蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

叔母との終わりのひと時を思い出しながら、厚紙に法名を書く

2018-09-20 17:45:31 | 朽ちゆく草の想い

叔母が亡くなって1年経った。 

とは言え、超高級老人ホームに入っていた叔母は、10年近く前からワタクシを認知しなくなり、会いに行ってもズッと眼を瞑ったまま。介護の担当者が大声で呼ぶと、わずかに対応するだけになっていた。
そう言った状況を見続け、叔母はもう死んでいる、と思うようになった。よって一周忌といった感覚はあまりない。

オフクロには妹が二人いて、もう一人の妹は、ワタクシが生まれる2年前、24歳で亡くなっていた。
そして、オフクロ達三姉妹は私生児だった。
つまりワタクシの母方のジイサンは誰だか判らない。(さすらいの絵師だったようで、その作品は広島・倉橋島室尾の妙行寺にあった)
また祖母はワタクシが9歳の時、岡山のハンセン病療養所、長島愛生園で亡くなった。(亡くなる少し前、祖母は布引谷にやって来て、ワタクシは初めて母方のオバァチャンに会った)
ハンセン病とはらい菌による感染症。らい菌が棲み易い不衛生な場所に住み、健康状態の悪い人が感染する、謂わば貧困病。
しかし世間は、それまでの行いの悪かった人が罹る“天刑病”と蔑み、その患者を忌み嫌った。そして国は感染症患者としてフツーに治療せず、療養所に隔離した。
何年か前、祖母が分骨されている愛生園へ行って、そんな説明を受けた。

私生児を3人産み、還暦を前にしてハンセン病の施設で亡くなった、そう言う母親の“生きざま”、“死にざま”は醜い、無様だ、叔母はそう評価し、結婚しなくてイイ、と決心したのではないかと思う。

そして、結婚しなくても「あの子ォがいるからイイ」とオフクロに言ったそうだ。「あの子ォ」とはワタクシの事だ。

叔母は三宮で洋装店を営んでいた。お客さんは女医、学校長等、インテリでそこそこ地位のあるお金持ち。
そう言うインテリお金持ちを相手にする中で、叔母はそんな人たちの仕来り、嗜好その他全てを自分のプライオリティにした。それにより醜い母親の“生きざま”からの決別を、証明したかったのだと思う。
当然その仕来り、嗜好はワタクシにも押し付けて来て、優しいオバチャンはいつの間にか口うるさい、鬱陶しい存在になって来た。小学校高学年の頃だった。
実の母親でさえ鬱陶しくなるオトシゴロ、オフクロ以上に口うるさいもう一人の母親が、より一層鬱陶しくなるのはアタリマエ。

鬱陶しい叔母をなるべく避けながら40年程経ち、叔母は阪神大震災で全壊した家を立て直した。
そして新築のフロ場で倒れ、しばらくキゼツしていたが、自然に蘇った。お独り様なので誰にも気付かれることもなく、その“事故”は収まった。
その後も叔母は、何事もなかったように振舞っていたが、それまで完璧にこなしていた、炊事、洗濯、掃除をしなくなった。そして度々“迷子”になった。
「オバチャン、アルッハイマーになった、と言うとったでぇ」、久しぶりに叔母に会って来た息子は、驚いて報告してきた。
オトウサン、何もせンでエエの?、そんな雰囲気だった。叔母は息子達にとっては、もう一人の優しいオバアチャンだった。
しかし叔母の側には昔から、自分がプライオリティとする、仕来り、嗜好その他を身に付けた人がいる。彼女は洋装店の共同経営者だった。何かをするのはまずその女性だ。
とは言えアルッハイマーは治らない、如何にして進行を遅らせるかが課題の病気、その女性も結局は何も出来ない。出来るのは、最後に何処の施設へ入れるか、を決めるだけ。何しろ叔母の蓄えを把握しているのは彼女だけなのだ。

「あんたも時々様子見に行ってくれへんか」、ある日オフクロからそう頼まれた。80歳近くなり、オフクロもそう度々、布引谷から叔母の棲む住吉へ通うのもシンドクなっていたのだ。

行くと叔母はとても嬉しそうにした。昔の様に高級な洋菓子は準備していなかったが、とても嬉しそうだった。そして帰るときは門扉から身を乗り出して、ワタクシが角を曲がるまで手を振っていた。
その時の笑顔は昔の、ワタクシが小学校低学年の頃までの、“優しいオバチャン”だった。

その後度々、叔母の家へ行き、いろんな話をした。またワタクシは叔母の昔話を聞きたかった。
洋装店はどういうキッカケで始めたのか、共同経営者とはどこで知り合ったのか、顧客はどうやって見つけたのか、売価はどうやって決めたのか等々。
とは言え、聞いても叔母は、首を傾げて微笑んでいるだけのことが多かった。アルッハイマーだから仕方がない。
しかしそれは楽しいひと時だった。そして楽しい時間は長続きしない。
その2年後、叔母は行方不明になり、警察犬が捜索しても見つからず、深夜散歩をしていた親子に声を掛けられ、警察に届けられた。

洋装店の共同経営者は、完成したばかりの超高級老人ホームに、叔母を放り込んだ。

そして1年後、叔母はワタクシを認知しなくなり、眼を瞑ったままになり、それでも胃ろうで10年近く生かされ、昨年亡くなった。

ワタクシは正直ホッとした。胃ろうで生かされていただけの叔母が、その超高級老人ホームからやっとワタクシの元へ戻って来た、そんな感じだった。後は丁寧に祀ってやるだけだ。

葬式が済んで位牌を作るべく、三ノ宮の仏壇屋に連絡した。オフクロはそこで仏壇を調達して、ワタクシはオヤジの位牌の左空白部にオフクロの法名を彫って貰った。
しかしその仏壇屋から、浄土真宗に位牌はない、紙に書くか過去帳になる、と言われた。

そう言えば以前から仏壇には、祖母ともう一人の叔母の法名が書かれた厚紙が、両親の位牌の横に立て掛けらていた。
ワタクシは長い間、ケチのオフクロが、祖母達の位牌をケチって、手書きで代用したものだと思っていた。そして叔母が亡くなったら3人の位牌を、ちゃんと作るつもりでいた。

我が配偶者は、その字ィを見て、それはオフクロの字ィではなく、叔母の字ィだと言った。「おばぁちゃんの字ィはもっと優しい」と。
オフクロはオヤジに嫁いで浄土宗になった訳で、祖母達を祀るのはの叔母。浄土真宗の叔母が書くのはアタリマエ。

仏壇屋は、紙に書いただけは貧相でイヤなら、豪華な造りの過去帳がある、と言ったが、次に死ぬのは浄土宗のワタクシか配偶者、過去帳に書くホトケサンはもういない。厚紙を選択するのが妥当だろう。

「アンタ,字ィヘタやし、グズグズして中々書けへンやろから、ワタシが今、サササッと書いたろか?」、配偶者からそう言われたが、自分で書くことにした。
門扉から身を乗り出して、手を振っていたあの叔母の笑顔が、ヘタな字ィでもアンタに書いて欲しい、と言っている様に感じたからだ。

しかし、手書きなら失敗してもナンボでも書き直せる。取り合えず書いても、気に入らなければまた、気が向いた時に書き直せばイイのだ。
オフクロの位牌の時は大変だった。仏壇屋からは何度も問い合わせがあった。この字のここは跳ねているのか、ここは突き抜けているのか等々。イヤ辞書通りでイイですよ、と応えたが、お寺のセンセによっては異常に拘る“大センセ”がいるそうだ。
位牌を作るのは大変だァ、その時はそう思った。 
それに比べ厚紙に書くのは、ナンカお気軽、お手軽。ある意味、此岸にいる我々の、彼岸に逝った人たちの覚書、とも言えるのだから、出来が気に入らなければ、書き直すことも出来て合理的だ。

安曇野に戻って画用紙と筆ペンを準備して、さぁ書こうとした。お手本は、お寺のセンセが白木に書いた“作品”だ。当然ワタクシの字ィより格段に達筆。しかし、ワタクシがヘタな字で紙に書き上げると、その“作品”は廃棄することになる。
まぁお気軽、お手軽に書けばイイのだから、急ぐこともない。

 と言う事で、今年のお盆もそれを使ってしまった。「グズグズして中々書けヘン」、結局、配偶者の言うとおりになってしまった。

 そして一周忌、取りあえずだが、やっと書いた。法名は「釋 尼 貞 洋」。

洋菓子、洋食、洋楽(クラシックだったけど)、洋画、洋の絵画、「洋」の付くものは全て叔母が持ってきた。
ドンク、ユーハイムのパン、ケーキは美味かった。不二家のレストランのドミグラスソース、タルタルソースは、こんな美味いものがあるのか、と驚いた。デリカテッセンのスモークサーモンも、ワインが飲める前から好きだった。小学校の頃はクラシック少年だった。サウンド・オブ・ミュージックは2回観た。叔母の家にはマリー・ローランサンがいつも飾ってあった。

ワタクシの「洋」のすべては叔母だった。