蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

’16年の修理

2016-12-31 17:55:03 | 朽ちゆく草の想い

設計事務所からの報告では、安曇野・山小屋は、12月になって外壁板貼工事が始まったらしい。

 そして12月20日には塗装が始まったとの事。

  その後、足場も外されたらしい。

しかし人手不足で、工事は遅れ、完成引き渡しは2月にずれ込むらしい。

安曇野近辺では、他にも建築工事はあるハズだ。多くは子育て世代の大きな家、これからの世代の快適な生活を維持する家だから、優先してあげないといけない。
片や、ワタクシの山小屋は、タタミも床暖房も豪華なシステムキッチンもない。造作家具も収納も建具もない。工務店も住宅設備会社も儲からない。色々、後廻しにされても、仕方ない。
周囲に点在する別荘にはありがちの薪ストーブもない。中房温泉からの温泉も引いていない。
要は、豪華、快適な機能、設備はない。ワタクシが“孤独死”する家とも言える、そんなモノは不要と決めた。

そして、急かすとイイモノは出来ない、ここは現場業者の都合に任せるしかない。

しかしそうなると、この部屋にまだしばらくは居ないといけない。

この“低所得者救済マンション”は、建ってからもう30年以上、益々古くなって次々と問題が露呈して来ている。

 11月半ば、またユニットバスの天井から水漏れ発生。ウラを覗くと、昨年と同じ所からシズクが垂れている。 

  天井裏には水が溜まっている。

 隣のトイレの巾木の上には水が浸み出している。

このマンションでは、毎年12月の初め、雑排水管の洗浄を行っていて、昨年はその後水漏れが発生した。
しかし直ぐ止まったので、管理人には連絡しなかった。
今年はそれが数日経っても止まらない。

いよいよ管理人に連絡するか、と思った時、管理人がやって来た。
「水漏れしてませんか?」「今、漏れてますよぅ、2日程前から」

管理会社の担当者と業者が、問題箇所を確認していった。

“事件”は階上の部屋で起きたとか。雑排水の本管とその部屋の枝管との継ぎ目から漏れ、それが階上の床に溢れ大騒ぎになったらしい。
トイレの点検口から覗くと、階上床の本管貫通部からも、ポタポタ滴が垂れ落ちている。

雑排水の洗浄とは、シンクの排水口から高圧水を噴射して、管内を吹き飛ばすそうだ。多分、昨年の漏れは、その高圧フラッシングのショックで、階上の部屋の継ぎ目が一時的に開いたのかも知れない。
それが1年弱経って、一時的ではなくなった(?)、直前地震もあったし。

階上の修理は2日後の月曜らしい。
その費用は、溢れた付近の壁、床の交換は当然、その工事に伴って壊され復旧される諸々も、管理組合が加入している保険で賄われるそうだ。
そして、「お宅のユニットバスとトイレの壁も全て、保険で直りますよ」、と業者は言った。
「ウチは漏れが止まったら、それでエエンですけど、どうせ来年出ていくし」、と返事したが、「どうせ保険で直るンやから、直しといたらよろしいやン」、確かにそうだ、息子、娘の実家でもあるし。

階上の修理工事の翌日、漏れはピタッと止まり、その翌日、ユニットバスの天井も乾いた。
ウチの工事は、保険の査定が出てからで、来年になるそうだ。

12月の中頃、パソコンのキーボードが、遂にウンともスンとも言わなくなった。
このキーボードはワイヤレスで、単三2本で動いているが、使い始めて数年後で電池が切れ、その後入れ替えても数日で切れる様になった。
コールセンターに連絡すると、キーボード本体が壊れている、純正品はまだあるが高価なので、量販店で売っている汎用品を使ったらどうですか、USBに繋ぐだけですよ、それとも使わない時は電池を抜くか、と言われた。
それなら取りあえず、電池を抜きながら使うコトにした。
しかし、ウッカリの抜き忘れがしょっちゅうあって、¥100ショップの単三が見る見るウチになくなっていく。その時点で汎用品に替えれば良かったのだが、愚かにも充電式の単三を導入してしまった。
なるべく抜く様にして、切れれば充電しておいた予備を入れる。それがルーティンワークとなった。

それが電池を入れ替えてももう、ウンともスンとも言わない。いよいよ汎用品に交換するしかないか、と覚悟した時、気が付いた。
NTTか何かのポイントが溜まっていて、それでワイヤレスのキーボードとマウスをタダでゲット、部屋の隅に箱のまま転がっていたのだ。

 純正品はパソコンの近くに裏返して置いて、CONNECTボタンを押す、となっていたが、タダでゲットしたヤツは、レシーバーのピースをUSBに差し込むだけ、動かす単三1本も付いていた。
もっと早く使っておけばよかった。相変わらず、愚かなワタクシ。

その後、いよいよシンクの水栓からの漏れが激しくなり、修理を決意。まだしばらくは使う訳だから早く直さないと。

 漏れているのは、スゥィングするパイプの根元と、水栓本体。水栓はギギギギ、ギュウと締めないと先端からポタリ、ポタリ漏れる。 

 それと、このパイプの先端の曲がり部分。勢いよく出すと、ビュ~ッと吹き出す。最初吹き出した時は、思わず笑ってしまった。
この部分は、多分震災の時にモノが落ちて来て、打痕があった。そこから吹き出したのは、12月の初め頃。勢いよく出さなければイイので、放置していた。

 まず水栓の部分のパッキンを交換。

 この交換キットは税抜き525円。

 コマのパッキン部分の厚みは、半分にまで減っている。

 ついでに周辺のゴミ、汚れをハブラシで落す。

 これで、キュッと捻るだけで、先端からのポタリポタリは止まった。

次はスゥィングパイプの交換。

 根元のナットは、スパナの一番大きな箇所でも入らない大きさ、ナンデ?

仕方なくナット部をウエスで巻いて、プライヤーをガバっと開いて両手で掴み、グッと廻すと緩んだ。

 このパイプ、ステンレスだと思っていたが、鉄だった。内側は猛烈にサビてボロボロ。腐食で穴が開いても当然。

これを提げてホームセンターで合うモノを探しに行く。

 税抜きで1680円のスタンダードタイプ。
ホームセンターのオニイチャンの話しでは、径は合うが、ナットのピッチは違うかもしれないとの事。

 旧品と較べると、デザインも出口の高さ、長さも大分違う。まぁイイか。

 やはりナットのピッチは違っていた。一山から二山位しか引っ掛からない。

 しかし、思いっきり栓を開けても吹き飛ぶことはなく、漏れも一切なし。見た目は貧弱だが、取りあえずこのまま使う事にする。

これで’16年の修理はオワリ。
30年以上経ったマンション、昨年は洗面台の照明スイッチが壊れて、同じモノは手に入らず、仮付のスイッチ、今年も仮付の水栓パイプ。いずれはゴソッと新替え、リフォームしないといけない。 

しかし、それをヤルのはワタクシではない、それは確かだ。

 

 

 

 


ミーコとの15年と棄てられたペット達

2016-12-23 01:57:58 | 神戸布引谷での出来事

一日に2回酔い潰れ、2回甦る相変わらずの日々、朝は遅く、パッチリ眼が覚めるのは昼ごろなので、ボーっとしているといつの間にか夕方。このままだと完璧なひきこもり。
こんな日が続くとあまりにもマズイので、夏の終わりの頃から、なるべく日が暮れる前に、約800m離れた一周1.7km強の公園を、何周か歩くようにしている。

垂水JCTが出来た頃、その公園も林を切り払って出現したが、10年くらい前までは夜、キツネが散歩しているのを見掛けたりした。アイツはその後何処へ行ったのか、それとももう死に絶えたのか。
そして今、夕方出没するのは、ワタクシと同じように歩いている人、走っている人。それと、近所の中学校の陸上部も練習に来ている。
彼ら中学生は、歩いたり走ったりしているオトナ達と、交差したり追い抜いたりする度に、「コンニチワ~!」と、ゴアイサツしていく。
とにかく返事はするが、相手は多勢、何度も声を出さないといけない。これ、登山道で団体サンと交差する状況と同じ、笑ってしまう。ゴアイサツはイイことだが、ヘンな感じになるコトもある。

そして、犬と一緒に歩く人。皆さん、犬の排せつ物を回収するツールを提げている。
白い毛がフサフサの大きな犬や、シェパードの血が混じったような雑種、シバ犬などそこそこ大きな犬も歩いているが、圧倒的に多いのが、チョコチョコ走りまわる小さな犬。
犬同士が仲良くなって、飼い主も仲良くなったようなグループも見掛ける。ニンゲンはどんな形にでも群れるのだ。

そんな犬の多くは服を着ており、公園までダッコされて来るのもいる。

あれはどう見ても動く“ぬいぐるみ”。
よく行くホームセンターの奥に、そんな“ぬいぐるみ”売り場があるコトを知ってオドロいた。
普段はネジ、板、接着剤、工具、ミニバイクのオイル、塗料、車の洗剤、調理道具などを買いに行くホームセンターに、動く“ぬいぐるみ”が売られている、ヘンな感じだ。
その売り場に入ったコトはないが、当然値札がぶら下がっているハズで、それらを見ると、あの犬はなんぼ、この犬はなんぼ、と言うコトが判る。
それはイノチの値段。やはりヘンな感じ。そんな風に感じるのは、ワタクシがヘンだからか。

思えば、布引谷に住んでいた20数年間、イヌやネコは常に近くにいた。そしてヤツラは売られていたのではなく、知らぬ間に、そこにいた。

街のニンゲンは、イヌやネコが不要になると、山麓へ棄てる。
近年問題になっているイノシシの出没は、山麓に棄てられたネコのエサを、イノシシが喰いに来たから、と言う原因説もあるらしい。
山麓にネコを棄てる街のニンゲンがいて、そのネコにエサを与える街のニンゲンがいて、その結果、街にイノシシをおびき寄せて、時々ニンゲンが噛まれると言う仕組み。それもヘンな感じ。

そして山麓に棄てられたイヌ、ネコの一部は布引谷へ登ってきた。
当時は早朝登山の“文化”があって、朝から茶店に客がいた。そんな客に付いて登ってきたのもいるンだろう。

とは言え、我が布引谷・山の家に最初にやってきたペットは、オヤジが連れて帰ってきた「リンダ」だった。

 彼女は血統書付きのスコッチテリヤ。

オヤジは当時、三ノ宮の百貨店専属の運送会社で働いていた。
誰の入れ知恵で、オヤジがブリーダーもどきのゼニ儲けを試みようとしたのかは判らないが、血統書が付いた子犬がお金になるコトを知って、6歳のワタクシはオドロいた。 
しかし残念ながら、リンダは一匹も子犬を産まず死んでしまった。多分布引谷で1年程しか暮らせなかったと思う。空気が合わなかったのか、水が合わなかったのか、当然布引谷はスコットランドではない。
オフクロは、親しくなった近くの茶店のヨメさんに言われた通り、リンダにスルメを咥えさせ、庭に埋めた。
犬であるリンダの好物が、スルメだったのかどうか、判らないが、大きなスルメを咥えた時のリンダは、もう既に硬く冷たかった。

次にやってきたヤツは、オヤジにまとわりついて登って来た。トラ柄のブチのオスネコで、下痢気味の病気持ちだった。
「トラ」とか呼んでいたヤツは、捕まえたトカゲで一晩中遊び、切れた尻尾をオヤジのクツ下に入れる、と言った悪戯をやったりもしたが、いつの間にかいなくなった。

幼稚園、小、中、高と通う学校は、徐々に遠くなっていったが、熊内からの通学路は変わらない。熊内神社から荢川沿いに登っていき、途中で荢川を跨ぎ、Uターン気味に徳光院方向へ続く。
小学4年の下校時、その荢川の川底で、ミャ~ミャ~鳴く子猫がいた。女の子達が心配そうにその川底を覗いている。生まれて1~2週間は経ったのか、もう歩ける大きさだったが、うずくまってミャ~ミャ~鳴くだけだった。

 当時、荢川の岸壁はこんな急な石垣で固められておらず、小学生でもスタスタと川底に降りれる部分があった。 ワタクシは子猫を抱いて通学路に戻った。子猫は細い爪をワタクシの腕に立て、しがみ付いている。そしてそのまま、布引谷の我が家に連れて帰った。

子猫は三毛、三毛猫はほぼ全てメス、次々と子ォを生むからと、オフクロは嫌がったが、また棄ててしまうと死んでしまう。
結局、「ミーコ」と呼ばれて、布引谷の我が家で生きることになった。
オフクロは主に、出汁を取った後の煮干しをご飯に混ぜて、ミーコに与えていた。時々我々のオカズを振舞ったコトもあったが、それはニンゲン用に味付けする前のモノだった。

ミーコは順調に育ち、子猫を生み続けるオトシゴロになった。放っておくと我が家は猫だらけになる。
オフクロはミーコが生むタイミングを見計らって、生まれた子猫を直ぐミーコから取り上げ、紙袋に入れて隠した。親から離された、生まれたての子猫は、直ぐ自然死する。 
そして翌日、ワタクシがそれを庭に埋める。
子供にそう言うコトをさせてはいけません、と隣の茶店の好々爺に意見され、一時オフクロが車道から繁みの中に捨てていた時もあったが、結局埋葬はワタクシの仕事になった。

ミーコは毎回、しばらくは我が子を探していたが、その内忘れて、出産して軽くなったわが身を楽しむように、庭のモミジの木を駆け登ったりしていた。

しかし、生まれた子猫を直ぐミーコから取り上げ、自然死させる、そんなオフクロの作戦は、成功しないコトもあった。
それはミーコが家の外で生んだ時だ。

ある日、身重のミーコはナゼか布引谷の対岸にいた。
やがて嵐がやって来て、布引谷は増水し、ミーコは帰れず、対岸で4匹の子猫を産み、しばらくそこで子育てをしていた。オフクロは何度か、対岸から猫の鳴き声が聞こえた、と言っていた。
増水が治まって、ミーコは子猫を一匹ずつくわえて戻ってきた。もう自然死する大きさではない。
ネコの親子5匹が布引谷・山の家で暮らすことになった。

ミーコは兄弟のいないワタクシのオモチャでもあった。
ワタクシは山寺の和尚さんがやった様に、ミーコを紙袋に入れてポンと蹴ったり、寒い時は首に巻いたりして、猫マフラーは温いと喜んで遊んた。口と肛門の臭いを嗅ぎ、哺乳類の入口と出口は、ニンゲンもネコも同様に、クサイと確認した。
ミーコはその都度、引っ掻いて抵抗し、噛みつくコトもあった。元々は肉食獣、牙は鋭く痛かった。ワタクシも噛み返すと、口の中はミーコの毛だらけになった。
そう言うコトがあって、ミーコは4匹の子ネコたちにアイツに近寄ったらダメ、と教育していて、彼ら、彼女らはワタクシからは逃げまくり。
ワタクシが帰って来て戸を開ける前に、決まって5匹が温い掘りゴタツから一斉に飛び散って行く事態。アンタが帰ってくるの、直ぐ判るわぁ、とオフクロは言っていた。

やがて、ミーコの子猫は、ミーコの孫ネコを生むようになった。山の家はネコ屋敷になりつつあった。次々と子ォを生むからイヤだ、とオフクロが心配していた通り、ネコの繁殖力はスゴイ。

しかしミーコの子や孫は長生きしなかった。

隣の茶店に連れられてきた犬に噛み殺された子猫もいた。
白ネコだと思っていたオスネコは、茶色と黒が小さく混ざっていて、これは三毛。三毛のオスは非常に珍しく、船乗りはお守りとして連れて行くとか。これは大事に育てないといけない、ワタクシも粗末にしてはいけない、と思っていたのも束の間、直ぐ死んでしまった。
ワタクシの気配を感じ逃げまくっていた、図体のデカイ茶トラも物置小屋で冷たくなっていた。
結局、ミーコ以外はみんなワタクシに埋葬された。

ミーコがいる間、他のネコが居付くコトはなかったが、イヌは何度かやって来た。

スピッツの血が混じったと思われるメス犬は皮膚病だった。いつの間にか物置小屋に居付き、うずくまっていた。
オフクロは仕方なくエサをやった。我々子供たちが、「シロ!シロ!」、と呼ぶと、彼女は弱々しく尻尾を振った。
しかしいつまでも置いておくわけにはいかない、そう思ったオフクロは、以前から隣の茶店に通っていて、顔見知りだった犬の訓練士のオッチャンに、「あのコ、どないかして」と、頼んだ。シロはワタクシが学校に行っている間に、訓練士のオッチャンに連れて行かれた。
訓練士のオッチャンは翌日茶店で、他の客とのヨタ話しの中で、「アレ、今頃肉屋の冷蔵庫に吊るされとうワ」、話していたらしい。
それは茶店のオバサンからオフクロに知らされ、オフクロは激しくショックを受けた。
「何もここでそんな話せんでもエエのに」、と憤慨していたが、犬の訓練士とは犬を扱ってナンボ、それで生活しているのだ。「どないかして」、と頼まれると、食肉にして稼ぐのはアタリマエかも知れない。

高一の時、やって来たメスの柴犬は、ナゼ棄てられたのか、とても可愛い子犬だった。
ただ異状に怖がりと言うか、チョコッと手が当たるだけで、キャンキャン泣き叫び、まるでこっちがイジメている様に見えた。
しかし、彼女もいつの間にか、シロと同じ、物置小屋に居座った。

友達がやって来て、子犬を「ジュンコ」と名付けた。「ジュンコ」とは、同じクラスの一番可愛い女の子だった。
ジュンコはあっちこっち、ワタクシに付いて来たが、どこででもキャンキャン泣き叫んだ。「またあのコの声、ここまで聞こえとったよ」と、オフクロは言ったが、別にイジメていた訳ではない、ワタクシはその都度、言い訳するしかなかった。

子犬でやって来たジュンコは直ぐ大きくなり、子犬を産むオトシゴロになった。オフクロは生みたてを取り上げようと待ち構えていたが、結局死産だった。ワタクシはそれをまた埋葬した。
しかし、ジュンコはこれからも生み続ける。犬の繁殖力もスゴイ。
オフクロは生まれた子犬の始末はもうイヤ、どこかへ連れて行け、とワタクシに言った。
ワタクシは取りあえず、摩耶山へ連れて行く事にした。
摩耶山頂なら多くのハイカーが集まって来るので、エサにも不自由しない、と考えたからではなかった。あそこまで連れて行ったら、もう帰って来ないだろう、と思っただけだった。

ジュンコは最初、ワタクシの後に付いてきた。
しかし、茶店の先で道路工事をやっていて、ジュンコはそこで立ち止まった。来い、と言っても動かなかった。ワタクシは仕方なく、ジュンコの前足を掴み、持ちあげた。ジュンコはキャンキャンキャンと、激しく泣き叫び、脱糞した。それを見た工事のオジサンは、何事があったのかと、オドロいていた。ワタクシはジュンコを持ちあげたまま、急いでその場を離れた。
ジュンコは天狗道でも、休憩していてチョット眼を離すと、道を戻ろうとした。そしてワタクシが追いかけて捕まえると、また激しく泣き叫んだ。
ワタクシとジュンコは、なんとか摩耶山頂に着き、ワタクシは休憩もせず、ジュンコを置いて天狗道を下った。
とにかく早く、キャンキャン泣き叫ぶ、面倒なジュンコの視界から消え去りたかった。ワタクシは夕暮れの山道を駆け降りた。

しかし、ジュンコは翌朝、物置小屋に帰って来ていた。

その後、ジュンコは小屋の中に置いてあった塗料の缶を、何かのはずみでひっくり返したらしい。缶からは防腐剤が流れ出し、ジュンコの“指定席”を汚した。
しかしジュンコはそこから動かなかった。ジュンコにも防腐剤が付いて、塗料臭くなった。防腐剤でまみれながら、ジュンコは動かなかった。

結局オフクロはまた、訓練士のオッチャンにジュンコを連れていくよう頼んだ。高校から帰って来ると、ジュンコはいなかった。
ジュンコがシロと同じ様に、肉屋の冷蔵庫に吊るされたのかどうかは、判らない。
しかし、あのオッチャンがジュンコの里親を見付けたなど、全く考えられず、どこかで殺処分されたのだと思う。

棄てられたイヌが、寄る辺なく近くをウロチョロしていると、どうしても声を掛けてしまう。飼い主がいなくなって心細い彼らは、ホッとして寄って来る。
そして取りあえず、今日だけのつもりでエサをやってしまう。それが間違いの始まりだ。

飼い始めたリンダが1年程で死んでしまい、死に際を見ていたオフクロは、可哀想でもうペットを飼うのは二度とイヤや、と言っていた。
しかし街から登って来る、棄てられたイヌを見ると、ついエサをやってしまう。さすらい人のように、一宿一飯の後、そのままどこかへ行ってくれればイイが、ハラを空かせた彼らは、物置小屋に居付いてしまう。
シロもジュンコもメスだった。次々と子ォを産むメスは棄てられるのだ。
そして我が家でも飼い続けられない。それならば、声を掛けてはいけない。

オフクロはもう、ウロチョロしているイヌに声を掛けなくなった。
またワタクシも他に楽しいコトが見つかって、彷徨う犬には興味がなくなり、 物置小屋に居付く犬はその後、途絶えた。千里の丘で万博をやっていた頃だった。

その頃からミーコは時々いなくなった。また家で子ォを産まなくなった。
約500m離れた集落の奥に、野良ネコのコミュニティがあり、そこへ“参加”しているンやろ、とオフクロは言っていた。
コミュニティのネコも、街で棄てられ、布引谷にやって来て、子、孫、曾孫と生き延びたヤツらだ。

ミーコは更に姿を見せなくなり、完全にいなくなった。
ワタクシは就職していたが、休みの日にはひたすら山へ行って、岩壁登攀をしていた。次は何処のルートを登るか、と言うことばかり考えていて、社会人としてどんな仕事をするか、と言う真っ当な思考は一切しなかった。
当然、ミーコのコトなど頭の片隅にもなかった。
ただ、賢いネコは、飼い主の目が届かない所で静かに死ぬ、と昔から聞いていたので、彼女ならそうする、と確信した。オフクロも同様だった。

それから5年程経って、オフクロもミーコのコトなど完全に忘れた頃、オヤジは昭和32年に購入したママになっている、“建坪七坪九合”を建て直した。
建物が出来て、工事で出て来た土砂は庭に積みあげられていた。
その頃、度々、親に連れられ隣の茶店に来ていた幼い兄妹が、その土砂の山で遊んでいて、ある日オフクロがフト見ると、その兄妹はナント、ネコの頭蓋骨をつついていたらしい。
オフクロは慌てて土砂の山を掻き分けた。するといくつかの骨が次々と出てきたそうだ。オフクロは直ぐそれらを庭に埋めた。
「あのコ、やっぱりウチの下で死んどったンや」、オフクロはホッとしたように言った。結局ミーコは自分の子や孫と一緒に庭で永眠することになった。

 ワタクシに拾われたが、ワタクシに埋葬される事はなかった。多分15年程の寿命だったハズだ。

ミーコがいなくなった後、新婚時代の家内が、勤め先の近くの溝で、死に掛けた子猫を見つけて、山の家へ連れて行ったコトがあった。
その子猫はトラのオスで、何とか死なず、少しずつ大きくなった。
オヤジとオフクロが旅行に行く時、放っておけないので、四国へ連れて行かれたコトもあったらしいが、結局1年程で死んだ。
そして、我が家からネコも途絶えた。

その後、隣の家に大きなトラネコを連れて、イギリス人が引っ越しして来た。去勢され、ブライアンと呼ばれていた。
彼はナゼか、飼い主が留守の昼間は、ウチの庭にいた。日当たりの良い、西側のエアコン室外機の上によく座っていた。飼い主がドイツ人に替わっても同じだった。
おとなしく、ワタクシを見ても逃げず、逆にすり寄って来た。
そのブライアンにオトモダチが出来た。ヤツも同じトラのオス、多分奥のコミュニティから弾き飛ばされたオスだったと思う。
トラのオス2匹が、エアコン室外機の上で体を寄せ合っている。コイツらはホモかと思った。

オフクロはおとなしいブライアンを、とても可愛がっていて、飼い主が本国へ帰る時は、長い間預かったりもしていたが、オフクロが亡くなる数年前に死んでしまった。

ブライアンのオトモダチのトラは、その後どうなったか判らない。しかし、09年9月にやって来たノラは、そのトラの子か孫だったような気がしてならない。

 何となく似ている。

コイツは生粋の野良ネコで、ウチに居付くコトはなかったが、トカゲを喰い、スズメを喰い、多分ヘビも喰ったと思う。
まだチッチャイのに、ブチの子猫を産んでお乳を与えていた。まさに山猫の逞しさがあった。

今月の初め、何年振りかに、昨年亡くなったU本さんの家を覗いた。奥のネコのコミュニティはU本さんの家の前にあった。しかしネコは一匹も見掛けなかった。U本サンが亡くなって、ネコのコミュニティもどこかへ行ったのだろうか。

思えばミーコも、シロも、ジュンコもメスだった。棄てられ布引谷にやって来た時期は、いずれも高度成長期。
多分、飼い主には、不妊処置の知識も、金銭的余裕もなく、そもそも不妊と言う意識は低かったと思う。そしてメスは棄てればイイと言う意識だけ、ヒドイ話しだ。
時代はバブル、失われた20年と過ぎ、今は不妊処置はアタリマエ、地域にいる野良ネコには不妊処置を積極的に行い、役所から金銭補助も出るらしい。
しかしこれは、イヌ、ネコから繁殖権利を奪うような気がする。これもヒドイ話しだ、と思う。

喰う為に動物のイノチをコントロールする、畜産、酪農はニンゲンが生きるためには仕方ないだろう。

しかし、愛玩の為に、イヌやネコのイノチをコントロールする、そう言う事でイイのだろうか。
公園で不妊処置をしたペットを楽しそうに連れて歩く人達を見ていると、人類、しまいにバチ当たると思ってしまう。 


みんな布引谷に消えていく

2016-12-12 02:35:53 | 神戸布引谷での出来事

11月末、1年5ヶ月振りに布引谷へ行った。
もう布引谷での地主ではなくなったので、今後は“戻った”のではなく、“行った”と言う表現にしないといけない。譲った地主に失礼でもあるし。

しかし、譲った人はいなかった。
家の外観も譲った状態と同じ、外壁の板が朽ちて穴があいた箇所は、相変わらず仮付けの蓋が止めてあった。 
庭にはツル類が植えられていて、モミジとアオギリはかなり大きな枝まで切り払われていたが、そのせいで全体が明るくなっていた。
しかし人がいないので、中に入る訳にはいかない。

仕方なく、櫻茶屋へ行った。
ナント、櫻茶屋もシャッターが降りて、高い小さな窓の灯りも消えていた。

実はレイコさんとは2年程、会っていない。山の家をM氏に売却したコトも、直接伝えていない。昨年6月売却後、直ぐに信州へ土地を探しに行ってしまって、そのままになってしまっていた。 

多分、お元気だとは思うが、翌週、再度行く事にした。

 しかしM氏はまた不在だった。
何となく前週と同じ雰囲気、あの後も来ていないンだろうか。南国出身で、冬の布引谷は寒さがキツイとか言っていたが。

  ここにはカジカ茶屋があった。峡谷のガケの出っ張りの様な場所に建っていた。しかしもう、ほぼ朽ち果てている。

昔はバンガローを併設した茶店だった。泊り客もそこそこいた。オーナーは造船関係だったのか、店の中には船の写真が沢山飾ってあった。
ワタクシが布引谷にやって来た時のヨメさんは、男を作って逃げていき、次の地味なヨメさんが来て、しばらく経った日曜日、塀の修理をしていたオーナーは、溝に落ちて亡くなった。

ヨメさんはその後、大水害の後もハーブ園が出来た後も、一人で茶店を続け、独りで亡くなった。
その頃、同じく独りで櫻茶屋を維持していたレイコさんは、「立派やった」と、葬式で大号泣していた、とオフクロから聞いた。
それからもう30年近く経っているハズだ。

櫻茶屋はシャッターが開いていた。
何度が声を掛けると、眠りから覚めたばかりのしわがれた声で返事があった。 
「いゃ~、アンタ、久しぶりやン、アソコ売ったて聞いたけど、今どこに住んどン、もう信州行ったンかぁ」、レイコさんは相変わらずだった。

ただ秋頃(?)、数回入院したとの事。
自動販売機に缶を補充しようとして、台から落ちて、頭を打って、直ぐ救急車で運ばれたが、脳は異状なく、帰ってきた翌日、起きられなくなって、また救急車で運ばれ、今度は尾てい骨の左右の骨にヒビが入っている、と判明、暫し入院後、また戻って来て、放ったらかしにしていた茶店を、片付けたりしていたら、また起きられなくなって入院。
妹さんが世話をしてくれたそうだが、色々大変だったらしい。

もうどこかの施設へ入った方がイイと、妹さんから資料を見せられたそうだが、結局はそのままになっているとか。
「施設に行ったら、狭い部屋で、好きに出けヘンし、ここは寂しいけど、土日は必ず店、開けて、声掛けてくれる人も時々おるし」、確かにその通りだと思う。

「ところで、U本さんはその後どないしてはりますのン?」
「U本は、去年やったか、死んだ、結局戻ってこなんだ」
U本さんは、レイコさんと同い年、ワタクシの雲中小学校の20年先輩。

彼の祖父(曾祖父?)が土佐からこの谷にやって来たのは、江戸時代の末期、当然布引ダムは出来ておらず、ダム工事が始まって、土佐から仲間を呼んで、その仲間が工事後、布引谷に住みついた、それがこの集落の始まりだったそうだ。
しかしU本サンは、例の大水害で、両親、妻、4人の子供を亡くし、その後、後妻が来て、二人の子供が出来たが、奥さんは先に亡くなって、息子は出て行き、娘が時々様子を見に来ていたらしいが、何年か前に動けなくなって、春日道の施設に入っていた。

「結局、ワタシだけになってしもうた」、レイコさんはそう呟き、その後、ダレが死んだ、カレが死んだなどと、色んな人のハナシが出たが、よく判らなかった。

ワタクシは、来年春までには信州へ引っ越す旨、伝え、工事中の安曇野山小屋のデジカメデータを見せた。

この日は寒かったが、何人もハイカーが櫻茶屋の前を通り過ぎ、レイコさんは顔見知りに手を振っていた。
最近は全縦で、塩屋からやって来て、摩耶山の天上寺近くの宿で一泊、翌日宝塚まで行くハイカーが多いとか。
そう言えば大分前に、国民宿舎摩耶ロッジが、シャレたホテルにリニューアルされていて、泊るのは遠方の観光客だけだと思っていたが、今時のお金持ち中高年ハイカーは、全縦でそんな使い方もするらしい。

1時間半程、お話ししたが、かなり寒くなってきて、「信州へ行っても、年に1回位は神戸へ帰って来ますので、その時は必ず顔ォ出しますワ」、と言って櫻茶屋を出た。

その後、久しぶりに“奥”の様子を見に行った。

 この井戸は、“奥”の水源であり、摩耶山へ登るハイカーの水補給所だったが、新神戸トンネルが出来た後、我が家周辺の水源同様、コンコンと湧き出ていた布引ウォーターは、ピタッと止まった。 

 この道の先に、U本さんの家、タケモト君の家、マーちゃんの家があった。更に左に行くと、別荘と家庭菜園が広がっており、右へ行くと、ゴルフ場従業員の家、通称:ハンバがあった。
ハンバには、同級生が二人住んでいたが、例の大水害で、ゴルフ場が閉鎖され、結局ハンバがあったのは、5年程だった。

 U本さんの家、当然誰もいない。

 U本さんの家から先は、もう入れない様になっていた。

 近くにはまだ、石積みの石垣が残っている。この上にも家があった。

 例の大水害で流された旧櫻茶屋付近、この奥には、新神戸トンネルで出なくなった水の補償施設、道路公社が設けた給水設備がある。

 祠の中のお地蔵さんは、大水害があった昭和42年の10月に建てられている。慰霊碑はない。

 繁みの中に、朽ち果てて行く別荘。

みんな布引谷に消えていく。

  貯水池には今年も沢山の水鳥がお越しになってます。

 割とガァガァうるさい。

久しぶりに昔の通学路、熊内側へ降る。

 雲中小学校前の歩道橋からの景色、東側はそんなに変った気がしない。

 しかし西側は、新神戸駅前の高層ビル群、この景色は大きく変わってしまった。