蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

アイスランドのお年寄りの映画と「遊行期」

2013-07-31 21:50:34 | 一人ブラブラ

一生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の4つに分けて考える、とお言う昔のインドの考え方を、五木寛之センセイが紹介しておられたのを読んで、自分自身に照らし合わせると、ワタクシ、オフクロの歳まで生きれたとして、今は林住期がそろそろオワリ頃になってしまう。

「学生期」とは字の通り社会に出る前に勉強する時期だから、20歳頃まで。
「家住期」とは、家に住んで、社会で稼いで、税金と年金払って、子供を育てる時期なので、大体55歳位まで、のハズ。
キッチリ4等分するといくらかのズレは生ずるが、いずれにせよ今、「林住期」にいることは間違いない。

「林住期」とは、家庭と社会から離れ、ヒトケのない林に独りで住む時期だそうで、現実、ワタクシ、今独り、ここは林ではないが、周りの団地は空き家が目立ち、隣の部屋もヒトケなく、まぁ林みたいなモン、かも知れない。
隣は10年以上前、奥さんが早逝され、そう言えば下の部屋の奥さんも先日久しぶりに遭遇したので、「最近、ウチのステレオの音、迷惑になってませんか」と訊くと、「イイエ、全然聞こえませんよ、それに最近、ワタシ、いないコト多いし」
母親がいなくなると、子供は立ち寄らなくなる。中には若い世代が引っ越ししてくる部屋もあるが、ヒトケのない部屋が増えているのは間違いない。

ヒトケのない寂しい林で独りで生きる、と言うのは一見暗いイメージだが、見方によれば、家庭と社会から手が切れ、自由気ままに暮らせると言う事になる。正に好きなコトが出来る。
これは「家住期」までの苦役から解放され、その苦労が報われる時、人生のクライマックス、収穫期と言える。現にワタクシ、今、楽しく、清々しく、少し寂しく、穏やかでサイコーだ。
隣の家族も下の家族も、この低所得者救済マンションの完成と同時に入居し、子供達は同級生だった。そして皆さんも今、「林住期」を楽しんでおられるのだろう。
「まだ、ローン済んでへんねン」、と言いながら相変わらず働いている、ナサケナイのもいるけど。

そして、「林住期」が終わると「遊行期」になる。これは死に場所を探して旅をする時期だそうだ。
つまり、旅の途中で亡くなることになる。
お釈迦サンも松尾芭蕉サンも旅の途中で亡くなったそうだ。トルストイも駅舎で亡くなったとか。
しかし、病院で死ぬよりはマシかも知れない。生きる見込みがないのに病院で死ぬ事はないでしょ。

死に場所を探しての旅かどうかは別にして、一度アイスランドには行って見たいと思っていた。
王族が支配した事がない国、ズッと民主主義で軍隊を持たず、冷戦が終わってからは基地もないらしい。
ハッピーリタイヤの後を冬でも温い東南アジアで、女中サン安く雇って暮らしているお金持ちの話しを時々聴いたりする。しかし、そう言う人達とはワタクシ、趣味、教養、育ちが違います。

ハッピーリタイヤ後の暮らしは北極圏に近い島がイイ。女中サン雇うお金も無いし。

先々週、アイスランドが舞台の映画を見た。

066 神戸映画サークル協議会の7月例会。

「春にして、君を想う-Children of Nature」、と言う青春映画を連想しそうなロマンチックな題名。
しかしそのストーリーは、幼なじみの男女老人が老人ホームを抜けだし、今はもう誰も住んでいない、自らが生まれ育った漁村に帰って死ぬ、と言うお話し。
ワタクシには只々、アベックの老人が霞み(霧?)の中をトボトボ、荒涼たる未舗装の道をフルサトを目指して、ひたすら歩いて行くと言うシーンだけがイメージとして残ってます。

この映画、ひたすら死を忘れ、うわべだけの豊かさに悦楽し、軽薄な悲劇に涙するこの国の多くのおバカには理解できない、不思議な作品だと思う。
記憶に残っている範囲でストーリーを書き留めておこうと思う。

主人公のジイサンは、海辺の草原の丘の農夫兼羊飼い(?)、映画は農夫のコーラスで始まる。解説によるとこの歌が、「春にして、君を想う」というようなコトを詠っているらしい。

コーラスが続く中で、羊がトラックに積まれていく。これはこのジイサンが農夫をヤメ、村から離れていくための行為だと、後で連想できる。
ジイサンは写真を燃やし、愛犬の眉間をクラシックな拳銃で射抜き墓場に寝かせ、ヨメハンの遺影をトランクに入れ、ナゼか柱時計を脇に抱えバスに乗る。
都会に着いて、バスターミナルでサンドイッチを噛り付き、タクシーで娘宅へ行く。始まりからこの辺りまでセリフはなかったと思う。
チョット裕福そうな娘ムコはパイプをくわえ歓迎の仕草、しかしティーンエイジャーの孫ムスメにあからさまに嫌われ、結局老人ホームへ。

老人ホームは6畳程度(?)の相部屋。すぐ隣に先輩のジイサンが寝ている。
ジイサンは自分のスペースにヨメハンの遺影と柱時計を掲げ、老人ホームでの暮らしが始まる。
そこで脱走を繰り返している幼なじみのバアサンと遭遇する。
バアサンは、こんなトコで死ぬのはイヤ、生まれ育った村の親の墓のソバで眠りたい、と言う。ジイサンは、戻っても誰もいない、墓があるあの教会も荒れ果ててしまっている、と応える。
同室の先輩ジイサンは、ムスコから送られた花だと自慢げに見せたりするが、ある夜、急に苦しみ出しそのまま死ぬ。死を確認した看護婦に、ムスコさんに知らせてあげないと、言うと、この人は身寄りがないと看護婦は応える。多くの老人は身寄りがないのだ。
周りに積もった雪に、建物の灯りが洩れて、冬の北国の、しかし室内はほの温かそうな老人ホームで葬式が行われる。
春になり、墓地を散歩していたジイサンは、路上駐車のジープを見つける。そして、ジイサンは幼なじみのバアサンをフルサトへ連れて帰る事を決意する。これが、「春にして、君を想う」、というコトなのか。
そしてナント、お揃いのスニーカー(アディダス?)を買って、預金を解約して、ヨメハンの遺影と柱時計は部屋に置いたまま、バアサンの手荷物だけ提げて、夜、二人は老人ホームを脱走する。トラッドな老人男女の服装にモダンなスニーカー、こんな格好で近所を散歩しているお年寄り、よく見かけます。
墓地に着くと、若いアベックがジープの前でイチャイチャしている。ナントハシタナイ、そう言いながら老いたアベックは若いアベックが去るのを待つ。
そしてジイサン、むき出しにしたコードをショートさせエンジンを起動し、二人のフルサトへの旅が始まる。

これはチョットした逃避行でもあるが、ポニーとクライドの逃避行より明らかにウキウキする。ジイサン達はマシンガンを持っていない。武器を持っていないと言う事は、武器でコロされる事は絶対ない。
一応ケイサツは老人ホームから疾走した二人と消えたジープを探す。しかし、ジープが盗まれたとの扱いではない。
車内で一夜を過ごした翌朝、入ったレストランへ二人の警官がやって来た。しかし、別の若者グループの席へ行き、メンバーの1人を逮捕しようとする。逮捕は拒否され、他のメンバーに協力を要請するがそれも拒否され、警官二人はスゴスゴと引き上げる。アイスランドのケイサツはこんなにノンビリしてルの?、ホンマにこんなンでエエの?
そして、工事現場で制止しようとしたケイサツを振り切り、遂に追われるが、フッと消えてしまう。ナ、ナンデ?崖から落ちたの?
しかし、どこかのお祭り(?)現場に無事現れる。
このあたり、とても非現実的、よく状況が判らない。
大体、このお祭り現場、荒涼とした場所にあって、ただ電飾がハデで、周りに集落などがある雰囲気ではない。アイスランドのイナカはこんなに寂しいの?

二人は、これもまた独り住まいの、幼なじみの女性宅に立ち寄る。ここでこの二人の年齢が判る。
ラジオから、78歳のジイサンと79歳のバアサンが老人ホームを抜けだし、ケイサツが探しているとのニュースが流れたからだ。
また、停めてあったジープで逃げていて、時々発見されて追いかけるが、その度に消えてしまう、とラジオもそんな非現実的なことを堂々と言っている。
ジイサンは、ただジープを借りただけと幼なじみに言う。
幼なじみは、どうしてそれ位で追いかけるのかしら、と応える。
幼なじみ宅で休憩した後、二人はフルサトへ向かうが、その後ジープは故障、小屋を見つけその中のフカフカの牧草に包まれてオネンネ。これが、「Children of Nature」、というコトなのか。
翌朝、近くの教会から讃美歌が聞こえて来て眼が覚め、フルサトへ向かって歩き出す。マッサラなスニーカー履いてルし、歩くのに苦痛は無い。
雨か霧か、モャ~っとした未舗装路を老人二人がトボトボ歩いて行く。これは正に「遊行」の姿ではないか。
その二人を時々大型トラックが追い抜いて行く。そして1台に拾われる。
行先を告げ、そこからフルサトへのフェリーは今も出ているか、と訊く。
トラックの運チャンは、出ているがそんなフルサトへ行っても、そこは崖と戦時中のトーチカしか残っていない、と応え、後は自分の周りの世間話(必死に金を溜めた男が使う前に事故死した?とか)を一方的に喋る。老人二人はただ黙っているだけ。
やがて運チャンは二人をフェリー(と言うかボートを曳航した小型船)に乗せてやる。

船はフィヨルドの中を進んでいく。途中でハダカの女性がゴツゴツの岩壁に突っ立っている。
崖とトーチカしかないとトラックの運ちゃんが言っていたのに、あんなナイスバディもおるやン、と思っていたら、船長は、あれは幽霊だと二人に説明する。

二人が警察に追われフッと消えたり、ナイスバディの幽霊が出てきたり、アイスランドは超自然的です。

やがて、目的地へ到着し、曳航していたボートで浜辺へ上陸する。船長が帰った後、映画は始まりと同じ様に、セリフはなくなる。

二人は丘の上の小屋に泊る。
この小屋は北アルプスの森林限界あたりにある古い山小屋の感じ、周りに生えている草木がよく似ている。北極圏に近いから標高数mでも森林限界と言う事か。
翌朝、バアサンは先に目覚め、昔の事を思い出しながら周辺を散歩する。それが映画のポスターの写真だ。
海も野も働き盛りの男女に溢れている思い出は、古めかしい別フィルムの様な感じで映し出される。このあたりの演出は面白い。
やがてバアサンは浜辺に出て、流れ着いた大木を見つける。これはどうもこの辺りの大切な燃料らしい。確かに丘に上がっても森林は無い。
これを昔は若者が輪にしたロープを掛け、それをグルグル廻し上げ回収していた。そう言う光景も古いフィルムで思い出される。
小屋の中では、そんな大木が燃えているストープの側でジイサンが寝ていた。
そしてジイサンも目覚め、表に出て、水際で死んでいるバアサンを見つける。

バアサンは親の墓のソバで眠りたい、と言っていた。
「春にして、君を想う」ジイサンは、バアサンを眠らせる仕事が残っている。
小屋に残っている材木をカットし、キレイにカンナをかけ(西洋のカンナもノコギリと同じ、押してかけるモノだった)、白木の棺を作り、バアサンを収めて埋葬する。
そして讃美歌(?)を歌う。

讃美歌はジイサンの独唱からコーラスに替わり、ジイサンは浜辺をトボトボ歩いている。いつの間にかハダシ。これも「遊行」(?)

やがて、何か廃墟の様な所へ到着する。これはトラックの運チャンが言っていたトーチカ(?)
ジイサンはここで力尽きたかの様にヒザまずく。
そこへナゼか男が現れ、ジイサンのハダシの足の裏を掌でペロッと撫で上げる。
するとジイサンはまた立ちあがり、男はジイサンの肩を手で押す様な仕草。(この男が何者なのかは解説にも載っていない)

そしてまたジイサンは歩きだす。またまた「遊行」(?)

画面はそのジイサンを上方のヘリ目線で捉えている。そして近代的なヘリが映し出され、ジイサンを追う。しかし、ジイサンは、またまたフッと消えてしまい、映画はオシマイ。

ジイサンはこれで死んだ、と言うコト?、それとも又どこかに現れ「遊行」を続けると言うコト?

平均寿命が年々伸びて、元気な年寄り、筋肉隆々の年寄り、精力絶倫の年寄り、美人の年寄りがしばしば紹介されたりする。胃ろうでただ生かされている年寄りもいるけど。
しかしワタクシ、元気で、筋肉隆々で、精力絶倫で、美人のお年寄りはキライです。大体気持ち悪い、美人のババアなんて。
やはり年寄りは枯れかけてヨボヨボがイイと思う。
そして、シブトイのがイイ。
この映画のジイサンはまさにシブトイのだと思う。しぶとくなければ「遊行」の旅は出来ない。

以前、二人のお年寄りの面白いハナシを聞いた。
Aさんはパーキンソン病で行動が不自由、ロレツも廻らない。親友のOサンはAさんの為にタクシーを拾ってそれに乗せ、別れる。しかしその後タクシーが事故に遭い、Aサンは無事だったが、世間では大騒ぎになる。Oサンは心配してAサンにTELする。
TELで喋っていて、Oサンは事故に遭う前よりAサンのロレツが廻っていると気付く。そして、お二人の若い頃からあるラジオは、「故障したら叩けば治る」、と言うオチが付いてこのハナシはオワリ。
Oサンは昨年亡くなられたが、Aサンはまだお元気。
このシブトさは正直、カッコイイと思う。

しかしワタクシはまだ「林住期」で、シブトイ「遊行期」のお年寄りから見るとまだまだコドモ。
しばらくは自由気ままな「林住期」を楽しむことにします。

今夜スピーカーからは、ナット・キング・コールが、~When I grow too old to dream、Your love will live in my heaet~、と唄っている。


「ボクはコミュニストです」と言って講演を始めた東大名誉教授

2013-07-19 10:14:37 | 朽ちゆく草の想い

Y2Kの年、当時勤めていた特殊機械メーカーの経営TOPから、化学工学会の経営ゼミナールを受けるよう言われた。

この特殊機械は、工業と名の付くあらゆる業界で使われていて、ケミカルプラントのメインプロセスで使われる事は稀だったが、会社は化学工学会の会員であり、そこが主催するメッセには大々的に出展していた。
しかし毎年、こう言うゼミを社員に受けさせている事は知らなかった。

事前資料を見ると、大体受講するのは大手化学会社の中間管理職とか、関連会社へ出向した役員と言った感じ。
こう言うエライさんは、普段の営業活動で引き合いを頂いた時、仕様打ち合わせをする、生産技術部とか工務課の担当者の、上司に当たる人達。トラブって大騒ぎになった時には出てこられ、お目にかかる機会はあったかも知れないけど、普段お付き合いはない。

そして、彼らの出身校の多くは、東大、京大、阪大、名大、九大、東北大等、しかも院卒。同級生の2人がそのゼミで再開する場面も幾度か見掛けた。化学工学科の世間は案外狭いの(?)。
そう言えば、その特殊機械メーカーは当時、大手鉄鋼メーカーのキャリアを定期的に中途採用しており、彼らのほとんどが京大卒とか東北大卒だったと思う。
そう言う“超”高学歴に受けさせていたのだろう。彼らなら見劣りしない、ナルホド。

それに対し、ワタクシは金持ちのおバカ子女達が通う事で有名な私大卒、一応物理学科、理系でしたけど。
しかしナンデ、営業のワタクシが?、“超”高学歴のタマが切れたのだろうか。

日程は確か、8月に芦屋で始まり、名古屋、東京、11月の筑波で終わり、東京以外は1泊2日だったと記憶している。大体、1回に2人のセンセの講演と質疑応答、講演内容を引き継いでのグループ討議。
いずれにせよゼミ:演習なのでしっかり参加、つまり積極的に質問、発言しないといけない。そうやって目立てば、会社のPRにもなるハズだ。
ナンセ営業として参加するのだ。受講費20数万のモトを取らないと。
ゼミへはラフな服装で参加して下さい、と事前資料には書かれていたが、営業として参加するのだから、ズッとスーツで、キチンとネクタイをして臨んだ。

その年は、強烈な個性の独善的な営業TOPが、強引に広島営業所を出して3年目。
ワタクシは営業TOPの意向を受け入れ、家庭的にも仕事的にも色々問題が多い営業マン1人と、マジメで優秀な女性アシスタント1人を部下に持つ営業所長。
3年経って売り上げもそこそこ安定し、営業所として広島にアシがつきだした頃。
しかし、出張ベースの単身赴任は相変わらずで、広島からゼミ会場へ直行し、土曜の夜、自宅へ戻るパターン。
月に一度土曜が潰れるが、そもそも土曜出勤はアタリマエと言う生活が長かったので、大した事はない。泊りの夜は懇親会で酒も呑めるし。

講演内容とか、どんな討議をしたのかはあまり覚えていない。
唯一の女性講師が某公立大学で初めての女性教授で、これからの社会は女性か外人に頼らざるを得ないとか、通産省の官僚から損保会社の研究所顧問になったセンセは、言っている事が全く判らず、真剣に聞いていたら眼があって、「何か異論、ありますか」と睨まれ、益々判らなくなりったり、覚えているのはその程度。
その全く判らなかったセンセのコトを、懇親会の中ジメの挨拶の時に茶化したら、拍手喝さい、大ウケした。
また、M化学岩国大竹工場の部長サンは、討議が停滞していた時、黒板にササッと問題点を書きだし、それを整理して見事に停滞を解決、さすがだった。この部長サン、確か阪大の院卒だった。

賢いエライさんはやはり賢い。

しかし、そんな賢いエライさん達も先行きの状況は明るくない様だった。

そもそも以前から、大手の一流化学会社の社長は文系出身者が多く、超一流大学の化学工学科を卒業しても運が良ければヒラの役員、せいぜい研究所長でオシマイ、と言う状況があるらしい。

それでエエやん、とワタクシは思いますが、ケミカルエンジニアの人材育成を目的とする経営ゼミには、それでエエンか、と言う課題があったようだ。
確かに、(化学)会社経営とは今後どうあるべきかと言った話しより、“個”の確立、学歴と会社には頼らない生き方、そして自分の行動に対するコミットメント、そんな話題が多かった。

これ、結局は自己改革を通じての理系のサバイバル(?)、化学会社の経営ではなく、いかに自己を経営するか、と言う事(?)、経営ゼミなのに、こんなンでエエの(?)

そして、最後の筑波でのゼミに現れた東大名誉教授。
この先生、かなり有名で本も沢山出されているそうだか、当然ワタクシが知らない世界での事。ユニークな事でも有名だそうで、高い所から話すのがイヤだ、とおっしゃってステージから降り、我々が座っている間を歩き廻りながら講演された。演題は忘れたが、内容は正にサバイバルの話だった。

と言うのも、この先生、昔、公害の研究をメインにやっておられ、その為、政府と大手「公害」製造会社がウラから手を廻し、師匠筋から、東大から追い出されるので公害研究はヤメてくれと懇願され、仕方なく他の研究分野に移らざるを得なかったと言う、正にサバイバルな先生だった。

そして、「ワタクシはコミュニストですから」と言って、講演を始められた。

これにはオドロいた。経営ゼミにコミュニスト(?)、こんなンでエエの(?)

先生のこれまでのサバイバル、紆余曲折の研究人生を元にしたお話しは、“個”を確立して古いニホンジンとは決別せよ、そんなイメージの結論でとても面白かった。

そして、ソ連を訪れた時、このソビエトは遠くない未来に崩壊するだろう、と思ってその通り崩壊した、などと言う話もされた。コミュニストがソビエトが崩壊するだろうと予想し、そうなった、これはどう言う事だろう。

夕食の後、先生の周りに人がいなくなった時を見計らって、「センセイ、スイマセン、さっきの講演とはチョット別の事で訊きたいんですが」と言って近付き、「さっき、センセイはコミュニストだとおっしゃいましたが、ソ連が崩壊して、それでヨカッタ、と言うニュアンスをボク、感じたんですが、それはどう言う事ですか」と聞いた。
先生はこんなアホな問いに対して、とても丁寧に応えて下さった。

「ああ、あれは言葉足らずでしたね、崩壊したのは官僚主義です、それがいけなかったから崩壊した、社会主義や共産主義が間違っていたと言う事ではありません、ホントに言葉足らずでした、スミマセン」

この一言にはオドロいた。
長いコト、営業をやっていて、「社会主義や共産主義は間違いではない」、などと言う人と遭遇するのは初めてだった。しかも相手は化学工学専門の東大名誉教授なのだ。

ワタクシ、コミュニストだと、胸を張って宣言する知識も、胆力も持ち合わせておりませんが、ズッと昔から資本主義より社会主義、共産主義がイイと思っていた。
封建社会が終わって、ニンゲンのヒエラルキーは資本家と労働者、ブルジョアとプロレタリアートになって、生産手段を持っているブルジョアは儲け(余剰価値)をプロレタリアートに分け与えず貧富の差が出来る。
そして国を支配する資本家は、更なる富の取り合いで他国と戦争をして、その時実際コロし合いさせられるのは弱者出身の兵士、こんなンおかしいヤン、ただそれだけで社会主義、共産主義がイイと思っていた。
また生産手段とは、要は土地とかお金であり、大体そう言うのは王サン、貴族、お殿サンの血筋が占有してて、偶にビンボー人が成り上がると言うアメリカンドリームもあるが、それは奇跡。そう言う奇跡が多くのニンゲンに起こる訳ない。
社会は基本的に、競争原理より相互扶助、弱肉強食より弱者救済であるべき、生産手段の個人所有はダメ、そう言うただ単純な理由で社会主義、共産主義がイイと思っていた。

オヤジもオフクロも地主、金持ちの血筋ではなく、六甲山中の辺鄙な所にしか家を構えられず、前近代的な生活をしていた。
叔母は洋装店を共同経営していたが、実際は三ノ宮駅ウラの小さい店の、住み込みのお針子サンだった。

ワタクシには、そんな環境から金持ちに成り上がる夢や希望は微塵もなく、ズッと支持していたのは社会党。取りあえず働いた分が正当に分け与えられる社会主義でエエやん、欲しいだけ頂ける共産主義はその後でエエやん。
そしてその社会は、「偉大な指導者」におすがりするモノではなく、あくまでも我々が選挙で選んだ者にキチンと運営させるモノであり、そう言う想いで社会党に投票していた。

しかし、そう言う考えの人は少なかった。何故だろう。多くは同じ様なビンボー人なのに。

みんなが平等に貧しくなる社会主義はイヤだ、と言うビンボー人は多いらしい。しかし、アンタにアメリカンドリームが起きるかどうかは判りません。
めでたくアイドルになって、「諦めなければ夢は必ず叶うッ!」、などと叫べる少女は、千人、一万人にひとりだそうだ。あぁアホクサ。
実際、雇われるのはイヤ、自分で会社興してミヤズカエより多く稼ごうとしたハズが、そうならず、しかも年金ロクに払ってなくて、今になってヒィヒィ言ってるジジィがいる。広島にもいた。神戸・布引谷にもいた。
多くは景気の恩恵など受けず、ズッと貧しいのだ。

ただ、確かに化学工学専門の東大名誉教授も予想されたようにソ連は崩壊し、ソ連が社会主義の鑑でもないのに、社会主義や共産主義は、資本主義に負けたと言うイメージになってしまって、この国の社会党も、TOPが総理大臣に担ぎあげられた後、ナゼか人気がなくなり、また多くの日和ったメンバーが民主党に合流し、今はほとんど消えてしまった。
その後、民主党に政権交替はしたが、結局は自民党化し、これは自民党出身者が多いから当たり前で、社会に格差は拡大するばかり。
そして、今、支持する政党がない、ということらしい。

格差とは、昔から続いている貧富の差で、これを何とかしたいのなら、今は共産党に投票するしかないと思う。
某芥川賞作家が、色んな名言、名ゼリフを集めた本を読んでいたら、その作家サン、今は共産党に肩入れしている、それはこの党が社会主義の政党だから、と言う様な事が書いてあった。ナルホド、その通りです。

「共産党と言う名前がなぁ」と言う人が今でも多い。社長、金持ち、権力者にオモネルおバカに多い。
しかし、この“サバイバル”先生が言われた様に、“個”を確立して、古いニホンジンとは決別すべきだ。

先生とこんな話をしていたら、討議が停滞していた時、見事にそれを解消したM化学岩国大竹工場の部長サンが“参戦”してきた。
我々2人は、先生の控室に招かれ、別の講義を受けた。

先生は昔、中断せざるを得なかった水俣病の研究を、東大を退官した後、再開され、科学的にその原因、つまりアセトアルデヒトの生産工程で触媒に使った水銀が、何故、水俣で、あの時期にメチル水銀に変化したのかを解明、本を書き上げられた直後だった。
そのイキサツを色々話された。
このお話も面白かったが、夕食後の懇親会がもう始まっている。それが気がかりだった。
しかし、先生はそんなコトを全く気にせず、資料や原稿を楽しそうに見せて下さった。

その後、懇親会へ3人で行った。
ゼミの世話人のエライさんに「ナンだよォ!センセイがいないので心配してたンだ、オマエら2人が独占してたのかよォ」と、叱られてしまった。

翌年もナゼか、このゼミを受けるよう言われた。
立派な受講修了証書を頂いたのに、ナンカ留年した気分。再会したゼミ世話人のエライさんにそう言うと大いにウケた。

そしてこの年も、筑波での講演は前年の“サバイバル”先生。お弟子サン2人も参加されていた。
先生はワタクシを覚えてくださっていた。

筑波のゼミが終わり、牛久駅のホームで先生に挨拶した。

「“蒼馬”サン、もう関西へ帰っちゃうのォ?」
「エエ、また来週から営業ですワ、相変わらず」
「それじゃまたどこかで会いましょう」

先生はお弟子さんを連れて到着した電車に乗り込まれた。

電車がホームを離れた後、気がついた。あの電車、ワタクシも乗るヤツだった。あぁナサケナイ。


あの大災害の日の記憶

2013-07-12 22:21:12 | 神戸布引谷での出来事

46年前の7月9日、朝、まだ布引谷に雨は降っていなかった。

その年、ワタクシは中学3年生。布引谷・市ケ原には他に中3が4人いた。
我が山の家から200m程上流の茶店に女子が1人、更に300m程上流の、大きな茶店がある村の中心地とも言える所に男子が1人。
その中心地から布引谷の支流を200m程遡った所に男子がもう2人。そこには5年程前に出来たゴルフ場の従業員家族が住んでいた。オトナ達はそのエリアを“飯場”と呼んでいた。

当時、市ケ原には昔からの常住が20軒弱、50人以上いたと思う。常時営業の茶店も4軒あった。元町の百貨店の別荘“山の家”もあった。
“別荘扱い”は他にもあったが、どの位の規模だったのかは判らない。また“飯場”には独身者もいたと思うが、細かいコトは昔からの住人も知らなかったと思う。

そして、地蔵盆のお祭もあって、お供えの菓子を貰ったし、歳末の見廻りもあり、ワタクシも星空の下、「火の用ぉ心」と言って練り歩いた。

いずれにせよ、そこそこの集落で、駐在所もちゃんとあった。
ここから熊内の幼稚園へ一緒に通った仲間の一人は、先代駐在サンの息子だった。

その7月9日は日曜日、午後は“ベツベン”へ行く予定だった。
“ベツベン”とは学校とは別の勉強、当時は塾をそう呼んでいた。休みの日も1時間弱歩いてふもとにある塾に行かないといけない。
今思うと、“ベツベン”の効果はあまりなかったと思う。単に親達の雰囲気だったと思う。
ワタクシの成績は年々落ちていて、担当教諭はその都度、「知能指数はエエのになぁ」と首をかしげていた。学校の成績とは、要は集中力とヤル気なのだ。

その日もヤル気など全くなく、朝から自転車で遊んでいた。
その自転車は、前のギャが2枚、後が4枚の8段変速。それで友達とよくあっちこっち走っていた。
行きはふもとまで、通学路:ハイキングコースとは別の車道:舗装路を駆け降り、友達と合流、市街地を登ったり降りたり、旧道の有馬街道を箕谷まで行った事もあった。
そして友達と別れた後、熊内から超激坂を漕いで登る。そうしないと家には帰れない。しかし、中学生は元気だった。

家から町方向へ300m程走ると、長い登りになりゴルフ場入口がある峠まで約1km。その先は超激坂、下ってしまうと戻りが大変。
山方向へは大した登りなく“砂止め”まで約1km。その先は完璧な登山道、自転車では走れない。
よって、フツーにチョコッと走る時は、登りの少ない山方向へ“砂止め”まで行く事にしていた。

梅雨の終わりの曇り空、大きな茶店まで車1台が通れる未舗装路を走る。早朝登山の人がどの程度歩いていたのかは記憶ないが、極フツーの穏やかな日曜の朝だった事は覚えている。

そして今でもハッキリ覚えているのは、駐在所の前で当時の駐在サンが、南東方向にある世継山のテッペンを見上げている姿だった。

世継山はちょっとした独立峰の形状をしていて、その南側の谷から北方向、稲妻坂~天狗道の尾根に繋がる稜線に沿ってゴルフ場は出来ていた。今、神戸布引ハーブ園があるところ全てがゴルフ場だったのだ。
北面の頂上直下にも木々を切り倒し、斜面を削って作ったグリーンがあったらしい。
駐在サンはその方向を見上げていた。

それは、その12時間程後に起きる大惨事を予見する様な姿だった。

駐在サンの前を通り過ぎ、民家の塀を過ぎると大きな茶店がある。

現在、市ケ原の河原のそばにある櫻茶屋は、昔は杉の茶屋と言って、ほとんど閉まっていた。
櫻茶屋とは、この大きな茶店で、そこの主人は村長的存在だった。

櫻茶屋を過ぎると階段になり、そこだけ自転車を担いで、その後は山道だが自転車で走れる。当時、天狗峡の存在を消してしまった大きな堰堤はなく、谷沿いに道があった。
その先、小さな堰堤が続く箇所の階段を越えると“砂止め”に到着する。

今はもう木々に覆われ“砂止め”は消えてしまったが、この頃はそこに市ケ原の河原と同じ位の大きい河原があった。夏休み、そこでトモダチと何日もテントを張って過ごした事がある。
堰堤工事の時に出た土砂をそこへ積みあげ、しかもハイキングルートも変ったので、“砂止め”はキャンプ等で使われなくなり、木々に覆われる様になったのだ、と思う。
あの大きな堰堤は、天狗峡と“砂止め”を消し去ってしまった、と言えるのかもしれない。

“砂止め”をジャブジャブ川の中まで走り回り、家へ戻ると雨が降り出した。

雨は土砂降りになり、安普請のトタン屋根を叩き続けた。

布引谷は森林植物園辺りで複数の谷と合流した後、南へほぼ真っ直ぐに流下していき、市ケ原を過ぎると世継山から延びる尾根に遮られ、大きく西方向へ曲がる。 そしてその尾根を廻り込むような形で貯水池に続いている。
西方向への曲がり角には、谷の延長方向にトンネルが掘ってあって、流れはこのトンネルから布引ダムのオーバーフローに繋がり、貯水池をバイパスしている。
貯水池への取水口はトンネルの100m程手前にあって、その間は巾約10m、深さ約5mの溝状になっている。その溝の上端に沿ってハイキングコース:我々の通学路が通っていた。

土砂降りの勢いは収まらない。10m×5mの溝が濁流で埋まって行く。
そしてトンネルの入口が見えなくなり、溢れた濁流は通学路にまで達した。
もう“ベツベン”へは行ける状態ではなくなった。

午後になって、山が崩れ出した。

布引谷を遮る尾根は、我が山の家の南正面に見えるが、その山腹に刻まれた急峻な谷が轟音と共に崩れていく。土砂、木々に混じって軽四輪車程の岩が空を飛んでいる。
数百mは離れているので、家までは飛んでこないと確信はしていた。しかし凄い光景。

次にその隣の谷が崩れた。
その谷は我が家他数軒の水源となっており、車道との出合はちょっとした広場になっており、オヤジは前夜、通勤に使っていた勤務先の3輪トラックを停めていた。
正面の谷ほど急ではないので、斜面がずり落ちた感じだったと思うが、それでも凄い音だった。
広場は土砂、木々で埋め尽くされオヤジのトラックを道端のコンクリート製柵まで押しだしていた。

轟音に驚いて近所の人が集まって来た。

当時、隣の茶店の先代サンはまだご健在で、おメカケさんを後妻にむかえ、その間に出来た娘、息子と一緒に住んでいた。二人の子供は既に社会人だった。
息子は傘が役に立たないと思ったのか、ズブ濡れの下着姿で出て来た。

南隣りは当時、三ノ宮に店がある床屋さんの別荘。
息子さんが2人いて、弟さんが来た時はよく一緒に遊んでいた。その日はお兄さんが赤ん坊を連れて来ていた。
日曜は商売だったハズ、多分午後には店に戻るつもりだったのだろう。しかし、土砂降りは益々激しく眼の前では山が崩れていく。もう帰れない。逃げ場もない。
赤ん坊をダッコしながら、「こうなったら親子もろともやぁ」と、叫んでいた。

親子もろとも?、ワタクシはそんな気は全くしなかった。
大体あんな両親と“もろとも”にはなりたくない。
お金がないからこんなトコへ家を構え、そこになれると「安気やからエエ」とダラしなく住み続けた夫婦。
その間ひとりムスコのワタクシを、雨の日も、風の日も、嵐の日も、歩いて通学させた夫婦。
そんなンと“もろとも”にはなりたくない。まだカワイイ女性と楽しくデートもしていないのだ。

しかし、そんなことより、ここは絶対安全だ、と言う感覚があった。

この辺りは尾根と言うか、山腹の出っ張った地形にあった。
従って、台風の時は強風をまともに受け、特に姫路辺りを通過する台風は、雨戸から窓まで飛ばして行った。
しかし、流れるモノ、崩れるモノは尾根には来ない。谷に集まるハズだ。土砂崩れは左右の谷側へ崩れていく。
また、布引谷の谷底は家から数10m下にある。浸水の心配もない。
昭和13年の阪神大水害の時もこの辺りに被害はなかった、と隣の先代サンも言っていた。
豪雨によりここで死ぬ事はない。

やがて日が暮れた。雨は相変わらずトタン屋根を激しく叩いている。

家から竹藪を隔てた先には高さ5m程の堰堤があり、その水の落下音が夜の闇の中では雨音に聞こえ、泊りに来た叔父さんなどは夜中に雨が降り出した、と思ったらしい。
しかし、この夜の音はザァ~っと言う雨音ではなく、グォオ~っと言う地響きに近いモノだった。
トタン屋根を叩く雨音と相まって、全体が微妙に揺れていた。

オヤジは多分、日が暮れる前から呑んでいたと思う。
台風なら強風に備えての“男の仕事”は色々あった。しかしこの日は風はない。あるのは上からの強烈な水滴だけ。それに対してする事は何もない。
もし数10mの深さを濁流が埋め、ここまで達したら。上に逃げるしかない。もし崩れるハズのない上の斜面が崩れたら諦めるしかない。
オヤジは呑むしかない。「ここがもしそうなったら、神戸自体がもうオワリやぁ」、と自分に言い聞かせるように言って呑んでいた。

しかしその時、500m程離れた村の中心地では布引谷の支流が暴れ出し、U本サンの家を押し流そうとしたため、男達は土嚢を積んだりと、大変な作業をしていたらしい。
フツーならオヤジも呼び出されていたと思う。しかしこの時点では村の連絡網は分断されていた。

ワタクシはボオ~ッとテレビを見ていた。
四方を山に囲まれている家、テレビの画面はゴーストだらけ。しかし、テレビはテレビ、遊び相手の兄弟はいない、ゴーストをボォ~ッと見ていた。
こんな豪雨の中、オフクロも勉強せよとは言わない。通学路は崩れてムチャクチャなハズだ。明日からしばらくは学校へ行かなくても済むかな、そんなフザケた事を考えながらテレビの前で寝そべっていた。

そして、カミナリが鳴りだした。何回目かの雷鳴の後、テレビが消えた。停電だ。

9時頃だった。電気が消えると何も出来ない。
親子3人は、二階へ上がり、「川」の字になって寝ることにした。

相変わらず、雨は激しくトタン屋根を叩いていた。布引谷はグォオ~っと唸っていた。

そしてあのカミナリが、世継山頂上北側の高圧線鉄塔に落雷し、その衝撃で梅雨の終わりの脆弱になった斜面が崩れ、約150m下の櫻茶屋とそこに避難していた21人の命を奪った事を、翌朝眼が覚めるまでワタクシは知らなかった。

落雷した鉄塔は、樹木を切り倒し斜面を削って造られたグリーンの近くにあった。
朝、駐在サンが見上げていた方向だ。
土砂崩れの元凶が、ゴルフ場開発による自然破壊であった事は言うまでもない。

犠牲者21人の中には5人の小学生と、中学生になって初めての夏休みを迎えるマリちゃんがいた。


沢登りと、田端義男サンのフルサトの意味

2013-07-07 15:18:01 | 一人ブラブラ

高校の頃に読んだ山の本のいくつかには、丹沢の沢登りを経て谷川岳で活躍した先人の登攀記が載っていた。谷の滝登り~岩登りが関東のクライマーの辿る道と言った感じだった。

ワタクシも六甲山の滝場が続く谷を、岩登りのマネ事をしながら毎週の様に登りに行っていた。
六甲山の沢登りとはハイキングの延長の様なもので、高校生のワタクシはキャラバンシューズを履いていたが、当時、本格的な沢登りの足拵えは草鞋。

それが20年ほど前にクライミングシューズルックのフェルトシューズが出来て、ワタクシも早速それを履き、尾白川本谷を登りに行った。’88年10月の連休、家族を放ったらかしにしての単独行だった。
小雨降る中、初日は黄漣谷を越えた辺りでビバーグ。翌日、日が暮れる前、ガスの中、稜線へ上がると、一瞬ガスが途切れ、右手に白く甲斐駒が見えた。頂上を越え、黒戸尾根を駆け降り、七丈の小屋へフラフラになって辿り着いた時には日が暮れていて、入口が判らなかった。
初体験のフェルトシューズは、その性能を大いに発揮し、滑滝のヌルヌルの流れの中でもスタスタ登れた。他に二人組も登っていた様だが、言葉を交わすことなく、ほぼ独り占めの尾白川をフェルトシューズでジャブジャブ登った。
その後、濡れてもすぐ乾く下着とか色々出来て、大きな滝の滝ツボなどを泳いでも不快ではなく、今や大きな山の長い谷を数日かけて遡行しているらしい。

ところで沢登りにもルート図があり、滝はそれを示す記号と、下からF1、F2、F3、と番号が付けられている。
そして番号とは別に愛称が付いているのもあって、時々あるのは“フルサト”の滝。
これは左右両側の岩盤が均等に狭まって、その奥を水が流れ落ちている様な滝に多い。
要するにワレメ状を流れている。ワレメの周りにはブッシュが生えているケースも多い。
従って、オトコはその形から女陰を連想するのだが、女性登山家サンもいるので、その愛称を“女陰”の滝とは言えない。
“オ〇コ”の滝とは絶対言えないし、“ワレメ”の滝では芸がないし、結局自分達が出て来た所だから“フルサト”の滝となるのだそうだ。

先日観た田端義男サンのドキュメンタリー映画「オース!バタヤン」の最後で、同じ様な事を田端義男サンも言っておられた。
女性が大好きで有名な(?)バタヤンが、楽屋の様な所で、「アソコから我々は出て来た訳で、アソコはフルサトや」と言う様な事を喋っているシーンだった。だから女性がお好きなンですね。その感覚、ワタクシもよ~く判ります。

今年4月に田端義男サンは亡くなられたそうだが、この人の事は全く知らなかった。と言うか興味がなかった。
そもそもオトコの歌謡曲には興味はなかったし、昔、TVで時々見た事はあるが、当時は歌謡界の大オヤブンで大金持ちの体制派、マドロス姿でギターを抱え、「オース!」と登場すると、オトナ達、港などにいる荒っぽいオッチャン達が大喝采、そんな印象だった。

しかし、子供の頃は極貧だったそうで、その生きざまが、彼が歌う曲の主人公と重なり、「バタヤンの声には涙がある」と言われ、その歌声に観客は心を揺さぶられ、そんなコンサートの様子が収められたドキュメンタリー映画が公開中、との新聞記事が眼について、それを観に行った。

内容は、何年か前、バタヤンの母校である鶴橋の小学校でのコンサートを映しながら、バタヤンとオトモダチ、愛好者、後援者の語らいを織り込んでバタヤンをドキュメントする、と言うモノ。

バタヤンは、1919年元旦に10人兄弟の9人目として三重の松坂で生まれ、3歳の時父親が亡くなり、極貧生活の中、兄弟は順次家を離れ、最後に残った母、姉、弟と4人で「赤とんぼ」を歌い、おかゆと紅ショウガでの生活の中、弁当が持っていけず、食事を摂らない二宮金次郎の像の横で昼を過ごし、栄養失調で片目を失明し、兄を頼って今も残る鶴橋(バタヤンはツルハシではなく、トゥルハシと舌を巻いて言っていた)の集合住宅へ引越し、家賃が払えない母親と度々夜逃げをし、コンクールで優勝(?)して歌手になり、修行中居候をしていた家の同居人の相撲部(?)の学生が、会うたびに「オース」と言っていたので、自分もステージに出る時それを使う様になり、板を切って自作したギターをイターと呼び、戦時中はコンサートを監視している警官から「歌い方が暗い」と文句を言われてケンカし、戦地の慰問で前日戦死した兵士の墓標を見て、戦争はタダのコロし合い、絶対ダメと確信し、大阪駅で復員兵が自分が歌う「かえり船」を聞いて泣いているのを見て、「エエ歌を歌わせてもろた」と感謝し、戦前と戦後の歌手が入れ換わる昭和30年頃、呑み屋で偶々聴いた歌に感動し、それを自分も出して、“南国演歌”を確立し、その後も各地で歌い続け、あらゆる女性に声を掛け、それらの女性からは、慰謝料、認知、マスコミに言う、と言われ続け、赤線がまだあった頃ステージの最前列は、近くのパンパンが埋め尽くしていた、そんなオハナシだった。

当時の娼婦は社会の最底辺を生きている女性、ビリー・ホリディも一時娼婦だったハズ。
そう言う人達もバタヤンのファンだった。ナルホド。

映画に収録されていた曲の半分以上は聞いた事があった。ジャズやシャンソンには全く縁がなかったオヤジも、酔った時、機嫌よく歌っていた。
「玄海ブルース」「かえり船」「十九の春」「島育ち」「あなたの小指」、確かにイイ。童謡の「赤とんぼ」「浜千鳥」もイイ。「モナリザ」もヨカッタ。(度々登場しているバタヤンのお嬢さんも、ボーイッシュでヨカッタ、お父さん愛用のギターを弾いているシーン、とてもかっこヨカッタ)
昔から同じキーで歌っている、とおっしゃっていたが、その声がいいのだろう。「バタヤンの声には涙がある」、ナルホド。

ジックリ聴いてみるのもイイかも知れない。出来たら古いLPでも見つからないか、とも思う。

ところで、映画の中のコンサートも、この映画を見ている人も、皆さんシラガのお年寄りばかり、ワタクシなど若いほう。護憲集会の様だった。


鬱陶しかった日曜の布引谷

2013-07-04 16:17:41 | 神戸布引谷での出来事

日曜日、久しぶりに布引谷・山の家に戻ってみた。前回から2ヶ月以上経っているので、多分庭は草ボウボウだろう。

谷の流れが濁っている。しかし、大雨の後の濁流ではない。
確かに以前から布引ウォーターの清流ではなくなっていた。しかし、この濁りはナニ?

Imgp5092 布引ダムのバイパス、オーバーフロー出口にある人工滝の滝ツボも変な濁り方をしている。

Imgp5093 岩盤は粘土質のモノでペイントされている。

Imgp5094 鬱陶しい貯水池の風景。

南に向かって流下する布引谷は、我が山の家の少し南側で尾根に阻まれ、流れが西を向く。
実際には水は、その曲がり角の所から掘られたトンネルを通り、布引ダム横のオーバーフローラインにバイパスされている。
貯水池への水は、我が山の家の真下辺りにあるトンネルから、西を向いた谷の少し下流に抜け出ている。トンネルの出口のそばには、バイパスラインと貯水池へのラインを遮断する堰堤があって、トンネルから流れ落ちる水の勢いで、滝ツボの様な深い窪みが出来ている。昔そこで泳いだ事があるが、足が底に届かなかった。
滝ツボはいつも深い澄んだ緑色をしていた。

Imgp5095 それが白く濁っている。大雨時には、トンネル入り口のバルブが閉められ、濁流は流入しないので、ここがこんな白濁色になっているのを見るのは初めてだ。ホントにどう言う事なのか。

Imgp5096 庭は予想よりボウボウではなかった。竹もまだ数本。今までの襲来ペースが昨年、狂っていた。今年もこれからなンだろう。

Imgp5098 サツキも一応咲いていた様だ。手入れしてあげられなくて、ゴメンネエ。


Imgp5099 ジッとしていても汗がジワ~っと出て来る。取りあえずテキトーに刈ったり引き抜いたりして汗だく。

久しぶりに櫻茶屋へ。レイコさんとは半年以上オシャベリしていない。

店は開いていて、レイコさんは咳をしながら商品の飲料をショーケースに入れていた。
「ゴホゴホ、いやぁ久しぶりやン、ゴホゴホ」
「大丈夫ですかぁ」
「風邪ひいて、ズッと寝とってン、ゴハン食べる元気ものうて、そやけど2日程でオナカへってきて、起きてゴハン食べて、うまいコト死なんようになっとうわ、イヤ、アンタ肥えたンちゃう?」
「エエ、信州通い終わってから、ナンカひきこもりになってしもて、一日中ボォ~としてますから」
「まぁ何もせんとボォ~としとんのもエエで、暑いやろ、ビール呑むか」

ここでのビール代をレイコさんは受け取らない。他の客がいても、だ。ワタクシ、昔のお金のない学生のままで扱われてます。
「遠慮せんと、ウチ、売るほどあんねン」

ビールをよばれながら色々と世間話。
「そうそう、あそこの主人、こないだワタシ帰って来とったら ・ ・ ・ 」

あそこの主人とはもう一軒の茶店のダンナのコト。建機のリースとかレンタルもやっていて、それらの機械を近くの神戸市の空き地に散乱させ、その事でレイコさん達とモメて、また敷地境界についてワタクシともモメた、おバカの事だ。
散乱した機械はサビてボロボロ、明らかに自然景観を損なわせていて、当然ハイカーからも顰蹙を買っているらしい。
また、空き地に建てたプレハブ事務所は不法建築であり、市有地の不法占拠であり、神戸市ともモメている。
最近はそのおバカから我が山の家の隣の土地を買って、家庭菜園を楽しんでいるオッチャンともモメたらしい。
どうもおバカのヨメハンが、そのオッチャンに訳の判らんモンクを言ったらしく、「こんなコト言いよんねん、あの夫婦、チョットおかしいでぇ」、とそのオッチャンは怒り心頭でワタクシにTELしてきた。
要は、周囲のほぼ全員とモメている。

その茶店の先代サンは、中々の好々爺で、ワタクシなどは自然について色々教えてもらったし、一番下のお孫さんはヒロミちゃんといって、ワタクシの最初のガールフレンドだった。
しかし、先代サンにはメカケがいて、先妻サンが亡くなった後、そのメカケがやって来た。
要するに、そのおバカはメカケの子ォ。ワタクシの5歳上のダンカイ世代。
先代サンにはヒロミちゃんよりもっと年上のお孫さんもいたから、同い年のムスコとマゴがいたかも知れない。なにやらスゴイ話し。
メカケの子ォ、と子供の頃イジメられたそうで、ここへやって来た時はもう社会人だったが、ナンカ暗かった。

そのおバカは、先日も醜態をさらしたらしい。
レイコさんがタクシーで帰って来た時、途中のヘアピンカーブで降りて来たSUVがスッと曲がり切れず、タクシーの運チャンが色々助言して交わそうとしていたら、おバカ夫婦も車で降りて来て、そのSUVの後ろにひっついて、「クォラァ、はよせんかい!!!」と怒鳴ったらしい。まるでゴロツキ。
「ホンマあんなとこで大声出して、ナンデ穏やかにでけへんのやろ、久しぶりに見たけどガリガリになっとったわぁ」

「ところで、エライ水、濁ってますヤン」
「そう、上で堰堤の工事やっとうらしいわ、来年3月までかかるンやて、水、呑まれへんし、公社がペットボトルの水、運んできてル」

35年程前、新神戸から箕谷へのトンネルが出来て、この村の井戸、湧水が見事に枯れた。
その為、道路公社は給水設備を設け、布引谷本流から取水した水を、濾過、殺菌して村に給水している。しかし、チョットした原因で度々濁る。そしてペットボトルの水が支給される。
“布引ウォーターの里”に住んでルのにペットボトルの水を飲むと言う愚かさ。とは言え、もう住んでいるのは7人程度。
ワタクシは以前フロに溜めた水が緑がかった事があって、常住はあきらめた。

登って来たアベックが、この先にゴミ箱ありますか、と訊いてきた。
「この先にもあるけど、アンタらどこまで行くのン?」
アベックは山ボーイ、山ガールの恰好をしている。時間は16時を回っている。
「トゥエンティクロスから摩耶山へ行こうと思ってルんですけど」
「そんなン、アカン、アカン、こんな時間から、なぁ」と、レイコさんはワタクシにハナシを振った。
ワタクシ、「トゥエンティクロスから摩耶山へは、グルっと廻っていくンで、3時間位、最短の天狗道でも1時間半以上、着いたら日ィ暮れる、いずれにせよ、今日はヤメた方がイイよ、改めてもっと早い時間に来たらどう?」
「そうですかァ、確かに焦って行っても楽しくないし」
トゥエンティクロスの入り口まで行って、行った雰囲気だけ味わって、引き返して、帰りはハーブ園にでも寄って、そうした方がデートらしくなるヨ、とアドバイス。

気が付けば17時前、「ボクも帰ります、また来ますわ」

Imgp5100 緑が益々濃くなって鬱陶しい。

Imgp5101 貯水池の色も白っぽい。こんな色を見るのは初めてだ。

今までも上流で堰堤工事は度々あったはず、しかし、池はこんな色にならなかったし、下の人工滝の岩盤が粘土質の色に塗られた事もない。

ナンカおかしい。