蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

U先生から教えてもらったこと

2012-07-27 15:20:08 | 朽ちゆく草の想い

45年前の7月9日、朝はまだ雨は降っていなかった。いつもの日曜と同じ様に、早朝登山の人たちが家の前を歩いていた。

雨は午前中に降り出し、直ぐに豪雨になった。布引谷も昼過ぎには、激流、濁流になった。

家の近くの、36段と呼ばれていた階段の下には、布引貯水池をバイパスする隧道の口があって、そこで濁流は堰き止められた形になり、5m程上のハイキングコースにまで達した。

もう通学路を通って町へは行けない。
日曜はベツベン(当時、塾を学校とは別勉強、ベツベンと呼んでいた)へ行く日だった。しかし、これでは行けない。
その内、周辺の小さな谷が崩れ出した。「山津波」と言うヤツだ。

ドン、ドドォ~ん、地球が潰れていくようで、それはもう凄かった。
もう町へ避難することも出来ない。

陽が暮れた後も、豪雨はボロ家のトタン屋根をたたき続け、その内カミナリが鳴りだした。

何回目かのカミナリに合わせる様に停電になった。21時頃だった。
ワタクシと両親は2階で川の字になって寝た。

翌朝、家の前の道を消防や警察や役所の関係らしき人が走り廻っていた。

昨夜、停電になった頃、500m程離れた大きな茶店が土砂崩れで流された、と言うのだ。
そこは集落の中心と言うべき処で、その茶店に非難していた20人程が行方不明となった。もう周りは大騒ぎ。

町へ繋がるハイキングコース、つまりワタクシ達の通学路は土砂崩れで寸断され、当然学校へは行けない。

昼前頃だったか、家の前の土砂で埋まった道に出て、ボォ~としていたら、背広のズボンをヒザ辺りまでまくり上げ、皮靴を土砂まみれにして、急ぎ足で近付いて来るオジサンがいた。
そして、「オォ、生きとったかぁ、アァ、よかった、よかった、まぁ簡単には死なンヤツやと思とったけどなぁ」、安堵のジョークを投げかけて来たのは、葺合中学担任のU先生だった。

ワタクシの無事を喜んでいた先生に対し、どう応えたかはよく覚えていない。ただ、ニャ~っと笑っただけだったと思う。
その時、偶然崩れた現場を見に行っていたオヤジが帰ってきて、先生が来たことを伝えたが、お互い軽く不自然に会釈しただけ。
後でオフクロにそのことを言うと、「飛んで来てくれはったセンセ、他におれへんのに、アンタ、そんなアイソないことして、ワタシ、挨拶もしてヘンのに」と叱られた。

U先生は日本共産党員で当然日教組の組合員だった。

U先生は自分の意見を言う時に、「センセイは ・ ・ ・ 」と言わず、いつも「ボクは ・ ・ ・ 」と言っていた。

U先生は、教師とは聖職者と言う特別な存在ではなく、労働者だ、と言っていた。

「労働者やから、君らのお父さんやお母さんと一緒、そやから夕方、みんながウロウロしている処へ行って、早ヨ帰れよとか、色々君らに嫌われるコト、言いまくってるンや」、と笑っていた。
だからと言って、U先生は体育会系の熱血教師ではなく、文芸部の顧問だった。

行方不明者の捜索と道路の復旧には、自衛隊が動員された。彼らは土砂に埋もれたオヤジの車をアッと言う間に掘りだした。

へぇ~、自衛隊ちゅうンは災害復旧にも役立つのか、こう言う威力は必要かも。そんな話をU先生にした。

「しかし、自衛隊と言うのは、災害復旧が本業ではなく、戦争をするために国が組織したモンやからなぁ」とU先生は言った。

その時はピンとこなかった。

しかし、よ~く考えると、確かに、彼らは自らの意思で土砂崩れを片付けに来てくれたワケではない。
上からの命令で来たのであって、その命令次第では、スコップを自動小銃に持ち替えるだろうし、ブルドーザーから戦車に乗り換えるのだろう。
政権が狂えば、自衛と称して侵略行為を行うかもしれない。

家の前の土砂を彼らと一緒に片付けながら、色々話した。そして、何故自衛隊に入ったのかも、訊いてみた。

大型特殊免許が取りたかったから、とひとりの隊員は言った。
大体、ここにいるのはそんなヤツばかり、家がビンボーやから上の学校行けないし、自衛隊だったら免許取らせてくれるし、そして免許取ったら辞めて、フツーに働くのだ、と言っていた。
あの優しい、頼もしい自衛隊のオニイチャンは貧しい家のセガレだったのだ。

そう言えば、その頃TVでやっていた「コンバット」のサンダース軍曹も、カービィ二等兵も貧しい下町の不良少年だったはずだ。

結局、実際撃ち合いコロしあうのは、貧しい家のセガレ同士であって、彼らはお国を守る為、だと言うおバカがいるが、お国とはつまり支配層のコトであって、イクサとは結局そう言う構図なのだ。

そんな認識が自分自身にキッチリ出来たのは、その数年後だった。ボブ・ディランも「MASTERS OF WAR」でそんなことを歌っていたし。

ワタクシはもしどこかの国が攻めて来ても、そういう貧しい家のセガレを撃て、とは言わない。例え撃たれてもワタクシは撃たない。それがワタクシの「反戦」だ。但し、その前に山ン中へ逃げますけど。

U先生はある日、「偶には川の下の方も行ってみいへんか」と、ワタクシを誘い、学校から浜手へ下り、市場を通り、生田川の河口辺りまで歩いた。
高層住宅が出来る前の、バラック建てが集まる地域だった。
ワタクシの布引谷にある家もバラック建てに近かったが、その最下流にも、同じ様な家が集まっているのを見て、ホォ~っと思った。
その後三ノ宮へ横移動し、駅の裏の大きなソバ屋へ行って、ゴチになった。今は大きな通りに面しているそのソバ屋は、当時、ゴチャゴチャとした路地の先にあった。

ある日、予備校からの帰り、新神戸から一登りした展望台の横の、いつも休憩する場所で、ボォ~としていたら、上からトトトッと降りて来たのはU先生だった。
先生は手ブラだった。多分生徒達を連れて登る、イベントか何かの下見だったのだろう。
「おぅ、元気にしとンかぁ」、ワタクシは浪人であることを告げた。

何日か後、U先生は家に訪ねて来た。そして、色々話した。
「大学なんて、どこへ行ってもおんなじヤぞぅ、とにかくどこでもいいから入って早ヨ親、安心させたれ」、U先生はそう言った。

当時ある縁で、ワタクシ、社会新報を読んでいた。「それもエエけど、赤旗もええでぇ」、先生はそう言ったが、無理には勧めなかった。また、大学に入った後も、民青は紹介されたが、無理に入れとは言われなかった。

その後、家族連れハイキングの帰り、声をかけられた事があったが、何を話したか覚えていない。
葺中の後、押部谷の中学、その後は垂水の中学へ移られたらしい、とオフクロが言っていた。その垂水の中学とは、ここから南東方向に数百m離れた場所にある。

しかし、中学の頃はワタクシ、クラス会などで“新撰組”を茶化したチャンバラ寸劇などをやったりして、先生のヒンシュクを買ったこともあり、あまり印象のイイ生徒ではなかったかも知れない。当然まだ「反戦」意識はなかったし。

ところで、U先生がまだ教職現場にいたら、最近のイジメ問題とかにどう対処したのだろうか。

多分、先生は学校を辞めたのでは、と思う。

今、学校で起こっている事は、暴行であり恐喝だ。
学校にに警察が介入するなんでトンデモナイ事と、評論家サンなどは言っているが、ホントに今、一部の学校とか子供の世界は、トンデモナイ状態ではないか、と思う。
教師がどうのこうの出来る余地などない様な気がする。

何故ヒトをコロしてはいけないの?と、子供が質問をしたことに、世間が驚愕したのは何年前のことだろう。
しかし今は、何故友達を暴行してはいけないの?と、質問すらせず、ただフツーに暴行してもイイ、と思う少年がいる。

そんな少年がいても仕方ない。世の中は暴力に満ち溢れている。
スポーツとは言え、大男が殴り合い、蹴り合いをしているし、ガラが悪いのは演技かどうか知らないが、大阪のオニイチャンもボクシングで勝った後、「どんなモンじゃい!」と叫んでいる。
それを老若男女、楽しそうに見ている。
ゲームにも、そんな殴り合いのモノがあるらしい。

友達を殴ったり蹴ったりしても、これは“アソビ”感覚で、やってもイイのだ、と一部の少年がそう思っても不思議ではない。
ヒョットして、イジメ少年の親達もそう思っているのかもしれない。「やったれ」と。
自殺した少年の「家庭の問題」を示唆した教育長がいたが、イジメ加害者少年の家庭の問題に対しては、教育者としてどうするンだろう。そんな親を教育できるのか。

大人も子供も、際限なく快楽を追い続けていて、それは次々と得られて当り前。
そして、暴力を振るうと言うのも快楽。

そう言う快楽のバケモノへの対処方は無い、そんな気がする。後は逃げるだけ。


雨の週が明け、盛夏の布引谷・山の家

2012-07-24 11:10:12 | 神戸布引谷での出来事

日曜は約1ヶ月振りに布引谷・山の家へ。

家の前には市ケ原バーべキュウ族の車がズラーっと違法駐車している。と言うか、下の旧塩原女子高から進入禁止で、ガードマンがいるのに強引に入って来ている。

予想通り、庭は草ボウボウ。

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右手に繁っているのはシュウカイドウ。これから咲くので刈る訳にはいかない。
左手のシランは咲いた後なので刈ってもいいが、まず雑草を引くことにする。

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裏への通路も雑草で覆われている。

しかし、暑くて作業約1時間でギブアップ。植物の生命力はスゴイ。冬になって枯れるのを待つのが賢明かも。

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クチナシも満開。

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眩しい陽の下で健気に咲くヤブカンゾウ。

その後、櫻茶屋のレイコさんを訪ねた。

市ケ原の河原の入り口には、道を塞ぐように大型スクーター2台を止め、若者が荷物を降ろしていた。
河原では沢山のバーべキュウ族が水遊びをしている。堰堤からキャーキャー言いながら飛び込んでいるおバカもいる。子供の頃、ワタクシも飛び込んでましたから、エラそうなことは言えませんが。

バーべキュウ族の大半は、全ての飲料食材を車に積んでくるので、櫻茶屋のお客さんではない。しかも多くのゴミを残して帰る。
河原に放置する者もいるが、ほとんどは近くのゴミ箱にゴソッと放り込むので、ゴミ箱からゴミは溢れ、あたりはゴミだらけになるらしい。
「敷いてるブルーシートあるやろ、あれチャンと畳んで捨てたらカサ張らンのに、クシャクシャとして入れるから、直ぐ一杯になるネン、ホンマ困ったモンや」

バーべキュウ族は老若男女、大体服装がダラしない。そしてモノの捨て方もダラしない、と言う事だ。

「チョット、道の先のぞいて見ィ」
茶店の前からは、車一台がギリギリ通れる幅の道が、数百m先の集落跡まで続いている。そこにプリウスが停められている。ハイカーはその脇をすり抜けている。
「ワタシ、降りようとしたトコ見えたンで、そんなトコに留めたらアカンやん、て言うたン、ほんなら障害者や心臓悪いンや言うて、手帳見せンねん、ほんで、悪い思たんか、ビール買う、言うンで、心臓悪いのにビール呑んでエエン、言うたら、オヤジが呑むンやて、チョットヤクザかかっとうみたいやったから、それ以上話すン止めてン、アンタも相手にしたらアカンでぇ」
まぁスゴイ障害者がいるモンだ。ひょっとして、生活保護も受けてたりして、プリウス乗ってるのに。

「この頃、イノシシのエサやりでうるそうなって」
「でも、レイコさん、イノシシにエサなんかやってヘンでしょ」
「イヤ、エサ持って上がって来るヒト、おんねん、これから罰金になるらしいわ、ンで、こないだから神戸市の人、この辺りで見張ってて、エサやりよんのに注意しとったわ」
「そらよろしいヤン、野生動物にエサやったらあきませんヤン」
「そやけどイノシシ、エサなくなって困るやろなぁ、ナンカ悪させえへんかなぁ」

外では神戸市の職員らしき数人が、通るハイカー達をカウントしていた。

前のベンチには山ガールが3人休憩中。更にその横には摩耶山から降りて来たらしきジジババグループ。

河原で水遊びをしていた少女が自販機でジュースを買って行った。

市ケ原は大賑わい。「その割にはあんまり売れてヘンねん」、だとか。


唯一神を愛していれば天国の日々が多くなる

2012-07-23 22:50:26 | 一人ブラブラ

先週末土曜、またも映画館へ避難。

人気が出る前のリチャード・ギア主演「天国の日々」、神戸映画サークル協議会の7月例会だそうで、ワタクシ、会員ではないが、60歳になったので1100円で観させて頂いた。

この映画は以前、深夜番組で観た事があった。
貨車の屋根に乗せられて移動する難民(?)、これは大恐慌の「怒りの葡萄」、ウディ・ガスリーがギターを携えて放浪した頃のお話し(?)、そして、可哀想な難民の若きリチャード・ギアは、実は農場主の財産を騙し取ろうとした悪党で、最後は殺人者となり、しかし、金色に輝く麦畑は幻想的で、天国の様な処、と言われればそんな気もするが、最後はイナゴに襲われて、大騒ぎの中で燃え尽きて、一体何が「天国の日々」なのか、ケッタイな作品、としか思わなかった。まぁTVの深夜映画をボォ~と観てただけだから、そんなモンでしょ。

しかし題名は何故か憶えていて、神戸新聞や兵庫民報に載っている案内を見て、今度は気ィいれて観賞することにした。

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シカゴの製鉄所で上司を殴り倒した主人公が、妹とカノジョと共に貨車の屋根に載って流れて着いた、穀倉地帯での物語で、「1916年、〇?△大統領がパンハンドルにやって来た」と主人公の妹が語っていたので、大恐慌の頃の難民ではなく、そして穀倉地帯はパンハンドルだと判る。
セリフが少なく、妹が語ることにより物語は進む。

主人公は、「その方が都合がイイ」と、カノジョも妹と言う事にし、それを他の流れモノにからかわれて、殴り合いになったりしていたが、農場主がそのカノジョに惚れてから、話は核心へと展開する。

収穫量を計算した会計士(?)らしきジイサンから、「パンハンドル一の金持ちになった」と言われた農場主は、実は身寄りのない優しい若者で、主人公から強引にカノジョを奪い取ることはせず、収穫が終わって流れモノ労働者がパンハンドルを去ろうとした時に、「残っていて欲しい」と求婚する。
それと前後して、その農場主が病気で寿命後1年、と言う事を主人公は盗み聞きし、1年なら農業主のヨメハンになれ、とカノジョに指示する。1年我慢すれば農場主は亡くなり、農場は自分らのモノになる。
1年だけカノジョを売った訳だ。「その方が都合がイイ」との主人公の策はマトを得た。

収穫時の作業でのシーン、機械のそばで働く主人公が映し出され、直ぐ横を動くベルトに巻き込まれる事故や、また荒くれモノにケンカを売られてりして、カノジョは暴力的に奪われるのではないか、と主人公の不幸を予想したが、実は農場主はとてもジェントルで、気の弱そうな主人公は逆に腹黒かった。

農場主には、手配師や現場監督もする後見人らしきジジイがいて、「穂を落す量が多いから給料から引く」といった厳しい搾取を行うジジイで、コイツは主人公とカノジョのことを兄妹ではないと疑っていて、農場主に色々注意するのだが、逆に別の土地の管理に行け、と農場主から言われる。
このジジイが去る時、皺だらけの怖い顔を主人公に向け、農場主は自分の息子の様なモンで、彼に何かあったら許さん、と言い放つのだか、そう言われる若きリチャード・ギアは、何か不安気な、存在感の薄い感じの青年で、とても悪意を伴った野心などは感じられない。
大人しそうな、優しそうなイケメンがホントは悪党。そう言えばそんな不思議な若者は確かにいるけどね。

農場主とカノジョは無事結婚して、主人公とホントの妹は一緒に、ぽつんと建つ大きな屋敷に暮らすのだが、収穫を終えた後だし、毎日遊んで過ごす。
正に天国の日々を送ることになる。
主人公にとっては、農場主が死ぬのを待つだけ。

しかし農場主の病気は悪化せず、中々死なない。
主人公の焦りは募り、農場主に散弾銃を向けたりするのだが、そう言う時に曲芸師(道化師?)が飛行機2機でやって来て、彼らと一緒に浮かれた数日を送るが、その中で主人公とカノジョが兄妹で無いことがバレ、主人公は曲芸師の飛行機に乗ってどこかへ行ってしまう。

翌年の収穫期、農場はまた流れモノの労働者で溢れ、何故か主人公もサイドカーに乗って帰って来る。当然農場主の機嫌は悪くなる。

そして、金色に実った麦畑はイナゴに襲われる。
いぶして追い払おうとする夜の作業で、主人公は農場主に声をかけるが、農場主はイナゴを連れて来たのはお前だ、と言わんばかりに主人公に火を振り上げ、それが麦畑に移り、大火災。収穫直前の麦畑は燃え尽きてしまう。

翌朝、農場主はカノジョをなじり、縛り上げ、サイドカーを修理している主人公の所へ行き、彼を撃とうとするが、逆に反撃されドライバーで胸を刺され死んでしまう。

主人公とカノジョと妹は、金めのモノを持って逃げ、途中で車を船に替え更に逃げるが、結局は農場主の後見人らしきジジイとケイサツ(と言うか西部劇での保安官)に見つかり、黄葉の森を逃げ廻った挙句、最後は川に出て撃ち殺される。

その後、カノジョは主人公の妹を孤児院(?)に預け、自分は出兵の兵士を乗せた列車で消え去り、その後、妹も窓から垂らしたシーツを伝って孤児院を脱出、農場で知り合った女性と線路を歩いて消え去り、オワリ。

で、この作品が言いたい「天国の日々」て、何?
気ィ入れて観たが、前回同様よく判りません。

確かに、主人公とカノジョと妹、そして農業主も騙されたとは言え、「天国の日々」を送っていた季節はあった。
また、収穫時の金色に輝く麦畑は幻想的で天国の様、と言われれば確かにそうだった。

要は、天国の日々は長続きしませんよ、と言うコト?
やっと見つけた青い鳥が、その後直ぐカゴから飛び去った様に、幸せは儚いと言うコト?

神戸映画サークル協議会のサイトに載っている解説を読むと、「天国の日々」という題名は旧約聖書の一節からとられたもので、そこには、唯一神:ヤハウェを愛していれば約束の地=天国に住む日数が多くなる、と言う事が書かれているとか。

これは、阿弥陀如来を信じて念仏を唱えれば西国浄土へ行ける、と言うのと似ている様な気がするが、いずれにせよ死んでからの話ですよねぇ。

ところで、パンハンドルとは、フライパンの取っ手の様に突き出た土地のことを言うそうだ。ナルホド。
オクラホマとテキサスの間にあるらしい。


いわさきちひろ-27歳の旅立ち-を観て、猛暑を涼しく過ごす

2012-07-19 22:44:47 | 一人ブラブラ

ここはJRからも地下鉄からも遠い、垂水の丘の上。しかも7階なので風はよく通る。エアコンを付けるのは梅雨の末期のジト~っとなった夜間だけ、今年も稼働はまだ3日。
これからも多少の猛暑はガマンすることにしている。

昨日は通る風が、ガマン出来ない程生温かかった。
しかし、マッ昼間にエアコン付けて部屋で涼んでいては、オカシクなる。既に少しオカシクはなっているけど。
とにかくどこかへ、逃げないと。

布引谷・山の家も最近は木が茂りすぎて、風が通らず、暑さはこことあまり変わらない。
で、逃げるのは映画館にした。「いわさきちひろ」サンのドキュメンタリーをやっていたはずだ。エグゼクティブプロデューサーは山田洋次サン。

ついでに栄町通りの年金基金事務所に年金請求書を届ける。これでワタクシの年金処理はオワリ。
映画館へは上映の15分前に着いて、キップを求めると、「席は後8つしか残っていません。番号順に入場してもらいますので、最前列しか空いていないかも知れませんが、いいですか?」
いいですよと言うと、70番のキップをくれた。水曜日はサービスディで、オトコも千円だった、ラッキー!。
程なく、満席になったとのアナウンス、へぇ人気あるンですね、「ちひろ」サン。

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ワタクシが冬に通っている信州の雪山、そこへ行く途中の安曇野に「ちひろ」サンの美術館がある。
真冬は閉館で、確か3月から再スタート。丁度その頃、雪山には飽きて、時々早目に宿を出て、その美術館に寄って帰ることが何回かあった。

安曇野の畑の中にあるタダっ広い敷地を持つ美術館。ノンビリしていて、駐車場入り口そばに「大北九条の会」の看板、いいロケーションです。
子供を紛争や戦争、つまり大人の暴力から守りたい、と言う「ちひろ」サンの意が込められた作品の数々は、あまり真剣には見ず、ただ館内をブラ~っとして、反戦の人達が集う雰囲気を楽しんでいた。

本人も共産党員で、弱い労働者の争議しか扱わない弁護士のダンナと家計を、自分が絵を書くことにより支えていた、と言う説明を読んでへぇ~っ、スゴッ。
しかし、ホントは「ちひろ」サンが描く、ほとんど黒眼だけの少年少女たち、ワタクシ、怖いンです。
お前らオトナは、ショ~もないことばかりやりやがるアホや、と見透かされているみたいで。
だから、どんな作品、どんな絵本があるか、と言う事はよく知らなかった。

映画で紹介されていた、ベトナム反戦の意を込めた「戦火の中の子供たち」と言う絵本の存在も知らなかった。
そして、それを書いた後、ベトナム戦争が終わる前に亡くなられた、と言う事も知らなかった。
“トットちゃん”で騒がれていた頃は、まだ生きてはった、と思っていた。

「ちひろ」サンが亡くなられた頃、ワタクシはまだ反戦学生だった。
色んなセクトが反戦を叫んでいて、しかし何がどう違うのか、どこがイイのかが良く判らないし、そもそも何かの集団に入るのが嫌だったので、どこにも属さず、ただ反戦集会やデモには参加していた。
’70年アンポには負けたが、その数年後、遂にベトナム戦争はオワリ。
アメリカ帝国主義はさんざんベトナムでヒドイ事をした挙句、負けた。
ヤッタァ、ザマぁみさらせボケッ!

しかし、アメリカはその後もイスラムに敵を見つけ、相変わらず戦争を続けている。アメリカ繁栄の象徴が、その戦争相手の反撃で破壊された後は、更に戦いを拡大していた。
その中で沢山の子供が今も、手足をもぎ取られたり、命を消されたりしている。
そして、アメリカの同盟国のこの国(安全保障条約を結んでいただけじゃなかったの?)は、豊かさが行き詰って、子供たちは友達をコロし、友達からコロされたり、自殺したりしている。

今、「ちひろ」サンが生きてたら、こんな状況をどう思うのだろう、そう言うナレーションが映画の中でも流れていたが、おっしゃる通り。

いずれにせよワタクシ、お蔭さんで涼しい2時間弱を過ごさせて頂きました。


昨今のスキー道具事情、クビレはイイ

2012-07-18 23:59:03 | 山とスキーでブラブラ

小夜鳴き鳥、夜に鳴くウグイスを英語でナイチンゲールと言うそうだが、ワタクシ、戦場で敵味方分け隔てなく傷兵を手当てする看護婦サンのお名前だと、ズッと思っていた。
これをフランス語ではロシニョール、これもズッとスキー板メーカーだと思っていた。

グルノーブルの五輪で、史上二人目のアルペン三冠王となったフランス人が履いていたのはロシニョールの茶色の板。

その約10年後、北極圏に近い村出身の天才スラローマー、W-CAP86勝のスーパースターが使っていたブーツメーカーは、何年か前ロシニョールに吸収され、そのブランド名は消えたそうだ。

また、ワタクシが一昨年から使っているのはNORDICAの板。
しかしNORDICA、昔はブーツメーカーだった。初めて名前を知ったのは、皮の登山靴を作っていた40年以上前。
いつから板を作りだしたのか。調べると何年か前にKASTLEを吸収したのだそうだ。
NORDICAはイタリア、KASTLEはオーストリア。板には、“エンジニアード イン イタリー、メイド イン オーストリア”とプリントされていて、笑ってしまう。

スキー人口が最盛期の1/3になったと言うのに、スキー道具のバリエーションは逆に広がっている。
本棚に’80年代のスキー道具のカタログが残っていて、それを見ると板のモデルは大体20種程。
その後デモモデルとか言うのが出て来て、テレマークや山スキー用も出来て、更にフリーや、パックカントリーとかに分化され、今や50種前後になっているメーカーもある様だ。

大幅に減った客数に対して沢山のモデルを供給しないといけない。メーカーは大変だ。
いくつかのメーカーが吸収されたり統合されたりするのは当然でしょうナ。

そして淘汰されたメーカーは、2倍近く広がったバリエーションに対応し、しかしお客さんは少ないので少量生産、よってお客さんは早目に予約しないといけない。バッチリなモノが予約出来れば、オーダーメイドに近い。ありがたい話です。

スキーと言うのはある意味、自然破壊なので、沢山の人が楽しまない方がイイ。だから用具も沢山作る必要はないし、こう言う売り方、買い方でイイと思う。趣味とはそう言うモノだと思う。

ただワタクシ、純粋なスキーをズッとやっていた訳ではなくて、30年程前からメインは山スキー。
オールラウンドと呼ばれるゲレンデ用の板にも、山スキー用ビンディング(登高時には切替で、踵が上がるモードになる)を付けていたし、シーズン中は一度もゲレンデを滑らず、5月の連休に剣・立山へ行くだけの年もあった。

ワタクシのスキー道具の稼働率は非常に低くかった。しかもモノが捨てられない性格、買い替えなど頻繁にはしない。
メーカーの沢山のモデルから何本かの板を選び、その特徴を味わう様な、ゼイタクな趣味もない、違いも判らンし。

と、いう事で用具を厳選し、予約までしてゲットする必要などなかった。

ところが、4年前から信州・雪山通いを始めて、真冬から山へ入るようになると、まず深雪が上手く滑れる板が欲しくなる。

山スキーの板が、フリーモデルとかバックカントリーとか呼ばれるようになって、21世紀、深雪OKのファット(幅広)が登場して、真冬でも皆さんドンドン山スキーをするようになり、ワタクシも2年前から取りあえずファットユーザー。
幅広の形状はまさに“板”のイメージ。これまでの細いのはタダの“棒”だった。

そしてナント、数年前には逆反りの板が出来ていた。

これはロッカー(ロッキングチェアーの湾曲した脚部)と呼ばれていて、山を滑っている時、板を折ったアメリカ人が、それを履いたまま降りてきたら、深雪では滑り易かった、と言う事で出来たらしい。
滑走面同士を合わせると隙間が出来ない形状で、ケッタイな感じだが、深雪では板が浮いてうまく滑れる、と言うのは判る。
今までの真ん中の隙間、つまりベントがある板は加重/抜重で、それが+/-になってターンするのが、ロッカーはそれが+2/+になってターン出来る、と言う訳か、ナルホド。

そしてこのロッカーはフツーの板にも、廻しやすいと言う理由で採用され、ロッカーと従来のベントが合体したのも、次々と出来て、それが今はフツーになっているそうだ。

要は、先端の反り返り地点が真ん中寄りになったと言う感じ。
その地点が前後へずれたり、後の反りがあったりなかったりで、色々タイプがあるらしい。
ユーザーは、自分が滑るシチュエーションに合わせて、それらから選べると言う事で、カタログにはどこから反り返っているか、後のそり地点も含めて示されている。

しかも反り返り地点が板の内/外で違うモノも出て来たらしい。
これは前後とも、内側は先端寄り、外側は真ん中寄りになっているらしく、要は板の前半分と後半分が、真ん中に対してねじれていると言う、革新の3D。
内側は昔の様に先端寄りにしてエッジングし易くして、外側は真ん中寄りにして廻しやすくする、ナルホド。これはスゴイしオモロインちゃいますぅ。
作ったのは、30年以上前、北極圏に近い村出身の天才スラローマーが、W-CAPで86勝した時使っていたメーカー、elan。

ファットで深雪を滑れる有難味を、思いっきり味わせて頂いていたワタクシ、しかし、幅広の板は、面積(体積)が増えた分重い。登るンがシンドイ。
なので、もう少し幅が狭くても軽いのが欲しくなった。所謂、セミファットと言うヤツ。

20年近く前、カービングスキーが出来て、その後スキー板はコカコーラの瓶の様に、と言うか女体の様に、真ん中がグッとクビレてとても官能的になった。
そしてカタログには、板の長さとは別に、そのスリーサイズが明記されている。まさに「女体」、イヒヒ。
ワタクシ、2年前まで使っていたのが109-68-96。それをファットの135-98-125にしたが、それを来シーズンからは、せいぜい120-80-110位のセミファットにしたい。
ねじれた革新3D形状のelanの板にはそのサイズに近いのがある。
このスリーサイズを持つ「彼女」が欲しい。こんな「彼女」なら雪上だけではなく、抱いて寝てもイイ、硬いけど。

そして、6月の終わり、イシイスポーツの予約会。「彼女」を予約しに大阪、京橋のツインタワー横のビジネスパークへ。

しかし、「彼女」はゲットできなかった。

最近のスキーはビンディングとセットする事により、その性能がUPされているらしい。
数年前から、よく工夫されたプレートを挟むことで性能UPが進んだらしいが、現在はそれらが一体化して更に進化したらしい。
つまり、ねじれた革新3Dの「彼女」にも専用ビンディングかセットされていて、「彼女」だけを頂いて、それに山用のビンディングを付ける、と言う事は、絶対出来ないそうだ。

そんな話をelanのスタッフから聞いていたら、板の内/外の反り返り地点が違う形状から更に進化して、板の中心線と両サイドの反り返り地点違う形状の板もある、と彼は言い出した。
板の内/外の反り返り地点が違うだけなら、板はねじれているだけで、滑走面はフラットなのだが、中心線と両サイドの反り返り地点が違うとなると、板の先端、後端に近付くにつれ、滑走面は「船底」になっていく。
これは、パークと呼ばれるエリアを飛んだり、跳ねたり、トンボ返りしたりするためのモノで、そんな整地されていない荒れた斜面で操作しやすくするための、革新3Dらしい。

しかし、山へ入るとそんな整地されていない斜面ばかり、トンボ返りまではしないが、「これ山スキーとしてエエンちゃうのン?ビンディングは専用になるン?」と訊くと、
「ビンディングはセットされてませんので、山用でも付けられますが、今年はこの板、イシイさんからオーダー入ってません、他に扱ってル販売店サン、関西ではよく知りません、北海道にはあるンですが・ ・ ・、 どうしても、と言うのであれば、来年3月頃に再来年モデルの予約をイシイさんに入れて下さい」

来年モデルの予約に来たのに、再来年の話し?、オニが大笑いしそうだ。

「お客さんの場合、フリーモデルとかバックカントリーとか言うのではなくて、結局はツアーモデルになると思います。フリーモデルとかバックカントリーとか言うのは、あくまでもリフトを使う事を前提としてて、ハイクアップと言ってもほんの少し登るだけです」
なるほど、リフトを降りて、チョコっとハイクアップして、ゲレンデ外の未圧雪エリアを滑るのがバックカントリーと言う訳か。
しかしそこは立入禁止、それは雪崩を誘発する危険行為だ。
そう言う問題があるので、これからはゲレンデ内に未圧雪エリアを作ってそこを滑る、“サイドカントリー”と言う分野が出来るらしい。あぁヤヤコシ。

結局、elanのスタッフが言う通り、ツアーモデル:昔からの山スキーの継続モデルで、ATMICの119-85-108.5/164cmと、elanの125-95-112/163cmのクビレたバディを婚約、ではなく予約。クビレ具合は、ATMICの方がいい。

’80年代のスキー道具のカタログに載っている「彼女」たちは全て、カービングになる前のずん胴スタイル。まぁ色気のないこと。それでもワタクシ達、こんなンに恋していた。
しかし、今のスキー板、クビレててイイですナ。