蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

年寄りの冷や水、とまでは言われなかった

2013-10-30 13:10:50 | 朽ちゆく草の想い

ミニバイクほど、運搬能力としての、コストパーフォーマンスに優れた乗りモノない、という記事をナンかの雑誌で読んだことがある。
確かに、前後にカゴを付ければ、スーパーで調達した2週間程度の食材は運べるし、スキー板くらいの長尺モノだって、ステップボードに立て掛け運べます。

しかし、ミニバイクほど、粗末に扱われる乗りモノはないと思う。まだまだ動くハズなのに、公園の繁みや河川敷に、惨めに捨てられているミニバイク。
六甲山とは、稜線に近付くと車の音や匂い(つまり排気ガスの匂い)がしてくる不思議な山なのだが、裏六甲の谷を登っていて、西六甲ドライブウェイ直下に捨てられているミニバイクに出くわしたコトは、何度もある。
多分、タチの悪い若者の仕業なンだろう。
一年分の定期代程度で手に入り、ムチャクチャ乗り廻し、改造もしたりするが飽きたらポイする。

まぁ六甲山の道端には白モノ家電やTV、パソコンなども沢山捨てられていて、ここは家電量販店?、中古品ばかりだけど。
消費文化の象徴、ホントに嘆かわしい。

しかしワタクシ、30年前に定期代1年分ほどを誤魔化して手に入れたミニバイク、まだまだ捨てません。まだまだ元気に走ってくれるし、チョットしたケガ、病気は治してくれるバイク屋がいるし。

今年夏頃からウィンカーが点かなくなったり、クラクションが鳴らなくなったりして、それは断線、つまりコードの被覆材の劣化、電線の腐食が原因だと判り、「イッソ、コード類全部、交換してくれヘン?」と言ったら、「そんなン大変ですよ、その都度切れてルとこ直していったらよろしいやン、ナンぼでも付き合いますワ」、とバイク屋のオニイチャンは頼もしい。

とにかく腐食、劣化が心配だ。
カバーに隠れているハンドルを下から覗くと、激しくサビが浮いている。またスピードメーターのレンズが劣化して、ヒビがイッテいる。
「これ、部品ある内に交換しようと思うねンけど」
「そうですね、それならヘッドライトも交換した方がエエと思いますヨ、ウラ、かなりイッテるし、今度開けたら多分、バラバラになると思う」
と言う事で、これらの手配をお願いした。

しかし、2日後、「あきません、“全滅”です」、在庫はどれもなかった。モデルチェンジは20数年前のはず、なくても当然です。
「後は中古部品を探すか、です」

そう言う中古部品販売のサイトは知っていた。
1台の中古個体からパーツを外して売る商売、これはバイクの臓器売買?脳死臓器移植?、チョット違和感があったが、比較的キレイな、サビがほとんどないリアキャリアを購入したことがある。まだ交換してないけど。

早速そのサイトを見た。
ほとんどサビのないハンドルと、レンズにヒビがないヘッドライトは見つかり即手配。5日後モノは届いた。支払いは代引き、¥8,510.-。
現物を確認すると、どちらもサビ、劣化なく、中々キレイだった。

早速、バイク屋に持ち込んで交換をお願いしようと思ったが、中古部品の交換作業だけ頼ンでエエの?、ナンカ気が引けた。

仕事もせず、年中遊んでいる身分、時間は充分ある。自分で交換してみて、もしダメな時は、恥ずかしながら後始末お願いしても、あのオニイチャンはやってくれるはず。

と、いう事で17日、自分でやることにした。

ハンドルグリップも交換しないといけないことに気が付いて調達。
昔はホームセンターやオートバックスで売っていたはずだか今はなく、少し離れたバイクパーツ専門店まで買いに行くことになった。

工具、KURE556、パーツクリーナー、グリース、雑巾を揃えて昼過ぎ、作業開始。幸い駐輪場周りには誰もいない。

Imgp5222 ハンドル上のカバーを外し、ヘッドライト、スピードメーターの“縁”を切るとハンドルが露出した。スゴイ錆び。

Imgp5224 ヘッドライトのレンズにも多数のヒビがイッテいた。

Imgp5225 ヘッドライトの取付部は、バイク屋のオニイチャンが言っていた様に、バラバラになっていた。
サビで固着したプレートを外さないと完全に“縁”が切れない。KURE556を吹きかけ、何とか外せた。

さてハンドル本体はどう外すの?

取りあえず、サスに繋がっているパイプに差し込まれている部分や貫通ボルトにKURE556を思いっきり吹きかけ、貫通ボルトを左に廻す。硬い。とにかく硬い。

何度かトライして、最後にフンと力を入れると少し緩んだ。更にフン、フンと力を入れる。徐々に緩んできて、やっと抜けた。ホッ。

これで“縁”は切れたはず、後は引き抜くだけ。しかし、これも硬い。

タイヤを固定してハンドルを左右に振ってみる。
動かない。フン、フン、と力を入れると少し動いた。KURE556を更に吹きかけ、更にフン、フンと振る。大分軽く動く様になって来た。

Imgp5227 そして、ステップポートに体重を掛けグイグイ引っ張ると、ズボッと抜けた。ここまでで1時間経過。

Imgp5229 新旧のハンドルとヘッドライト。

ここからの組み立てが大変だった。
掃除したり、サビを落としたりで時間もかかったが、何と言っても、ハンドルのシャフト周りには、狭い空間にゴチャゴチャ、ケーブルや配線が通っていて、それを上手く納めないと、全体が納まらない。ネジを締める順序を間違っても納まらない。何度も付けたり外したり、ナンヤこれッ!

3時半、やっと納まって、フゥ~ウ。

そろそろ小学生が帰ってきて、この辺りを走り廻る時間。駐輪場を“ホーム”にして遊んでいるグループもある。
「オッチャン、何しとン?」と、近付いて来るガキもいる。
「ウワッ!これナニ?」と、部品や工具を触ろうとするガキもいる。早く片付けないと。

すぐ作動チェック。
セルは廻る。エンジンもかかる。ライト、ウィンカーも点く。クラクションも鳴る。スピードメーターも反応する。インジケーターランプも点く。

しかし、ブレーキランプが点かない。
エエッ、ナンデェ???ゴチャゴチャしているケーブルや配線、グチャグチャいじり廻した時、切れかかってたのが切れたのか?

いずれにせよ、もうシンドくなった。
サビたネジ、力いっぱい緩めたり締めたりしていて、指もツッてきた。手ェが広げられない。
深爪と言うか、指と爪の間が裂けて、とにかく指先も痛い。
もうヤメましょう。

翌日も指先は痛く、終日シンドかった。取りあえず工具その他を片付けた。爪が伸びるまで指先は痛いままだと諦める。

翌週、晴れた日は自転車に乗り、用事がある日は雨が降り、使うのは傘と長靴。結局ミニバイクは動かさなかった。

しかし、不具合を放置したままは気味が悪い。日曜日、バイク屋のオニイチャンに助けてもらう事にした。
不具合、つまり断線の原因は、ハンドルとヘッドライトの交換を自分でヤッタことかも知れない、と正直に申告。

彼はワタクシの “年寄りの冷や水” には一言も触れず、「まずランプを見ます」と、作業を始めた。ランプは健全だった。
と、言う事は、やはり配線をグチャグチャいじり廻した時切れたのか。

左右どちらのレバーを握っても点かないと言う事は、接続端子の後側が疑われる。接続端子はあのハンドルシャフト周りの狭い空間にある。

彼はハンドルカバーを開け、スピードメーターとヘッドライトの“縁”を切り、その狭い空間を覗けるようにした。
「スピードメーターのワイヤーのナット、ムチャクチャ緩かったですよ」、それを締めたのは指がツリかけて来た頃だった。

彼はその狭い空間に指を突っ込みギボシを外し、メスの端子にラジオペンチを突っ込み、それを短絡した。するとブレーキランプは点いた。「後側は繋がってますねぇ」
次にオスの端子にテスターを接続し、ブレーキレバーを握った。テスターがピィ~と鳴った。
「レバーのスイッチは効いてますねぇ、と言う事は端子の接続かァ、しかし左右同時にそうなるて、こんなコト、初めてです」
メスの端子に接点復活剤を吹き付け、オスの端子の表面をやすりで削り接続。
しかし、点かない。「エエッ!なんでぇ?」
彼は、コード両端にオスとメスの端子を付けた仮の延長コードを作ってそれを接続。すると点く。
「片方をサラの端子にすると点きますね、ナニこれ?」
「30年経ってルし何があるか判らンのやろ、マエそう言うてたやン」
「まぁそうですけどね、しかし不思議やなぁ」

いずれにせよ端子接続箇所は狭い空間にあって、外したり繋いだりがとてもやり難い。
「コード延ばして、あの狭いトコから出して、端子全て交換してェ」と、お願いした。
「判りました」と、彼はハンダごてを準備した。
「圧着で繋がへンの?」
「ボク、あれ信用してません、その部分、太なるし」

いずれにせよ、彼にお任せして、夕方一週間分の買い出しに行って、その帰りに寄ると、作業は済んでいた。
「接続箇所2ヶ所のギボシ、全て交換しときました」、費用は¥4,000.-だった。

「8月から毎月、修理に来てるねぇ、来月はドコやろ」
「イヤもうしばらくはないと思いますよ」

確かに5ヶ所以上の断線を修理してもらっている。
もう切れそうな箇所はないのだろうか。それならありがたいコトなのだが。


山津波、鉄砲水、岩ナダレ

2013-10-26 02:03:19 | 山とスキーでブラブラ

ワタクシが布引谷から通学していた頃(つまり40年以上前)、布引(つまり新幹線の駅が出来る前の新神戸)から市ケ原に至るハイキング道(つまり通学路)は、大雨が降る度にあちこちが崩れていた。
崩れた土砂が通学路をふさぎ、それが取り除かれるまで、う回路が作られていたが、我々学生は土砂の上を“近道”していた。

しかし46年前の7月、台風の接近で活発化した梅雨前線の豪雨による土砂崩れは、道をふさぐ程度のチョロいモノではなかった。

日曜日の午前中に降り出した雨は、昼過ぎには土砂降りになり、近くの斜面が崩れ始めた。

家の南側正面の、山腹に刻まれた急峻な谷が、轟音と共に崩れて行く。
稜線の少し下、道路から50m程上のあたりから、木々に混じって軽四輪車位の岩が空を飛んでいる。スゴイ光景。
家から数百mは離れているので、家までは飛んでこないと確信はしていた。
それは、自然が演ずる豪華な“暴力”ショーのようだった。

次にその隣の谷がドォ~ンと崩れた。その谷と道路との出合はチョットした広場になっており、オヤジは前夜、通勤に使っていた勤務先の3輪トラックを停めていた。
正面の谷ほど急ではないので、斜面がずり落ちた感じだったと思うが、それでもスゴイ音だった。
広場は土砂、木々で埋め尽くされ、オヤジのトラックを道端のコンクリート製柵まで押しだしていた。

そして9時過ぎ、その豪雨は世継山の北斜面を崩し、村の中心とも呼ぶべき茶店や駐在所が吹き飛ばされ、そこに避難していた21名が亡くなった。内6名は小中学生だった。
地図で確認すると、茶店と世継山のテッペンとの標高差は約150m、水平距離で300m弱離れており、茶店は決して急な斜面の下にあった訳ではない。

当時、世継山には斜面を切り開いてゴルフ場が作られていた。この災害が、ゴルフ場の乱開発による人災との結論が出るのに、時間はかからなかった。数年前にも小規模の土砂崩れにより、少女一人が亡くなっていた。

ワタクシはその時初めて、オトナ達がそんな自然の“暴力”を山津波、鉄砲水と呼んでいるのを聞いた。

数日後、また通学が始まり、同級生と再開。熊内に住んでいたトモダチは、あの日の坂道は全てが“川”になっていた、と街の豪雨を喋った。

この時の雨量は、時間当たり最大75.6mmだったそうだ。高度成長期の46年前、昭和42年の兵庫県南部豪雨。
北摂地域でも川が氾濫し多くの犠牲者が出たそうで、「北摂豪雨」とも呼ぶらしい。

それから43年後の’10年、奄美大島には時間当たり130mm降って、先週の伊豆大島にも同程度降ったとか。
つまり、46年前の倍近い雨量になる。
あの時の倍、“超”スゴイ。

最近の“超”スゴイ豪雨、豪雪、それは温暖化が影響しているそうで、温暖化は人類の、と言うか先進国の今までの経済活動が原因と言う説、そう言う説を否定するおバカがいるそうだが、ワタクシはそう思います。
経済活動とは要するに、寒さ、暑さ、飢え、そして移動に対し、快適、楽で豊かな“環境”を追い求める“慾”でしょう。
ただ、それらの“慾”はワタクシにも多少ありますが、それを“限りなく”追い求める一部の“おバカ”がいて、彼らは世界の富のほぼ全てをコントロールしているそうだ。当然、軍需産業なども彼らの管理下にあるンでしょうね。

そしてほぼ全ての富をコントロールしている“おバカ”は、“超”スゴイ豪雨、豪雪が降っても何ら災害を受けることなく、しかし彼らが快適、楽で豊かな“環境”を得るために歪めた自然環境は、奄美大島、伊豆大島、九州や四国、その他JRの本数も少ない地方に災害をもたらしている。
これは一体どういう事だろう。ナント嘆かわしい。

現在、新神戸から市ケ原に至るハイキング道の山側の大半には、金網が張り巡らされ、ポロポロ崩れて来た土砂、木々がギッシリ、そこに溜まっている。
また、周囲の斜面には伸び過ぎた樹木により陽が射さないため、下草が生えない状態になっている

そんな脆弱な布引谷に、46年前の倍近い“超”スゴイ豪雨が降ったらどうなるンだろう。それとも、もう神戸エリアには豪雨は降らないンだろうか。
現在、布引谷には数人しか住んでいないし、皆さんヤバくなったら早々に避難されるだろうし、時間130mmを越える豪雨により山のあちこち、グチャグチャに崩れても、誰も亡くならないとは思うが。

ところでワタクシ、布引谷で山津波、鉄砲水を経験した後もそこで住み続け、ハタチを過ぎる頃から山登りと言うか、岩登りを始め、休みの日には、六甲ケーブル山上駅側の岩場でトレーニング、長い休みには北アルプスなどへ登りに行っていた。
布引谷を下り、別の山を登ってから神戸へ戻ると、また布引谷を登って家へ帰る、そんな道楽の日々が5年程続いた。

そして、岩ナダレを何度か経験した。

岩の雪崩?、「落石のゴッツイ奴や、ナンセ石、よう降ってくるでェ」と先輩に教えられた。

初めてのホンチャン、北穂の稜線からルートの取付点に下るべく沢にトン、と足を踏み降ろした突如、大きな岩がゴゴゴッと動き、それが落石を誘発し沢全体がグォオオ~とナダレていった。
幸い仲間も他のクライマーも誰ひとり、被害を被ることはなかった。

翌年、たまたまザックを背負って大学に行っていたワタクシに、声を掛けて来た一学年上の山岳部員、成り行きで一緒に登り始めた。

そして夏休み、行った先は穂高・屏風岩。
順調に登っていたが、終了点の数ピッチ手前でトラバースする箇所を、彼は真っ直ぐ登ってしまい、見事に落ちた。
途中のハーケンは次々抜け、確保をしているワタクシの直ぐ上のハーケンが効いて止まった。
彼は自分が登った高さの倍近く落ちた訳で、ワタクシの数m横を飛んでいった時、ザイルがワタクシのメガネに触れレンズが割れた。ワタクシは視力0.1になった。
彼は神戸へ帰って入院するほど大腿部を打ったが、骨折等なかったのが幸いだった。
懸垂下降を繰り返し無事取付点に降り立ち、その日はそこでビバーグ、翌朝ガレ場を下っている時、ドォ~ンときた。

前日も登っている時ドォ~ンときたが、ルートは斜上する庇の根元に沿ってつけられていて、石は庇の向こうを飛んでいった。
そして、この朝はもうかなり下っていたので、石は届かないだろうと思っていた。レンズのないメガネで見上げるしかなかったが、そう思った。

しかし、太股を痛め、かなり後方を歩いていた彼が何か叫んでいる。ワタクシは少し離れた大岩までタタタッと移動し、岩陰に身を潜めた。
すると先程ワタクシが歩いていたあたりに、いくつもの石がバシバシバシと降り落ちて来た。

その3ヶ月後、北アの最北、頚城エリアの山へ登りに行った。
その山の南壁を登り、その上に続くフランケの左半分をトラバースし、右半分をピークまで登るとドロミテ級だと何かの本で読んで行ってみた。パートナーは新しくメンバーに加わったツワモノだった。

無事、南壁を登り、続くフランケの左半分をトラバースし、右半分を登り始めた時、ドォ~ンときた。身を潜める場所などなく、ただ壁にへばりついているしかなかったが、幸いバシバシ降り落ちる石には当たらなかった。
しかし、パートナーの足には当たったらしく、「この先、トップで登られヘン、頼むわぁ」と言ってきた。ただケガはしていなかった。
その後国際山岳(?)ガイドになったらしいツワモノは、この時、明らかにビヒッていた。そして「君のヘルメットの先にも落ちて、バーンと弾けとったわぁ、スゴかったでぇ」と言っていた。
ワタクシはルートの大半をトップで登り、ピークに到達。ドロミテ級は足の下にあり、数少ない快哉のひと時になった。

ルート取付点で準備していたら、ヒュ~ンと空を飛んできた石がパートナーの頭を潰し、眼の前で即死、と言うエゲツナイ事故の話を聞いた事がある。
それに対し、バシバシ石が降り落ちるシーンで、仲間も含め、凄惨な目に遭わなかったのは超ラッキーだった。

46年前の7月、グォ~っと流れている鉄砲水から逃れようとしていた駐在サン、しかしその後ろにいた奥さんはいつの間にか流されていったそうだ。
ワタクシは家の周りの山津波、鉄砲水を、両親や隣人達と眺めていたが、誰ひとり流されなかった。これも超ラッキーだった。

もう岩ナダレが起こる様な場所へは行かないが、異常気象による“超”スゴイ豪雨はどこに降るか判らない。山津波や鉄砲水に遭遇する可能性はある。
その時もラッキーに逃れるだろうか。まぁ扶養義務もないし、この歳になればどうでもイイですけど。


布引谷に襲来するモノ、山の家へのイノシシの襲来は相変わらず

2013-10-18 16:04:05 | 神戸布引谷での出来事

6月末、布引谷・山の家へ戻ってから、気がつけば3ヶ月以上ゴブサタで、それは山の家も盛夏は猛烈に暑くて、しかもこの間、市ケ原はバーベキュー族が襲来しているので戻る気がしなかった。

ワタクシが通学、通勤していた30年以上前と比べて、布引谷(と、言うか六甲山全体?)は、木が繁りすぎで風が通らず、夏は都会なみに暑い。
そして、30年以上前、市ケ原は飯盒炊さんで賑わっていて、多くの老若男女が山登りの恰好で、お米とオカズの缶詰を担いで登って来ていた。それがバーべキュウ族に変ったのはいつ頃からなのか。

ハーブ園が出来てから、この辺りは車両進入禁止になっている。土日はふもとの旧塩原学園にガードマンがいて規制している。
しかし、バーべキュウ族はそれを突破してやって来て、我が山の家周辺に路駐し、食材等を抱えたり、台車に載せたりして市ケ原へ向かう。
ナゼか彼らは男女年代に関わらず、ダラしない服装が多いように感じる。そして、ゴミもダラしなく残して帰る様子。
川原のそばには、ハイカー用の大きなゴミ箱がズラ~っと並んでいるが、バーべキュウ族が帰った後、それがゴミで溢れるそうだ。
「シート、きちんと畳んで棄てたらエエのに、グチャっと丸めるから嵩張って」と、通りかかったハイカーが言っていた。

昔の飯盒炊さん族は全て担いで登って来た。従って、たとえゴミを出しても担いで来た量だけ。
それがバーべキュウ族は、飯盒炊さんとは比較にならない程の量を車で運んでくる。そして比較にならない程のゴミを残して行く。
それを漁りに、山の向こうのゴミ埋め立て場を根城にしているカラスが、大勢で襲来したこともあったらしい。嘆かわしいハナシです。

我が山の家の庭には、毎年梅雨明けの頃、隣り外人サンが住む家の庭の竹が“襲来”する。庭のあちこちから、竹がヌゥ~っと伸び出す。その数、‘10年にカウントしたら8日間で22本だった。その都度刈り取り、夏になるとそれは終わる。

それが昨年、7月下旬に終わったと思っていたのが、その後も続いており、9月下旬戻ると庭は竹藪の様になっていた。自然のペースが変化している様で気味が悪かった。

今年は6月末から3ヶ月放ったらかしなので、昨年以上の竹藪になっていると思いながら、連休の最終日14日戻ると、大したコトにはなっていなかった。ナンデェ?

Imgp5212 笹が数本のみ。竹はどこへ行ったのか。

Imgp5213 しかし、ミズヒキが生え放題。

Imgp5214 そして、イノシシが荒らし放題。エサを探してあちこち掘りかえしグチャクチャ。

寝泊まりするニンゲンがいないのだから、イノシシはコワイもんなし。仕方ない。
その代わり、と言うか、家に明かりや温もりがなくなって、虫がいなくなり、それらを喰らうトカゲ、ヤモリも見かけなくなった。イヤ、ソイツらはノラに喰い尽されたのかも知れないが。

Imgp5215 ミズヒキやその他を一時間半程かけて引き抜くと、雑草の小山になった。

その後、櫻茶屋を覗きに行く。

レイコさんは部屋でつまづいて、コケて、腰打って1ヶ月(?)程寝たきりだったそうだ。しかし、見た目には全く変わりない。
「元気になって、店開けて、ここで座っとったら、通る人、次々アイサツして行くし、顔なじみも多いし、ホンマそれだけで、ありがたいハナシやわぁ」
「そうですねぇ、元気が一番ですね」

しかしこの日、ワタクシ、元気がなかった。新神戸駅から山の家まで40分もかかってしまった。通常、30分強なのに。
とにかく登り始めて直ぐ、カラダが重く、調子の悪さを感じた。前週も自転車で90キロ程走れたのに、ナンデェ?

そしてこの日、ナゼか何度も道を尋ねられた。

帰ろうとしていると、下から登って来た4~5人の山ガール、山ボーイ、車道に出て、下る方向に進み出す。よく間違えるパターン。
一人が間違いに気付いたのか、「摩耶山はどっちですか」と訊いて来た。
「あっちやけど、今から摩耶山行くン?着いたら陽ィ暮れてまうでぇ」、時間は4時前だった。
「ヘッドランプ持ってますから」、山ガールの一人が応えた。
「イヤ、ヘッドランプちゅうのは、暗くなって仕方なく使うモンで、それを使うのを前提で山登りしたらアカンよ、天狗道、それなりにキツイし、冷えたら脚、ツルよ、大体4時になると、山は下るモンや、登るモンとちゃうで」
「そうですかぁ、どうするか話し合います」、と“あっち”の方向へ歩いて行った。

そう言えば以前も4時頃に、摩耶山への道を訊いて来たアベックがいた。
最近の山ガールブームでは、ナイトハイキングも流行っているのだろうか。
まぁ簡単には遭難騒ぎにならないとは思うが、面白くもないと思うけどねぇ。


自供、冤罪、人権

2013-10-12 02:51:03 | 一人ブラブラ

今週の日曜日、何年振りかにアートビレッジセンターへ行って、「約束」と言う映画を見た。

Imgp5208 映画サークル協議会の特別例会で、東海テレビの製作のドキュメンタリードラマ、~名張毒ぶどう酒事件・死刑囚の生涯~。

無実の死刑囚・奥西勝サンを演ずるのは仲代達矢サン、息子の無罪を信じ、手紙を書き続ける母親役は木樹希林サン、一人で再審請求していた奥西氏を知り、支援し続けた人権団体の代表者役が天野鎮雄サン。

三重県名張の山奥の、小さな村での懇親会で、5人の女性が亡くなった“名張毒ぶどう酒事件”が起きたのは、昭和36年。ワタクシはまだ小学校の低学年で、リアルタイムでは何も覚えておりません。
しかし、度々の再審請求が棄却される度、ニュース等で大体的に報道され、ナンやケッタイな冤罪事件がまだ続いているンやなぁ、と言う感覚だった。

この奥西さんは昭和47年、最高裁で死刑が確定したからズッと拘置所暮らし(死刑囚は刑務所ではなく拘置所に入れられるそうで、そこにいる間は私服で作業の義務はないそうです)、その間二桁を越える処刑者を見送っいて、いつ自分が処刑されるのかに苛まれ続け、線が繋がっていない電話が最近出来た事はご存じだか、携帯電話の現物はご覧になったコトはないらしい。要は半世紀も社会から遮断され、拘束され続けていると言う訳だ。

何故そんな境遇になったか、それは奥西氏がぶどう酒に農薬を入れた、と言うKサツがデッチあげた調書に、「ハイその通りです」と言って、Kサツがお膳立てした記者会見でも、取り調べした巡査部長(?)のシナリオ通り演じて、しかし裁判が始まったら「自白を強要された」と言えば、司法はチャンと裁いてくれると信じ、一審は無罪だったが、二審は死刑、最高裁で死刑が確定したからで、その根拠は自供、だそうです。

懇親会のぶどう酒は、数時間放置されていて、そのことを裏付ける村人たちの証言が、奥西氏が自供したとKサツが発表した後、次々と変ったそうで、それは時間的に奥西氏にしか農薬を入れる機会がなかった、と裏付けるためのモノ。
つまり証言が二つある訳で、一審ではそれがエエカゲン、よって自供はオカシイとの事で無罪になったそうだが、その時の裁判官は左遷されたらしい。
また、再審請求を一度認めた裁判官も左遷、逆に死刑判決を下した裁判官、再審請求を棄却した裁判官は、皆さん出世(?)されたとか。まぁスゴイ。

新たに弁護団に加わった若い弁護士が、ネットで当時の農薬を探しだし、それを分析し、それが奥西氏が自白したとされる農薬と違うことを証明、従って自白そのものがオカシイので再審してよ、と言う請求に対し、「無実を確実に断定する証拠」を持ってこい、と裁判所は棄却したそうだ。
しかし、奥西氏を犯人とする物的証拠は、そもそも無いとの事。農薬の入ったビンを名張川に棄てた、との“自供”に従って探したがガラスの欠けらも見つからなかったそうだ。強要された自白だったから当然ですけど。
そんなことより、「疑わしきは罰せず」とか言う決まりがあったンちゃうのン、と法律のコト、あまり知らないワタクシでもそう思いますけど。

現在、無実を訴えている事件は20件もあるそうで、有名な袴田事件もその一つ。ナント、痴漢冤罪事件が3つもある。
高知白バイ事件と言うのもあって、これ確か、学生を載せた貸し切りバスが右折しようとした時、白バイが突っ込んできて警官が亡くなった交通事故、と記憶している。
しかし、別の白バイの警官の証言で、バスの運転手サンが悪い事になって有罪が確定、もう刑期は終えられたらしいが、載っていた学生やバスの後ろの車に乗っていた先生は、白バイの警官とは異なる証言をしていて、また白バイの警官の証言を裏付けるバスのスリップ痕が、捏造だと言う検証もあるらしい。
裁判所は警官の証言を“正”とし、また被告側がスリップ痕が捏造だと主張すると、それを「反省していない」と、却下したらしいが、これもまぁスゴイ。
要は、御上に逆らうヤツは許さん!、と言うコトか。

今年の5月、国連の人権条約に基づく拷問禁止委員会の対日審査で、「ニホンの刑事司法制度は自白偏重で中世の様だ」と指摘されたそうだが、この状況を見ると、中世と言われても仕方ないですナ。

Imgp5209 これは、再審請求が認められた事を、人権団体の代表者が奥西氏に報告した時に、ガラス越しに“握手”した時の場面。

そして、無事解放された時、ホントの握手をしましょう、それまでシブトク生きましょう、と「約束」する。
しかし、この人権団体の代表者はその後亡くなり、一度は認められた再審請求も検察がイチャモンつけて、棄却されてしまった。

この事件の関係者で亡くなったのは、人権団体の代表者だけではないそうで、事件があった懇親会の参加者の大半も、ぶどう酒の入った一升ビンの王冠の歯型が奥西氏のモノだと、ウソの鑑定をした大学のセンセも、死刑判決を下した裁判官も亡くなったらしい。息子の無罪を信じ続けた奥西氏の母親も、彼が逮捕され村中を引きずり廻された時、父の名を呼んだ息子も亡くなったとのこと。
事件から50年以上も経っているので、アタリマエと言えばアタリマエ。

しかし、支援者グループ、弁護団には若い人達も加わり、途絶えることはない様子。また、東海テレビ製作のこの作品を上映することにより、再審請求の署名も集まっているはずだ。
基本的人権の尊重とは、この国の憲法の三大要素の一つだそうだが(最近はそれを改悪しようとするおバカがいる様ですが)、そもそも人権とは、こうやって勝ち取るもの。シンドい話しですが、“中世”の感覚で迫って来るおバカがいる限り仕方ない。

ただ肝心なコトは、こんな冤罪に巻き込まれないコト。
物的証拠がない限り自供はしないのは当然、痴漢冤罪も多い様なので、満員電車やバスの女性の側には近付かない、Kサツと事故れば絶対コッチが悪者にされるので、白バイ、パトカーには近付かない、と言う事でしょうね。


夏の終わりの復活、チョットだけ、そして10月

2013-10-07 10:36:16 | 自転車でブラブラ

この夏も猛暑で、ダルい、シンドい、もうエエわ、で、ほぼ毎日ひきこもり。

そして、こんなンでエエンか、と毎日思い、しかし、決まった時間に決まった場所へ行かないといけない、と言う毎日には戻りたくない。

ただ、ここからは出て行きたい。

~鉄橋が ひびかせる のは 悲しい歌 列車が とおって ゆく たびに ぼくは どっかへ 行きたく なるんだ~

とラングストン・ヒューズさんは詠ってはります。

~どっかへ 走っていく 汽車の 75セント ぶんの 切符を くだせい どこへいくか なんて 知っちゃあ いねえ ただもう こっから はなれていくんだ~

とも詠ってはります。

これは、黒人奴隷がご先祖の詩人の感覚、情緒ナンでしょうが、ワタクシもどこかへ出て行きたい、明日はきっと。

しかし、翌朝眼が覚めると、ダルい、シンドい、もうエエわ、となってしまう。

8月最後の週、朝と夜がチョット涼しくなって、やっと自転車で出て行けるようになった。

昨年11月以降、9ヶ月振りなので、いきなりロードバイクはコワイ。で、いつもはスモールホィールで再開するのだが、後のサスがオイル漏れのまま放置。で、今年はシクロクロスで再開とする。

初日は近所を少し走ってから西神南まで23km、翌日は曇りがち、ゲリラ豪雨が気になって健康公園を10周以上して26km。

9月になって暴風雨の後、農業公園まで往復、24km。

翌週、31℃の午後、農業公園を越えてR175まで往復、34km。
この日はR175への登りで左のフクラハギがツリ始め、帰り農業公園への登りは何とかこなし、後は前開から学園都市への、下りでは60キロも出る急坂を登るのみ。エッチラオッチラ登っていったが、登りきる少し手前で遂にツッてタチゴケした。
何かのキッカケでバランスが崩れ、それを戻そうとグッと力が入って、ガツンとツッた。
次から次、加速しながら登って来る車がコワい、慌てて立ち上がり、足を引きずりながら自転車を押して歩道へ上がる。

右ひじとサドルの右後ろを擦りむき、右側ドロップ部のバーテープが破れ、ツッた左フクラハギをクランクの歯ァ4ヶ所で削った。1ヶ所はかなり深く削っていた。
フラフラだったが、この夜は眠れなかった。夢の中でも急坂を漕いでいた。

翌日、即リベンジのつもりだったが、ダルい、シンドい、もうエエわ。と言うか、タチゴケした後は乗るのが気味悪い。

ビンディングが外れない状態でタチゴケする感覚は、踏み出そうとした片足をすくわれる様な感じ、それが何とも気味が悪い。
ビンディングを嵌めたらズッと走り続けないといけない。止まればコケる。走るための自転車は、歩いたり止まったりすることを前提としていないそうで、当然。
以前、暑い夏の日、50km程走った後、休憩しようとして、コケた。頭、ボォ~としていてビンディング嵌めたまま止まってしまったのだ。

タチゴケした後は、走っていて、フラフラになって、知らず知らずボォ~ッとなって気がつけばコケている、そんな気味悪い不安に取り付かれてしまう。あぁナサケナイ。

またひきこもりの日々になりかけたが、その翌週、まずバーテープを巻き替え、中性洗剤とパーツクリーナーでキレイに掃除。自転車のキズは勲章、汚れは恥、と言うそうだし。
そして農業公園まで往復、24km。前開から学園都市への急坂は足ツルことなく登れた。

もっと遠くへ、と言う事で、9月最後の週はR175から三木の森林公園へ出て、恵比寿駅へ降り、志染川沿いから防災公園へ登り、押部谷に下った後は来たルートを帰る60kmコースを走ってみた。

Imgp5202 志染川沿いのタンボは、美味いお酒のモトが実ってます。

Imgp5203 10ヶ月振りの防災公園、無事到着。

そして例の急坂でツル事もなく無事帰宅。

10月になって六甲山ルートの玄関辺り、白川台まで往復25km、その翌々日は海沿いのコースを二見の人工島まで50km。

そしてその翌日、更に長い距離をと言う事で、農業公園~R175~加古川~海沿いを戻る75kmコース。ワタクシに取ってはそれなりのチャレンジです。

Imgp5204 R175を過ぎて厄神方向へ下り、稲美町草谷でOdoがやっと4,000kmになった。

Imgp5205 上荘橋に到着。

Imgp5206 右岸自転車道を走り、30分後山電の鉄橋が見える休憩所へ到着。

相生橋を渡り、製鉄所を左手に見ながら畑の中を別府まで走る。この辺り、来る度に畑が一戸建てに次々と代わっている。

Imgp5207 かつて営業で度々訪れた工場が連なるエリアの海沿いを走り、カルシウム工場の浜側に作られた公園で休憩。前日走った二見の人工島が見える。

更に明石自転車道を走り明石港まで来ると、右太ももがツリだした。脚を伸ばしっ放しにしないと痛いので、両足で漕げない。
ダマシダマシ走ったが、大蔵海岸まで来て遂にギブアップ。歩道に上がって休憩。思えば1時間ほど漕ぎっ放しだった。
目の前のラブホテルへ出入りする車をボォ~っと見ながら、10分程でツリは治まった。

この先のR2の路側帯は狭い。またツッてへたり込むスペースはないので、浜側の歩道を走らせてもらう。
踏切を渡り西舞子の商店街を抜け、市道舞子多聞線に出るが、ここも路側帯はないし、交通量が増え出す時間だし、以前53系統の市バスに殺されかけたし、この日は歩道をママチャリと一緒に走ることにした。

幸い、最後の登りでもツルことなく無事帰宅。フゥ~。

夏の終わりからチョット復活し出し、10月第1週は150km、何とか走れた。
相変わらず、ダルく、シンドいし、走ってもノロいが、このペースで少しでも遠くへ出て行くことにしましょう。