蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

5月の神戸・布引谷、廃棄の日々と夜明けの水割り

2015-05-23 22:47:48 | 神戸布引谷での出来事

10年程前、お独り様になり、炊事・洗濯・掃除と共に、ゴミ捨ても自分でやらないといけなくなった。そしてその頃、神戸市のゴミ出しルールが新しくなった、と記憶している。

ゴミの処理方法に合わせてゴミを分ける、再利用できる紙、布は再利用する、そんなルールには全く異議はない。
そうすることが商品として売られたモノの、命の終わらせ方であり、購入者、使用者の義務だと思う。最近は、買ってもロクに使わず、パッパッパと袋に入れ、ドサッっとゴミ捨て場の箱に棄てるバチあたりも多いようだが。

新しいゴミ出しルールには、分けたゴミはそれぞれ指定袋に入れて出す、と言うルールも付いていた。これにはいささか異議があった。
家に買い溜めしていた今までのゴミ袋が使えないし、レジ袋も使えない。お独り様のゴミの量など知れている。キチンと分けると生ゴミなどコンビニの小さなレジ袋で充分だ。
ゴミ袋として使っていたレジ袋は、今や包装プラスチックとしてゴミとなっている。あぁ、アホクサ。

先日、近所の奥さんが、ウソかマコトかケッタイなコトを言っていた。
最近は、多少なら全て燃えるゴミの袋に入れて出してもイイ、というハナシだった。ゴミ分けが浸透した結果、焼却炉に余裕が出来たから、だとか。
それは、ここだけのハナシ?、そう言えば布引谷でも収集したゴミは当初から、全てポーアイの焼却炉に放り込む、と収集トラックのオニイチャンは言っていた。
「そんなら、分ける意味ないやン、分けンと出すでぇ」と言ったら、「イ、イヤ、ルール通り分けてもらわンと ・ ・ ・ 」、オニイチャンはつい口が滑ったのだろう。まぁエエけど、何かバカバカしい。どうせやるなら、ここだけのハナシは漏らすべきではない、聞いたら気ィ悪いし。

信州移住のために布引谷・山の家を処分する。そのためにはまず家をカラにする。と、言うことで4月はオフクロ普段着類を資源回収に出し、キャビネット類を潰し、中身と共に燃やした。
中身は主に紙類、数々のメモや未使用のハガキ、封筒、便箋もあって、虫の死骸と一緒に出てきた。カビ臭と言うか、コケ臭と言うか、独特の異臭があり、燃やすしかなかった。
しかし布引谷と言えども神戸市内、雑草、雑木でもないモノをボンボン燃やす訳にはいかない。

5月はなるべく神戸市のゴミ分けルールに従って、バンバン棄てていって家をカラにするコトにする。

 5月3日、ツツジが満開。   

 長い間、剪定していないので、咲き方がイビツになっている。

この日はオフクロの葬儀、初盆の時、葬儀屋が持ってきた祭壇などを燃やした。これはワタクシが遺したモノ。
また、古い食器棚の抽斗を開けると、電気、ガスの伝票、給水組合や介護保険の書類が出てきた。これは7年前、オフクロが生きていた証拠、’08年のオフクロに届いた年賀状と共に燃やした。

翌週は連休後半、残雪期の北アルプスは山スキーにはサイコーの天気のハズ、しかしワタクシは布引谷で山の家のゴミ分別をする。

電気毛布が燃えないゴミになると知った。
湯沸保温ポットはオフクロが亡くなる前の年末、ワタクシが買って届けたモノだった。諸々の金属ゴミをポットと炊飯器に詰め、燃えないゴミ2袋にまとめた。

オフクロが叔母の洋装店を手伝っていた時の糸、ボタン、ファスナーがお菓子の缶3つに詰まっていた。プラスチック類と一緒に燃えるゴミ1袋にまとめた。

押し入れの上段には、貰いモノのタオル、シーツ他が20箱以上積んであった。中身は全て新品だが、例の異臭が付いていた。
紙箱は古紙の資源回収へ出すべく潰してまとめると2包になった。
中身のシーツ、タオル類は古布として資源回収に出そうかと思ったが、あまりにもモッタイナイので、洗濯して使うモノ、ここで雑巾として使うモノ、資源回収に出すモノに分けた。
座布団カバー1組と足マットは、隣で家庭菜園をやっているM氏に差し上げた。
彼は麓で飲食店をやっている。「店で使うわぁ」と、気安く引き取ってくれた。

家のアチコチを開ける度、隅々から、色んなモノが出てくる。
変色してボロボロの’64年東京五輪の毎日グラフ、アサヒグラフ、雲龍紙、方眼紙、家電の伝票、保証書、取説など。
取説の多くにはオフクロの字で購入日が書いてあった。中には今もワタクシが使っている、40年程前のTRIOのオーディオのモノもあった。躊躇せず全て燃やした。

’11年頃まではワタクシ、布引谷に移住すべく、週半分はここで寝泊まりしていた。
その頃の作業着や車、自転車、スキーの雑誌も残したままだった。サッサと捨てて片付けられないのはオフクロだけではなかったワケだ。
TV台の下から、ナゼか幼児向けの絵本が出てきた。ワタクシが残した雑誌と合わせて、古紙資源回収が2包になった。
貰いモノのタオル類と作業着は古布の資源回収1袋になった。

こうしてゴミは分別したが、布引谷のゴミ収集の日が判らない。’11年頃の週2回が、週一になったコトは聞いた事があるが、ヤヤコシイので、ここで棄てる事にして、結局この週は4日間、山のゴミを垂水へ持ち帰った。

 5月9日朝、ベランダ手すりにツバメが2羽。まさかここで巣作り?、確かにルス勝ちでヒトケはない。北隣の部屋は更にヒトケはない。別にここで作られてもイイが、まだ巣は出来てはいない。

連休の週が過ぎて、11日月曜もゴミを分別し、家の隅々から出てきた化粧箱、木箱、カゴ類を燃やした。
ふと庭を見ると、以前はなかった雑木が、かなり大きくなっているのに気が付いた。落ちた種が根付いて大きくなったモノだ。
刈り取って庭に集めると小山になり、ワタクシは汗だくになった。

この日も夕方、垂水に戻り、呑みながら晩メシを作り、呑むのを宮城の地酒に替え、晩飯を喰い終わったら、いつものように気絶して、日が代わって生き還り、洗いモノとフロを済ますと、ナゼか喉が渇いて水割りをチビリチビリ、チビリチビリ。

 気が付くと、5月12日の夜明け。手には水割りのコップ。

この日は台風が来る、山の家へは行けない。


4月の神戸・布引谷、破壊、焼却の日々

2015-05-05 13:15:54 | 神戸布引谷での出来事

4月第一週で信州・雪山通いは終了、直ぐ板と靴を押し入れに仕舞い、ウェア、手袋、ヘルメットの内側を洗濯、残雪期の山スキーはアッサリ諦めた。
と言うか、ここ数年、4月になると急にヤル気がなくなり、5月の立山、白馬、6月の槍沢もスルーしてしまっている。
それは、信州までの約500kmの移動、それが徐々にシンドくなってきたことにもある。

「500キロって言ったら、私たちにしたら、相当な旅行ですよゥ、それを毎週なんて・・・」、と栂池・定宿の大女将は感心、と言うか呆れていた。
確かにもうシンドい。

近畿地方にも雪山、スキー場はある。しかしゲレンデの上に山はない。4月の初めスキー場が終わると、雪山でのお遊びは全て終わる。
それが信州では6月初めまで遊ぶことが出来る。但し、関西からは500km移動しないといけない。

残雪期の山スキーでの、標高差1000m以上を登って降りる気力と体力が、最近無くなりつつあるが、その前の500kmの移動がもうシンドい。これはやはり信州へ移住するしかない、と言うことだ。

大体、最近は神戸がツマラナイ。
会社の帰りブラついた、元町、三ノ宮の景色も変わった。本屋がなくなり、ジャズ喫茶がなくなり、路地の奥の中華料理屋がなくなった。
得体が判らなかった古い建物のいくつかが、いつの間にか豪華なマンションに建て替わっている。

呑み歩いた仲間の多くも、遠くへ去ってしまった。
死んじゃっタのもいる。そいつは東京へ転勤し、吉祥寺でカノジョに刺されて死んだ。模範的な営業マンの振る舞いのウラに、破滅と哀愁が漂う九州人だった。

大通りのビルの壁には、生徒会長で運動部のキャプテンをやっていたような、見方によってはチョットおバカの様な、イケメンのポスターが点在している。そいつは政治家予備軍らしい。その横には、ニッポンを取り戻すと言っているアホズラのポスター。
このアホズラは、集団的自衛権行使を容認し、解釈改憲をし、海外で自衛隊に人殺しをさせようとしているのに、何故か支持されているらしい。
と、言っても投票率5割強(?)で、得票率5割弱(?)の人気だけど。

こんな風景の地はツマラナイ。ツマラナクなったら、その地を棄てて他所、つまりワタクシにとっては、信州へ移るしかない。

ただし、その前に処分しないといけないモノがある。

神戸・布引谷には、オヤジが約25年暮らし、オフクロが約50年暮らし、ワタクシも20年以上棲息していた家がある。麓の熊内、新神戸から標高差200m程、歩いて30分以上の距離。幼稚園から小中高大、就職して元町の会社までそこから通った。

昔、一緒に通学、通勤した仲間は、もうひとりもいなくなり、布引谷には廃屋が点在するだけ。
しかしそれは当然の結果。仲間の皆は、貧しい親に連れられて来て、そんな辺鄙なところから街の学校へ通わせられ、自分が稼ぐようになるとサッサと街に所帯を持った。そもそも布引谷にこだわりはない。

しかし、ワタクシはこの谷にヘンな愛着があり、オフクロが亡くなってから、その家を山小屋風に改装し、住むつもりだった。

山の家の70㎡×2~3mHの空間には、オフクロが遺して逝った様々なモノが詰まっていた。
戦争でモノがない時代に青春を過ごした大正生まれは、モノを棄てる習慣がない。しかも30歳半ばで引っ越しして来た布引谷には茶店以外に商店はない。
台風が来ると、豪風は安普請の窓をブッ飛ばしていき、しょっちゅう停電になった。対応するモノがない事に気が付いても、買いに行く店がない。
「ここには、何かあっても直ぐに買いに行くトコないから」、それがオフクロの口癖で、セッセとモノを溜めていった。それが詰まっていた。

それらを片付けないと、山小屋風に改装出来ない。

オフクロが亡くなった’08年、四十九日を済ませ、残雪シーズンに剣沢、白馬大雪渓に行った後、布引谷・山の家に寝泊まりしながら、それらの片付けを始めた。
まずは台所の諸々、ワタクシが棲息していた頃のモノもあり、躊躇なくバンバン捨てていった。
フロ釜を新替えし、見覚えある古い家具を潰してそれでフロを沸かした。
自分が預けて引っ越しして行ったモノも多々出て来て、モノが棄てられない自分の存在にも気付いた。

3回忌を済ますと、オフクロの衣服も片付けることにした。
ほぼ新品でまだまだ着れそうなものは、難民キャンプへの古着支援で使ってもらった。100リッター程のボール箱2つ分あった。
古着支援には出せない、綿、ウール類は地域の資源回収へ出した。ウエスとフェルトに再利用されるらしい。
ワタクシが学生の頃の衣類も残っていた。洋装店をやっていた叔母が持ち込んだと思われる生地も沢山あった。
それら全て、大きいゴミ袋で22袋を資源回収に出した。
綿類は全てヘンな匂いがした。カビというか、虫というか、コケというか、青草というか、イヤな匂いだった。

ウエスやフェルトにならない絹製品、つまり呉服、羽織り、長襦袢20着程は、骨董品屋サンが買い取ってくれた。
未開封の紙オムツに尿もれパットが大きなゴミ袋に2袋出てきて、それと新品の肌ブトンや毛布は、御影の山手にある老人ホームが引き取ってくれた。
ここでは以前、叔母がディサービスを受けていたらしい。編み物をやっているオバアチャンもいて、毛糸1袋も引き取ってもらった。

週の半分は、オフクロの亡骸を寝かせたフトンで寝て、熊内にある指定場所に資源回収ゴミを運んで、その年の8月にはほぼ片付いた。
古着支援や資源回収、老人ホームで引き取って貰ったモノ以外に、燃えるゴミ6袋と燃えないゴミ13袋も棄てた。
それは、オフクロが50年かけて溜めたモノを、遠慮なく棄てていったことになるが、オフクロがバケて出てくることはなかった。

そんな廃棄の日々に、あることが気になりだした。

通学、通勤の帰り、毎日休憩していた展望台横にある、水源地の旧監視小屋土台に座って、三宮が見えなくなっていた。
上の車道から貯水池の湖面が見えなくなっていた。家の庭からグルっと廻った先にある車道が見えなくなっていた。
要は、昔見えていた景色が、木が繁りすぎて見えなくなっていた。
そして繁りすぎた木は光を遮り、地面に草が生えなくなって足元はスカスカ。見えなかった下のハイキング道が見える様になった。
見えていたモノが見えなくなり、見えなかったモノが見え出す、それは不気味で、日々を増すごとに気になりだした。

またある雨の翌日、フロに溜めた水がミドリがかっていた。

昭和51年、新神戸から箕谷へのトンネルが出来てから、布引谷に湧いていた布引ウォーターはピタッと止まった。
昭和42年7月の、ゴルフ場開発による自然破壊が原因の大水害で、21人が亡くなった後も、布引谷にはまだ10軒ほど、数十人が住んでいた。当然ワタクシもまだ住民の一人。
そして、その数十人へのための給水設備が、神戸市道路公社により作られたが、その水源は湧水ではなく、布引谷本流からの取水によるもの、大雨の後のニゴリはしばしばあった。
その後、住民は更に減って行き、その時の常住者は6人程。その6人の為の給水設備の維持費は年間200万、ウソかマコトか、道路公社はそう言っていた。
ミドリがかっていた、とモンクを言ってどうなるのか。
よく見れば、貯水池の色は深い群青色ではなく、途中の小滝には清流にはないコケが生え、流れは微かに濁っている。
水も不気味になった。

そもそも先祖伝来の土地、建物ではない。金のないオヤジが安いから手に入れた安普請であり、ゴルフ場経営者が大水害の被害賠償のため投げ売りした土地なのだ。
 
布引谷への完全移住はヤメるべきかも、と思い始め、週半分の寝泊まりが、週一になり、月一になり、全く泊らなくなり、ただ行くだけも年数回になった。

思えば昔より、カメムシも、テント虫も、ムカデも増えているような気がした。

オフクロが亡くなって寝泊りを初めてから毎年、ジメジメした暑い夜、鴨居からボトっと落ちるムカデがいた。
ある夜、洗濯機のキャスターに、糸くずが撚り固まったような、ヒモのようなモノがまとわりついていた。何やろ?、引っ張るとムカデの死骸だった。ウオオォ~、かなりの大声をあげてしまった。
そして遂に寝ていて首筋をチクっとやられた。見付け次第虐殺を続けていた、ムカデ一族の逆襲だったかも知れない。

近くで一人で茶店を維持している、雲中小学校の20年先輩のレイコさんには、「街に住むトコあんねネンから、なにもこんなトコへお金かけて住むコトないやン」、と言われた。

そして布引谷・山の家を放置し、5年経った。

信州に移住するなら、まずこの家を処分しないといけない。

その為には、5年前にほぼ片付けた状態を、完全に片付け、家をカラにしないといけない。作業は暑くなる前、出来れば5月中に終わらせたい。

3月下旬、取りあえず状況を確認しに行った。 
5年前、ここで暮らしながら、潰して燃やしてフロでも沸かそう、と思っていた紙箱、木箱、キャビネット等がまだかなり残っている。取りあえず眼につくモノをチョコッと燃やす。 

 4月7日、イカリソウが咲いていた。この日はここの資源回収の前日、整理たんすに残っていたオフクロの下着、寝巻き、普段着をザックに詰めて持ち替えるつもりだったが、ザック1つに詰めれる量はわずかだった。

 山桜も咲きほこっていた。

 4月16日、ミドリが少し濃くなっていた。

この日も手当たり次第に紙類を燃す。

 帰りに久しぶりにノラに会った。家から数100m下った水源地の柵の中で、何かを探っていた。そろそろトカゲ、ヘビが喰える時期なのか。

4月21日、前々週に持ち帰れなかった資源回収ゴミを車で運び出す。大きなゴミ袋6袋もあった。

 翌22日、繁っていた木々を切ってウラ庭への通路を開けた。下駄箱を開けてみると、クツ、草履がゴミ袋1袋分出てきた。

 この日は布引ダム横の滝周辺で藻臭がした。

23日はミニバイクで下駄箱の中身を運び、燃えるゴミに出した。

26日は50年程前からあるモノ入れを潰して燃やした。

 28日、ミヤコワスレが咲きだした。

この日は、オフクロがモノ入れとして使っていた古いTV台を潰して燃やした。中には未使用の封筒、便箋、ハガキ、年賀状が入っていた。まだまだ使えるモノだが、もう手紙を出す事はないし、例のイヤな匂いが付いていて、燃やすしかなかった。

親が亡くなった家の後片付けは、遺品整理などもやっている業者に頼めば、一切合切20~30万でゴソッと持って行ってくれるらしい。周りの家はそう言う方法でカラになっていった。 
しかしワタクシはそんな方法が気に入らない。手間が掛っても、ゴミ出しのルールに従ってボチボチ片付けていきたい。
ゴミの捨て方で、その人の育ちが判る、人格、お行儀が表れると言った人がいた。確かにそう思う。

そして、何と言っても、今、ヒマやし。