蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

公害の時代から半世紀近く経って、今、国際社会と相容れない、と言われるこの国の人権感覚

2014-10-30 22:53:21 | 一人ブラブラ

高校生の頃、水俣病の障害をもって生まれた子供達の存在を知って、非常にショックだったことを憶えている。

その当時ワタクシの自宅は布引谷にあり、高校まで高低差約200mを、そこそこ重いカバンを提げ、毎日2時間程かけて登降しなければならない、それはフツーの高校生とはチョット変わった境遇だった。
フツーの高校生が抱く希望や目標はなく、しかし悩みもなく、それなりに元気で、フツーに喜んで走り回るコトは出来た。

しかし水俣のそんな子供達は、最初からそう言う喜びを得られない。生まれながらこんな辛い人生があっていいのか。

チッソという化学会社はナント酷い事をするのか、それは幼稚な怒りだったが、やがて大企業と言うのはナンカ悪いモノ、国はそう言う悪いモノに味方するモノ、と思うようになった。

個々では小さく弱いニンゲンが集まると、トンデモナイ慾の強いカタマリができ、それは周りの弱い個々や小集団にとてもヒドイ事をする。
そしてヒドイ事をされた個々や小集団は、企業や国家と戦わないといけない。それが世界であり、社会であり、歴史である。それが学生の頃からのワタクシの認識だ。とは言え、まだ自ら戦ったコトありませんけど。

昔は水俣病の障害をもって生まれても、胎盤は毒を通さない、という医学界の通説があって、最初彼らは、水俣病とは認定されなかったそうだ。
つまり水銀汚染された魚を食べたお兄ちゃんは水俣病だが、食べていない弟は水俣病ではない、と言うケッタイな状況。
しかし、水俣病患者に寄り添い続けたスゴイお医者さんが、それを覆す論文を書いて、胎児性水俣病を立証したと言う事を知ったのはずいぶん後のコト。

一昨年、その原田正純さんと言うお医者さんが亡くなられたと、新聞に載っていた。そして、その超有名なお医者さんの対談集を、昨年本屋をブラブラしていて偶然見つけた。

このお医者さんはナント水俣病のみならず、三井三池の炭鉱爆発事故による一酸化炭素中毒の患者サン、カネミ油症の患者サンにも関わっておられたそうで、そんな患者さんとの対談を読むと、戦争で失った植民地のかわりに九州を踏み台にした、電気化学から石油化学へ、石炭から石油へ移行する、高度成長期の、大企業と国家の過ちについて、改めて認識を深めることとなった。

特にカネミ油症事件。
名前はよく聞くが、水俣病の様に人が死んだり、エグい障害、被害を受けた人達の印象がなく、特に関心はなかったが、オトシゴロの女性が吹き出物で悩んだり、これも胎盤を通じて毒が胎児に移り、色素が皮膚に沈着した“黒い赤ちゃん”が生まれたり、その子供達は走り廻る元気がなかったり、クリスチャンが多い五島列島に子供の患者が多かった、と言ったムゴい状況を、初めて知った。

そのカネミ油症の患者さん達のインタビューを集めたドキュメンタリー映画、「食卓の肖像」があることを知って、先日観に行った。

Imgp1134 初めての元町映画館。100席もなさそうな観客席に客はワタクシと正体不明(?)の老女一人。

60年代の終わり頃、「健康と美容にイイ」と言うふれこみの、米ぬかを原料にしたライスオイルには、実は脱臭の為の加熱工程で、ダイオキシン類を含むPCB(熱媒として使用?)が混入、その油で調理した揚げモノ等を食べた人達は、まず眼ヤニ、ニキビなどに悩まされたそうだ。寝る前に枕元に置いた濡れタオルで、朝は最初に眼ヤニを拭きとらないと洗面所に行けなかったとか。

被害者は14000人以上らしく、しかし国が患者と認定したのは1900人程。要するにほとんどが未認定患者。

最初に登場したオバサンは、田植えを教える小学生に、自分は未認定患者だと自己紹介していた。

勤めていた銀行(?)の近くの食堂がライスオイルを調理に使っていたため、激しい眼ヤニ等の症状に悩まされた女性は、メーカーのカネミ倉庫、PCBのメーカーのカネカ、厚生省との戦いの中で、未認定患者の掘り起こしの先頭に立って運動していたオバサンと知り合い、趣味のカメラでオバサンのヌード撮っていた。

オバサンのカラダには、目立つ手術痕があったが左のオッパイがなかった。

ダイオキシン類を含むPCB、つまり有機系塩素化合物を喰わされると、眼ヤニ等の症状が治まっても、癌になると言うコトらしい。

このオバサンは、ご主人を炭鉱落盤事故で亡くされており、企業、権力との戦いは長く、歴戦の闘士と言った面影。その表情には怨念、憤怒が深く刻まれていた。
しかし何年か前に亡くなられたそうだ。
そして未認定患者の掘り起こし運動は、二人目のご主人が、彼女への尊敬の念を伴って引き継がれているそうだ。

水俣病は50年代に貧しい漁民が被害を受けて、「公害が起きて差別が生まれるのではなく、差別がある所に公害が起きる」と、原田正純さんは言われているそうだが、その10年後起きたカネミ油症では、吹き出物等でイジメはあったらしいが、エゲツナイ差別等の2次被害(?)はなかったように感じられる。
水俣の漁民は、そばの海で昔から獲っていた魚をメチル水銀で汚され、ヒドイ目に遭わされた。
しかしライスオイルは、「健康と美容にイイ」と言われ、消費者が自らの意思で選んたモノを喰って、有機系塩素化合物の被害に遭った。プレゼントされた人もいるそうだ。

と、言う事は我々も、「イイ」と宣伝されたモノを選んだため、公害の被害者になる危険性があると言うことになる。

そう言えば昔、叔母も健康と美容にイイ、栄養があると言われている、色んなモノを布引谷の自宅に運んでいた。

オフクロと叔母は、ワタクシが生まれる3年前に、24才の妹を結核で亡くしている。ワタクシが8歳の時には、オバアチャンが子宮ガンで亡くなった。
その2年後、オヤジが胃潰瘍で胃を2/3切除、さらに血清肝炎になり、夏の3ヶ月を病院で過ごした。

叔母はもう親族を亡くしたくい、との思いで、健康と美容にイイ、栄養があるモノをセッセと運んでいたのだ。

叔母のその様なモノの情報源は多分、共同経営していた洋装店のお客さんだったのではないかと思う。
お客さんの多くは医者、弁護士、大学教授などの奥さま、つまりそこそこのお金持ち、そのイイモノは全てそこそこ高そうだった。
ミキプルーンと言うのも自宅にあって、瓶に入った黒い粘性体はジャムの様に思え、舐めて見たが美味しくはなかった。
オフクロは「それ、高いンよ、オトウチャンが飲むモンやから、アンタが舐めたりしたらアカン」と言っていたが、オヤジも進んで飲んでいなかった様に思う。

叔母が運んできた「イイ」と言われるモノの効果が、どれほどあったかどうかは判らない。ワタクシの頭は良くならなかったし、背が高くもならなかった。ただ相変わらず布引の山を走り回っていた。

しかしオヤジは62歳で亡くなった。肝臓がんだった。それは叔母が運んできたイイモノに、有機系塩素化合物や発癌性物質が混じっていたとは思えないし、イイモノが効果なかったとも思わない。
やはり胃潰瘍の手術の時の血清肝炎だと思う。オヤジはとにかくカラダが弱かった。

オヤジが亡くなった数年後、叔父が亡くなった。肺がんだった。オヤジと違って酒もたばこもやらず、とてもマジメで優しい人だったが、オヤジより短命だった。

60歳そこそこで亡くなった叔父とオヤジ、24才で亡くなった叔母もいる。
そしてこの短命は、やはりこの人達が幼少期、青年期を過ごした戦争の時代に、その原因の多くがあったと思う。

欧米列強からの亜細亜解放、国家存亡の危機、他にもナンヤカンヤ、良く理解出来ない理由で、大日本帝国は戦争に突入し、その為に零戦、隼、雷電、飛燕、紫電改、大和、武蔵、長門、陸奥、赤城、信濃、とにかく色々武器を作って、青少年の栄養維持にまでお金を廻さなかった。そして、叔父や叔母、オヤジは若くして亡くなった。そんな気がする。

その後、平和なクニになって、公害でムゴイを仕打ちを受ける人達の存在を背景とした、高度成長期があり、それが終わる頃ワタクシは営業として産業社会に登場した。どこのお客サンからも、「買うから、とにかく安ぅして」と言われた。

安ぅするために、メーカーはドンドン海外でモノを作り出し、手に取るモノの多くは made in chaina。

やがて、ワタクシのお客さんかいる産業界とは別のところでバブルが起き、多くのオバカは博打気味の商売でラクに売り上げを上げ、ジャパニーズはナンバーワン。
しかしそれは10年程で崩壊して、失われた10年(20年?)となり、その結果、ニホンは中国に抜かれた。安い中国にバンバン発注するから、それはアタリマエだと思う。

そしてその頃、近隣国を排斥すべし、と訴えるグループの行動が目立ち始めたらしい。このグループは80年代に出来た歴史修正主義と言われる集団だそうだ。

彼らは、あの戦争は国家防衛のためのものであって侵略ではなく、東京裁判は戦勝国が一方的に下したものであり、靖国に祀られているのは英霊で、従軍慰安婦などは存在せず、キミガヨ、ヒノマルを人の集まりには義務付け、憲法は押しつけられたモノだから改正し軍隊をもつべし、と非常に荒々しい。

そんな国際的にも通用しない考えのおバカは、昔からいるが、今やこの国の政治家の大多数がそう言う考えの集団出身だそうだ。しかも、ヘイトスピーチを繰り返すレイシストグループの絶大なる支持も受けているらしい。

ただそんなレイシストグループはキッチリ罰すべし、と国連から勧告されているそうで、他にも特定秘密保護法とか、従軍慰安婦とか、国連から是正を勧告されている問題は、他にも色々あるらしい。

それは、この国の多くの政治家の人権感覚は国連、国際社会とはかなりずれていることになる。

約半世紀前、多くの「人権」が蹂躙された公害の時代があって、今は国際社会とは相容れない「人権」感覚の政治家が大勢いるこの国。そう言う政治家を沢山選んでしまうこの国。非常に嘆かわしいと思う。


涼しき秋をオロオロ走る

2014-10-15 19:25:39 | 自転車でブラブラ

少し早めに暑い夏が過ぎ去った、そんな感じの今年は、去年より9日早い8月19日に自転車を再開、先週までに延べ18日、720km程走った。

そして’06年8月から始まった自転車道楽での走行距離は、8月末、やっと地球1/4周、1万kmを越えた。

’09年までは毎年1500km以上走っていたが、’10年春、大雪でグチャグチャの白馬乗鞍でヘンなコケ方をした後、頸を反らす姿勢、つまり自転車に乗る姿勢をとると、猛烈に頸が痛くなり、その年はほとんど走れなかった。

翌’11年の春、ホワイトアウトの栂池自然園で、強風が掘った深い溝にドスンと落ち、左肩から着地すると、そのショックでナゼか頸の痛みはなくなった。
そしてその年は2000km以上走れた。

しかし’12年からは、雪山シーズンが終わり、ゴールデンウィークが終わると毎日、ダルい、シンドい、もうエエわ、の生活パターンになってしまった。しかも、まァそれはそれでイイのだ、と思うようになってしまった。

今年もその生活パターンは変わらず、特別それを改めようとも思わなかったが、ダルく、シンドく、まだ暑い8月19日、何となく近所の公園を5週した。

とは言え、ダルい生活の中で、タイヤの空気圧をチェックして、空気を入れ直すのはシンドい。それだけで大汗をかくこともある。まだ走ってヘンのに。
その後エレベーターを遠慮して、地上まで階段を担いで下り、住宅街の起伏をいくつも越えないとロードバイクの走りは出来ない。それを想うと、もうエエわ、のパターンに陥ってしまう。

そんな状況が続く中、近所を20km程ノロノロ走り、ゲリラ豪雨が降りそうな午後は、公園を老人ランナーに混ざって15周したり。

そして、なかなかスイスイとは走れない。

後に子供を載せ、前かごにスーパーでの買い物をビッシリ積んだ電動ママチャリに、住宅街の坂道でアッサリ抜かれる。
下りは60キロも出る急坂の登り、反対車線の歩道をピンクのウェアの女性がジョギング中。直ぐに追い越せると思って、トロトロ登っていたら、逆に引き離されてしまった。
農業公園手前の長い坂、クロモリホリゾンタルフレームに跨る茶髪、ロングヘアのお嬢サンにスッと抜かれる。

大いなる余剰時間を潰す日々とは、まぁこんなモンかも知れない。

9月9日は少し遠くまで走ってみよう、と言う事で、学園都市~農業公園前~R175~三木山~御坂~防災公園~押部谷~農業公園前を通って戻る60kmのコース。

Imgp1050 防災公園の裏門から登り、14時前何とか到着。しかし暑い。頭クラクラする。靴も脱いで30分以上デレ~ッと休憩。

Imgp1060 12日も同コース、この日は少し快適だった。

この週はナント、4日で200km以上走った。

翌週は学園都市~農業公園前~R175~神出ファームガーデン往復の40km弱のコースを2回。

そして9月第3週からは30Cのタイヤが付いたシクロクロスから、23Cのタイヤのロードバイクに乗り換えた。自転車再開をいきなり23Cの細いタイヤで走るのが、実は怖かったのだ。

シクロクロスより1.5kg軽く、8気圧のタイヤのロードバイクはさすがに軽快、跳ぶように走る感覚。
R175までシクロクロスだと1時間10分以上かかったのが1時間かからない。
涼しくなったのも影響しているとは思うが、キンモクセイの香りの中、ロードバイクで走るのはサイコーに心地よかった。

Imgp1084 10月になり、先週はまたもや三木防災公園への60kmコース。

それまでのシクロクロスより約30分早く、2時間強で到着。ワタクシの脚は甦ったのか。

しかし甦ってはいなかった。

帰り押部谷へ下り、その先、タンボの中を走っていた時、右脚の太ももがツリ出した。

その先、農業公園への緩い長い坂道で左脚もツリ出した。

何とか止まらず農業公園着。野菜直売所の片隅で休憩。
使っていない陳列台にドカッと座らせてもらう。腰を下ろすには丁度イイ高さ、毎度そうやって休憩している。

近くにATMがあり、その側のJAのナントカ相談所。
その日はもうオシマイなのか、職員サンがその後片付けをしながら、チョコチョコっとこっちを見るので、陳列台に座っているのを咎められるのかと思ったら、パンフレットを持ってきて、
「今度こんなイベントやりますので、また来て下さい」
とのこと。
神戸ワイナリーの新酒まつりが月末にあるらしい。

「そうか、ヤサイ売ってるだけじゃなくて、ワイン作ってルんですもんね」
「エエ、是非お待ちしてます」
心優しそうな、何となくイイ雰囲気だった。

確かに、自転車でワインを買いに行くのもイイかも知れない。そもそも、自転車に乗り始めるキッカケは、地酒調達だったし。

ただこの日は、ツリ始めた脚で、何とか帰らないといけない。

農業公園から一旦下り、テクノパーク側の登りで、遂に両足ツッてストップ。フゥ~ウ。
中学生数人のママチャリ集団が勢いよく抜いて行く。

取りあえず足を引きずりながらトボトボ歩く。数10m歩いたらまた漕げそうになった。

この後、待ち受けている登りは、ピンクのウェアの女性にジョギングで引き離された急坂と、子供と買物を積んだ電動ママチャリに追い抜抜かれた住宅街の坂道だけ。
ホントにチャンと帰れるのか。

そこをフラフラ、トボトボ、いやオロオロ走り、なんとか脚はツラず帰ることが出来た。フゥ~ウ。

“サムサ ノ ナツ ハ オロオロ アルキ”、宮沢賢治サンは冷害の岩手をその様に過ごされたらしいが、温暖化で熱帯に近付きつつあるこのクニの現代、猛暑が過ぎて涼しくなった秋を、ワタクシ、オロオロ走ってます。