蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

あの大災害の記憶-反対し逃げた人と流され亡くなった人

2015-07-22 13:50:23 | 神戸布引谷での出来事

48年前の7月9日、梅雨の末期の集中豪雨で、布引谷・市ケ原の東側に聳える世継山の北西面が崩れ、大きな茶店周辺を押し流し、21人が亡くなった。

そこは市ケ原の中心的な場所であり、決して急斜面の真下ではなく、世継山が中腹からなだらかに広がる斜面の下にあった。周囲には別荘が点在し、駐在所もあった。
神戸では昭和13年に、三ノ宮が土砂で埋まった大水害があったが、その時市ケ原では、家が流されるような被害はなかったそうだ。「ここは大丈夫じゃあ」と、隣の好々爺は何度も行っていた。

しかし48年前、昭和42年7月の豪雨では、大きな茶店の周囲一帯を押し流すほど、世継山は崩れた。それはナゼか。

それは今、新神戸ハーブ園がある、世継山の南面から頂上、更に北に延びる尾根に沿ってゴルフ場ができ、その為に多くの木々が伐採され、斜面が脆弱になったからだ。崩れた斜面の上部には、山腹を切り取って何番かのホールが出来ていた。つまりゴルフ場開発造成による人災となる。
我が山の家は、世継山の南西面の下にあるが、幸い、南西側にはゴルフ場のコース等はなかった。

このゴルフ場は、昭和33年に造成工事が申請され、翌年に公園法の基準にそって厚生省が認可したそうだ。世継山周辺は瀬戸内海国立公園六甲山地区に入っている。

公園法の基準とはその開発が風致、景観に害がないかどうか、公園の利用として適しているかどうか、であって災害対策についての基準はないらしい。
しかし、昭和36年の神戸市の水防会議では、この地域を山津波の危険地区として指定していたとか。
にもかかわらず、厚生省:国が認可したこととして、市も県もゴルフ場造成工事にモンクを言わなかったらしい。

そもそもこのゴルフ場、公園の利用として、適していたのだろうか。
ゴルフ場の入り口は確か、今のハーブ園の新神戸ロープウェイ中間駅辺り。地図を読むと、そこから世継山の頂上付近まで、水平で約500m、高低差、約100m。
この勾配、スキー場としては快適なスロープだと思うが、ゴルフ場としはどうなのか。しかもその先は細い尾根が天狗道・稲妻坂へ続く。
尾根の下の斜面を段々畑の様に削り、コースを作ったのか。そこまでしてゴルフをやりたいのか。
そして、エエカゲンに斜面を削れば崩れる。

昭和30年代、時代は高度成長期。風致、景観に害がないかどうか、と言うよりむしろ、商売になるならイケイケドンドン、と言うコトではなかったか。

熊本・水俣の奇病を調べるため、医学生の原田サンとかモノ書きの石牟礼女史が、かの地を徘徊し始めたのも、確かその年代だったはず。
公害、災害より経済、それは今も続く愚かなこのクニの選択。

反戦、非戦の対極にある、勇ましい勢力のバックには、軍産複合体と言うノがあって、ウラでクニを動かしているらしいが、ソイツ等は正に、人命より何より、経済なのだろう。と同時に、どこかの国から攻撃されたらどうすンの?、と不安を煽っている。
そして経済と不安に、このクニのタミは弱い。
もうそろそろ目覚めて、不安には煽られず、経済より反戦、競争原理より相互扶助、貧しくても平等がイイ、と言う風にならないモノなのか。

ワタクシが布引谷・市ケ原に引っ越しして来たのは、、昭和32年。
翌33年は、駐在所の息子ヨッちゃん、父子家庭のタダシくんと一緒に、麓の熊内幼稚園に通っていた。

そして、昭和34年には、市ケ原在住の平井某氏を代表者とする、ゴルフ場工事災害防止対策委員会と言うのが出来て、ゴルフ場開発に反対していたらしい。

しかし、この平井某氏の名は、当時のオトナの会話からも聞いた事がなかった。
またゴルフ場開発に伴い、車道が出来て喜ぶオトナの会話はあったが、ゴルフ場開発造成に反対する会話も聞いた事がなかった。

48年前、土砂崩れで亡くなった大きな茶店の主人の遠縁にあたり、今も布引谷で一人、茶店をガンバっておられる女性も、平井某氏を知らないと言う。
「ただ別荘がポツポツ出来てなぁ、そこに住んでた人らのコト、よう知らんねン」とは、言っていた。
確かに、ワタクシが5年生の時、雲中小学校の開校90周年で発行された同窓会名簿には、昭和24年と31年の卒業生に、市ケ原在住の平井姓の名がある。

明治の初め、布引貯水池のダム工事でやって来た人達が、工事が終わった後、ダムの上流に住みついたのが、市ケ原の集落の始まりらしい。主に高知人で、茶店のオバさん達は、「〇☓△じゃきに」、「%$*しちゅうきに」と喋っていた。
その“高知族”とは別に、昭和30年頃、“別荘族”ができたのかも知れない。

6月末、布引谷・山の家を片付けていたら、古い写真に紛れて、古いハガキが出てきた。
小学生のワタクシに、担当教師から送られてきた年賀状の返事が殆んどだったが、その中にナント、オヤジ宛ての平井某氏の年賀状があった。
昭和38年のモノで、住所は灘区の山手、阪急六甲行き市バスが通る、坪単価100万(?)のエリアだった。

オヤジはその前年、胃潰瘍で胃を2/3切除し、その後の血清肝炎で3ヶ月を病院で過ごしている。布引谷・市ケ原での人付き合いなどロクに出来なかったはずだ。また、昭和34年に災害防止対策委員会を作った時の平井某氏は、60歳だったそうで、オヤジとは親子ほどの年齢差、話をするキッカケすらなかったと思う。
何故、平井某氏から年賀状が届いたのか。

ゴルフ場が営業を始めたのは、昭和38年だったハズだ。その年、ゴルフ場の従業員が市ケ原に住み始め、同級生が二人増えたことで憶えている。

つまりその前年に平井某氏は、災害の危険性がある市ケ原の別荘から、坪単価100万(?)の灘区に居を戻し(?)、布引谷に残る住民の多くに、挨拶代りの年賀状を送ったのかも知れない。

いずれにせよ結果的には、この平井某氏の転居判断は正解だったが、街へ逃げ出す事が出来る、“別荘族”がゴルフ場の開発造成に、明確に反対の意を示し、片や、逃げ出せず、土砂崩れでそのほとんどが亡くなった“高知族”が、反対しなかったことに、奇妙な、何とも言えない感慨を覚える。
この因果と応報をどう消化すればいいのか。

昭和38年頃、布引谷・市ケ原には、“高知族”と、ワタクシ一家のように布引谷に移り住んだ“移住族”が、50人以上住んでいたと思う。
そしてその全てが、ゴルフ場工事災害防止対策委員会とは無縁だった。
そもそも、“定住族”の多くは、ヤバそうな事態に、市街地に避難できる親族がいた。

とは言え、“高知族”も“移住族”も、誘致した訳でもない。ゴルフ場自体に無縁だったと言えるかも知れない。

ただ、ゴルフ場が崩れで亡くなった大きな茶店の主人は、県からも表彰され、市ケ原の村長的存在だったが、あるオバアサンが、自宅に関係するゴルフ場付帯工事に素直に同意しなかったので、ゴルフ場サイドに協力し、説得に当たった、と言うネガティブなウワサを聞いた事はある。
この主人の遺体は、貯水池の水を抜いて捜索し、一番最後に見つかった、と記憶している。

そして、ゴルフ場工事災害防止対策委員会の主体になったと思われる“別荘族”が、当時何人いたかは想像も出来ない。

今はバーベキュー族で賑わう、市ケ原の河原から少し川沿いに歩くと、48年前に流された家財類らしきものがまだ残っている。
しかし、大きな茶店があった周辺には、慰霊碑等はない。
別荘が点在した辺りは雑草、木々が猛烈に生い茂り、ここに集落があった面影は微塵もない。 

 


 


布引谷・山の家の処分に向けて、ほぼケリをつけた6月

2015-07-07 14:37:31 | 神戸布引谷での出来事

「ワタシもナ、そろそろここにあるモン整理して、チョットずつ捨てていこかと思てンねン」、モノを捨てる習慣がなかったオフクロが、亡くなる何年か前、そんなコトを言いだした。

近所の独居老人が死んだ後、その子供達が業者を手配し、何もかもゴソッと片付けていった様子を、オフクロは何度か見ている。
その子供達とは昔遊んだ間柄だったが、東隣のカズちゃんは兵庫県外で所帯を持っており、南隣りのアベさんは三ノ宮の店が忙しかったハズ。親が遺して逝ったモノを片付けながら、感傷に浸るヒマは彼らにはない。
朝、やって来た業者のトラックに一切合切放り込んで、夕方引き上げていったそうだ。そもそも、彼らは何年も前に布引谷を棄てている。

「アンタもそうしたらエエわ、2~30万でやってくれるらしいで」、オフクロはなにか諦める様にそう言っていたが、やはり無機的、事務的に、正に荒ゴミを片付けるような行為が許せなかったのか、生きている内に自分で「チョットずつ捨てていこか」、と思ったらしい。

普通のオバアチャンなら、そんな会話は娘とかムスコのヨメ にするのだろうが、ワタクシには兄妹はなく、ヨメハンには逃げられたばかりだった。
バカ息子は、「そらエエわ、手伝うからボンボン捨てていこ」と、一瞬言いそうになったが、「イヤ、別にエエやン、ボクがボチボチ片付けるから」と返事していた。「チョットずつ捨てていこかと思てンねン」の後に、「いつ死んでもエエように」とか、「アンタに迷惑掛らんように」とかが、続く様な気がしたからだ。
オフクロにはやりたい放題のバカ息子だったが、「いつ死んでもエエように」と思いながら、大事に置いていた諸々を捨てていく母親の存在はイヤだった。
初冬の陽が暮れかけてきて、「アンタ、今日泊っていったらどうや、どうせ帰っても誰もおらンねやろ」、とオフクロは言ったが、山の家には酒がなく、強く勧めるオフクロを振り切って帰った。

その数年後オフクロは亡くなって、ワタクシは布引谷に寝泊まりしながら、ボチボチ片付けていこうとした。

しかし、押し入れを開けると出てくるモノには、ワタクシがこの家を出てくる時に置いて行ったモノや、「チョット預かっといて」と持ち込んだモノも多かった。
最初のアパートで使っていたガスレンジ、子供のオマル、べピィキャリア、20年以上預けっぱなし。預けたことすら忘れている。
預けた頃はまだ30歳前後、人生はまだ50年余っている。その内なにか使えるシーンがあるかもと、大量廃棄時代を理解出来ないワタクシは、多分そう考えて預けたのだろう。
そして20年以上経った。余っている人生はあと20年程。今後使えるシーンなどまずない。遠慮なくボンボン捨てていった。
当時はまだ指定袋のルールはなかったし、ほとんどが粗大ゴミ、決まった日に出しておけばタダで回収されていった。

最初の頃は出すモノが纏まってドカッと残っていた。
3回忌が済んで、オフクロの衣服でチョットましなものを、ドカッと古着寄付に出した。と言うか引き取ってもらった。洋服タンスは直ぐ空になった。
中元、歳暮などでやって来た未使用の寝具等も、ワタクシが20年近く生息していた部屋にドカッと残っていたが、老人ホームに引き取ってもらった。そこには編み物をやっているお年寄りもいて、毛糸も引き取ってもらった。

そうしてオフクロが遺して逝ったモノはボチボチ片付ける、と言うよりボンボン捨てていって、山の家はかなり空になった。

それから5年経って今は家の隅々、押し入れ、飾棚から細々とモノが出てくるので、分別するのが大変だ。
プラスチック類は燃えるゴミ、金属類は燃えないゴミ、包装紙類と布類は資源回収、それらをここ垂水の収集日にあわせて、チョットずつ、ボチボチ持って帰って捨てていくしかない。

6月になって、いよいよ大型ゴミを出すことにした。取りあえず、ガスレンジ、電子レンジ、ワタクシが中学生の頃から使っていた石油コンロ。
早速受付センターへTEL。それぞれに600円のシールを貼れ、と言われた。回収日は8日後、その週の回収手配には間に合わなかった様だ。

 6月2日、サツキが咲き始めた。

この週は棄てると言うより、陶器や額縁など今後使おうとするモノを持ち帰った。

また飾棚から出てきた木箱、竹の団扇などを燃やし、最後に小箱に入れられていた、不思議なモノを燃やした。

箱は6センチ×10センチ×1センチ程の白い紙箱、表に筆でワタクシのフルネームが書かれ、開けると赤い縁取りの包みが出て来て、そこにもワタクシのフルネーム。
それを開けるとまた、ワタクシの誕生年月日とフルネームが筆で書かれた包みが出てきて、カビ臭い、青臭い、コケ臭い匂いがフッと漂った。
最後の包みは固着していて、それ以上開けられなかった。
結局、それをまた順に納め直して小箱ごと燃やした。

それは多分、ワタクシの臍の緒ではないかと思う。母親の棺に入れて燃やすモノだそうだが、葬式の時には見つからなかった。
「ここにあるモン整理して、チョットずつ捨てていこかと思てンねン」と、オフクロが言った時、そのお手伝いをしておれば、整理中に見つけて、引き継げていたかも知れない。

小箱のそばには、オフクロが昔、唯一リクエストした遊び道具、百人一首があった。
当時のこの家にとっては、それなりに高価なモノだったのか、オフクロは嬉しそうに大切にしていた。

しかし、それでカルタ遊びをした記憶はあまりない。大体、野山を走り回って遊ぶ方が好きだったし、古代の高貴な奴等が詠った詩歌など意味が判らず、ただその頃、確か中学生になった頃に流行った歌謡曲の、「富士の高嶺に降る雪も~、スッチャッ チャカチャ チャッチャ 」に調子を合わせ、「スッチャッ チャカチャ チャッチャ 、富士の高嶺に雪は降りつつ」とふざけて、オフクロを怒らせていた。

オフクロは戦前、西宮の鳴尾にある川西航空機で働いていたそうで、正月は上司の家へ職場のメンバーと集い、百人一首で遊んで、それがとても、とても楽しかったと、何度も言っていた。私生児だったオフクロは、その上司を父親の様に思っていたのかも知れない。

いずれにせよワタクシの楽しい思い出ではない。大体、正月に軍需産業の上司の家に行って、百人一首を楽しむ感覚が理解出来ない。
躊躇せず不思議なモノが入った小箱と一緒に燃やした。

これで1階はほぼ片付いた。
次はフトン部屋になっている2階。取りあえずフトン類を下へ降ろす。空になった1階はまた、フトンで埋まった。
そしてまた、分別しないといけない。敷ブトンは大型ゴミ、掛ブトンは極力指定袋に押し込んで燃えるゴミ、比較的キレイなカバー、シーツは古布資源回収、ボロボロなのは燃えるゴミ、フゥ~ウ、段々イヤになって来たが、あと少し。

 6月8日、サツキはほぼ満開。

この日は昼から雨、午前中に行って大型ゴミを出す準備をする。
また、2階の色褪せた本をチェック。歴史読本、司馬遼太郎、山岡荘八、山本周五郎、旅行雑誌等々70冊程、ワタクシの趣味ではないし、全てボロボロ、古紙として資源回収に出すしかない。
燃えるゴミを持ち帰るべく準備していたら、環境局の軽トラが通りかかった。大型ゴミは明日のハズ、今日は何のゴミの日?
引き留めて聞いてみたら、どうもハイカーゴミ回収らしい。「燃えるゴミなら持って行きますよ」、と言ってくれたので、持ち帰るつもりの2袋を軽トラの荷台に放り込んだ。

そしてフト思いついた。明日回収してもらう大型ゴミはいずれも金属ゴミ、それなら燃えないゴミも持って行ってもらえないかと。
早速帰って、環境局へTEL。快く、とまでは行かないが、何とか了解を得る。

翌9日は朝から雨、ミニバイクで行くのはあまりにもツライので車で行く。
環境局の軽トラがいつ来るのか判らないが、8時までに出せと言われているのでまず、 ガスレンジ、電子レンジ、石油コンロにシールを貼って出す。
その後、急いで5kgの円筒缶にアチコチから出てきた金属類を詰め込んだ。この花柄の缶は階段下から出てきた。何の缶だったのか、一回り小さな缶とセットになっている。沢山の石鹸が納まって押し入れだったから、粉洗剤でも入っていたのだろうか。
燃えないゴミの袋に金属類を詰めた缶を入れ、固形石鹸が入っていた角缶も、硯や陶器類もついでに押し込み、大型ゴミの側に置いた。

この日の作業はこれでオワリ。
車のトランクを古布類と2階にあった古本で満杯にして帰った。翌日はここの資源回収の日、廃棄は順調に進む。

10日は、フトン類の廃棄準備。
掛けブトン、肌ブトン、子供ブトン、座ブトンを指定袋に思いきり詰め、7袋の燃えるゴミにして、翌11日、布引谷の燃えるゴミの日、朝に行って、出す。

この週は早朝から布引谷へ行っての作業が多かった。
深夜に目覚め、気付けば夜明けまでチビリチビリ呑んでいた日々がある。それに比べれば、健康的だ。

そして久しぶりに通勤渋滞に紛れて走る。
社会は産業資本主義から金融資本主義に移ったそうだが、相変わらず疲れた顔が会社へ急いでいる。

多分、彼らの多くはアベノミクスの恩恵は受けず、その子か孫か曾孫が、今回の戦争法案で海外に駆り出され、誰かはイスラム過激派や中国人をコロし、誰かはコロされるのかも知れない。

自衛のためと武器を持てば、攻めて来られてなくても武器を使いたくなるし、海外派兵出来るようになれば、大量破壊兵器があるからとかで、意義のない派兵をしてしまう。安全保障とか抑止力とかは、結局そう言うことになるのだと思う。

 6月14日、今年も南隣りから竹が伸びてきた。

この週は敷ブトン類を大型ゴミに出す。既に手配済み。
敷ブトンと指定袋に入らない掛ブトンが計9枚、3枚を一つにくくり、マットは1枚で一くくり、それぞれに300円のシールを貼れ、と言われていて、その準備をする。 

また、台所の手の届かない棚などを再チェックすると、 割り箸の束、押しズシの木箱、弁当箱、竹の皮などが出て来た。最近はプラやポリになったモノばかり、しかし使う機会など、もうないのは明らか、豪快に燃やす。

台所には床下収納があった。今まで、30年以上開けたことはない。オフクロが使っているのも見たことがない。
どうなっているのか、恐る恐る開けてみると、水が入ったビンとペットボトルが10本以上入っていた。
これはナルホド、と思った。

この家は昔から、大雨が降ると水が濁る家だったのだ。玄関間の隅には、水を溜めた100リッター程のポリバケツを置いていた。
しかし中身は、神戸港で積んでインド洋まで行っても腐らない、と言われている布引ウォーター。一度取り替える時に、何年も放置していた中身を"味見"してみたら、フツーに美味い布引ウォーターだった。
布引谷の地下に新神戸トンネルが通り、そのせいで周囲の水が枯れ、神戸市道路公社が川の側に給水設備を作ってから、水が濁るとペットボトルの飲料水を道路公社が配るようになった。しかしオフクロは、昔からのクセで溜めていたのだろう。
今回はもう"味見"しないで流す。
空のビンはまた垂水へ持ち帰り捨てるしかないか、と思っていたら、隣で家庭菜園をやっているMサンが通りがかり、「捨てといたるワ」と持って行ってくれた。彼は街で飲食店をやっている。ビンを処理する機会はいくらでもあるのだ。

Mサンはワタクシが山の家を片付けているの見て、「捨てるンやったら、貰うでェ」と言って、先週は洗濯機、この日は2階の古い整理タンスを引き取ってくれた。隣の彼の農園の隅には、小屋がある。そこで使うらしい。
このタンスは、5歳の私と一緒に布引谷にやって来たモノ。ヒョットするとワタクシより年上。鍵が壊れ、抽斗の一つは開かない。
「ホンマ、こんなンでエエのン?」と言うと、「エエねん、エエねん、ワシ、こんな昭和の雰囲気が好きやねン」と意に介さず、小屋に持って行った。

フトン類を廃棄して、山の家はほぼ片付いた。あと残っているのは大きなモノばかり。これらの廃棄は業者を呼ぶしかない。

大きなモノの中には、オフクロの箏とミシンがあった。

箏は身の丈ほどある、時代劇などでお姫サンが弾くヤツ。オフクロが嫁入り時に持って来たモノらしいが、その演奏を聴いた事はない。オヤジもないかも知れない。多分昭和初期のビンテージ品。 
色褪せた赤地に白い小紋柄のカバーを取ると、ガットは一部切れ、ギターのブリッジに当たる部分のほとんどが外れていて、脚の一つは行方不明。
女子大の筝曲部のオネエサンにでも引き取ってもらえないか、と思っていたが、弾ける状態にするのにナンボかかかるハズ。オネエサンは迷惑だけかも知れない。

ミシンは足踏み式。よくあるレトロな黒いモノとは違って、薄緑色のメッキのような仕上げが施されている。
これはオフクロの内職のカナメの道具。オフクロはこれを駆使し叔母の洋装店を手伝い、数々の作品を作っていた。
ワタクシが小学校高学年の頃、オヤジは胃潰瘍でハラを切り、その輸血が原因で肝炎になり、夏の数ヶ月を病院で暮らした。その前後には転職を繰り返しており、多分その頃、ウチの家計はオフクロのこのミシンで維持されていたのかも知れない。

ミシンをテキトーにセットして動かしてみたら、ナント円滑に動いた。
モノが縫えるかどうかは判らないが、少しオドロいた。回転部、摺動部に潤滑油膜がキチンと残っていたのか、なにしろ湿気の多い場所に、10年、イヤ20年近く放置されていたのだ。どこかがサビついていてもおかしくない。それが円滑に動いたのだ。

しかし、今はもうタダのガラクタ。アンティックなモノ置きテーブルとして使えないコトもないが、ここ垂水の低所得者救済マンションには、これを置くスペースはない。
またギターなら、昭和初期のビンテージ品でも大喜びで頂くが、箏を弾く趣味はない。ナゼなら、箏でフォークやブルースやボサノバを弾く方法を知らないからだ。

この二つ、どう処分したらいいのか。

そんなある日、インターネットに神戸市北区の骨董品屋のサイトが眼に留まった。どんなモノでも、買い取りに行きます、と書いてある。

実は5年程前、骨董品屋に色々引き取ってもらったことがある。その時は、呉服の処分で困っていて、偶然知った御影の骨董品屋で買い取ってもらった。
ついでに訳の判らない真鍮の仏像とか他の諸々も、そこへ持って行って買い取ってもらった。骨董品屋の社長はわずかなお金をワタクシに渡した。
しかし、明らかにこの骨董品屋さんは迷惑そうだった。
謂わばワタクシ、ガラクタを押し売りしていた訳だ。この家にあるモノは、骨董品としては価値のないガラクタばかり、その時そう認識した。

しかし、この骨董品屋のサイトには、どんなモノでも買い取りに行く、と書いてある。それなら、これらのガラクタ、買い取っみィや、と訪問を依頼した。
山の家には他に、碁盤と碁石、掛け軸、黒地に金字の書画、錫の酒器、青銅の香炉などもある。全てオヤジが、古道具屋などでゲットしたガラクタだが、それらも買い取ってもらえたらアリガタイ。

 6月22日、アジサイが咲きだした。

この日、神戸市北区から骨董品屋サンがミニバンでやって来た。こんな山中に、骨董品を買い取って欲しいと言う家の存在が、不思議そうだった。

しかし、ガラクタはガラクタだった。

脚が欠けガットが切れた箏は論外。ミシンは超レトロでもなく、逆にメカトロが搭載されている事もなく、買い取りには一番中途半端な時代のモノ。黒字に金字の書画は、「どこかのエラいセンセが書かれたモノだと思いますが、価値ありません」、碁盤と碁石も論外。 
結局、掛け軸、錫の酒器、青銅の香炉、三つで3千円。
「袋に入れましょか」と言ったが、骨董品屋は「イヤ、ダイジョウブです」と、掛け軸を脇に挟み、錫の酒器と青銅の香炉を両手に携え、ミニバンに乗り込んで帰った。

結局、ミシンと箏は山の家に鎮座したまま。

翌日、仏壇の掃除を依頼していた仏具店が、その引き取りにやって来た。

オフクロは仏壇を床の間に置いていたが、床の間は毎年、梅雨時に白くカビに覆われる。
今回、それらのカビを拭き取ったが、仏壇の抽斗を抜くと内面は白いカビだらけ。何年か前からのカビが残ったままらしい。
そしてチョコチョコしたキズと丁番のサビも目立つ。

4月頃、三ノ宮の仏具店の前を通っていて、仏壇掃除の貼り紙を見つけた。
30年ほど前、オヤジが死んで、オフクロは仏壇をこの店で調達したハズだ。
早速、責任者らしきオジサンに相談すると、引き取って掃除、修理して、垂水へ運びセットして、大体7万程との事。

先週、具体的にその依頼をTELすると、「まず魂、抜いて下さい」とオバサンに言われた。
ワタクシにとっては、何のことか判らない。
オバサンは、この訳の判らない客に困っていたが、オジサンがTELを替わって、「ご本尊を外して引き取り、作業します、いいですね」と、念を押すように言われた。ワタクシはズッと何のことか判らないまま。

やって来た仏壇屋の社員二人に、掃除、修理して貰いたい箇所を指示すると、具体的見積は持ち帰り、調査後と言うことになって、彼ら二人は、ジェントルな仕草で仏壇の中身を全て出し、それら一つ一つを丁寧に紙に包んだ。
食器棚に仕舞っていた仏具も、木魚、経机も同様に紙に包んだ。
「お線香やお蝋燭はどちらにありますか」と、訊かれたが、仏壇の抽斗や下の台の中に溢れるほどあって、今でも何かある度にお寺から送ってくるので、「昨日、燃やしました」と応えると、「エエッ!燃やしててしもたンですかァ!」、そんなおバカに出会ったのは、初めてのようだった。
最後に仏壇の奥の壁に貼り付けられていた、法然、阿弥陀如来、善導の金ピカの小さな掛け軸を、丁寧に外し、丁寧に包み、丁寧に紙箱に入れ、ワタクシに渡した。これがご本尊?、おもちゃの様な掛け軸なのに。

結局、仏具店のジェントルな社員二人は、1時間程かけて、仏壇他一式を丁寧に運び出した。
彼らも、こんな山中に仏壇がある家の存在が、不思議そうだった。

「ところで、これとおんなじのン、今買うとナンボ位なン?」と、訊いてみた。
「30万?イヤ50万以上するかもしれません、大体この木、今は手に入りませんし、このサイズも少ないです、今はもう団地用で小さくなってしまって、それかお金持ち用のムチャクチャ大きいのしか ・ ・ ・ 」、黒檀製でもこんな重いノは今はないとか。

これが黒檀製だとは知らなかった。
黒檀とはエポニー、高級ギターのフィンガーポートに使われる硬い木材。急に親近感が湧いて来た。

仏壇が運び出されて、山の家は更に片付いた。

その翌日、保険屋サンへ火災保険の解約を連絡した。

しかし、細々としたモノが更に出てくる。
整理ダンスの上段からは安物の宝飾品や小物入れ、洋服ダンスからはベルト類とハンドバックが3つ出てきた。どれも所謂、ブランド品ではない。
しかし、バックの1つは内張りもシッカリした本革になっていて、ITALYと書かれた柔かい布袋に収まっていた。それなりの高級品かも、ブランド名はGINO FERRUZZI となっていた。多分叔母のルートで入って来たモノなのだろう。
ほか、ワタクシが使っていた机の抽斗からは、2バンドのラジオや、製図の授業で使っていたコンパスなど。
いずれにせよ、全て燃えるゴミと燃えないゴミに分別し、垂水で棄てる。この作業ももう直ぐおわる。

オフクロが大事そうに保管していた、オヤジの最後の名刺、免許証、実印は棄てず、しばらく置いておく事にする。オメガは、垂水駅前の自動巻きの修復が得意な、時計屋サンで修理して、使うつもりだ。

 6月28日、誰かが玄関先の庭を、エゲツなく掘り返している。イノシシはここまで掘らないハズ。と言うコトは、犯人は害獣アライグマ?、アイツならこんな悪事、ヤルかも知れない。

この日は昔からある斧、ヨキ、ワタクシが持ち込んだ鉈、鋸、工具類を持ち帰るべく整理し、最後に残った木類、また板、スリコギ、定規、物差しなどを燃やす。

 6月29日、久しぶりに2階から南側を眺める。冬になれば多少落葉するハズだが、この時点ではまるでジャングル。まさに昔見えた景色ではない。

この日で、4月から始めた、山の家の処分に向けた、後片付けのケリをつける。

どこかから出てきた、小学校時代の担当教師からのハガキを撮ってから燃す。オフクロが飾っていた自作の蔦のリースを燃す。

汚れたウエス、台所にぶら下がっていたエプロンなどを最後の燃えるゴミとし、紙箱、紙類を最後の古紙資源回収として持ち帰る。
処分しきれなかった写真や書類等を、コンテナBOXに詰め、持ち帰る。

そして、後は業者に頼むしか廃棄出来ないモノが残った。

ワタクシの作業は取りあえず、これでオワリ。ホッとした。