4月第1週で今年の信州・雪山通いをオシマイにして、布引谷・山の家の処分に向けて延べ40日、分別したモノを垂水までミニバイクで運び、チョコチョコ廃棄していって遂に6月29日、残ったモノは業者に持って行ってもらうしかない冷蔵庫、食器棚、タンスなどになり、自分で出来る分別廃棄は終わったコトにした。
そして翌30日、M氏に鍵を渡し、売却した。M氏はナント、残ったモノを「置いといて、使えるモノは使うから」と、言った。
M氏は5年程前、上隣りで家庭菜園を始めその後すぐそこを買い取った。この辺りは全て保安林だが、我が家と階段状になった上隣りと更にその上の3つは、ナゼか宅地になっている。
しかし家が建っているのは我が家と一番上だけ、M氏が地主となった真ん中の土地は、昔から畑だった。
ワタクシが布引谷の住人になる前から、隣の茶店の先代サンは、周囲の斜面を段々畑に開拓していた。ワタクシはそこで走り回って遊び、この好々爺から自然の色々を教えられた。
その畑にはコエダメがあり、小学生になりたての頃、2回落ちた。
当時、茶店は今と違って毎朝大賑わい、お手伝いのオバサンもいて、「1回落ちたら場所くらい覚えとき、コエダメに2回も落ちたて、そんな人初めてやワァ」、と笑われた。
その畑にはその後も家は建たず、昭和42年の大水害の後、この辺り一帯は市街化調整区域になったため、それ以降、家は建てられなくなった。
しかし、我が家の1/3位の大きさの小屋は建っている。これはこの土地の元所有者が建てたモノで、当然M氏は何も知らないが、炊事、寝泊まりは出来るようになっている。
市街化調整区域になった後に建てられたので、違法建築物になる。
「ちっちゃい小屋やプレハブとかでもアカンの?」と、神戸市建設局の職員に訊いたことがあった。
「ダメです、農機具を仕舞っておく程度の小屋ならイイですが、工事現場にある様なプレハブ小屋でもダメです」、職員はハッキリそう答えた。
しかし、そう言う建築物は布引谷に建っている。
昭和42年7月、梅雨末期の集中豪雨で、世継山頂上付近に造成されたゴルフ場が崩れ、山津波となって集落を襲い、21人が亡くなった。我が山の家はそこから約500m離れており、幸い上方にゴルフ場は造成されておらず、被害は受けなかった。
しかし、周りの谷が崩れ、濁流で布引谷が溢れ、自然は暴威、荒れ狂うコトがある、と知った。
その後市街化調整区域になったと聞いて、ワタクシはアタリマエだと思った。そもそもここは、人が住んではいけない場所かも、と思った。
そして次々と村人は街へ下りて行って、M氏が家庭菜園を始めた頃は常住者は7人程になっていた。
とは言え、常住でなくてもチョット行って寝泊まりしたい人はいる。
我が家の上隣りの畑に、ちょっと行って寝泊まりできる小屋を建てたのは、熊内に事務所兼自宅を持つ貿易会社の経営者だった。
その会社のモノらしき看板を、雲中小学校の辺りを歩いていて見たコトがある。「パナマ某」と書いてあって、少し前に習った、太平洋と大西洋を繋ぐ運河の名前が、ナゼ看板になっているのだろうと思った。
当然、その男は布引谷・市ケ原での大水害のこと、その後市街化調整区域になって、新築が出来ないことは知っていたハズだ。
しかし、建築確認さえしなければ、神戸市にはバレない。建築が始まって誰かにチクられても指導を受けるだけ、違法建築と言っても結局は無法状態と言える。
ただ、建築確認すればバレて新築は出来ないので、市街化される事はなく、本来の目論見は、外れていないことになる。
いずれにせよ、貿易会社の経営者が建てた違法建築の小屋で、M氏も幾夜か寝泊まりしたと思う。
ただ、それに飽き足らず、常住出来るキッチリとした家も探していたと言うウワサを聞いた事もあった。
何年か前からナゼかネットで、不動産の査定します、とのメールがしょっちゅう来ていて、それなら市街化調整区域のこの布引谷の家と土地、査定して見ィ、と幾度か返信していたら、4年前の12月、現地を見たい、と言う依頼者が現れて、案内したことがあった。
そのことを誰かから聞いたM氏は直ぐ、「知り合いに市ケ原で家、欲しい、言うとんノがおんねン、売るンやったらナンボくらいなん?」とTELしてきた。
「イヤちゃうねン」、ワタクシは経緯を説明し、「売る気ィないヨ」、と応えた。
実際、案内した依頼者には、隣の茶店が境界のことで訳の判らンコトを言っている、とのネガティブな状況も、話しておいた。当然、そのハナシは進展しなかった。
そもそも昭和42年に自然の暴威を目の当たりにして、人が住んではいけないかも、と思った所を他人に勧めてはいけない。
’10年3月にオフクロの3回忌を済ませた後、オフクロが遺して逝った衣服を古着寄付や資源回収に出し、贈答品で未使用の寝具等を老人ホームに引き取ってもらい、毛糸もそこの手芸サークルに引き取ってもらい、その他もかなり片付けて、ワタクシは山の家を改装し、布引谷に常住するつもりだった。
しかし、イザ改装と言う時点で、通学、通勤していた頃とは何かが違う、と気になりだした。
木々が茂りすぎて景色が鬱陶しい、貯水池の色も濃い緑から白っぽくなっている。30年前とは自然が違う。
そして、雨の翌日、フロに張った水が緑がかっていた。 布引谷の神戸ウォーターに藻が発生している。
櫻茶屋のレイコさんは、「ワタシら、もう気にならンけど、そんなンやったら、ワザワザ、お金使うてここに住まんでもエエやん、下に住むトコ、あんねやし、もうローンも済んでンねやろ」、と言われた。確かにそうかも知れない、昔、遊んだ仲間はもう一人もいなかった。
逆に、春から秋はバーベキュウ族の大軍が襲来し、家の前まで路駐の車で溢れ、これも鬱陶しい。
そしてその翌年、’11年からはもう寝泊まりしなくなり、雑草を抜いたり、庭木の剪定したりで戻る頻度が、週一から月一になり、更に年数回になってしまった。
昨年末、M氏から久しぶりにTELがあった。
「最近全然見ィヘンけど、あの家どうすんの?あのまま空き家にしとくンやったら、譲ってほしいちゅう知り合いおんねンけど、ヘンなヤツちゃうでぇ、ちゃんとしたヤツちゃ、そやけど知らんノに譲るンイヤやったら、ワシがまず買うてもエエし」と、かなり熱心、真剣に言ってきた。
確かに信州へ移住してしまうと、チョット様子を見に行く、と言う訳にはいかない。ももうエエか、と言う気になった。
そして、譲るのならM氏がイイと思った。
と言うのは、M氏の土地の石垣はウチの方に数10センチはみ出ていて、今はワタクシが石垣の上、勝手に歩いてもエエと言うことで、治まっているが、持ち主が代わろうとすると、それがキッカケでモメるかも知れない。
しかし、2つの土地の地主が同じになってしまうと、モメる心配はない。
そう言うことをM氏に話し、譲ってもイイが、まだ片付けモノが残っているので、それをゆっくりしたい、せめて1年程かけてやりたい旨、申し入れた。
上隣りの土地の石垣を、我が山の土地にはみ出させたのは、そこに違法建築の小屋を建てた貿易会社の経営者のシワザだった。
’95年の震災で、その石垣の一部が崩れ、貿易会社の経営者はオフクロに修理を約束した。
そして四国辺りから復興需要で出稼ぎに来ていた業者に工事を任せた。その業者はまともな土木業ではなかったと思う。
境界からはみ出してもイイ、と貿易会社の経営者が指示したのか、まともな土木業ではない業者が勝手に判断したのか、石垣工事はオフクロの了解をとらず始まった。業者は道路の使用許可も取らず始めたらしい。
ワタクシがそれを知ったのはその数日後、「ウラで、ウチの方にはみ出して石垣工事、やってんねン、もう見てるとイヤになって」と、オフクロはここへ逃げて来た。
そしてワタクシがオフクロを連れて戻った時は、もう後の祭り。
本来なら、工事が始まって即、オフクロが「ヤメて」と業者に言って、ワタクシに連絡でもすれば、取りあえず話し合う機会はできたと思う。
しかしいつも、何かに遠慮して、主張するよりは我慢してしまうオフクロは、オトナシク現状逃避してしまった。
とは言え、紳士的に境界を守り、石垣修理をしようとすると、工事部分を後退させないいけない。それは大変で、結局は「ウチの方へはみ出してもイイよ」で、話し合いは終わる。
山では譲り合い、助け合いが肝心、ウチのオヤジも隣の茶店の先代サンもそんな考えだった。
ワタクシは取りあえず、貿易会社の経営者と話をしようとした。しかし、釣りへ行っていないとか、中々つかまらなかった。
やっとつかまえても、謝罪は一切なく、輸入していた帽子が最近は殆んど売れず、商売はサッパリだめ、今回の震災で自宅兼事務所も多大の被害を受け、もうお金の余裕なく、エライことになってしもて、とムスコほど年下のワタクシに、ひたすら泣きごとを言うばかり。
釣りに行く余裕はあるやんケ、と言いそうになったが、ナンカ哀れになってきた。
そう言えば、雲中小学校の通りを隔てた並びに実家があった知人が、ウラの会社が平気で境界を越えて、色々イヤガラセをしてくる、と言っていた。彼女の実家のウラ、と言うコトは、雲中小学校の辺りから見えたあの「パナマ某」の看板の位置になる。
要するにこのオヤジ、街でも山でも、越境と言ったお行儀の悪いコトをやっていた訳だ。
結局、石垣工事は途中で止めたが、かなり鬱陶しくなった。
家の外壁にコケが生えている。壁の内側の部屋は、毎年梅雨時期、カビに白く覆われる。石垣がはみ出て建屋に迫ったコトが、外のコケと内のカビの発生の原因かどうかは、判らない。
いずれにせよ、そう言った今までの経緯、状況、問題点、全てM氏に譲ることになる。M氏はそれでも、「ここはエエトコや」と言っていた。
ところで、M氏の土地の上の石垣も崩れ出し、2年前、どうしたらいいのか相談して来た。
石垣修理は上の地主が行うモノで、下の土地にはみ出さないよう、工事を行うのが常識、と教えて差し上げた。
M氏の上の土地は、ワタクシが中学生になりかけた頃、3人家族が住み出した。
父親は学生時代は山岳部だったのか、とにかく山好きで、住み始めて直ぐ、立山登山の様子を記録した8ミリ映写会を、隣の茶店でやったりしていた。
しかし山好きはオヤジだけ、一人ムスコは就職すると布引谷を出て行って、そのオヤジが亡くなった後10年近く空き家だった。
そこを確か5~6前、鍼灸師の女性が買い取った。
M氏は女性鍼灸師に石垣修理を依頼し、女性鍼灸師はM氏の土地にはみ出さない様、崩れかけた石垣を後退させて工事をする、と常識ある意向を示したらしいが、M氏は、「ウチの土地にはみ出してもエエよ、ウチの石垣も下の土地にはみ出してルから」、と譲り合い、助け合いの精神で対応したらしい。
貿易会社の経営者と違って、女性鍼灸師はマトモだったようだ。
昨年末、取りあえずM氏に譲る方向性は決めたが、年明けから信州雪山通いが続き、3月下旬、M氏はシビレを切らしたのか、「そろそろ具体的にハナシ、せえへん?」と、TELしてきた。
「チョット高うてもエエでェ」と、M氏は言っていたが、実際ワタクシがどういう金額を提示するのか、心配だったようだ。
ネットでの不動産を査定します、とのメールに何度か依頼していたが、「葺合区葺合町での実績ありません」 と、どこからも査定額は回答されなかった。それはアタリマエの結果だった。布引谷など、フツーの不動産屋は扱わない。
結局、固定資産税評価額÷0.7とした。
そう言うコトがネットに載っていたからだ。更に÷0.9と言う説もあるらしいが、欲ドシイ事はヤメた。
建物は30年以上経っていて評価額はナント20万程、そのままの額で差し上げることにした。梅雨時期はカビまみれになるし。
M氏は、「わかった、ここもそんなモンやった」、と安堵した様だった。
上隣りの土地は、貿易会社の経営者から隣の茶店に買い戻されていて、それをM氏が購入た。
しかし後で調べたら、「エライ高う買うてしもた」コトを知って、M氏は憤慨していた。
「しかしお宅のンは、チャンと住める家も付いとうし、道に面しとうし、わかった、前金ナンボか払ろとこか」、とM氏は言ったが、「別に金に困ってル訳やないからエエよ」、と返事した。
M氏は知り合いと、布引谷のこの家を観光的に利用する構想もあって、その知り合いが内覧しに来た事もあったが、市街化調整区域だから、新たな起業は難しいだろう、とコメントした。
とは言え、M氏の勢いは劣らなかった。
ここであるコトがチョット気になり出した。
と言うのは、3年前の秋、M氏は隣の茶店のヨメハンとひとモメして、その後、「チェッ、こんなトコ、買うンやなかった!」、と怒っていたからだ。
M氏はその頃、隣の茶店から買い取った土地を、綺麗に整備して、ほぼ彼の“ファーム”は完成していた。
ある日、山の家に着くと、M氏の小屋からカラオケが聞こえてきた。曲はド演歌で、商店街や住宅街にあるカラオケ喫茶の前を通りかかった雰囲気だった。
午前中は“ファーム”で野良仕事をし、その後ひとっ風呂浴びて、呑みながらカラオケを楽しんでいるM氏を、ワタクシは微笑ましく思った。後で知ったことだが、M氏はカラオケの全国大会で準優勝したこともあるそうだ。
M氏はその日、数曲歌った後、上機嫌でワタクシに“ファーム”を案内した。
しかし、数日後、M氏は憤懣やるかたない様子でTELして来た。
自分の“ファーム”から、柵の外に延び出たゴーヤについて、「茶店のオバハン、モンク言いよんねン、柵の外はウチの土地やから、ゴーヤ延ばさんといてて、エライ剣幕で、あそこ茶店の土地かぁ?」と、訊いて来た。
ワタクシは、「柵の外は神戸市の保安林、ゴーヤ延びても誰もモンク言わん、大体、あのオバハン、ワケの判らんコト、言いよんねン」と、教えて差し上げた。
柵の外からは、土砂がM氏の畑の方に押し寄せて来ているので、それを改善せよ、と言い返すと、それは神戸市に言え、と理屈にならないコトをヒステリックに返してきて、最後はドッグファイトになったらしい。
「あの時、こんなトコ、買うンやなかった、て言うてたけど、それはもうエエのン?」と、ワタクシは念のため、訊いてみた。
「エエねん、ワシ、あんなンに負けへン」、そう言えばM氏には仲間も、店のオニイチャンもいる。
4月から家を片付け出すと、M氏はしばしば様子を覗きに来て、捨てるンやったら貰うでェと、2槽式洗濯機や、2階にあったタンスを自分の小屋へ運んていった。
そのタンスは、ワタクシが生まれる前からあった、ペラペラの板で作られた安モノで、鍵が壊れていた。
ワタクシは思わず、「ホンマ、こんなンでエエのン?」と、訊いた。
M氏は、「エエねんエエねん、ワシ、こう言う昭和の雰囲気、好きやねン」と、満足気だった。
当初は、ゆっくり一年くらい掛けて、と言うペースで片付けるつもりだったが、会うたびに、M氏の早く欲しいと、言う気持ちが伝わってきて、遂に6月、「ホンマ、あと置いといてもうたらエエで、使うし、この“水屋”も昭和のニオイしてエエやン」、様子を見に来たM氏はそう言った。
食器棚を“水屋”と聞くのは久しぶりだった。その水屋も、ここ布引谷へ住み出して直ぐのモノ、60年近く前のモノ。
「ワシやぁ、奄美のビンボー人の子ォや、人からもうたモン使うンは平気、皿や食器も店で使てもエエし」、とM氏は言っていた。
聞く所によると、M氏は中学校を卒業して直ぐ、造船所の工員として川重・神戸に就職したそうだ。ワタクシの4歳下だから、ワタクシが川重の協力会社である舶用艤装品メーカーに就職する4年前になる。
その後川重を辞め、飲食店を始め、支店も出し、ビルも建て、お年寄りの集まりに呼ばれては演歌を歌い、奄美のビンボー人の子ォは神戸で成功者になっていた。
そして、オフクロの箏やミシン、オヤジの碁盤なども、骨董品として飾っとく、とまでM氏は言いだし、ワタクシは6月中にケリつける、と彼に約束した。
6月末日、ワタクシは片付けた室内をM氏にチェックしてもらい、彼に鍵を渡し、「後は知らンでェ」、と言った。
彼は「わかった」と応え、ゴムバンドで束ねた札束をポーチから出し、ワタクシに渡した。
ワタクシはそれを数えザックに入れ、彼が準備していた領収書にサインし、クツのヒモを締めてから、「ホンなら、後は頼んだでェ」と、M氏に手を差し出した。
彼はワタクシの手ェを握り、深く頭を下げた。これで終わった。
翌7月1日、以前オヤジからワタクシへの所有権移転手続きをして貰った司法書士に、全ての書類を渡し、今回の手続きを依頼した。不動産屋が仲介しないので、売買契約書はこの司法書士が作成した。
M氏が「置いといてもうたらエエ」と言うことで、業者に頼まざるを得ない大物の撤去が不要になったので、本来は買主が負担する司法書士への手数料は、ワタクシが払うことにした。
そして翌週、信州・安曇野で土地探しを始めた。
2回目で、穂高有明の林の中にイイな、と言う原野があった。神戸・布引谷の4倍以上の広さで、坪単価は1/3以下だった。
8月の初め、そこに決めた。売主は関東のご夫婦だった。
しかし、売買時には周囲の地主立ち会いで測量をし直す、と言うことになっていて、しかし北隣の地主とは連絡が取れず、中々測量は出来なかった。
安曇野の不動産屋は司法書士に相談して、何とか北隣の地主と連絡を取り、10月初、やっと測量図が出来上がり、ワタクシは全ての振り込みを済ませて、翌週、所有権移転の手続きをしに行った。
極力高速を使わず安曇野まで行き来する時は、塩尻のGSで給油、洗車する。
その日はそのGSから、ナント、前穂北尾根が見えた。
10月の穂高・有明の林は、かなり黄葉が進んでいた。
司法書士に、全ての振り込みのエビデンスを示すと、司法書士は、「では、手続きして来ます」、と言って、法務局へ向かった。
そしてワタクシはここの“地主”になった。
来年はここに山小屋風の安普請を建て、信州・安曇野の“住人”になりたい。