蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

“良い会社”を辞め、燃えるゴミのコンテナに、初めて書籍を投げ棄てた夜

2019-12-18 16:36:36 | 駆け抜けた一回性の記憶

12年前の12/25、20年勤めていた特殊機械メーカーを早期退職した。

会社は12月決算だったので、キリよく12月末まで勤めるつもりだったが、給与計算がメンド臭いから25日で辞めてくれと言われた。

その特殊機械メーカーは“良い会社”として、巷でも知る人ぞ知る存在だった。

叔母が認知症になって大きな病院で診て貰ったが、詳しく状況を訊いてきて欲しいと、オフクロから頼まれたのは、退職する3年前。
その大きな病院は、神戸の名を冠した超大手製鉄会社の系列だった。
面会した医師は、叔母はアルツハイマーで、もう治らない、薬で進行を遅らせるだけと、ありきたりの説明した。
この時、いつもの営業癖で名刺を出したが、後日その医師は、あの患者の甥御サンが勤めている会社は“良い会社”で有名だ、と周囲に言っていたらしい。それはオフクロが伝え聞いた。
特殊機械メーカーの技術部長は、その超大手製鉄会社から溢れ出た技術者で、他にも数名、同様に溢れ出た技術者がいたので、そのルートで医師は知っていたのかも知れない。

神戸近隣の小都市にある化粧品会社の若い技術者から、火急の引き合いがあったのは、バブルが終わりかけの頃。新規商品を数週間後に出荷しなければなず、何とか設備を間に合わせたい、とのこと。
それは特殊機械2品種を組み込んだ装置であり、特殊機械単体でも納期は最短1か月、それを架台に組み込み制御盤を付けないといけない。数週間は絶対無理。
「何とかなりませんか?」、生産技術部のリーダーになり立てらしき、技術者は只々懇願するばかり。
ワタクシはまず、2品種のテスト機を単体で貸与。化粧品会社側では、生産ラインに増設した架台に1品種を取り付け、制御はそれを電磁弁をラインに合わせてオン/オフさせる、それ位出来るでしょ、と彼に説明し、やってもらうことにした。
新製品の出荷には何とか間に合い、1ケ月後にワタクシは実機を無事納入、彼は課せられた宿題を見事クリアーし、翌年メデタク表彰されたらしい。
その頃、大手新聞社がこの特殊機械メーカーの創業者:社長を取材していて、その記事を彼は読んだらしく、「ホント“良い会社”なんですねェ」と感心していた。

しかし、会社の良し、悪し、何をもって“良い会社”と言うのか。
「キュウリョ、良うてもなぁ」、特殊機械メーカーの、更に特殊な機種の技術責任者で、度々技術部長と対立していたМさんは、そう呟いた。

そのメーカーの“良い”は利益額だったと思う。
経済誌が発表する年間利益額1万社ランキングでは、ワタクシが入社する前からランクインしていたらしい。
何故そんなに利益額が良かったのか。
それはその特殊機械が、機能、性能、特徴、品質等、多くの点で優れていたからであり、それを社員全員が一丸となって、懸命に設計、製造、販売していたからだ。そして、営業は更に「開拓」し、技術は更に「開発」し、工場は更に「改善」していた。真面目に真剣に、そして息苦しくなるほどに。

この“良い会社”を紹介してくれたのは、学校を卒業して就職した、艤装品メーカーの創業者の娘婿だった。

卒業した年は、この国が高度成長期から安定成長期に移り数年経っていて、理系への求人が極端に悪かった。
一流大学で成績も良ければ、なんとかなったのだろうが、アホボン大学の宇宙線研究室で、卒論はちゃんと書いたが、それ以外の成績は悪かった。そんなワタクシに、まともな就職先はない。

そもそも社会人になって何がしたいとか、社会に貢献したいとか、そんな目標はなく、業界、業種、職種の希望などもなかった。
そして結局、神戸・元町に本社がある艤装品メーカーの経理職に収まった。
その艤装品メーカーは川重の協力工場であり、主力商品の扉錠等船室金物は全国展開でシェア9割だった。しかし、造船業界自体が斜陽産業になり始めていた。
そう言う中で、入社3年目に大阪・生野にあった工場で労組が出来、その結果、給与体系を見直し昇給することになった。

給与体系見直しの責任者が創業者の娘婿。
彼は中堅造船所を中途退職し、その艤装品メーカーに転職、同時に創業者の長女とバツイチ同士で結婚していた。ワタクシは経理として、娘婿の給与体系見直し作業を手伝った。
しかし、労組の要求を収めても、業界が縮小の一途を辿っていく状況で、メーカーの業績が良くなるはずはなく、最後は某空調工事会社から資本が入り、そこが経営することになった。
その空調工事会社も造船業界で仕事をしていたが、陸上への転換がかなり進んでいて、何といっても、物事を強引に進めることで評判が悪かった会社。

ワタクシは、そこからやってきた役員に、経理から営業へ転籍するよう指示を受けた。
娘婿は、部長としての役職のまま残っていたが、明らかに閑職。営業の手伝いなどをしていて、ワタクシも大阪の造船所での、最後の大きな仕事を手伝ってもらっていた。

その大きな仕事が終わる頃、創業者一族は舶用艤装品メーカーから完全に手を引いて、娘婿は新しく会社を興すことにした。
しかしまだ、その会社にワタクシを雇うほどの企業力はないので、同じ神戸にある特殊機械メーカーを紹介するがどうか、と言い出した。
某空調工事会社の経営に代わったても、中々うまくはいかず、結局、本社神戸の土地を売り払い、神戸の従業員は、空調工事会社と繋がりがあった、新大阪の貸しビルまでの通勤を強いられることになった。

明らかにそれがイヤならヤメろと言わんばかり、そんな状況にはもう未来はない。
ワタクシは直ぐ、紹介して貰った特殊機械メーカーへ、面接を受けに行った。
娘婿は、「ウチと違って、ちゃんと社是もあり、独自のシッカリした技術を持っている“良い会社”だ」と後押しした。

特殊機械メーカーも、昔は舶用向け機器を作っていたそうで、艤装品メーカーとは造船業界内での繋がりがあり、創業二代目:次期社長どうしも繋がりがあったらしく、ワタクシは特殊機械メーカーの嫡男: 副社長A氏を紹介された。

その“良い会社”の堅牢な4階建てのビルに着いて、副社長A氏を尋ねると、受付のオバサンから「まず社長が面接します」と言われ、ワタクシは恐縮した。

社長B氏は、その艤装品メーカーは一体今、どうなっているのか、ワタクシに尋ね、その後、自社が設計、製造、販売している特殊機械の原理、構造、機能、特徴、そしてその売り方などを説明し、それを専業にしている自社が、いかに“良い会社”なのかを説明した。

やがて副社長A氏が席に着き、社長B氏は、ワタクシが入社した後、挫折、つまりその特殊機械をうまく売れなかったらどうするのかとか、ワタクシの転職を帰納法で捉えるか、弁証法で捉えるのか、とかの議論を初め、ワタクシはさらに恐縮した。帰納法とか弁証法などのコトバは10年以上聞いたことがなかった。
社長B氏からは、もう一度よく考える様に、と言われその日の面接は終わった。

確かに艤装品メーカーが明日潰れて、直ぐ就職先を探さないと行けない、と言う状況ではない。
また、それまでは、造船業界だけでの、しかもメカニズムのない船室艤装品の販売であったが、転職すると、あらゆる産業界への、メカニズムのある特殊機械の販売となる。ホントにう
まく売れるのか。

しかし、「会社と言うのは急に大きくする必要はない、社員が食べていけるのに必要な分だけ、少しずつ大きくなればイイ」とか、「もし全く売れなくても、今は社員全員を1年程喰わせる蓄えはある」といった、社長B氏の前日のハナシを思い出して、ここへの転職を躊躇する理由はない、と思った。
大体「社員が食べていけるのに必要な分だけ、少しずつ大きくなればイイ」、そんな社会主義的なことを言う、経営者がいるのか。

ワタクシは翌日、副社長A氏にTELし、「入れて下さい」とお願いした。彼は「エエよ」と素っ気なく応えた。
社長B氏はもう、帰納法とか弁証法とかの難しいハナシはなしで、入社後のワタクシの給与額を提示した。それは艤装品メーカーの平均残業込みの給与額とほぼ同じだった。艤装品メーカーでは組合の関係で、営業でも残業手当が付いていた。
社員数も売り上げも、当時はほぼ同じ、しかし艤装品メーカーにはない、未来はある、と感じた。

副社長A氏からは、今までのこと、つまり艤装品メーカーでの経験、常識、価値等はすべて忘れろ、直ぐに大きな成果とか手柄を上げようとはするな、皆と同じ事をせよ、一生懸命する必要はない、真面目に真剣にやれ、と言われた。

ワタクシは8月末で舶用艤装品メーカーを退職し、9月1日、特殊機械メーカーに入社、翌2日から工場研修が始まった。

そして社長B氏からは「早く慣れて、C君の片腕になったってくれ」と言われた。それが採用の条件の様にも感じた。

C君とは、奇しくもワタクシのアホボン大学の4年先輩で、銀座にある東京支店に席のある取締役営業部長、要するに直属の上司になる人物。ワタクシはCの指示命令には絶対的に従わなければならない。
社長B氏は社会主義的なコトも言ったが、会社には民主主義はない。絶対君主制なのだ。営業部長Cの指示は、社長Bの指示、イヤなら辞めるしかない。

創業者・社長B氏を悪く言う人は、一人もおらず、皆サン“畏敬”の念をもって接していた。“良い会社”を起ち上げ、出身地に工場を建て、親類縁者を初めとして地元民100人以上の雇用を創出した、所謂「カリスマ」だった。
また、次代の幹部となるべく部下には、厳しく接し、ほぼ全員が怒られ、怒鳴られたらしい。B氏に怒られたことを、自慢げに話す人も多かった。
嫡男A氏も、社長B氏から厳しく育てられ、ワタクシを紹介した、艤装品メーカーの娘婿もそれを聞いており「オヤジから、クチビルを震わせて怒られたらしいよ」と言っており、「2代目のアホボンのカケラは微塵もなく、とにかく真面目な人だから、
全く安心していいヨ」、とも言っていた。

そして、営業部長Cは、アホボン大学では応援団長だったと聞いて驚いたが、フツーのビジネスマンだった。学生の頃、流行った“花の応援団”の“青田赤道”の、異様で暴力的な雰囲気を連想したが、そうではなかった。
30代で取締役営業部長になったスゴイ人だが、特にスゴサは感じられなかった。
社長B氏の片腕で、創業時の前営業部長が早逝した、と言う“幸運”もあったのか、また東京進出に真っ先(?)に手を挙げたためなのか、親戚なのか、いずれにせよ、30代の営業部長は
とにかくエラッそうにしていた。それは、“良い会社”の“品”にそぐわない様に感じた。

そして3ヶ月の工場研修後、配偶者と二人の子供を連れて、営業研修として東京支店へ転勤した。家族を連れての転勤者は会社初だったそうだ。

20人足らずの東京支店は、関西出身者も多く、ほぼ全員フレンドリーだった。また、スゴサは感じられず、ただエラッそうにしている営業部長Cの、“アンチ繋がり“で、皆サン仲が良かった。
ワタクシが、Cの大学後輩という事で、その繋がりで入社、との思い込みもあったようだが、副社長A繋がりだったことを説明し、ワタクシへの“警戒”は解けた。

しかし、中に入ると“良い会社”の、ネガティブな出来事を知ることになる。

入社時、社長B氏は、この会社がイヤで辞めて行った者は、一人もいなかった、と言っていたが、東京支店へ行って直ぐ、同じグループにいた若者が辞めた。工場がある地方の出身者だった。

また、従来より交通事故が多く、遂に死亡事故をおこしたサービスマンはクビにした、とも言っていたが、ワタクシが入社する少し前には、ナント!性犯罪を犯した営業マンが逮捕されたらしい。クビするどころの話ではない。

この性犯罪者は、サドの性癖があり、人妻を篭絡していたそうで、その女性の訴えで自宅を捜査すると、SM道具や女性に使ったサルグツワなどの物的証拠が見つかり、即逮捕となったらしい。
月曜の朝、朝礼が始まる前、いきなり警察手帳をかざした一団が突入して、「〇✕△の席はどこだぁ!」、犯罪者の机の抽斗が開けられ、フラッシュが焚かれ、「そらもう、Cさんも唖然とするだけで、大騒ぎでしたよぅ、ハハハ」、工場からサービスマンとして、東京へ転勤して数年目の若者は、嘲笑う様にその、トンデモナイ話を教えてくれた。
この犯罪者は県会議員の紹介で、副社長A氏はとても評価していたそうで、「ウチにとって何かスゴイ事をしてくれる人だ」と言っていたらしい。A氏の“人を見る眼”は完全ミスった訳で、「ホンマ、スゴイ事をしてくれたわぁ」と、C氏はバカ笑いしていたとか。
当初、副社長A氏から、東京転勤は単身赴任はダメ、と言われた。そして、この性犯罪者は単身赴任だった。それを聞いて、単身赴任ダメはナルホドと思った。
まぁ“良い会社”なので、色んな人が入社を希望する。 玉石混交、犯罪者が紛れることもあるのだろう。

一種のかん口令が出ていたのか、この話をしたのは、このサービスマンだけだった。
しかし、何年後かに、某メーカーから久々の引き合いがあり、訪問した時、そのメーカーの担当者から、「あの時はビックリしましたよゥ」と、この事件を話し出した。
その性犯罪者は、そこで打ち合わせ後、直帰し、その後で犯行に及んだそうで、足取り確認で刑事が
事情聴取に来たそうだ。世間は狭い。

その他、ネガティブな出来事は他にもあったが、いずれも些細なモノばかり、“良い会社”とは言えど、畢竟ヒトの集まり、世間は色々あるのだ。

東京へ来て、まだ担当エリアも決まっておらず、先輩方の手伝いをしていた頃、C氏から呑み屋に呼ばれた。
何だろう?、と言われた店へ行くと、C氏は友達らしき年配の男性と呑んでいた。

その男性は関西に本社がある、商社の社長。特殊機械メーカーとは同業界で、汎用機械のメーカーの、商事部門の社長で、この特殊機械メーカーの製品も売っていた。
同じ関西出身の古い友人的付き合いで、しょっちゅう呑み歩いていた様だ。
数年後ワタクシが関西へ戻った時、付き合う事になると、C氏はワタクシを紹介した。その後二人は世間話をしていたが、C氏は「ワシ、これで帰るから、後、話しとけや」と言って帰った。
商事部門の社長は、当り障りのない世間話を続け、ワタクシは頷き続けていたが、いきなり「アイツも、社長(つまりB氏)のムスコやぁ」と言い出した。「あぁそうなんですか」、ワタクシは抑揚なく応えた。

30代の営業部長には、そうなる為の何らかの事情があるハズだ。しかしスゴサが感じられず、エラッそうにしているだけならば、事情としては、親族しかない。非嫡出子ならナルホドとなる。騒ぐことはない。と言うか、どっちでもイイことなのだ。

ただ、あれこれ事情があったとしても、“良い会社”の営業部長、それなりに注目されるし、噂もされる。

“良い会社”はともかく、営業部員としては、営業部長からは指示を受ける立場。それなりに注目し、漏らさず聴かないといけない。
よって色んなメンバーから、「Cさん、こんなこと言ってたよ、やってたよ」と言った情報が寄せられる。殆どが、スゴさが感じられず、エラッそうにしているだけのC氏を、からかうニュアンスを含んでいた。
そして「なんでこんなオッサンが・・・」との感情が言葉の裏に垣間見える。しかし「こんなオッサン」とは体制なのだ。イヤなら辞めるしかない。

仕事での失敗が多いことで有名だった年配の営業マンは、C氏から聞いた話として、父親は小さい頃からいなかった、と言っていた。事故死とか病死ではないらしい、とも言った。何故そんな話題になったのかは、よく覚えていない。
また、東京支店の実質のリーダーであった、一歳下の男は「でもまぁ、“魅力ある”人だよねぇ」と、言っていた。

いずれも、何かスッキリしない、意を汲んでくれ、と言うのか、ヘンな喋り方だった。

ある日C氏は、「最近どないやぁ」と言いながら側に来た。ワタクシが色々応じると、C氏は机に腰を掛け、ワタクシを見下ろしながら話し続けた。机の上には客先から届いた仕様書を広げていた。その横にC氏の半ケツがある。ワタクシは、何と下品で失礼なヒトなのか、と思った。
ある年配の営業マンは、社長B氏は客先の設計室へ行くと、担当設計者の机に半ケツを掛けて話し込むので、困ったモンだ、と言っていた。担当設計者と言えど、お客さんである。この下品で失礼な狼藉は、社長B氏が始めた“文化”だったのか

そもそも客先の設計室は、カウンターの中へは入れないケースが多い。用があるなら、内線から連絡し、出て来てもらって、側の打ち合わせコーナーで済ませる事になっている。
しかし挨拶程度が多いワタクシは、ほぼいつも内線をパスし、ズカズカと入っていた。
担当設計者は「おぅ、来たかぁ」と、言った感じで向かい入れてくれた。内線で連絡せよ、とか、用がないのに入って来るな、と言われたことはなかった。
当然、ワタクシは担当者の机に腰掛けるようなことはしなかった。

C氏は学生の頃より、社長B氏を知っていて、卒業後直ぐ入社、「ワシの営業の師匠は、社長やぁ」と言っていた。
しかし、
社長B氏には、しばしば理不尽なことをされたらしく、未明の自宅に電話して来て、支店の女子社員の電話での対応が悪い!と怒られたとか。「朝の4時前やでぇ、もう堪忍して欲しいワァ」。未明の自宅にオシカリの電話が来る、“師匠”とはそんな仲なのだ、と言いたかったのか。
入社したての頃、社是もチャンとあって凄いですね、と言ったら、「社是?あんなン、社長が考えたモンではなく、三菱重工かどこかの、何かに書いてあったン、真似しただけや」、などとも話していた。
社長氏はC氏の1歳年下だが、C氏の何年後かに入社したそうで「アイツ、会社がキチンと出来た後で入ってきやがった」と、これは何度も言っていた。
これらのハナシを聞くと、C氏が社長B氏のムスコかどうかと言うより、何か微妙な関係の存在を感じる。

ではどうして30代で取締役営業部長になったのか。副社長A氏は「ゴマや」と言っていたらしい。

この会社では、役職を付けて呼ばなかった。先輩でも、上司でも、同年や年下なら、「君」付け、後輩でも年上は、「さん」付けだった。
これはいいルールだと思った。

そもそも役職呼称には意味がないと思う。会社がシッカリしていて、真面目に仕事をしておれば、社内ルールに従って給与や役も上がる。気が付けば、課だらけで、中には部下のない課長のケースもある。
能力があってエラクなるのでなく、時間が経てばエラクなる、そう言うモノなのだ。
前の船室艤装品メーカーでは、古株の真面目な課長に「〇✕△はん、そらぁアカンでぇ」とか言う無礼者が何人かいて、キチンと役職を付けて呼べ、と通達された事かあった。無礼者の存在が、「役職付けで呼べ」と言うルールを、改めて押し付けられた事になる。無礼者の指導、教育、究極は排除、で済む問題なのに。
ワタクシはこのルールも、“良い会社”の証しだと思った。

しかしC氏は、社長B氏だけは「社長」付で呼ぶべきだ、と“ゴマスリ”提案をしたらしい。
客先での打ち合わせ時、何度も社長を「Bさん」と呼んでいたため、ヘンな顔をされたから、とC氏はその理由を語った。これはー理ある。
色々あっても、
同族会社のメーカーの創業者なのだ。社長はあくまでも社長。世間の常識の多くは、その社長を「Bさん」と呼んでいる光景を、異様だと思ったのだろう。
とは言え、この会社には、「世間の常識はウチの非常識」「ウチの常識は世間の非常識」と言う矜持もあった。
それなら「Bさん」と呼んで良いのではないか、とも思う。

ただ副社長A氏が、ゴマスリと言っていたのは、ひょっとして社長B氏は、他の誰もがしなかった部長C氏の、この提案を喜んでいたのかも知れない。
まぁどうでもイイことだが、「世間の常識はウチの非常識」「ウチの常識は世間の非常識」と言う矜持も、“良い会社”の証しだと思った。

ある日、製品の事を全く知らない会社から、問い合わせがあった。ワタクシはまだ見習いで、売り上げノルマはなく、ただの説明で終わりそうな感じだったので、C氏の付き添いでワタクシが行くことになった。
ありきたりの説明を終え、世間話になり、C氏は、会社は関西で、自分の生まれも育ちも関西だが、元を辿ると東京の出だった、と話し出した。「私も東京ですワ」、とベタベタの関西弁で、C氏は言ったが、「どこが東京なんだよゥ」、相手の突っ込みが聞こえそうだった。

その後、色々話しているとC氏は、どうやら東京が好きなようだった。と言うか、芸能人が沢山いる東京が好き、という事らしい。
近所に歌手のダレが住んでいる、俳優のダレを見かけた、そんな話をC氏からよく聞いた。「それは良かったですねぇ」と話を合わすと、得意気になって、嬉しそうに話は続く。要するに“ミーハー”なのだ。

“良い会社”の営業部長は、ウチは技術力で売っている、と胸を張っていた。対外的にも、技術力の高い、真面目でカタい企業だと、認められていた。
しかし、営業部長本人は、カタいくもない、只の“ミーハー“でもあった。正に突っ込みドコロ満載、これはウケる。
東京支店の実質のリーダーであった、一歳下の男は「でもまぁ、“魅力ある”人だよねぇ」と、言っていた。確かにウケる。

特殊機械メーカーの営業は、客先要求に対し、適正な機種を選定し、それを有益に稼働させるための使い方などを工夫、提案することで、そもそも機械が好きだったワタクシにとっては、楽しかった。
ワタクシは、
副社長A氏から最初に言われたように、直ぐに大きな成果を上げることはなく、他の営業と同じことをした。

そして3年後、見習いを卒業し、神戸に戻った。

大阪にも営業所があったが、舶用営業時代の“燃え残り”が二人、神戸営業所として燻っていた。

一人は、社長A氏が別メーカーから独立し、この特殊機械メーカーを立ち明けた時について来たX氏。もう一人は、舶用機械を作っていた頃、その代理店にいて、そこが倒産したので拾われたY氏。

X氏は、ヘビィスモーカーを通り越して、煙突状態のエブリタイムスモーカー不健康極まりなく、死神の様な雰囲気。現に早死にした。まだ50代前半だったと思う。
カミソリと呼ばれた記憶に耽り、役に立ちそうにない独特の美学を持っていた。

Y氏は一応、国立の商船高専を卒業して、船長コースの船乗りだったそうだが、結局はケツを割って陸に上がり、舶用機器の商社に転職。しかしそこが倒産、この特殊機械メーカーに紛れ込んたらしい。
いつも不満げで、“良い会社”に拾われた事に感謝はなく、いきなりヒステリーを起こしたり、営業部長C氏に対する妬み嫉み激しく、C氏は社長B氏のムスコだ、と憚りなく言っていた。
会社やC氏をあれだけネチネチと批判していたのに、Y氏はスッキリに退職できず、C氏に頭を下げ、70歳近くまですがりついていた。

この二人は、昔から仲も悪く、早く営業から外すことが、当時の人事のテーマだった様で、神戸に戻って一年後の春、前触れもなくワタクシの所長任命の辞令が出て、二人はシマツされた。
しかし、この規模の営業所では、その所長はプレイイングマネージャーがアタリマエ、と言うかマネージャー的仕事は、まずなかったので、結局は所長になる前と何も変わらなかった。

とは言え、それまでは、このシマツされた二人ともう一人の中堅Z君、3人で廻していた営業所が2人になり、それなりにキツかった。
ワタクシは、月曜は神戸から姫路までの客先を廻り、火曜から木曜まで広島、山口、愛媛、高知へ出張、金曜はまた、神戸から姫路までを廻るパターン。
もう一人のZ君も、兵庫、岡山、香川、徳島を廻っていて、営業所は、アシスタント兼部品営業の女性が一人の状態が多かった。

それを、シマツされた二人は、「誰もおれヘン営業所になった」と批判していたらしい。
しかし営業所に客は来ない。営業は客先に行かなければ、商売にならない。むしろ営業所はカラの方が健全なのだ。
そういう感覚が判らなかったから、二人はシマツされたのでは、と思う。

いずれにせよ、定時は21時、土曜出勤はアタリマエとなり、営業は 誠意と熱意、それを支えるのは、気力と体力。
とにかく毎日が“ガムシャラ”で、それが楽しかった。

なぜ楽しかったと言うと、それは給料が高かったからだ。

この“良い会社”は給料が高かった。入社時、副社長Aは、給与は大企業並み、と胸を張っていた。確かに40代半ばで、年収は1千万を超えていた。これを維持するには、“ガムシャラ”を維持するしかない。

営業部長C氏は、相変わらずで、スゴサは感じられず、ただエラッそうにしていて、皆に嫌われ続けていた。と言うか、皆に好かれる優しい行為、言動をしてはダメだと信念を持っていた様だ。

ある年の年初会議は土曜にあった。皆は文句を言いながら、休日を会議で潰した。
そして休み明け、皆は旅費精算と同時に休日出勤手当を請求した。そもそも営業部員は全員、残業代込みで給与が取り決められているので、深夜残業も休日出勤も、給与で手当は出なかったが、“弁当代”とかの名前で、オコヅカイが出ていた。
それをC氏は、この年の年初会議に関しては、この手当を請求するな、と通達した。それは一理ある。
一部だけが休日を潰していたなら、当人にプレミアを付けるのは当然だ。しかしこの日は、全員が休日を潰していた。だから全員なし、それはそれでイイ、と思った。
しかし、それに対する不満がどう作用したのか、C氏の通達の少し後、総務部長名で請求しなさい、との通達が改めて出た。これはどうも、Z君あたりが、Y氏経由で総務部長にチクった様だった。
とは言え、C氏の通達が撤回された訳ではない。営業メンバーは営業部長C氏の指示、命令に従うのはアタリマエ。ワタクシは、Z君の請求に判を押さず総務へ廻し、ワタクシ自身は請求しなかった。
すると総務部長が、頼むから請求してくれ、と言ってきて、C氏の指示、命令に初めて背くことになった。
C氏は「この会社に蔓延った、何でもかんでも手当を請求すればイイ、との風潮に一石を投じたかった」、とワタクシには、よく判らない言い訳をした。

やがてこの“良い会社”も代替わり。副社長A氏は、社長A氏となり、社長B氏は会長B氏となった。

これは当然の出来事で、ワタクシには無関係の出来事である。
しかし、30代で取締役営業部長になったC氏は、そうはいかなかったらしい。

ある日、広島出張のワタクシにいきなり合流したC氏は、呑み屋で「ワシ、会長に、A君とは一緒にやれませんワ、と言うたってン」、と話し出した。ワタクシは「ああ、そうですか」と抑揚なく応えた。

ワタクシに何が言いたいのかよく判らなかった。
年下で、嫡男の新社長A氏には、従いたくない、よくあることだ。だから何ィ?
それを営業所長に告白して、だから何ィ?

「新社長A氏は気に喰わないので、別会社を興したい、一緒にやれへンか」、そう言う相談なら判る。
しかしそんな話は一切なかった。とにかくワタクシは黙っていた。

また、新社長A氏が提唱したことに、皆が合意したら、良いか悪いかは別にして、自分は絶対反対する、とも言っていた。

ある一人の思考、言動に、他の全てが同意し進んでいくと言うのは、独裁、ファシズムだ。
しかし会社には民主主義はない。そもそも独裁、ファシズムなのだ。イヤなら辞めるだけだ。

そんな中で、異議を唱えるのは、お騒がせな迷惑人に過ぎない。
スゴサは感じられず、エラっそうにしているだけの営業部長は、ミーハーに加えて、更におかしくなり出していた。

神戸へ戻って6年目、例の大震災が起きた。

まだ通勤手段も復旧されていない2月、ワタクシはスーツの上に雪山用衣装を重ね着し、ミニバイクで通っていた。途中の街はグチャグチャで、街灯も少なくほぼ真っ暗、何かあればタイヘンなので、早めに切り上げていた。
その日も陽が暮れて帰ろうとすると、C氏が部屋へ入って来た。役員会議でもしていたのだと思う。
C氏はワタクシを見ると、ニヤッと笑い「神戸はもうアカンなぁ」と言った。まさに他者の不幸を喜んでいる様な笑い、それは卑しい笑い。
家族は全員無事だったが、ワタクシだって一応被災者、それをC氏は喜んでいる、何という卑しさ。
そして「早めに広島へ店、出さんとアカンなぁ」と続けた。

C氏は、以前から、広島営業所の開設を目指していた。
広島営業所は会長B氏が現役の頃、X氏に指示して、自宅兼事務所を出したらしい。しかしX氏は直ぐケツを割って、逃げ帰り、ケツを割った証拠の円形脱毛症を、周りに見せ散らかしていたとか。
会長B氏とX氏の失敗を、C氏は、自分が成功させたい、そう目論みがあったのかも知れない。何かにつけ、神戸が済んだら、次は広島だと言っていた。

しかし、それが上手くいくのかどうか。費用対効果があるのか。ましてや、ワタクシ一人では、営業所としてはサビシイ。最低もう一人メンバーがいる。

九州出身の若いノは、広島要員として採用したらしいが、そもそも九州に良い思い出なく、むしろ西から離れたかった様で、最後は子供の病気の関係で辞めて行った。

次の若いノは、C氏と同じアホボン大学の、同じ法学部出身のS君
長身のバトミントン部の副主将で、広島要員を言いくるめられて入社した。彼は証券会社に内定していたが、それをC氏は引き抜いた。
そしてS君は震災の前年末に東京支店から、妻子を連れて転勤した。

これで人員は揃ったが、S君は1年後、広島に営業所を出す意味がない、神戸からの出張で十分対応できる、広島へは行きたくない、と言い出した。
そして技術部の女子契約社員と不倫し、挙句の果て、この“良い会社”を辞めるとまで言い出した。

この女性は他の派遣社員と違って、遅くまで残って仕事をする頑張り屋サンで、見積りに添付する図面が必要な時も、もう遅いのにワザワザ探して届けてくれる、アリガタイ存在。ワタクシも彼女のファンだった。
しかし技術部の男性とも不倫しており、その男が中々離婚に踏み切らないので、S君に“乗り換え”たそうだ。まぁ凄いオンナだった訳だ。

しかしC氏は、離婚に手こずっているS君に、飛んでもない助言、甘言、指示をした。

離婚したいなら、まず別居の事実を作れ、その為に二人で広島へ引っ越しし、そこで生活せよ、事務所が出来るまでは、神戸へ逆出張せよ、費用は全て会社が出したル、と言い出した。

これには驚いた。どうやったらこんな発想が浮かぶのか。

当時のC氏は、とにかく広島出店が最優先。その為にはS君の離婚でも何でも利用する。それはフツーの人間には持ち合わせていない、深い“業”のようなモノが、あったのかも知れない。

結局、何度も辞めると言っていたS君は、辞めずに広島へ行き、2年後、広島営業所とワタクシの単身赴任はスタートした。

しかしそんな経緯で出来た営業所など、上手くいくわけない。
自分の離婚を利用されたS君は、何事にも不満気。
懸命に営業所を支えようとしていた、アシスタントの女性にも、愚痴を言い出したりして、彼女もS君を嫌いだした。

C氏は、度々広島を覗きに来ては、胡町辺りのスナックで呑んでいた。年一回ヨーロッパを旅行すると話すと、スナックのママさんは「わぁ凄いんじゃねぇ」、慣れた口調で、「プラハ」を「プラア」と言ったら、ママさんは「ホォォ~、そう言うンかいねぇ」。
ワタクシは、「プラア」の豪華ホテルとは程遠い、ワンルームのウィークリーマンション暮らし。段々C氏に付き合う事がバカバカしくなって来た。

S君は、その後“手柄”を焦ったのか、とんでもないオーダーを受け、それがトラブって、技術部も巻き込んでの大騒ぎとなり、結局ワタクシと技術部の責任者が、客先へ謝りに行った。

営業所が出来て3年目、ワタクシの売り上げはそこそこ安定して来たが、S君の売り上げは全く振るわず、それは面倒な、やり難いテリトリーを、持たされているからだ、と言い出した。
前からアカン奴だったが、そこから抜けきることが出来ない、やはりアカン奴。

C氏は、ワタクシの次を引き継げる者がいない、との理由で広島営業所を閉鎖した。2年9か月の寿命だった。
ワタクシはどうでも良かったが、アシスタントの女性を失業者にしてしまったことが、辛かった。

神戸営業所は広島営業所が出来た後、大阪支店へ吸収され、ワタクシは大阪支店勤務となり、S君は福岡営業所勤務となった。

広島で応援してくれた商社は、ワタクシがどんな立場で大阪へ行ったか、気になっていたらしい。
自分たちが応援した担当者が、その後どう処遇されるのか、気になるのだ。自分たちが応援した担当者は、成功したのか、失敗したのか。

その商社の役員は、C氏とも懇意にしており、C氏も広島出店に関し、この商社を頼りにしていた。
しかしC氏は、閉鎖すると決めたら、まるで熱が冷めた様に、この商社に淡泊になった。あれだけ頼って来てたのに閉鎖するとなったらそれでオシマイ。
しかし商社としては、今後の付き合い方にも期待して、色々聞きたかったハズだ。
この特殊機械メーカーは
冷淡だ、そんなイメージが、この広島の商社に根付いた様な感じがする。

そもそもC氏は、ナゼあれほど広島出店に拘泥したのか。
不倫して辞めるとまで言い出したS君を、引き留めてでも、やる意義はどこにあったのか。
また当時、広島の三菱重工の業績がガタ落ちで、数千億の商売が消えていたそうだ。そもそも、特殊機械メーカーは、三菱重工との付き合いは全く無かったので、何の影響もなかったが、広島全体ではこの数千億が消えている。そういう事を吟味しなかったのか。

役員会では、広島営業所を推し進めたのは、C氏だけだったそうで、他の役員は全員反対。しかし反対されれば、とにかく押し通したいのが、C氏の性。
営業所設立の為の費用は3千万程だった。特殊機械メーカーは当時、100億弱の売り上げで、純利益が約20億あった。そんな会社にとって、3千万程の“無駄遣い”は、痛くも痒くもない、と言うことなのか。

その後ワタクシは、大阪から広島へ1年程通い、若い営業マンに引き継いで、広島とは縁が切れた。

そしてワタクシは、この特殊機械メーカーの、最も特殊な製品の営業担当となった。名刺の肩書は部長になっていたが、部下はいなかった。

この特殊な製品は、それゆえ簡単には売れない。そしてトラブルも多かった。
ワタクシは、使用例とそのフローや、トラブルの事前防止法など、様々なツール作りを始めた。
商談に合わせて、オンデマンドでそれらを印刷し出せる様、社内掲示板に次々とアップして行った。
これで営業マンが、ワタクシレベルの営業が出来るハズた。

そんなある日、C氏から、福岡勤務となったS君が辞めた、と連絡して来た。
S君が、福岡でも中々パッとしないので、「ガガガ、と叱ったら、辞表出しよった」と、言った。
ワタクシは「あぁそうなんですか」と素っ気なく応えた。一緒に広島営業所を起ち上げた部下とは言え、ワタクシが部下に取りたてた訳ではない。ワタクシはアカン奴をC氏から押し付けられただけだ。
結局、S君はクビになったのだ。ボロカスに叱咤し、ソイツがキレて辞表を出す、これもクビにしたことだ。
それならナゼ、不倫して辞めるとまで言い出した時に、辞めさせなかったのか。

S君は、C氏と奥さん(?)に何か失礼なことをしたらしい。C氏はそのことを根に持っていた様で、それの罰で辞めさせず、広島出店に利用して、最後にポイしたのかも知れない。
しかしC氏は、内定が決まっていた証券会社を断らせて、強引に引き抜いたのだ。
そしてクビにする、そんなに人の人生を翻弄して、バチが当たらないのか。

それと前後して、C氏はもう一人、オッサンМ氏をクビにした。
この男も、C氏が周りの反対を押し切り採用し、ワタクシに押し付けたアカン奴だった。

そもそもМ氏は大阪の機械商社にいて、特殊機械メーカーとは、担当として付き合い古く、その後、機械メーカーに転職し、退職。自分で商売でも始めようとしたが上手くいかず、C氏に泣きついて来たらしい。
ワタクシの一歳上で、既にオッサンだった。
彼が勤めていたメーカーの製品は、ワタクシが担当していた、最も特殊な製品と、同じ現場で使われていた。
つまり、同じ現場で使われる機械を扱っていた、このオッサンが、特殊な製品の販売やトラブル対策の何かに役立つ、とC氏は安易に判断した。
しかも最も特殊な製品は、社長A氏が技術部主導で進めていたので、営業部長C氏は自分の息が掛かった人材を、紛れ込ませておきたかったのだろう。

C氏はワタクシに、М氏は名古屋営業所長の古い友達だと紹介した。

名古屋営業所長とは、東北出身。電鉄会社の整備工として上京し、その後、この特殊機械メーカーに入社、大阪で成績を上げ、名古屋営業所を起ち上げた。機械に対する造詣深く、皆に尊敬される、ジェントルなナイスガイであった。

そんな人の古い友達を蔑ろには扱えない。ワタクシはМ氏の採用に同意した。

しかし名古屋営業所長にそのことを報告すると、「エエッ!、違うんだよ、Мさんは古い友達なんかじゃなく、只の商社の担当者としての付き合いだけなのヨ」、しかも、この会社の社風には合わないし、入社してもやって行けないからと、営業所長はМ氏に、名古屋駅でダメ出しをして、別れたらしい。しかしワタクシはМ氏の採用に同意してしまった。
社長A氏からは、ナゼ採用に同意したのか、と詰られた。

C氏は、М氏の採用の理由の一つとして、ワタクシとS君が広島へ行くと、神戸営業所はZ君一人になる。これでは神戸が維持できず、広島出店が出来ない。「広島へ店、出されへんぞ」と脅し気味に言った。

ワタクシは、このオッサン、ナニ言うとンやろ、と思った。
ワタクシは、広島へ店を出したいなど、言ったことは一度もない。
S君の離婚を利用して、会社を辞めると言い出したS君を引き留めて、役員全員の反対を押し切って、費用対効果の吟味もせず、無理矢理進めたのは、C氏さん、アンタでしょ。ワタクシがナゼ、「出されへんぞ」、とアンタに脅されないといけないノ?
C氏は、代替わりの後、ホントにおかしくなった、と思う。

結局М氏は、名古屋営業所長が言った通り、全く役に立たず、売上も上がらず、C氏は、度々叱咤していたらしい。しかしМ氏は他人事のように受け流し、ある日C氏は、М氏を掃除でも何でもさせて良いので、最も特殊な製品の、ワタクシの現場に引き取って欲しい、と言って来た。
ワタクシは、即、断った。
するとC氏は、「しようないなぁ、ガガガと叱って辞めされるしかないかぁ」と、言って電話を切った。

それから暫く経って、М氏は自宅で倒れ、寝たきりになった。

広島出店に関連して、C氏が強引に採用し、ワタクシに押し付けた二人は、結局C氏がクビにした。

ワタクシは本気でC氏から離れたいと思った。「C氏の片腕になったッてくれ」と言った、会長B氏は既に亡くなっていた。

C氏から離れる、という事は、大企業並みの給料からも離れる訳で、そもそも、それを維持するための、“ガムシャラ”の維持もしんどくなっていた。

またこの会社は、大企業からのキャリアを定期的に雇い入れており、技術部には神戸の名を冠した超大手製鉄会社から、溢れた人材を得ていた。しかしこの頃から、総務部用で、大阪門真にある超大手電機メーカーからの人材に切り替えていた。
いずれにせよ、経営者マターなので、ワタクシには何も判らないし、どうでもイイことなのだ。

しかし、超大手電機メーカーからの人材が入って来てから、ナンカ雰囲気が変わった。

ワタクシが“良い会社”の証しだと思った「世間の常識はウチの非常識」「ウチの常識は世間の非常識」と言う矜持が薄くなって、「世間の常識はウチの常識」になって来た。これでは面白くない。“良い会社”ではない。

また社長A氏は、最も特殊な製品の事業部制を検討していた。事業部制とはある意味別会社だ。
かし年商は1億前後、それが増えるとはどう考えても無理だった。
そもそも、最も特殊な製品の、扱う対象の製造方法が変わって、扱えないモノが増えだした。年商は益々減っていくのだ。

ワタクシは、この“良い会社”を辞めることにした。丁度、扶養義務も無くなって、ワタクシは蓄えが途絶えるまで、失業者でも良くなった。辞める唯一の理由は、C氏とはもう付き合いたくないからだ。しかしそうハッキリ言うのは、少し品がない。
ワタクシは、里山のボランティアを定年前の、まだ体力が残っている歳から始めたい、とウソをついた。

C氏はその頃、創立40周年(?)の記念誌の制作を始めだした。定期的に関係者を集めて、打ち合わせしていたが、ワタクシには、何の声も掛からなかった。
と言うのは
、C氏があれだけ深く関わった広島営業所のことを、何らかの形で書き残すのではないか、と思ったからだ。僅か3年弱の営業所だったが、社内外で、それなりの人を巻き込んだ“事件”でもあった。

広報の担当者にそれとなく聞いて見た。「広島営業所の事は、一切触れてません、社史なら全ての出来事を載せないとダメですが、記念誌は全てを載せなくてもイイんですよ」と、申し訳なさそうに応えた。広島出店に広報として、彼も多少は関わっていた。

その記念誌は、年初の工場に出来た新社屋の、披露イベントで配られたが、ワタクシは開くことはなく、机の奥に仕舞い込んだままにしていた。

退職の日、周りの文書を全てシュレッダーにかけ、自分の日記類は紙袋に入れ持って帰ることにした。

整理の最後に、この記念誌が机の奥から出て来た。ワタクシは取り合えず、紙袋にボソっと入れた。

そして皆に挨拶して、20年間務めた“良い会社”を出た。これで全て終わった。

しかし垂水のマンションについて、何か引っかかる。それは、取り合えず、紙袋にボソっと入れた記念誌だった。

ワタクシは昔から書籍、印刷物を、いつか読むことがあるかも、と思って、棄てなかった。これは自分でもイヤになる程、困った習慣なのだが、“知識”を棄てるようで、勿体なく感じて、だから書籍、印刷物が溜まり気味になる。

その時フト、駐車場の外れのゴミ集積場に眼が行った。
コンテナが沢山並べられている。燃えるゴミ用だ。書籍、印刷物は資源回収に出すのがルール、しかし燃えるゴミに出しても構わない。

ワタクシは紙袋からその記念誌を出し、一番奥の、まだゴミ袋が入っていない、空のコンテナの蓋を開け、それを投棄した。コンテナの真っ暗な底に、それは落ちて、ゴトっと音がした。

そして、歳が明け、年始休みが終わり、信州雪山通いを始めた。

その10年後、信州安曇野の原野に小屋を建て、今年3年目。ほとんど他者との、接触はないが、幸い、病院との接触もない。

当然だが、“良い会社”にはもう何の関わりもなく、HPを見ることもない。 

 
12月になって、稜線は雪に覆われて、後立山は見事な雪景色だが、まだスキー場の積雪は1mに届かない。それだけが不安だ。 

 

 

 

 


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1 コメント

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爆笑です (たぶん一回りくらい下の別のアホボン卒)
2021-04-22 17:44:36
神戸の下町で生まれ裏側の新興住宅地で育ち、神戸の山、麓、局所的歴史好きです。何年か前に地元の山(里山)のニッチネタ関連からのリンクで拝見していました。世継山の惨事あたりの文へたどり着き、当時の描写に日本、神戸はついこないだまで(といっても40-50年前ですが)そんな世界でしたね、人も、と懐かしく、セピア色でもなく、私には高度経済成長期は汗とたばこの煙の感覚でしょうか、で読ませていただいていました。今日久しぶりに拝見して、趣向の違うコレを読ませていただき、爆笑しながら一気に読ませていただきました。池井戸潤のオレたち・・・の先達というところでしょうか。2年ほど長野、新潟を含む日本海側担当として仕事をしていましたが、誰もがうらやむ観光地をろくに訪れずに神戸に戻り後悔しているところです。神戸にはその背中の谷筋の多くに生活があったようです。なんでそんなとこに、というところというところと、そのバイタリティーに触れたいと考えています。またいろいろと昔のことを教えていただければありがたいです。
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