蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

安曇野でもヘビにつきまとわれながら、切り株の処理を続ける

2019-05-31 11:51:49 | 信州安曇野での出来事

 5/27、前々日、丸ごと火を点けた松株の塊は、深夜になってもクスぶっていたが、結局燃え尽きなかった。節の塊は割れず燃えず、仕方ない。

 裏返すと亀裂が数か所、それに沿って割れるかもしれない。

 斧を取りに戻ろうとすると、ギョエ~、ヘビがいた。

玄関の数m横の壁沿い。前からいたのか、さっきは気付かなかった。それとも北側から、壁沿いにやって来たのか。
しかし動かない。「オイ!」と呼んでも動かない。ドン!、側でシコを踏んでも動かない。コイツ、死んどンか。それなら近くの空き地に埋めないといけない。
火ばさみで掴もうとすると、ノソ~っと動き出した。寝てて目が醒めたの?、いずれにせよ、我が敷地から出て行ってもらわないと困る。
首根っこを掴んで、空き地方向へ運ぼうとすると、カラダを捻じり出した。私道に出ると、更に激しく捻じり出し、一旦放す。
すると、ニョロニョロ逃げ出そうとする。そのまま放っておいてもイイのだが、我が敷地の方に逃げられては困る。再度、火バサミで掴み、空地へ放り投げる。ヤツは完全に目が醒めたのか、元気よくウネウネと動き、草陰に隠れた。
「もうウチへ来るなよ、ボケっ!」、ヤツに向かって言うだけは、言った。

中三の時、神戸・布引谷でシマヘビを虐殺してから、ヘビはしばしばワタクシの前に現れ、そのたびにギョエ~、崖から落ちそうになったこともある。
布引谷・山の家にはヘビが住んでいたし、ソイツが屋根裏でネズミを喰おうとしているらしき音も聞いた。梅雨のジメ~っとした夜だった。

信州は神戸より寒いし、雪は積もるし、もう付きまとわれることはない、と思っていたが、完全引っ越しが終わって直ぐ、近くの車道で遭遇。死んでいた。
その年の夏、玄関先の雑草ボウボウの茂みで2度目の遭遇。茂みはMさん宅の境界にある。
杣人・Mさんは、ワタクシ以上にヘビが苦手。しかし毎年、何度か遭遇しておられる。「おっかねェ」、そう言いながらその時の状況を聞かされる。

その後雑草はキレイに刈り取って、2年目は目の前に現れることはなかったが、3年目は早々に出没。まだまだコイツらに付きまとわれるのか。
まぁ仕方ない。庭ではカエルが跳びまわっているし、近くのタンボでは合唱しまくっているし、Мさんは毎年、何度も遭遇しているし。
取りあえず、今回の“事件”、Мさんには報告しておこう。

 松株はキレイに縦割り出来た。

 そして最後はこの最大のクヌギ。高さは1.5m程ある。蹴っても押してもビクともしない。今まで通り、少しずつ叩き潰すしかない。

 まず派生している枝根を叩き切っていく。

 枝根とは言え、数撃では切断できない太いのもある。

 片面をほぼ切断すると、全体が少しグラ付くようになった。

 反対側から押すと倒れそうな感じ。

 押し倒した。

 今まで見えなかった、切り株のウラが露出した。大小、無数の根が群生している。外しやすいモノから切断していく。

 そして燃す。

 下に埋もれていた、松の根の一部を引き出す。そこそこの大きさだった。

 解体せず、そのまま火の中に放り込んで見た。何とか火は本体に点いた。

 松の根は夜通しチョロチョロ燃え続け、5/28朝もクスぶっていた。

 切り屑を集め放り込むと、それらはフツーに燃えだした。

 引き続き枝根を叩き切り、燃やしていく。切株の裏は、土砂がこびり付いていて、根を叩き切る度にドサドサ、落下する。それをシャベルですくい、隣の窪地に投げ入れる。

 根と土砂が大体除去出来て、軽くなり、庭に転がして出す。切株が積み上げられていたスペースは、やっと“太古”の姿に戻った。

「オッ、遂にやりましたねェ、ここまで来ればもうコッチのモンだ」、軽トラで仕事から帰って来たMさんが、やって来た。
「しかしこれ、すごいカタマリですワ、先が思いやられますヨ、ところで遂に出ました」、とデジカメ画面を、Mさんの眼の前に差し出した。
ワタクシ以上にヘビがニガテなMさんは「ウオォ、いきなり見せないでヨ、シマヘビの子だねぇ~、しかしよく撮るねぇ、こんなの」、火バサミで掴んで空き地に放り出した、と対処を報告。
「これ、掴んだのォ?」、「子供ですモン、最初はミミズのデカイのか、と思ったほどですワ」、「いずれ大きくなって戻って来るヨ、あぁおっかねぇ」、そう言ってMさんは家に戻った。

さてこの24個目、最後の切り株、とにかくデカい節の塊、クヌギは松より硬く腐りもせず、解体は大変だ。
斧を振り下ろしても手応えなく、弾き返される感じで、ストレス増すばかり、先が思いやられる。しかしとにかく打撃しかない。

まぁボチボチやりますか。

 

 


その次にやるべきこと

2019-05-26 23:58:39 | 信州安曇野での出来事

 薫風の5月、北庭の赤いツツジが満開。

 松の株に、今年もキツツキがやって来て、何かツツいている。

 5/19、5月前半に抜いたノリデを燃やす。

 解体、細断がメンド臭かったので、そのまま火を点けたが、余った灯油を振りかけたので、ストレスなく燃え上がった。

これでノリデの抜根処理はほぼオワリ、抜き見落としはまた、見付け都度処理することにする。

 そしてその次にやるべは事は、この二つのデカイ切株の処理。

この小屋を建てる為に伐採、伐根した、クヌギと松の株と幹。
その処理は別途費用が掛かる、と工務店から言われ、それなら自分でやるから庭の隅に置いといて、と指示し、結局、松の幹はパルプ原料として引き取られ、クヌギの幹は薪ストーブの燃料として引き取られ、土くれの株だけが、庭隅に小山の様に残されていた。

隣人の杣人・Mさんは、「あれどうするの?」、と気にされていたが、一昨年20個を解体、焼却。
「ほぅ、一人でもコツコツやってルと、なんとか片付くモンづら」、ウインチで引き出して貰ったり、バールで掘り出して貰ったり、色々手を貸してもらったが、一応1年目でほぼ片付けた。

そして昨年は2個を解体、焼却、残りはこのデカイ2個。

杣人・Mさんから、「人のワガママで伐り斃した木は、自然に朽ち落ちるには、数十年かかる、その間、それを放置するのは見っともない」、と言われ、確かにその通りで、この二つは何とか今年中には解体、処理したい。

 この二つをよく見ると、松株の上にクヌギが乗っており、まずクヌギが乗っている部分を切り離して、松を処理することにする。

 30分程で切り離す。 

 手を付けやすい枝根から叩き落とし、燃す。

 5/22、解体を続ける。

 とにかく叩き潰す。

 突起部を叩き切る。

 切り外した部分を燃す。

 5/23、引き続き、突起部を叩き潰す。

 やっと転がせる程になった。

 転がして庭に出す。

 どこを叩くか、という方針とか計画はなく、とにかく叩き、削ぎ落す。

 この日の削ぎ落した分を燃す。

 5/24、この日もとにかく叩いて削ぎ落す。

 かなり小さくなったが、径は40センチ以上。まだまだ燃やせる大きさではない。

 横方向に叩き、切れ目を入れる。

 そして、縦方向に削ぎ落す。

 この日の分を燃やす。

 5/25、横方向に切れ目を入れ、縦方向に削ぎ落す。この作業を繰り返すしかないが、節の塊状部が中々割れない。

 仕方なく、塊のまま燃やすことにする。

 灯油の残りを振りかけ、何とか火は点いたが、このまま燃え尽きるのか。

「ほぅ、あの松、一週間で大体片付いたねぇ、大したモンじゃん」、愛犬・フクちゃんを連れて、Mさんが見に来た。

 節の塊は、日が変わっても燃え続けていた。


アホでパぁ~の関西人気質が起こした愚行の果て、松本をブラブラして大糸線で帰る

2019-05-16 12:39:01 | 一人ブラブラ

4月下旬、愚かなる行為をしてしまった。ボォ~っとしてと言うか、ウッカリと言うか、スーパーの駐車場を出ようとして“ボコッ” 、路肩のポールに擦ってしまった。

週に1回は行くスーパー、そのポールの存在は当然知っていて、出庫する際の内輪差を考慮したのか、少し左にズラして取り付けられている。
前を通る道は、片道1車線の広域農道、ポール側に余裕を持って曲がると、対向車線に少しはみ出してしまう。普段は通過車両が少ない昼時だからそれでイイが、その日は夕方で通勤車両が多く通る時、はみ出すわけにはいかない。それでいつもより深くハンドルを切り過ぎてしまった。
通過車両が完全に途切れるまで、ノンビリ待つべきだった。しかし関西にいた時の感覚でグァンと出てしまったのだ。

横断者がいると7割のドライバーが一旦停止する長野県、ワタクシもこちらへ移住して、出合頭で譲られることが何度かあり、驚いた。譲り合っている限り、事故は起きない。
その反面、何かにつけ、「早よせい!」、「ワシが先じゃあ!」、の厚かましくがめつい関西人、アホでパぁ~で、ホントにナサケナイ。
そのアホでパぁ~の関西人気質が、ワタクシにはまだ残っていて、ボォ~っとしていたりすると、ウッカリ出てしまうらしい。

幸い、人も物も傷つけたりはしていない。
ましてや「アクセルが戻らない」と言いながら、若いオカアサンとオサナゴを殺したりしていない。しかし、あのジイサン、東大出て通産省(?)のエライ役人になって、勲章まで貰ったそうで、それが今は晩節を汚すどころか、只の殺人者。これは悲劇なのか、喜劇なのか。
そんなジイサンに不幸にされた人たち、只々、気の毒だ。

で、我が傷つけた愛車、左側後ろのタイヤアーチ上に50センチ程の細い凹み、その前のドアとの間に浅い凹み、汚れをコンパウンドで落とし、暫し乗っていたが、夏タイヤ交換時期になり、ついでに修理することにした。

更についでに、ホィールのガリ傷も修理。これも愚かなる行為の産物。
我が敷地の境界石に2度も擦ってしまった。境界石の位置は確認していたのに、2度も。これは全く学習能力のないミス。
次に路地の未舗装路。この辺は、穂高駅周辺の商店街でも、路地に入ると未舗装路が多く、石がゴツゴツ転がっている。そこへウッカリ入り込んでやってしまった。タイヤの扁平率は40%、高さは9センチしかないので、ゴツゴツした処では当たっても仕方ない。
結局ガリ傷は6ヶ所。信州で低扁平率のタイヤを履
いている限り、これは仕方ない。一時は自分でアルミパテを盛って、その都度治すか、とも思ったが、やはり上手くいかない。まとめてプロにお願いすることにした。

多分、修理工期は1週間以上。普通なら代車が用意されるが、不要とした。
雪が融け、もう暫くは白馬栂池まで行くことはない、近所の買い物はミニバイクが使える。代車は家の前に停めておくだけ、それならいらない。
そして車を預けて、デイラーがある松本から穂高有明まで、大糸線+徒歩で帰ることにした。

大阪から夜行“ちくま”で来て、大糸線に乗り換える。これがそもそもの山とスキーの定番経路。
最後にその定番経路を使ったのは25年ほど前。大町~黒四ダム~内蔵助谷~長次郎谷~早月尾根~馬場島を未亡人のオバサンをガイドした。
ワタクシが特殊機械メーカーを辞めた年、このオバサンも、癌の治療に専念するため、そこを辞めたが、直ぐ翌年、亡くなったらしい、ナント儚い、ナムアミダブツ。

という事で、久し振りの大糸線、ついでに松本の街もブラブラ。“夜行”時代の帰りは、“ちくま”の時間まで松本の夜をブラついていた。最後の松本の夜は30年近く前だったと思う。5月の遠見尾根からの帰りだった。

いずれにせよ、20~30年前からどう変わっているのか、それを見るのも面白い。

5/13、松本IC近くのディーラーへ寄って、修理箇所を説明し車を預け、担当のオニイチャンに松本駅まで送って貰う。彼は車を西口に付けた。"夜行"時代に西口があったかどうかは覚えていない。

 コンコースへ上がり、時刻表を確認する。次は12時20分。

 東口側には、前の駅に掲げられていた古い看板、これは昔のまま。

昔、山から下りて来て、呑み喰いした商店街を通り、大きな菓子店の前へ出て、松本城方向へ曲がる。昔、この通りにあったアーケードは無くなっていて、少し広くなった感じ。女鳥羽川を泳ぐ鯉を眺め、縄手通りに出る。

縄手通りを進むと、昔からあったそば屋が古いの店構えのママにあって、そこを曲がる。その先にはジャズ喫茶があり、“ちくま”が来るまでの時間潰しにはちょうど良かったが、今はその場所も判らない。

昔、この辺りは神戸三宮・東門のウラ通りのような、、猥雑な雰囲気だった記憶があるが、今はキレイに整備された感じ。また蔵を転用した店も、昔同様残っていたが、その周りは何となくキレイになっていた。

あてなくウロついて、深志橋から松本城の敷地に廻り込む。

 学生の頃、盆休みに穂高・屏風岩を集中して登りに行って、その夜は夜行に乗らず、城の敷地でビバークした。

盆休みの夜行は激混みで、翌朝1番の便なら少しはマシだろうと思い、ヨメサン、カノジョ連れの先輩達は浅間温泉に宿を取ったが、ワタクシともう一人の学生は、温泉に泊まる余裕はなく、城へ行った。他にも野宿者が何組かいた。

翌朝、駅前の喫茶店で朝飯を喰った。松本駅周辺の飲食店は、登山者のザックがドカッと置ける様、テーブル横にはスペースがあった。ワタクシはザックにザイルと、テント泊で使用した大きな鍋を縛り付けていた。

多くの登山者が車で行くようになり、夜行がなくなり、今はもう、こう言う光景は見られないのだろう。

気が付けば12時を廻っていて、急いで駅に戻ったが、20分の便は間に合わず、次は1時間後。
どうせ穂高有明へ戻っても、特にやるべきことはない、城の反対側(南側)をブラつくことにした。

“夜行”時代に、駅前の大通りの南側に行ったことはなかった。そこに松本唯一のデパートがあると知ったのは、穂高有明に来てから。小さな店はなく、大きなホテル辺りまで行って、駅へ戻る。

 13時20分発は大町行きの2両編成で、ガラガラだろうと思っていたが、席はほぼ埋まっていた。

北松本駅でナント、学生が集団で乗って来て、車内は都会の通勤、通学電車の様になった。

ボックス席の前の席は夫婦の旅行者らしく、安曇野の背景に聳える常念岳をしきりに撮っていた。

豊科、穂高と過ぎるうち、車内は徐々に減っていき、有明からはワンマン運転となった。降りる時は、前の車両の一番前のドアからだとか。要するに運転手が改札をする訳だ。次はワタクシが降りる安曇追分。

 降りるのはワタクシだけか、と思っていたが数人の女子学生サンと一緒だった
松本~安曇追分間は35分、女子学生サンたちと、松本から一緒に戻って来たのが、なんとなく嬉しかった。

 あの有明山の麓まで歩かないといけない。さて何分かかるのか。

下校中の小学生達にも交じって、ダラダラ歩き、1時間で我が家に着いた。これは神戸・三宮~布引谷・山の家までの時間だが、登高差は50m程。布引谷は約200mだった、50mはアリガタイ。

松本~穂高有明の、車とは違った距離感、地理感が得られ、面白かった。
いずれ車が乗れない歳になる訳で、その時はこの経路で松本へ行き来することになる。しかしそんなヨボヨボになって、松本へ出る用事はあるのだろうか。


次にやるべきこと

2019-05-14 12:36:38 | 信州安曇野での出来事

前シーズンは、4/10にスキー33日でオシマイだったが、今シーズンは5/3にスキー40日でオシマイ。

前期より少しガンバった感ありだが、前期より若返りはありえないし、若返りしたくもない。ましてや、異常に元気なジジイにはなりたくない、キモいし。

これからは取りあえず、ダルい、シンドい、もうエエわ、が少しマシになる程度にはなれば、と思う。

とにかく動かないといけない、と思う。ダラダラ、デレデレして、気が付けば夕方、と言うのはイケない。今まで通り、深夜まで呑んで昼前に起きても、やるべきことは、毎日少しでもキチンとする、と決意する。

そしてワタクシが次にやるべきことは、ウルシの抜根、殲滅(センメツは無理だと思うが)。

「自然のママがイイ、という気も判るが、何らかの手は入れた方がイイ」、隣人の杣人・Mさんはそう言った。Мさんの庭はクヌギの大木とコケと自然石だけで整備されている。
ワタクシの庭はクヌギ混じりの雑木林で、ただザクザク踏み入って歩きまわれるのがイイ。しかしそれをするには藪が邪魔だ。そして藪の正体はウルシの類だった。

「ノリデは取った方がイイ、どうせ冬には枯れるし」、Мさんは藪を見てそういった。触るとカブレるし、奥さんはそう付け加えた。

ノリデ?、山渓から出版されている樹木の図鑑を見ると、ヌルデと言うのはあるがノリデはない。そして別に山ウルシと言うのがあって、ノリデによく似ている。高さはどちらも3~7m程、となっている。
しかしこの森で藪を形成しているウルシの類は、高くて人の身の丈を超える程度。
コヤツは一体何者か。当然、神戸・布引谷に生えていたウルシともナンカ違う。図鑑にはないが、この辺りで生えている、小さめのウルシをノリデと言っているのか。

Мさんに取った方がイイ、と言われ、昨年少し抜いた。最初は根元でカットしていたが、案外根が浅く、引っ張れば抜けるので、そうした。
しかし始めたのが5月後半、もう青葉が茂っていて、北庭の東側と南庭の西側の一部を抜いたら梅雨のシーズンになった。
今年はもっと早く始めて、5月中には終わらせたい。

 5/2、まず北庭の西側から始める。

 かなり大きいのも抜く。

 ほぼ終了。

 5/4、燃やすために細断する。

 5/5、南庭の東側を抜く。

 5/6、南庭の中央部を抜く。

 かなりの量になった。

 5/9、抜いた分を一旦燃やす。

 最初は燃えやすい様に細断しようとしたが、そのままでも豪快に燃えた。

 南庭の西側が一番密集している部分。まだ若葉が茂る前なのに、既に藪になっている。

 2時間程抜いてこの日は終了。

 5/10、引き続き密集部を抜く。ノリデ以外の灌木の根と絡まり合ったりして、はかどらない。ブチブチブチと勢いよく抜くと、別の樹木の根だったりする。

 ここはサクラの樹木に絡まり合って、とても抜ける雰囲気ではない。仕方なく、斧を振り下ろす。

 やっと切断出来た。

 3時間程の作業でこの日は終了。

 5/12、南庭西端の密集部を抜く。背丈以上にニョキニョキ伸びたノリデが、10本近く見える。

 この太いノリデは、ツツジの根元から生えていた。当然抜き取れないので、極力奥深い箇所をノコギリで切断した。

 ツツジの茂みはツルが纏わりついていた。この辺りは、ツルがかなりの範囲で絡んでいて、ほどくのが大変だった。しかしツルからの解放も、庭木の手入れには重要とのこと。

 ノリデもツルも除去し、かなりスッキリした。

 この日も3時間ほどで作業終了。

ノリデの抜根、除去はこれで終了とする。見落とし、抜き忘れは当然あるので、と言うか完全除去は不可能だから、また来年もやる事になると思う。取り合えず、これらを焼却して、今年の庭の手入れはオシマイとする。

 

 


スキー40日目

2019-05-05 22:42:37 | 山とスキーでブラブラ

仕事はしておらず、介護すべき親、親族はおらず、扶養義務もないので、山もスキーも自己都合でいつでも行けるから、混み合う連休には行かない、絶対に、と思っていた。
今年は、テンノウを政治的に利用しようとして目論んでいる輩が、通常の連休を10連休にして、70年以上前に国民主権となったクニなのに、アホなコクミンはそんなテンノウ都合を喜んで、何かナサケナイと思うが、ワタクシは混み合う連休の始まる前に、セッセと行けばイイだけだ。

とは言え、非正規、パートの人は10連休は大変、と言う情報もあり、確かに日銭が入る日が強制的に雇止め状態になる訳で、それはホントに大変だと思う。
超有名な明治の文豪も、テンノウが死んで、全てのお祭りが中止になって、それで稼ぐ屋台のオッチャン(?)などが気の毒だ、とかと日記に書いておられるそうで、近代化され100年以上経っても、日銭に頼るビンボー人のツライ境遇は変わらない。

40~50年前、高度成長期から安定成長期に代わる頃、ワタクシは学生から社会人になり、当時も景気は大して良くなかったが、パートと言うのは学生か専業主婦のアルバイトだった。それが今、非正規とか言う名になり、働き盛りのオッサンも、今や多くがパートだそうだ。
そしてここに至るまでの間、政府や企業はひたすら“改革!”、“改革!”と、叫んでいた。
いつの間にか庶民、弱者を守る立場であった、“革新”は全く人気がなくなり、結果、政府や企業は、勢いを増して強権的になり、それに触発されたとしか思えない庶民、ビンボー人の一部のアホは、暴力的になり、弱き周囲を憎み、差別している。ナント凶々しい。
ホントにこんなンでエエの?まぁもうどうでもエエけど。

という事で、連休前にセッセと行こうとしたが、相変わらずダルい、シンドいで、ナゼか天候にも恵まれず、気が付けば連休真っ最中。

5/3、佐野坂を過ぎた先でも、サクラの季節が続く様になり、白馬の手前から岩岳入口までR148はノロノロ。さすが連休。
やっと着いた感の、栂池の駐車場は「塩の道」のイベントで駐車出来ず、ここでもさすが連休。
仕方なく中間駅辺りへ登ってみる。その周りにも駐車場があったはずだ。

 中間駅側にある娯楽設備は、家族連れでそれなりに賑わっていた。ここも連休。

からまつゲレンデの上部辺りで駐車しようとしているオッチャンに、「ここ、停めてもエエんですかねぇ」と訊くと、「さぁどうでしょうかねぇ」、とスキー靴に履き替えながら、彼は応えた。
よく見るとその隣では、4~5人のオッチャン達がワゴンから装備を出している。彼らの荷物は明らかに連泊の量。全員ピッケルを携行している。

天狗原まで往復するだけのワタクシ、車の下方はからまつゲレンデの草っ原が広がっているだけ。そこで停めて中間駅に向かった。

 ハンノ木はもう滑れない、とのこと。しかし、残っている雪を繋いで何とか降りれるのでは、と少しは期待していたが、ほぼ完全に融け消えていた。

 栂の森はフツーのスキーシーズンの景色。ロープウエイは11時の便。

 11時15分、出発。

 10人以上のオッチャン、オネエサンに追い抜かれ、10人以上のツボ足+シリセードとすれ違った。

 天狗原の台地でも雪融けは激しく、シラビソ、ハイマツの露出が目立つ。

 13時20分、天狗原着。祠も2m近く露出していた。

 今シーズンは天狗原へ6回登った。しかし白馬乗鞍には一度も登れなかった。もう白馬乗鞍も、眺めるだけになってしまったのか。イヤ、来シーズンは必ず!必ず!!

13時50分、下降スタート。

ゴンドラ駅に着けば、もうその下へは滑れないので、天狗原下の斜面は、今年楽しんだ一定のサインカーブで、丁寧に滑るようにする。それが出来るコンディションでもある。

 自然園の小屋も大きく露出している。

 14時過ぎ、林道着

 林道は全てカットし、14時20分、ゴンドラ駅裏に出る。

そして、スキー40日目、無事終了。