蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

6月末に布引谷・山の家を売却し、信州・安曇野の地主になった10月

2015-10-31 19:17:00 | 神戸布引谷での出来事

4月第1週で今年の信州・雪山通いをオシマイにして、布引谷・山の家の処分に向けて延べ40日、分別したモノを垂水までミニバイクで運び、チョコチョコ廃棄していって遂に6月29日、残ったモノは業者に持って行ってもらうしかない冷蔵庫、食器棚、タンスなどになり、自分で出来る分別廃棄は終わったコトにした。
そして翌30日、M氏に鍵を渡し、売却した。M氏はナント、残ったモノを「置いといて、使えるモノは使うから」と、言った。

M氏は5年程前、上隣りで家庭菜園を始めその後すぐそこを買い取った。この辺りは全て保安林だが、我が家と階段状になった上隣りと更にその上の3つは、ナゼか宅地になっている。
しかし家が建っているのは我が家と一番上だけ、M氏が地主となった真ん中の土地は、昔から畑だった。

ワタクシが布引谷の住人になる前から、隣の茶店の先代サンは、周囲の斜面を段々畑に開拓していた。ワタクシはそこで走り回って遊び、この好々爺から自然の色々を教えられた。
その畑にはコエダメがあり、小学生になりたての頃、2回落ちた。
当時、茶店は今と違って毎朝大賑わい、お手伝いのオバサンもいて、「1回落ちたら場所くらい覚えとき、コエダメに2回も落ちたて、そんな人初めてやワァ」、と笑われた。

その畑にはその後も家は建たず、昭和42年の大水害の後、この辺り一帯は市街化調整区域になったため、それ以降、家は建てられなくなった。

しかし、我が家の1/3位の大きさの小屋は建っている。これはこの土地の元所有者が建てたモノで、当然M氏は何も知らないが、炊事、寝泊まりは出来るようになっている。
市街化調整区域になった後に建てられたので、違法建築物になる。
「ちっちゃい小屋やプレハブとかでもアカンの?」と、神戸市建設局の職員に訊いたことがあった。
「ダメです、農機具を仕舞っておく程度の小屋ならイイですが、工事現場にある様なプレハブ小屋でもダメです」、職員はハッキリそう答えた。
しかし、そう言う建築物は布引谷に建っている。

昭和42年7月、梅雨末期の集中豪雨で、世継山頂上付近に造成されたゴルフ場が崩れ、山津波となって集落を襲い、21人が亡くなった。我が山の家はそこから約500m離れており、幸い上方にゴルフ場は造成されておらず、被害は受けなかった。
しかし、周りの谷が崩れ、濁流で布引谷が溢れ、自然は暴威、荒れ狂うコトがある、と知った。

その後市街化調整区域になったと聞いて、ワタクシはアタリマエだと思った。そもそもここは、人が住んではいけない場所かも、と思った。
そして次々と村人は街へ下りて行って、M氏が家庭菜園を始めた頃は常住者は7人程になっていた。

とは言え、常住でなくてもチョット行って寝泊まりしたい人はいる。

我が家の上隣りの畑に、ちょっと行って寝泊まりできる小屋を建てたのは、熊内に事務所兼自宅を持つ貿易会社の経営者だった。
その会社のモノらしき看板を、雲中小学校の辺りを歩いていて見たコトがある。「パナマ某」と書いてあって、少し前に習った、太平洋と大西洋を繋ぐ運河の名前が、ナゼ看板になっているのだろうと思った。
当然、その男は布引谷・市ケ原での大水害のこと、その後市街化調整区域になって、新築が出来ないことは知っていたハズだ。

しかし、建築確認さえしなければ、神戸市にはバレない。建築が始まって誰かにチクられても指導を受けるだけ、違法建築と言っても結局は無法状態と言える。
ただ、建築確認すればバレて新築は出来ないので、市街化される事はなく、本来の目論見は、外れていないことになる。

いずれにせよ、貿易会社の経営者が建てた違法建築の小屋で、M氏も幾夜か寝泊まりしたと思う。
ただ、それに飽き足らず、常住出来るキッチリとした家も探していたと言うウワサを聞いた事もあった。

何年か前からナゼかネットで、不動産の査定します、とのメールがしょっちゅう来ていて、それなら市街化調整区域のこの布引谷の家と土地、査定して見ィ、と幾度か返信していたら、4年前の12月、現地を見たい、と言う依頼者が現れて、案内したことがあった。
そのことを誰かから聞いたM氏は直ぐ、「知り合いに市ケ原で家、欲しい、言うとんノがおんねン、売るンやったらナンボくらいなん?」とTELしてきた。
「イヤちゃうねン」、ワタクシは経緯を説明し、「売る気ィないヨ」、と応えた。
実際、案内した依頼者には、隣の茶店が境界のことで訳の判らンコトを言っている、とのネガティブな状況も、話しておいた。当然、そのハナシは進展しなかった。
そもそも昭和42年に自然の暴威を目の当たりにして、人が住んではいけないかも、と思った所を他人に勧めてはいけない。

’10年3月にオフクロの3回忌を済ませた後、オフクロが遺して逝った衣服を古着寄付や資源回収に出し、贈答品で未使用の寝具等を老人ホームに引き取ってもらい、毛糸もそこの手芸サークルに引き取ってもらい、その他もかなり片付けて、ワタクシは山の家を改装し、布引谷に常住するつもりだった。
しかし、イザ改装と言う時点で、通学、通勤していた頃とは何かが違う、と気になりだした。
木々が茂りすぎて景色が鬱陶しい、貯水池の色も濃い緑から白っぽくなっている。30年前とは自然が違う。
そして、雨の翌日、フロに張った水が緑がかっていた。 布引谷の神戸ウォーターに藻が発生している。

櫻茶屋のレイコさんは、「ワタシら、もう気にならンけど、そんなンやったら、ワザワザ、お金使うてここに住まんでもエエやん、下に住むトコ、あんねやし、もうローンも済んでンねやろ」、と言われた。確かにそうかも知れない、昔、遊んだ仲間はもう一人もいなかった。
逆に、春から秋はバーベキュウ族の大軍が襲来し、家の前まで路駐の車で溢れ、これも鬱陶しい。

そしてその翌年、’11年からはもう寝泊まりしなくなり、雑草を抜いたり、庭木の剪定したりで戻る頻度が、週一から月一になり、更に年数回になってしまった。

昨年末、M氏から久しぶりにTELがあった。
「最近全然見ィヘンけど、あの家どうすんの?あのまま空き家にしとくンやったら、譲ってほしいちゅう知り合いおんねンけど、ヘンなヤツちゃうでぇ、ちゃんとしたヤツちゃ、そやけど知らんノに譲るンイヤやったら、ワシがまず買うてもエエし」と、かなり熱心、真剣に言ってきた。

確かに信州へ移住してしまうと、チョット様子を見に行く、と言う訳にはいかない。ももうエエか、と言う気になった。
そして、譲るのならM氏がイイと思った。

 と言うのは、M氏の土地の石垣はウチの方に数10センチはみ出ていて、今はワタクシが石垣の上、勝手に歩いてもエエと言うことで、治まっているが、持ち主が代わろうとすると、それがキッカケでモメるかも知れない。
しかし、2つの土地の地主が同じになってしまうと、モメる心配はない。 

そう言うことをM氏に話し、譲ってもイイが、まだ片付けモノが残っているので、それをゆっくりしたい、せめて1年程かけてやりたい旨、申し入れた。 

上隣りの土地の石垣を、我が山の土地にはみ出させたのは、そこに違法建築の小屋を建てた貿易会社の経営者のシワザだった。
’95年の震災で、その石垣の一部が崩れ、貿易会社の経営者はオフクロに修理を約束した。
そして四国辺りから復興需要で出稼ぎに来ていた業者に工事を任せた。その業者はまともな土木業ではなかったと思う。

境界からはみ出してもイイ、と貿易会社の経営者が指示したのか、まともな土木業ではない業者が勝手に判断したのか、石垣工事はオフクロの了解をとらず始まった。業者は道路の使用許可も取らず始めたらしい。

ワタクシがそれを知ったのはその数日後、「ウラで、ウチの方にはみ出して石垣工事、やってんねン、もう見てるとイヤになって」と、オフクロはここへ逃げて来た。
そしてワタクシがオフクロを連れて戻った時は、もう後の祭り。

本来なら、工事が始まって即、オフクロが「ヤメて」と業者に言って、ワタクシに連絡でもすれば、取りあえず話し合う機会はできたと思う。
しかしいつも、何かに遠慮して、主張するよりは我慢してしまうオフクロは、オトナシク現状逃避してしまった。

とは言え、紳士的に境界を守り、石垣修理をしようとすると、工事部分を後退させないいけない。それは大変で、結局は「ウチの方へはみ出してもイイよ」で、話し合いは終わる。
山では譲り合い、助け合いが肝心、ウチのオヤジも隣の茶店の先代サンもそんな考えだった。

ワタクシは取りあえず、貿易会社の経営者と話をしようとした。しかし、釣りへ行っていないとか、中々つかまらなかった。

やっとつかまえても、謝罪は一切なく、輸入していた帽子が最近は殆んど売れず、商売はサッパリだめ、今回の震災で自宅兼事務所も多大の被害を受け、もうお金の余裕なく、エライことになってしもて、とムスコほど年下のワタクシに、ひたすら泣きごとを言うばかり。
釣りに行く余裕はあるやんケ、と言いそうになったが、ナンカ哀れになってきた。

そう言えば、雲中小学校の通りを隔てた並びに実家があった知人が、ウラの会社が平気で境界を越えて、色々イヤガラセをしてくる、と言っていた。彼女の実家のウラ、と言うコトは、雲中小学校の辺りから見えたあの「パナマ某」の看板の位置になる。
要するにこのオヤジ、街でも山でも、越境と言ったお行儀の悪いコトをやっていた訳だ。

 結局、石垣工事は途中で止めたが、かなり鬱陶しくなった。

家の外壁にコケが生えている。壁の内側の部屋は、毎年梅雨時期、カビに白く覆われる。石垣がはみ出て建屋に迫ったコトが、外のコケと内のカビの発生の原因かどうかは、判らない。

いずれにせよ、そう言った今までの経緯、状況、問題点、全てM氏に譲ることになる。M氏はそれでも、「ここはエエトコや」と言っていた。

ところで、M氏の土地の上の石垣も崩れ出し、2年前、どうしたらいいのか相談して来た。
石垣修理は上の地主が行うモノで、下の土地にはみ出さないよう、工事を行うのが常識、と教えて差し上げた。

M氏の上の土地は、ワタクシが中学生になりかけた頃、3人家族が住み出した。
父親は学生時代は山岳部だったのか、とにかく山好きで、住み始めて直ぐ、立山登山の様子を記録した8ミリ映写会を、隣の茶店でやったりしていた。
しかし山好きはオヤジだけ、一人ムスコは就職すると布引谷を出て行って、そのオヤジが亡くなった後10年近く空き家だった。
そこを確か5~6前、鍼灸師の女性が買い取った。

M氏は女性鍼灸師に石垣修理を依頼し、女性鍼灸師はM氏の土地にはみ出さない様、崩れかけた石垣を後退させて工事をする、と常識ある意向を示したらしいが、M氏は、「ウチの土地にはみ出してもエエよ、ウチの石垣も下の土地にはみ出してルから」、と譲り合い、助け合いの精神で対応したらしい。
貿易会社の経営者と違って、女性鍼灸師はマトモだったようだ。

昨年末、取りあえずM氏に譲る方向性は決めたが、年明けから信州雪山通いが続き、3月下旬、M氏はシビレを切らしたのか、「そろそろ具体的にハナシ、せえへん?」と、TELしてきた。
「チョット高うてもエエでェ」と、M氏は言っていたが、実際ワタクシがどういう金額を提示するのか、心配だったようだ。

ネットでの不動産を査定します、とのメールに何度か依頼していたが、「葺合区葺合町での実績ありません」 と、どこからも査定額は回答されなかった。それはアタリマエの結果だった。布引谷など、フツーの不動産屋は扱わない。
結局、固定資産税評価額÷0.7とした。
そう言うコトがネットに載っていたからだ。更に÷0.9と言う説もあるらしいが、欲ドシイ事はヤメた。
建物は30年以上経っていて評価額はナント20万程、そのままの額で差し上げることにした。梅雨時期はカビまみれになるし。

M氏は、「わかった、ここもそんなモンやった」、と安堵した様だった。
上隣りの土地は、貿易会社の経営者から隣の茶店に買い戻されていて、それをM氏が購入た。
しかし後で調べたら、「エライ高う買うてしもた」コトを知って、M氏は憤慨していた。
「しかしお宅のンは、チャンと住める家も付いとうし、道に面しとうし、わかった、前金ナンボか払ろとこか」、とM氏は言ったが、「別に金に困ってル訳やないからエエよ」、と返事した。

M氏は知り合いと、布引谷のこの家を観光的に利用する構想もあって、その知り合いが内覧しに来た事もあったが、市街化調整区域だから、新たな起業は難しいだろう、とコメントした。
とは言え、M氏の勢いは劣らなかった。

ここであるコトがチョット気になり出した。
と言うのは、3年前の秋、M氏は隣の茶店のヨメハンとひとモメして、その後、「チェッ、こんなトコ、買うンやなかった!」、と怒っていたからだ。

M氏はその頃、隣の茶店から買い取った土地を、綺麗に整備して、ほぼ彼の“ファーム”は完成していた。

ある日、山の家に着くと、M氏の小屋からカラオケが聞こえてきた。曲はド演歌で、商店街や住宅街にあるカラオケ喫茶の前を通りかかった雰囲気だった。
午前中は“ファーム”で野良仕事をし、その後ひとっ風呂浴びて、呑みながらカラオケを楽しんでいるM氏を、ワタクシは微笑ましく思った。後で知ったことだが、M氏はカラオケの全国大会で準優勝したこともあるそうだ。
M氏はその日、数曲歌った後、上機嫌でワタクシに“ファーム”を案内した。

しかし、数日後、M氏は憤懣やるかたない様子でTELして来た。
自分の“ファーム”から、柵の外に延び出たゴーヤについて、「茶店のオバハン、モンク言いよんねン、柵の外はウチの土地やから、ゴーヤ延ばさんといてて、エライ剣幕で、あそこ茶店の土地かぁ?」と、訊いて来た。
ワタクシは、「柵の外は神戸市の保安林、ゴーヤ延びても誰もモンク言わん、大体、あのオバハン、ワケの判らんコト、言いよんねン」と、教えて差し上げた。
柵の外からは、土砂がM氏の畑の方に押し寄せて来ているので、それを改善せよ、と言い返すと、それは神戸市に言え、と理屈にならないコトをヒステリックに返してきて、最後はドッグファイトになったらしい。

「あの時、こんなトコ、買うンやなかった、て言うてたけど、それはもうエエのン?」と、ワタクシは念のため、訊いてみた。
「エエねん、ワシ、あんなンに負けへン」、そう言えばM氏には仲間も、店のオニイチャンもいる。

4月から家を片付け出すと、M氏はしばしば様子を覗きに来て、捨てるンやったら貰うでェと、2槽式洗濯機や、2階にあったタンスを自分の小屋へ運んていった。
そのタンスは、ワタクシが生まれる前からあった、ペラペラの板で作られた安モノで、鍵が壊れていた。
ワタクシは思わず、「ホンマ、こんなンでエエのン?」と、訊いた。
M氏は、「エエねんエエねん、ワシ、こう言う昭和の雰囲気、好きやねン」と、満足気だった。

当初は、ゆっくり一年くらい掛けて、と言うペースで片付けるつもりだったが、会うたびに、M氏の早く欲しいと、言う気持ちが伝わってきて、遂に6月、「ホンマ、あと置いといてもうたらエエで、使うし、この“水屋”も昭和のニオイしてエエやン」、様子を見に来たM氏はそう言った。
食器棚を“水屋”と聞くのは久しぶりだった。その水屋も、ここ布引谷へ住み出して直ぐのモノ、60年近く前のモノ。
「ワシやぁ、奄美のビンボー人の子ォや、人からもうたモン使うンは平気、皿や食器も店で使てもエエし」、とM氏は言っていた。

聞く所によると、M氏は中学校を卒業して直ぐ、造船所の工員として川重・神戸に就職したそうだ。ワタクシの4歳下だから、ワタクシが川重の協力会社である舶用艤装品メーカーに就職する4年前になる。
その後川重を辞め、飲食店を始め、支店も出し、ビルも建て、お年寄りの集まりに呼ばれては演歌を歌い、奄美のビンボー人の子ォは神戸で成功者になっていた。

そして、オフクロの箏やミシン、オヤジの碁盤なども、骨董品として飾っとく、とまでM氏は言いだし、ワタクシは6月中にケリつける、と彼に約束した。

6月末日、ワタクシは片付けた室内をM氏にチェックしてもらい、彼に鍵を渡し、「後は知らンでェ」、と言った。
彼は「わかった」と応え、ゴムバンドで束ねた札束をポーチから出し、ワタクシに渡した。
ワタクシはそれを数えザックに入れ、彼が準備していた領収書にサインし、クツのヒモを締めてから、「ホンなら、後は頼んだでェ」と、M氏に手を差し出した。
彼はワタクシの手ェを握り、深く頭を下げた。これで終わった。

翌7月1日、以前オヤジからワタクシへの所有権移転手続きをして貰った司法書士に、全ての書類を渡し、今回の手続きを依頼した。不動産屋が仲介しないので、売買契約書はこの司法書士が作成した。
M氏が「置いといてもうたらエエ」と言うことで、業者に頼まざるを得ない大物の撤去が不要になったので、本来は買主が負担する司法書士への手数料は、ワタクシが払うことにした。 

  そして翌週、信州・安曇野で土地探しを始めた。

 2回目で、穂高有明の林の中にイイな、と言う原野があった。神戸・布引谷の4倍以上の広さで、坪単価は1/3以下だった。

 8月の初め、そこに決めた。売主は関東のご夫婦だった。

しかし、売買時には周囲の地主立ち会いで測量をし直す、と言うことになっていて、しかし北隣の地主とは連絡が取れず、中々測量は出来なかった。

安曇野の不動産屋は司法書士に相談して、何とか北隣の地主と連絡を取り、10月初、やっと測量図が出来上がり、ワタクシは全ての振り込みを済ませて、翌週、所有権移転の手続きをしに行った。

 極力高速を使わず安曇野まで行き来する時は、塩尻のGSで給油、洗車する。
その日はそのGSから、ナント、前穂北尾根が見えた。

 10月の穂高・有明の林は、かなり黄葉が進んでいた。

司法書士に、全ての振り込みのエビデンスを示すと、司法書士は、「では、手続きして来ます」、と言って、法務局へ向かった。 

 そしてワタクシはここの“地主”になった。

来年はここに山小屋風の安普請を建て、信州・安曇野の“住人”になりたい。 

 

 


心霊スポットかも知れない通学路の布引谷

2015-10-21 16:49:38 | 神戸布引谷での出来事

何年か前、くだらないキッカケでネットを検索していたら、アイドルグループの動画に遭遇てしまった。

それはオネエチャンがピョンピョン跳ねたり、クルクル廻ったりしながら歌っている動画なのだが、オドロいたのはそのオネエチャン、小さい水着を着ただけのほぼハダカ、しかも数十人の集団。

オネエチャンは肌の露出が多い方がイイ、出来ればスッポンポンがイイ。
そう思い続けて60年生きてきたが、その動画のように大っぴら、開けっぴろげに、しかも集団でやられると、やはり異様、異常。誰もいない部屋の、もう一人の誰かに、思わず「こなんン、エエのン?」と、訊いてしまった。

他にも下着姿のオネエチャン集団がゴロゴロしているのもあって、それらはそのアイドルグループのプロモーションビデオと言うヤツだそうで、それが今の売り方だ、と言われると、まぁどうでもイイのだが、それらを企画するヤツらの品のなさと言うか、育ちの悪さを感じてしまう。
そこまでして売りたいのか、また彼女達もそこまでして売られたいのか。

また、CDを買えば好きなアイドルと握手できるシステムもあるそうで、これは昔あった“おさわりバー”を連想してしまう。そう言えば踊り子に触らせるストリップもあった。

ただ、チョット違うノは、アイドルに何度も触りたいため、同じCDを何枚も買っては捨てるおバカがいるそうで、若い頃アルバイトで稼いでは、ジャズなどのLPをチョットずつ集めていたワタクシには、その感覚が理解出来ない。買わせる方も買う方も、しまいにバチ当たる、と思う。

他に漫才師やコメディアンが司会して、オネエチャン達がオシャベリをしたり、ゲーム、コントなどをしている動画もあって、それらはテレビ番組の一部らしい。
いずれにせよ、どんなコトをしていたって、オネエチャンは見ていて悪い気はしない。

いずれのオネエチャンも皆さん、お人形サンや少女マンガの主人公のようにお目眼パッチリ、同じ衣装に髪飾り、最初は全て同じ人物だと勘違いするほど。
その容姿端麗な彼女達は、「老・病・死」の“苦”とは縁遠く、当然「生」の“苦”とも無縁。なにしろ数千、数万の中から選ばれたウイナーだそうだ。
そして彼女達の近くには水素爆発した原発もなく、海兵隊が駐留している米軍基地もなく、“御上”に逆らいさえしなければネトウヨから攻撃される事もなく、平和で楽しい。

その年も信州雪山通いが終わったら、ナゼか何もする気がなくなって、暫しそんなアイドルグループの動画を見て、ダラダラと過ごしてしまった。そして、ワタクシも平和で楽しいオネエチャンの仲間であるような錯覚に陥った。

しかし、ホントに平和で楽しいのはワタクシの方だったかも知れない。
ワタクシには扶養義務はなく、決められた時間に決められた場所へ行く必要はなく、イヤなヤツに遭わなければいけない環境ではない。

かたや彼女達は、いずれ扶養家族ができ、決められた場所と時間は守らないといけないし、会いたくないヤツも多々いるのかも知れない。
動画に映るアイドルの平和で楽しい世界は、タダの見せかけなのかも知れない。

イヤ、ホントの意味で今の平和は見せかけであり、ワタクシの父母世代が経験した戦時状態が、彼女達の世代に訪れる危険性は大きいと思う。
今後このクニは、集団的自衛権を行使して、国際紛争の解決に武力をもって参加する訳であり、いずれアメリカの敵国で誰かをコロすことになると、当然逆襲があり、 父母世代が経験した空襲はないにしても、自爆テロはあるかも知れず、人口過密で世界で一番キケンとか言われる首都圏の繁華街でやられたりすると、正に地獄、戦時状態。

今も昔も、戦争をしたいと言う勢力がいる。それは軍人と軍需産業だ。
軍需産業は巨大な“死の商人”、今や軍産複合体と言う大きな勢力になっているそうだ。
9条を守るとことは、そう言った勢力との永遠の闘争なのであり、決して平和ボケではない、と思う。
しかしそう言う闘争には、最近全くと言っていいほど、若い世代に人気がない。憲法集会に行ってもジジババばかり。アイドルのイベントにはン万人と集まるそうだが。
そして、選挙制度に問題があるにしても、集団的自衛権行使容認後の選挙でも、ジミン党を圧勝させてしまったのだから、今やもうどうでもよくなってきた。
何年か後に、戦時状態になってエライ想いをするのは、今の若い世代。その内アイドルのファンのビンボーなのは、経済徴兵で戦死するかもしれない。
でももう、どうでもイイ。

ところで、今は戦時状態とは全く無関係の、アイドルの平和で楽しい世界を眺めていたら、チョット不思議な動画に遭遇した。

それはどこかの遊園地にあるオバケ屋敷に、彼女達が入ると言うモノだった。

彼女達はオバケ屋敷で一人、キャーキャー叫びながら、その中を走り抜けて行くのだが、その姿を撮るカメラマンと録音担当者はそばにいて、当然一人では無いハズ、怖がっている様子は演技だと直ぐ判る。
しかし、どうやら暗くユウレイが出そうな所へ行くのが、オネエチャン達のハヤリにもなっているらしい。心霊スポットとか言うそうだ。

まぁ昔から、夜のお墓、病院、学校にはユウレイが出ると言って、面白く騒ぐモノであり、沢山の遭難死亡者がいた山での、不思議体験もよく聞く話。

しかし人は、死んでやっと煩悩から解放されるのだから、煩悩だらけのこの世を恨んで、死者が戻ってくるなどあり得ない、とワタクシは思う。
実際、幼稚園から20年以上歩いて通った布引谷の通学・通勤路には、死者、自殺者が何人もいたが、夜、歩いていて、ユウレイを見たコトは一度もない。
とは言え、中2の頃から、夜ひとりで帰るようになったて、高校を卒業するまでは正直怖かった。

ワタクシ、5歳の時、布引谷に住み始めて、翌年からは熊内にある幼稚園へ通い、その後少し遠い小学校、更に少し遠い中学校、高校と通学したわけだが、熊内からのルートは13年間同じ。 

 熊内からの坂道がう川を跨ぎ、Uターン気味登っていくと、当時は裁縫専門の女子高があり、その校内を通る道を抜けるまでは、まだ人の気配はあった。

 女子高は何年か前に共学になり、男性教師が増えたせいか、路駐の車が目立つようになった。ここからは、徳光院のウラの暗い道を通り、新神戸側からの道に合流し、展望台へ出る。

 幼稚園に通い始めた年、早速死者が出た。その殉職の碑が、展望台から車道へ通じる階段の横にある。
当時、展望台まで繋がっていた車道の延伸工事で、ブルドーザーが横転して、運チャンが亡くなったのだ。

 展望台からハイキングコースを進み、雄滝の落ち口を過ぎると、城山から伸びる尾根によって、街の灯り、百万ドルの夜景は遮られ、峡谷の底を歩くような感じになる。

そこでタケシくんのオヤジが、夜、歩いていたら、頭にコツンと当たるモノがあり、持っていた懐中電灯を向けると、首つり死体があった、と言うハナシを聞いた記憶がある。
確かに、首を吊るのに最適な枝ぶりの木が、周りには何本もある。しかし、それはタケシくんのオヤジが我々を怖がらそうとした、ウソ話だったと思う。

その先で橋を渡り、急坂を登り、布引ダムが見える辺りから谷は大きく開け河原状になるのだが、ある冬の朝、対岸の河原の水平に延びた太い枝に、人がぶら下がっていた。
道は水流の10m程上を通っていて、対岸なので30m程先を見降ろす感じになるのだが、厚手のオーバーコートを着た男の後ろ姿は、今でも覚えている。
我々は数人で通学していた。前を歩いていたのは小学生の兄妹だった。数人の水道局の職員が、恐る恐る首つり死体に近付いて行く様子を眺めながら、誰も口を利かずそこを通過した。 

 布引ダムに上がると、道は湖面に沿って続く。夜、外灯はポツリポツリ点いているが、足元が見えない箇所が多く、雨の日は時々ガマガエルを踏んでしまった。水を含んだスポンジを踏んだような感覚だった。
西対岸の山稜近くには、再度山ドライブウェイが通っており、夜は時折、暴走する車の轟音が届いていた。

 小学2年の時、遠足でやって来て、貯水池のオーバーフローを跨ぐ橋を初めて見た女性教師は、教え子のワタクシが、毎日この橋を渡っている現実を知ってショックだった様子。

 と言うのは、当時の手すりは上の部分が無く、しかもこの連結の部分も無かったからだ。

こんな不完全な手すりの危険な橋を、8歳の教え子が毎日往復している、教師になりたての若い女性にとっては、信じがたい現実のようだった。

この橋の左側は、貯水池のバイパス水路になっていて、その先はトンネルで、世継山から南西方向に派生する尾根を貫いている。

ここを昭和42年7月9日の夜、濁流と一緒に流されていった女性がいる。多分4人。
彼女達は、山津波によって布引谷へ流され、布引滝を落ちて行った。

その山津波は、世継山に造成したゴルフ場の開発で、脆弱になった斜面が豪雨で崩れたもので、ゴルフ場開発の犠牲者とも言える。犠牲者は他に17人いた。

中学生になって初めての夏休みを迎えるマリちゃんも流されていった。茶色がかった柔かい髪を、いつもオールバックポニーテールにしていた。
最近のアイドルにも劣らない、美少女だったと思う。

しかし残念ながら、マリちゃんの霊と遭遇することは、一度もなかった。

橋を渡り、湖畔の道からダム側を振り返ると、街の明かりに照らされた空が白く見えた。夜景は見えず人の気配もなかったが、まだ街の賑わいに繋がっているような気がした。 

そしてお稲荷さんを過ぎると、道は尾根の裏側へ廻り込むようになって、完全に街の賑わいは途絶える。

 お稲荷さんは、今年4月、リニューアルされていた。廣助稲荷大明神が正式名だと初めて知った。

 灯篭も新しくなっていた。

 建屋の壁も貼り直されている。

 社の銅の屋根も葺き替えられている。

 木が繁りすぎて今は見えないが、以前は湖面が見えた。

ここで昔、毎朝ラジオ体操をしていたオジサンが、湖面に浮いている若い女性と対面して、腰を抜かしたそうだ。
若い女性は松蔭の女子大生さんで、自殺しようと飛び込んだが死に切れず浮いていた、そんな話をオトナ達がしていた。

しかしワタクシは、そんな自殺未遂ネエチャンにも遭遇しなかった。

お稲荷さんから家までの数百mが一番怖かった。そう言えば、42年の山津波で流された人の、2人のお年寄りは、この貯水池の底で見つかった。
外灯は相変わらずポツリポツリ点いているが、いつもその下に誰かいる様な気がした。しかし2人のお年寄りの霊とは遭遇しなかった。

 この石垣を上がると家の灯りが見えた。横の階段は36段あって、それが通称になっていた。この下には貯水池のバイパス水路となるトンネルの入り口がある。
つまりマリちゃん達4人の女性は、この下も通過して行ったワケだ。

そして対岸の尾根の末端には、腐乱した服毒自殺体があった。
これは確か、この通学路に於けるワタクシが遭遇した、ブルドーザー事故の次の死者だった。発見者は、当時水道局の職員だったマリちゃんのオヤジだった。
辺りに漂う異様な匂いが気になり、立ち入るとそこにあったそうだ。
我が家から直線距離にして100m程の場所だった。しかしその霊が我が家の周りに現れることもなかった。

ユウレイには遭遇することはなかったとは言え、夜の通学はいつも怖かった。

一番怖かったのは、中2の時だった。

その朝、ワタクシは出遅れたのか、前後を歩く小中学生はおらず、独りだった。
展望台を過ぎ、女子高へ続く徳光院のウラの暗い道へ急ぐ。

その数年前の帰り、その辺りでシマリスに遭遇した。ヤツは柿の木を登っていく。小学生のワタクシは荷物を道端に置き、ヤツの後を追う。追いつめられたヤツは、サッと隣の木に飛び移りそのまま茂みの中に消え去った。ちっちゃくても野生はスゴイ、初めてそう思い知った。

しかしその朝、ワタクシが遭遇したのは、シマリスではなかった。

展望台の石垣の下の斜面、今は木が茂り過ぎ地面に光が当たらないため、スカスカだが、その頃は雑草が生え放題で、展望台から投げ捨てられたゴミが点在していた。そこに靴があった。
最初は展望台から、誰かが投げ捨てたゴミだと思った。しかし近付いてよく見ると、その靴にはズボンが繋がっていた。
誰かが死んでいる、直ぐそう思った。早くオトナに知らせないといけない。

ワタクシは下って来た道を戻り、布引側へ続く道に出ると、丁度母娘と思われる女性二人が登って来て、状況を話して学校へ急いだ。

何時限かに刑事2人がやって来て校長室に呼ばれた。刑事の上着の下から手錠が見え、「オマエ、逮捕されるンかと思たでぇ」と、担当教師から茶化された。

ワタクシが第一発見者となった死体の頸には、ゴム紐が巻き付いていたので、殺人事件としても捜査していたらしい。
他に見たモノはないか、気になるコトはないか、など色々と訊かれた。

そして、その日は“ベツベン”の日だった。
ベツベンとは学校の授業とは“別”の“勉”強、つまり今で言う塾だ。
始まるまで友達の家で過ごさせてもらい、夕方その友達と“ベツベン”へ行っていた。
その日は終わると日が暮れてかいた。しかし帰らないといけない。

既に暗くなっていた、女子高の構内を通る道を抜け、徳光院のウラの道に差し掛かった。
その先には死体を発見した現場があり、ヒモが張られ、赤い電灯がいくつかぶら下がっていた。

怖かった。特に赤い電灯が怖かった。そのまま車道を帰ることも出来る。
しかしナゼかヒモをくぐって、死体があった方向へ歩きはじめていた。
中学生はキモ試しもしたいのだ。友達に自慢もしたいし。

とは言え、やはり怖かった。結局、数十m進んで、スゴスゴと引き返した。

車道に戻る直前、車が登って行くのが見えた。それはオヤジのトラックだった。オヤジは勤め先のトラックを通勤に使っていた。

要するにワタクシ、ヘンな気など起こさずに、車道を素直に辿っておればオヤジに拾われて、楽に、コワい思いもせず帰れたのだ。
ホントにバカだった。

通学路であるハイキングコースの上部を通っている車道は、かなり上まで街の灯りが届いて、怖さはマシになるのだが、遠回りになる箇所や、最大100m近く高い箇所を通ることもあって、やはりシンドイ。少々怖くてもハイキングコースを通っていた。
しかしその後暫くは、ひたすら車道を歩くことにした。キモ試しも、自慢も、その後暫くはする気が起こらなかった。

事件の結末は、自殺。
頸に巻き付いたゴム紐には本人の指紋しかなく、雄滝の滝ツボからは空のカバンが見つかって、要は死んだ男、保険の外交員で金を使い込んでしまい、死のうとして展望台でゴム紐を頸に巻き付けたものの死に切れず、展望台から落ちた、と言う結論だった、と記憶している。警察は人形を落す実験もしていた。

その後何度も夜、帰りに展望台で休憩したが、その保険外交員の霊を見ることはなかった。夜景をバックに、スーツ姿の男がスーッと立っていても、不思議ではないロケーションなのだが。

そして、このハイキングコースが通学路から通勤路に代わると、もう夜も怖くなくなった。

それは社会人になって、夜ハイキングコースを帰る時は、いつも酔っ払っていたからだ。
例え、白い着物を着た髪の長いオネエチャンが、フッと現れても、多分数時間前、酔って騒いでいた呑み屋のオネエチャンと混同して、抱きつきに行っただろう。
「そら、オバケも逃げるわぁ」、オシロイと口紅で“重武装”した、行きつけのスナックのママからはそう言われた。
しかし白い頬と真っ赤な唇のママが、もし夜の布引谷にイキナリ現れたら、ワタクシは腰を抜かしたと思う。

いずれにせよ、ユウレイはいないし、心霊スポットなどないと思うのだが、それを信じるオネエチャン達は、一度布引谷へ行ってみたらと思う。
車でハープ園の先まで行って、急な細い道を下れば、貯水池オーバーフローを跨ぐ橋の袂に着く。
それから湖畔の道を辿り、お稲荷さんを通過して更に進むと、車道への連絡路があるのでそこから車へ帰る。
三ノ宮から1時間ほどの行程だ。懐中電灯はあった方がイイと思う。

心霊スポットへ行くのが好きなオネエチャンは、是非どうぞ。