウォーターを使ったマスの養殖を始め出して、今も生けすの跡が廃墟に残っている。 亡くなる前はイノシシの養殖みたいな事も、隠れてやっていたらしい。 明らかに自然を開拓し収奪していた。

片や、一人で茶店を維持していた女性と結婚し住みついた紳士は、布引ハーブ園建設の計画を知ると登山者達と一緒に反対運動をおこし、その先頭に立っていた。 ( 当時、ワタクシは関東にいて、お手伝いできなかった )

しかし、ほとんどの人は我が家と同じ、ここしか手に入らなかった、貧しい人達だったと思う。 だが、何とか街で居を見つけ、降りて行った人達も多かった。

ここの子供が急に増えたのは、小学校5年の時だったと思う。 集落の山の上に沿ってゴルフ場が出来て、その従業員が住み出したからだ。 しかしその人達も序々に街へ引っ越して行った。

その5年後の7月、集中豪雨の土砂崩れで21人が亡くなった。集落の大半が消えてしまった。
土砂崩れの原因は、山の斜面を切り開いて作ったゴルフ場にある、と言われ、当然残された犠牲者の家族には賠償金、補償金が支払われた。

そのためゴルフ場は周囲の土地を売りまくった。 オヤジも買った。叔母の知人も買った。
一番沢山買ったのはゴルフ場を許可した神戸市、つまり賠償金は神戸市が払ったようなもの、当時村のオトナ達はそんな会話をよくしていた。

犠牲者は賠償されるべきだ。 しかし、村のオトナ達は一部の村人にだけ、神戸市から大金が入った、ということばかり話題にしていた。

そしてその10年後、また補償金が出た。 今度は村人全員にだった。
新神戸トンネルが村の真下に開通した後、水源としていた湧水、井戸が涸れた。 この出来事はNHKも取り上げチョットした騒ぎになった。

神戸市は谷の本流から水を引いて村の生活水を保証した。 この時、補償金が出た。
しかし、水の保証をしていただくのは当然だが、補償金とは何に対する補償なのか。

こう言うお金はもらうべきではない、茶店の女性と結婚し住みついた紳士は、唯一異議を唱えていた様だ。 他のオトナはもらえるお金はもらえば良い、何かあれば役所は補償金を支払うモンや、以前も大金出たやないか、という人達ばかり。

ワタクシは、その紳士の言う通りだと思った。それを話すとオフクロは口の前に指を立て 「 シーッ 」 と言った。
本当の山好きは別にして、こんな山の中にしか住めない人だけが残って、住んでいた。
要するに貧しい。 もらえるモノは何でもかんでももらえば良い、「そんなンばっかりや」、よくオヤジは言っていた。

30年以上経った今も、神戸市道路公社は集落の生活水を供給している。 その給水施設の維持管理は200万程らしい。
村には給水組合があり村民は施設利用料を納めている。 しかし、給水組合から道路公社へは水道代等を一切払っていない。 それどころか委嘱報酬料が逆に支払われている。 これは村側が要求したものではないらしい。 請求書を出せ、と言われ出したら振り込まれたとか、 毎年10万程。

こんな事をするから、 役所からは、もらえるモノは何でもかんでももらえば良い、と言う文化が生まれるのだろう。 
道路公社はいつまでこう言う散財を続けるのだろう。 儲かっているからいい、という問題ではないはずだ。

ここは住宅地ではない。 国立公園六甲山中だ。 偶々100年ほど前、布引ダムの工事で高知からやって来た人達が住み出した。

当時はまさに布引ウォーターの里だった。水はいたる所から湧いていて、 自分たちで水道を引いていた。これは勝手にやったことだ。
その後居留地の外人達が毎朝登山を始めるし、日本人にもハイキングが流行るので、彼らの休憩や事故の救助のため、そこへ住んで欲しい、と頼まれた訳ではない。

思えば、トンネルが出来て、水か涸れた時点で、人が暮らしてはダメな場所だと悟るべきだったかもしれない。  

50年程前は50人以上住んでいた人は、約30年前には20人程に減り、今は6人程になった。
40年程前、土砂崩れで21人の犠牲者が出た後、一帯は市街化調整区域となり、家の新築、増築が出来ない場所にもなった。 今後人が増える可能性はまずない。 いずれ人が暮さなくなる場所になっていくのだろう。 山の中だから当たり前だ。

Imgp2309 昨日の我が家。

昨年、一昨年と2年かけて、大きくなりすぎたモミジの木を切ったが、今年は変な茂り方になり、紅葉も変な色になっている。

先日、蛇口からストレスなしに流れ出る“布引ウォーター”が、緑がかったコトがあった。また、木が繁りすぎ、20年以上歩いた通学・通勤路の風景も変わった事にも気付いた。
ここで暮らす事は諦めよう、と思う。

しかし、放棄はしない。 時々寝泊まりはする。 その時は誰にも、どこにも頼らないようにしたい。 まず、水の確保をどうするか、考えてみたい。

 

 


不気味になった谷と水

2010-11-19 13:00:10 | 神戸布引谷での出来事

先月、布引(新神戸)から我が家に至るかつての通学路(ハイキングコース)が不気味になった、と報告したが、他にも???と言うモノがある。

例えば貯水池にいるコイツ。
Imgp2213  アオサギ(?)、田んぼや平地の溜め池で良く見かけるヤツ。 昔、この山にはいなかった。 池の色も何となく白っぽく、軟らかく(?)なった。 昔はもっと濃い、硬い、カッキリした深緑だった。

Imgp2215  これは貯水池オーバーフローの流路にある滝。 大量の水がオーバーフローする時だけ滝になるので、最近 " かくれ滝 " と命名された。 しかし、夏は生い茂った木々でかくれ、茂った葉が散り落ちた冬だけ見える " かくれ滝 " だと思うけどね。  枝を少し払えば良いのにね。よく見ると、コケが生えている。 昔は苔むしてなかった。

Imgp2216  そして、滝の下の水溜りには、何故かアブクが浮いている。 時々、藻のクサいにおいがする、特に夏は。  神戸ウォーター、布引ウォーターの谷なのに。

Imgp2221  その下流は涸れていた。

Imgp2223_2  さらに下流の滝、コケだらけ。 清流のコケではない、ヌルヌルのヤツ。 上流に住宅地のある谷に似た形相。

Imgp2230  新神戸駅裏も涸れていた。

この谷の一部が涸れているのは、ほぼ真下を新神戸トンネルが通っているから、でしょう。

このトンネルが出来てから、我が家周辺の湧水が涸れた。 村の大半が利用していた井戸、 これは摩耶山登り口の手前にあり、全てのハイカーの水場でもあったが、同時期に涸れた。

当時、村にはまだ20人以上住んでいた。 隣の茶店の先代サンもご存命だった。 オヤジも東隣のご夫婦も生きていたし、茶店もまだ4軒あった。 ワタクシもここから通勤していた。

水涸れと トンネルとの物理的因果関係は判らないが、こう言う現象はよくある。 
そこで神戸市は、川の上流から取水し、給水設備でろ過、殺菌して約20人の家庭へ供給する対応をとった。
ハイカー向けの給水口はなく、この恩恵は受けられるのは村民だけ。 井戸は今も涸れたまま。

その後、隣の先代サンも、東隣のご夫婦も、2軒の茶店のオバサンも、我がオヤジも亡くなり、2代目は次々と街で住居を構え、オフクロが亡くなる頃は常住6人程になった。

この6人の為に給水設備を維持管理しているのは神戸市道路公社。 ここが3年程前、給水をハーブ園まで届いている水道に切り替えたい、と申し入れてきた。 これは当然と言える。
水の保証に対するイニシャルコストは負担しても、その後約30年、ランニングコストを負担し続けるのは、もう勘弁願いたい、と言うことだろう。 しかし、ハーブ園に繋がっている水道は阪神上水道、淀川の水。

なんで布引ウォーターの里に住んでルのに、京都の下水、飲まなあかんネン、 ワタクシはここの水を守りたかった。 しかし、いつまでも道路公社にオンブにダッコはよくない。 それなら村で自主管理すればどうか、そう思って維持管理費用を道路公社に尋ねた。

その回答は、H19年の実績がナント200万!エエっ!ホンマ?! いくら切りつめても半分か。3分の1に切りつめられたとしても、70万。これを6人で負担するのはまず無理。

その後、各家の側に井戸を設け、その維持管理は各自が行うとかの検討、調査があったが100m程掘っても水は出ず、まだ道路公社は6人に布引ウォーターを供給している、タダで。

自宅の水は美味いのに、何故校庭の蛇口から出てくる水は不味いのか、小学校の時そんな事を文集に書いた。 変な事を言う子だと教師は思っていたらしい。
その後、何かの授業で神戸ウォーター、布引ウォーターの話があり、これが美味いのは花崗岩でろ過されたからと教わった。 

この水の美味さはワタクシの自慢だった。 街へ住むようになっても定期的に汲みに来ていた。 ウィスキーを割るのはこの水でないとダメ。 遊びに来た友人にも無理にすすめていた。
今はワタクシの事すら判らないアルツハイマーの叔母も、この水で炊いたご飯は美味しい、お茶も美味しいと言っていた、ボケる前の話しですけど。 

しかし、その美味さが判らない人も多い。 今この村でこの水にこだわっているのは、ワタクシだけかもしれない。 
蛇口ひねったら布引ウォーターが出て来る、ワタクシにはありがたい事だ。  だか、この贅沢を、いつまでもタダでいただき続ける訳にはいかないだろう。

何ヶ月か前、一人で茶店を維持続けておられるオバサン( ワタクシの小学校の20年先輩です ) とお話ししていたら、今は蛇口からの水は飲んでいない、と言われていた。
もう一人の先輩のオジサン ( この先輩も一人住まい) も、飲料用にペットボトルの水を買っているらしい。 この川の水、最近チョット変、と感じておられる様だ。
取水口は飯盒炊さん ( 最近はバーべキュー) で賑わう市ケ原の河原の上流。 その上流には森林植物園、六甲山牧場があるが数km以上離れており、充分浄化されているはずだ。 何故だろう。

ある夜、風呂に貯めた水、ナンカ変。 緑がかっている。
コップやポットボトルを透かして見ても、その量では判らない様だ。 雨後の為だろうか。 大して降らなかったのに。
多分なんの害もないとは思うが、不気味だ。

景色が不気味、谷も不気味、そして水も不気味。 さぁて、これからどうするか。

 


神戸市のごみの捨て方

2010-11-15 18:43:22 | 朽ちゆく草の想い

ホテルなどのバイキングでの料理の摂り方と、日々の生活でのゴミの捨て方で、その人の育ちとか教養、人格が判る、と誰かがテレビ(?)で言っていた。確かにそんな気がする。

有馬温泉から湯漕谷、番匠屋畑尾根を極楽茶屋跡まで登り、紅葉谷を下降、百間谷に横断して白石谷を登り返し、一軒茶屋でビール一本飲んで魚屋道を有馬温泉へ戻る、これが10年ほど前のからの、トレーニングコース。 ほぼ毎週、つい最近まで通っていた。

それは大きな山に登るための、トータル標高差:1000mのトレーニング。
その内ついでにゴミ拾いも度々行うようになり、火バサミ片手に、毎回スーパーのレジ袋2~3袋を回収。

裏六甲のハイキングコースには色んなもが捨てられていた。
飴や菓子の小包み、ペットボトル、空き缶、ピンは当然のこと、ポット、毛布(!)なんてモノもあった。
草木の隙間から出ているビニールの端を引っ張ると、土の中から弁当のパックなんかが沢山出てきて、一緒に埋められていた空き缶は見覚えある懐かしい絵柄。
そんなものを拾いながら、高度成長して、何でも手軽に入る便利 ( コンビニエンス ) な現代になって、その間のニホンジンの育ち、教養、人格がよく判る様な気がした。 

神戸市は6年前からゴミの分別回収を強化した。 捨てるほど製品、商品作るから、ゴミはドンドン増え続け、分別して処理しないと大変。
燃やすモノはキチンと燃やす、燃やせないモノはキチンと埋め立てる、リサイクル出来るモノはキチンとリサイクルする、それは当然。 ワタクシは大賛成、もっと早くから実施すべきだったかも。 

ルールブックが配られ、それに従って、プラスチック類のトレーや包装材を燃えないゴミに出して、新聞、段ボール、包装紙、DMのパンフや布類は地域資源回収に出す。 缶・ペットボトル・発泡スチロールのトレーは店頭回収に出す。 ボンベやスプレー缶もバラすと鉄缶、店頭回収へ。 
すると、所謂生ごみ、燃えるゴミはほとんどなくなる。 容量にして数リッター、レジ袋 (スーパーではなくコンビニの) にいれて出すのに充分の量。
そもそも、スーパーではレジ袋もらっていない。 しかし、小さなレジ袋は何故か途絶えない。 ゴミ出しに使わないと燃えないゴミになるだけ。

皆さん、どうしてあんな大きな袋になるンだろう。
育ち盛りの子供が何人かいると、あの量になるのだろうか。 
賞味期限が過ぎたら食べれるモノでも直ぐ、捨てているからなのだろうか。
しかし、コンテナに放り込む時、チラっと観察すると、どうも皆さん、 燃えないゴミに分別すべき、プラスチックの包装材も一緒に捨てておられる様である。 それらもグシャっと潰すと小さくなるのに。

「 捨てるモノもキチンとたたみなさい 」 と学生時代、アルバイト先の社長に言われた。その社長も奉公先の親方にそう教育されたらしい。
確かにそうすればゴミ袋は小さくなる。  しかし、現代人はなんでもかんでも、ボソっとゴミ袋につっこむ。
忙しいのよッ、時間ないのよッ、捨てるモノまでに、気ィ留められンのよッ、 とおっしゃるンでしょうナ。 育ち、教養、人格が良く判ります。 まぁイイけど。

とにかく、そうやって神戸市のルール通り分別して出していたら、2年前から指定袋で出すルールが追加された。
ほとんどの人はあの大きなゴミ袋の代わりに、その指定袋を使えば良いが、そもそもそんな大きな袋使わないワタクシはどうすればいいの?そんなワタクシにも指定袋買わせて、数リッターしかないゴミ、出せと言うの? これは要するに有料化?

と、言う事で神戸市環境局にTELして訊いてみた。

ワタクシは環境局から言われる通り、キチンと分別しているので燃えるゴミは非常に少なく、レジ袋で済んでいる。 指定袋制導入は有料化ではないか  ⇒ 「 ゴミが少ない時は15リッターのを使って下さい、指定袋制導入は分別意識を上げて頂くためで決して有料化ではありません 」
ワタクシの様に一人暮らしでキチンと分別している人は、15リッターでも大きい、どうしても指定袋に入れろ、と言うなら、もっと小さい5リッター程度のものを準備して欲しい  ⇒  「 エエッ!そんなに少ないンですか ・ ・ ・ 、  確かにお年寄りは小さいレジ袋で済ませていて、指定袋は有料化だと言う批判はありますが ・ ・ ・ 」
とにかく、どうしてもと言うのなら5リッターの指定袋を作ってくれ、それが出来るまで今まで通り小さいレジ袋で出すから、それでいいネッ!
少し強引にワタクシは一旦ハナシを締めた。

ところで、ワタクシの別の家は新神戸の上にあって、ゴミ収集は週1回。 分別はどうすればいいのか  ⇒ 「 そう言う地区は所謂ゴミ収集車ではなく、小型のトラックで収集してます。 処理場で分けて処理しています。 なので、何のゴミか判る様にしてもらわないとダメ、絶対に指定袋にいれて下さい」

なるほど、それなら判る。 だから布引谷の家ではゴミが少なくても指定袋へ入れて出していた。

ある日のゴミ出しの時、隣の茶店のオバサンに会ったので、この話をしたら、「 いや違うよぅ、ここのゴミは分けて出してもポーアイで全部一緒に焼いてしまうンよぅ、私、案内されて見てきたモン。 分けても意味ないンよぅ。」

環境局のハナシとエライ違う。しかしそんなに驚かなかった。
行政が決めたルール通り、ゴミを分けて指定袋に入れて出した市民の労役を、行政が裏切っている。 まぁそんな事は、他にも多々あるのだろう。
しかし、そんなウラの真実を、選りによっておしゃべりな茶店のオバサンにまで言わなくても良いのに。 ホンマ、あほッちゃうぅ~。

震災の後、神戸市の冷たい対応に幻滅して引っ越しした人が沢山いたらしい。
ワタクシ、これらのゴミ捨てに関するゴタゴタ、別に幻滅はしていない。
ただ、神戸市のゴミの捨て方の、育ち、教養、人格が良く判っただけ。 まぁイイけど。

 

 

 


" 春との旅 " を反芻する

2010-11-13 01:49:50 | 一人ブラブラ

自分のお金で映画を観る歳になってから、所謂ロードショウをほとんど見た事がない。
ワタクシ、洋画は一回目字幕をジックリ読んで、そして二回目は画像をジックリ観る。 そうしないと理解できません。 
しかし、ロードショウだと入れ替えがあるし、最近は席まで決められている。 これではムリです。

と、言う事で映画はいつも、繁華街から少し外れて、チョット寂しい、しかし本当の映画好きが集まっていそうな、空いてどこでも座れて、入れ替えなど無関係の映画館で観ます。
別に数ヶ月遅れても良いし、その間色んな評判聞けるし。
最近、そういう映画館段々減ってきて、神戸市内では湊川公園にあるだけ(?)

邦画でしたが、先日、そこで " 春との旅 " をやっていたので観て来ました。

前評判通り、色々考えさせられます。

貧しそうな漁村の、古い木造の家の引き戸がガラっと開き、ジイサンが杖ついてヨタヨタと出て来る。 何かお怒りの様子、ヤケクソ気味。後を追う女の子、背負っているザックがランドセルの様に見え、小学生かと思った。 ジイサンは杖を邪魔そうに放り投げる。 女の子は拾ってジイサンに押し付けるがまた放り投げる。 最初のこのシーン、一体なにが始まるのか、といった感じ。

孫娘は19歳、給食係として働いている町の小学校が廃校になるから、その後は都会へ出て働く、と言い出し、それなら 、脚が悪く一人では生きていけないワシは、養ってくれる兄弟を捜しに行くッ!、 と飛び出したのが最初のシーン。
動きだしたディーゼル車の中、明らかにジイサンは不機嫌、 離れた席で座って遠慮してた孫娘、気を改めてジイサンの隣にドカッと座る、そうして旅は始まる。

しかし、増毛の駅で、髭キレイに剃って出発したこのジイサンの目論見は、ことごとく外れる。
当たり前です。 兄弟もジイサンと同世代の老人仲間。 養うなんて経済的にも物理的にも無理。
でも、それを断る兄弟はみんな優しかった。

最初行ったのは最もソリが合わなかった長兄。
長男なのに養子に行って、豪邸に住んでいる。  しかし、やっと入る老人ホームが決まった矢先で、それは子供に仕向けられた様子。 自分達も追い出される運命。
申し訳なさそうに抱き合って見送る長兄とそのツレアイ、老婆の眼差しが悲しく、優しかった。

次は毎年年賀状が来る一番気があった末弟。
しかし、その住所にはその弟はいなくて、偶然入った食堂で、末弟の代わりに年賀状を出していた内縁の妻と出会う。
弟は恩ある他人の罪を被り8年の刑で服役中。 その内縁の妻は、ご飯お替りOKで儲けの少なそうな食堂を経営しながら、東京に住む予備校生の息子を養っている。
午後の営業を始めるべく自転車で店に戻る弟の妻は、その店で食べ残したオカズを、お替りのゴハンと混ぜて握り飯にして、と頼むこのジイサンの無理にも応える太っ腹、優しかった。

3人目は姉、コケシで有名な温泉の旅館の女将。
最初はジイサンを布団部屋に泊めるが、その後はちゃんとした客間をあてがい、ジイサンには口うるさいが優しい。
そして、孫娘を後継者として迎えたいと言いだす。 しかしジイサンは、薪割りでも何でもやるなら置いてやるが、ただ養うだけはダメ、とキッパリ断る。
あんたのワガママは周りのみんなを犠牲にしている、孫娘だけは犠牲にしないで、あの娘は自分に預けて、あんたは一人で生きていけ、と優しく突き放す。
しかし、孫娘はその温泉旅館に留まることを断り、二人の旅は続く。

最後は仙台の弟。
前日姉から、自分のワガママを孫娘に強いるな、と言われたのに、このジイサン、都会へ来たのでホテルへ泊る、と言いだして、何かの学会でどこも満室なのに、空いているホテル探せ、とまで言う、ワガママ放題。
結局どこもなくて、居座っていたホテルのロビーは追い出され、夜の街を彷徨い、ジイサンは歩けなくなって倒れ、悪態をつく。 ここで捨てて行く、とまで孫娘は叫ぶが、結局二人は仲良くもたれ合ってベンチで朝を迎える。
夜遅くまで飲んでて、電車無くなって、泊るお金もなくてベンチで夜を明かしたコト、何度もあるワタクシ、この一夜のミジメさ、よぉく判りますね。 
孫の女の子、カワイソ。 つきあわせたこのジイサン、ホントに捨てられても仕方ない。
弟の住所まで行くが、盛大に営んでいた不動産屋の建屋は更地。 向かいの古い商家で転居先を訊いてそこを訪ねると、大きなマンション。
部屋のドアをエラそうに大声あげて叩くと、ジャージ姿の弟が現れる。
しかし、養ってと頼むと、偉そうにしていた兄貴が何を今さら、オマエはバカだ、と口汚くなじられる。 ジイサン、逆ギレして、殴りかかるがこの弟、反撃しない、 殴られるまま。 
そして、ヨメサンにホテルのスィートを取ってやれ、と命じる。 
この弟も、それに従うヨメサンもまた優しい。商売うまくいかなくなって財布の中、厳しいのに。

これで兄弟宅巡りは終わりだが、孫娘が、ジイサンが兄弟と次々会っているのを見て、自分もお父さんと会いたくなった、と言い出して、オマケで向かうのはジイサンの娘婿宅。 しかし娘とは離婚しているので、当然ジイサンとは他人。
そして着いた先は北海道の大きな牧場。別荘の様なカントリー風の豪邸。 フレンドリーに娘婿の再婚相手が迎えてくれる。
ここで久しぶりに父と娘が対峙する。 ここからが涙、涙のシーン。
娘は両親の離婚原因を母の不倫だと言う事を知っていた。
父親は母親を殴って出て行って、そして母親は5年前に自殺した。 
過ちは償えないものなのか、と母を許せなかった父を責め、オカアサ~ンっと、号泣する娘。
女の子がそそんな泣き方すると、その理由はどうであれワタクシも泣いてしまう。 
しかし、浮気したヨメハン、そう簡単に許せるものではない。 原因の半分はムコハンの方にあるンでしょうけどね。
外ではジイサン、牧場のお馬さん、眺めている。
そこへ娘婿の再婚相手が近づいて来て、 自分は母子家庭で育って父親を知らない、あなたをお父さんと呼んでいいですか、そしてここで一緒に暮らしませんか、と言い出す。
やった!  東北各地の兄弟頼って、全て断られ、北海道へ戻って、ナント他人から、しかもセンス良い美人から一緒に暮らしませんか、と言われる、何という僥倖。  ワタクシなら即、はいそうします、ありがとう、です。 
しかし、このジイサンは断ってしまう、 涙浮かべて。 自分の人生を悟りきった様な表情。 清々しさが感じられる。

「そろそろおいとましょうか」 「わたしもそう思っていたトコ」  二人は寄り添って、牧場から駆け降りる。 それがなんとなく楽しそう。 やっぱり二人は二人でいい。

夜、そば屋の主人がのれんを片づけている。 中では二人がソバをすすっている。 
ジイサンは、昔、このそば屋へ娘 (つまり孫の母親 ) と来た時のことを話し出す。
娘が妊娠したのでもう結婚を認めてやって欲しい、と頼みに来て断られたという話。 
娘の相手(つまり孫の父親)は大牧場の息子。
片や、牧場主の息子がもらう嫁は、ニシンで大儲けする夢を捨て切れず、海から離れられない貧しい漁夫の娘。
そんな結婚を認めない親がいる、良くある話。
そして、牧場を捨てて漁夫の娘を取ったオマエの父親を許してやれ、とジイサンは言う。
孫娘は、これからもずっとオジイチャンと暮らす、増毛でまた仕事探して、オジイチャンを好きになるカレシ見つけて、結婚してもオジイチャンと暮らす、と言う。
エエ娘やねぇ。 ワタクシ、ずぅ~と泣いてました。

さて結末はどうなるンだろう。
このままあの海辺の古い木造の家の生活が映し出されるのだろうか。 それなら何かシンドイ。
ジイサン、この歳で一週間程旅して、ホントにもうシンドイでしょう。
もういいのでは、と思って観ていたら、「次は終点、増毛です」 との車内アナウンスが終わって、 孫娘に寄りかかって寝ていたジイサン、床に崩れ落ちる。
オジイチャン、オジイチャン、と叫びながら、もう動かぬジイサンを揺り動かす孫娘、このシーンで終わり。

このジイサン、人生の最後にとても温かい旅をして、ディーゼル車の中で、とは言え孫娘に看取られて、非常に良い死に方をしたのではないか、と思う。 少なくとも、最近流行りの孤独死、孤立死ではない。 ある意味、うらやましい死にかた。

ワタクシの母は孤独死でした。 一人息子がスキー場で遊んだ後、宿で酒飲んで爆睡していた夜に。
その一人息子は自分も孤独死でいい、と思っている、今は。