45年前の7月9日、朝はまだ雨は降っていなかった。いつもの日曜と同じ様に、早朝登山の人たちが家の前を歩いていた。
雨は午前中に降り出し、直ぐに豪雨になった。布引谷も昼過ぎには、激流、濁流になった。
家の近くの、36段と呼ばれていた階段の下には、布引貯水池をバイパスする隧道の口があって、そこで濁流は堰き止められた形になり、5m程上のハイキングコースにまで達した。
もう通学路を通って町へは行けない。
日曜はベツベン(当時、塾を学校とは別勉強、ベツベンと呼んでいた)へ行く日だった。しかし、これでは行けない。
その内、周辺の小さな谷が崩れ出した。「山津波」と言うヤツだ。
ドン、ドドォ~ん、地球が潰れていくようで、それはもう凄かった。
もう町へ避難することも出来ない。
陽が暮れた後も、豪雨はボロ家のトタン屋根をたたき続け、その内カミナリが鳴りだした。
何回目かのカミナリに合わせる様に停電になった。21時頃だった。
ワタクシと両親は2階で川の字になって寝た。
翌朝、家の前の道を消防や警察や役所の関係らしき人が走り廻っていた。
昨夜、停電になった頃、500m程離れた大きな茶店が土砂崩れで流された、と言うのだ。
そこは集落の中心と言うべき処で、その茶店に非難していた20人程が行方不明となった。もう周りは大騒ぎ。
町へ繋がるハイキングコース、つまりワタクシ達の通学路は土砂崩れで寸断され、当然学校へは行けない。
昼前頃だったか、家の前の土砂で埋まった道に出て、ボォ~としていたら、背広のズボンをヒザ辺りまでまくり上げ、皮靴を土砂まみれにして、急ぎ足で近付いて来るオジサンがいた。
そして、「オォ、生きとったかぁ、アァ、よかった、よかった、まぁ簡単には死なンヤツやと思とったけどなぁ」、安堵のジョークを投げかけて来たのは、葺合中学担任のU先生だった。
ワタクシの無事を喜んでいた先生に対し、どう応えたかはよく覚えていない。ただ、ニャ~っと笑っただけだったと思う。
その時、偶然崩れた現場を見に行っていたオヤジが帰ってきて、先生が来たことを伝えたが、お互い軽く不自然に会釈しただけ。
後でオフクロにそのことを言うと、「飛んで来てくれはったセンセ、他におれへんのに、アンタ、そんなアイソないことして、ワタシ、挨拶もしてヘンのに」と叱られた。
U先生は日本共産党員で当然日教組の組合員だった。
U先生は自分の意見を言う時に、「センセイは ・ ・ ・ 」と言わず、いつも「ボクは ・ ・ ・ 」と言っていた。
U先生は、教師とは聖職者と言う特別な存在ではなく、労働者だ、と言っていた。
「労働者やから、君らのお父さんやお母さんと一緒、そやから夕方、みんながウロウロしている処へ行って、早ヨ帰れよとか、色々君らに嫌われるコト、言いまくってるンや」、と笑っていた。
だからと言って、U先生は体育会系の熱血教師ではなく、文芸部の顧問だった。
行方不明者の捜索と道路の復旧には、自衛隊が動員された。彼らは土砂に埋もれたオヤジの車をアッと言う間に掘りだした。
へぇ~、自衛隊ちゅうンは災害復旧にも役立つのか、こう言う威力は必要かも。そんな話をU先生にした。
「しかし、自衛隊と言うのは、災害復旧が本業ではなく、戦争をするために国が組織したモンやからなぁ」とU先生は言った。
その時はピンとこなかった。
しかし、よ~く考えると、確かに、彼らは自らの意思で土砂崩れを片付けに来てくれたワケではない。
上からの命令で来たのであって、その命令次第では、スコップを自動小銃に持ち替えるだろうし、ブルドーザーから戦車に乗り換えるのだろう。
政権が狂えば、自衛と称して侵略行為を行うかもしれない。
家の前の土砂を彼らと一緒に片付けながら、色々話した。そして、何故自衛隊に入ったのかも、訊いてみた。
大型特殊免許が取りたかったから、とひとりの隊員は言った。
大体、ここにいるのはそんなヤツばかり、家がビンボーやから上の学校行けないし、自衛隊だったら免許取らせてくれるし、そして免許取ったら辞めて、フツーに働くのだ、と言っていた。
あの優しい、頼もしい自衛隊のオニイチャンは貧しい家のセガレだったのだ。
そう言えば、その頃TVでやっていた「コンバット」のサンダース軍曹も、カービィ二等兵も貧しい下町の不良少年だったはずだ。
結局、実際撃ち合いコロしあうのは、貧しい家のセガレ同士であって、彼らはお国を守る為、だと言うおバカがいるが、お国とはつまり支配層のコトであって、イクサとは結局そう言う構図なのだ。
そんな認識が自分自身にキッチリ出来たのは、その数年後だった。ボブ・ディランも「MASTERS OF WAR」でそんなことを歌っていたし。
ワタクシはもしどこかの国が攻めて来ても、そういう貧しい家のセガレを撃て、とは言わない。例え撃たれてもワタクシは撃たない。それがワタクシの「反戦」だ。但し、その前に山ン中へ逃げますけど。
U先生はある日、「偶には川の下の方も行ってみいへんか」と、ワタクシを誘い、学校から浜手へ下り、市場を通り、生田川の河口辺りまで歩いた。
高層住宅が出来る前の、バラック建てが集まる地域だった。
ワタクシの布引谷にある家もバラック建てに近かったが、その最下流にも、同じ様な家が集まっているのを見て、ホォ~っと思った。
その後三ノ宮へ横移動し、駅の裏の大きなソバ屋へ行って、ゴチになった。今は大きな通りに面しているそのソバ屋は、当時、ゴチャゴチャとした路地の先にあった。
ある日、予備校からの帰り、新神戸から一登りした展望台の横の、いつも休憩する場所で、ボォ~としていたら、上からトトトッと降りて来たのはU先生だった。
先生は手ブラだった。多分生徒達を連れて登る、イベントか何かの下見だったのだろう。
「おぅ、元気にしとンかぁ」、ワタクシは浪人であることを告げた。
何日か後、U先生は家に訪ねて来た。そして、色々話した。
「大学なんて、どこへ行ってもおんなじヤぞぅ、とにかくどこでもいいから入って早ヨ親、安心させたれ」、U先生はそう言った。
当時ある縁で、ワタクシ、社会新報を読んでいた。「それもエエけど、赤旗もええでぇ」、先生はそう言ったが、無理には勧めなかった。また、大学に入った後も、民青は紹介されたが、無理に入れとは言われなかった。
その後、家族連れハイキングの帰り、声をかけられた事があったが、何を話したか覚えていない。
葺中の後、押部谷の中学、その後は垂水の中学へ移られたらしい、とオフクロが言っていた。その垂水の中学とは、ここから南東方向に数百m離れた場所にある。
しかし、中学の頃はワタクシ、クラス会などで“新撰組”を茶化したチャンバラ寸劇などをやったりして、先生のヒンシュクを買ったこともあり、あまり印象のイイ生徒ではなかったかも知れない。当然まだ「反戦」意識はなかったし。
ところで、U先生がまだ教職現場にいたら、最近のイジメ問題とかにどう対処したのだろうか。
多分、先生は学校を辞めたのでは、と思う。
今、学校で起こっている事は、暴行であり恐喝だ。
学校にに警察が介入するなんでトンデモナイ事と、評論家サンなどは言っているが、ホントに今、一部の学校とか子供の世界は、トンデモナイ状態ではないか、と思う。
教師がどうのこうの出来る余地などない様な気がする。
何故ヒトをコロしてはいけないの?と、子供が質問をしたことに、世間が驚愕したのは何年前のことだろう。
しかし今は、何故友達を暴行してはいけないの?と、質問すらせず、ただフツーに暴行してもイイ、と思う少年がいる。
そんな少年がいても仕方ない。世の中は暴力に満ち溢れている。
スポーツとは言え、大男が殴り合い、蹴り合いをしているし、ガラが悪いのは演技かどうか知らないが、大阪のオニイチャンもボクシングで勝った後、「どんなモンじゃい!」と叫んでいる。
それを老若男女、楽しそうに見ている。
ゲームにも、そんな殴り合いのモノがあるらしい。
友達を殴ったり蹴ったりしても、これは“アソビ”感覚で、やってもイイのだ、と一部の少年がそう思っても不思議ではない。
ヒョットして、イジメ少年の親達もそう思っているのかもしれない。「やったれ」と。
自殺した少年の「家庭の問題」を示唆した教育長がいたが、イジメ加害者少年の家庭の問題に対しては、教育者としてどうするンだろう。そんな親を教育できるのか。
大人も子供も、際限なく快楽を追い続けていて、それは次々と得られて当り前。
そして、暴力を振るうと言うのも快楽。
そう言う快楽のバケモノへの対処方は無い、そんな気がする。後は逃げるだけ。