蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

“良い会社”を辞め、燃えるゴミのコンテナに、初めて書籍を投げ棄てた夜

2019-12-18 16:36:36 | 駆け抜けた一回性の記憶

12年前の12/25、20年勤めていた特殊機械メーカーを早期退職した。

会社は12月決算だったので、キリよく12月末まで勤めるつもりだったが、給与計算がメンド臭いから25日で辞めてくれと言われた。

その特殊機械メーカーは“良い会社”として、巷でも知る人ぞ知る存在だった。

叔母が認知症になって大きな病院で診て貰ったが、詳しく状況を訊いてきて欲しいと、オフクロから頼まれたのは、退職する3年前。
その大きな病院は、神戸の名を冠した超大手製鉄会社の系列だった。
面会した医師は、叔母はアルツハイマーで、もう治らない、薬で進行を遅らせるだけと、ありきたりの説明した。
この時、いつもの営業癖で名刺を出したが、後日その医師は、あの患者の甥御サンが勤めている会社は“良い会社”で有名だ、と周囲に言っていたらしい。それはオフクロが伝え聞いた。
特殊機械メーカーの技術部長は、その超大手製鉄会社から溢れ出た技術者で、他にも数名、同様に溢れ出た技術者がいたので、そのルートで医師は知っていたのかも知れない。

神戸近隣の小都市にある化粧品会社の若い技術者から、火急の引き合いがあったのは、バブルが終わりかけの頃。新規商品を数週間後に出荷しなければなず、何とか設備を間に合わせたい、とのこと。
それは特殊機械2品種を組み込んだ装置であり、特殊機械単体でも納期は最短1か月、それを架台に組み込み制御盤を付けないといけない。数週間は絶対無理。
「何とかなりませんか?」、生産技術部のリーダーになり立てらしき、技術者は只々懇願するばかり。
ワタクシはまず、2品種のテスト機を単体で貸与。化粧品会社側では、生産ラインに増設した架台に1品種を取り付け、制御はそれを電磁弁をラインに合わせてオン/オフさせる、それ位出来るでしょ、と彼に説明し、やってもらうことにした。
新製品の出荷には何とか間に合い、1ケ月後にワタクシは実機を無事納入、彼は課せられた宿題を見事クリアーし、翌年メデタク表彰されたらしい。
その頃、大手新聞社がこの特殊機械メーカーの創業者:社長を取材していて、その記事を彼は読んだらしく、「ホント“良い会社”なんですねェ」と感心していた。

しかし、会社の良し、悪し、何をもって“良い会社”と言うのか。
「キュウリョ、良うてもなぁ」、特殊機械メーカーの、更に特殊な機種の技術責任者で、度々技術部長と対立していたМさんは、そう呟いた。

そのメーカーの“良い”は利益額だったと思う。
経済誌が発表する年間利益額1万社ランキングでは、ワタクシが入社する前からランクインしていたらしい。
何故そんなに利益額が良かったのか。
それはその特殊機械が、機能、性能、特徴、品質等、多くの点で優れていたからであり、それを社員全員が一丸となって、懸命に設計、製造、販売していたからだ。そして、営業は更に「開拓」し、技術は更に「開発」し、工場は更に「改善」していた。真面目に真剣に、そして息苦しくなるほどに。

この“良い会社”を紹介してくれたのは、学校を卒業して就職した、艤装品メーカーの創業者の娘婿だった。

卒業した年は、この国が高度成長期から安定成長期に移り数年経っていて、理系への求人が極端に悪かった。
一流大学で成績も良ければ、なんとかなったのだろうが、アホボン大学の宇宙線研究室で、卒論はちゃんと書いたが、それ以外の成績は悪かった。そんなワタクシに、まともな就職先はない。

そもそも社会人になって何がしたいとか、社会に貢献したいとか、そんな目標はなく、業界、業種、職種の希望などもなかった。
そして結局、神戸・元町に本社がある艤装品メーカーの経理職に収まった。
その艤装品メーカーは川重の協力工場であり、主力商品の扉錠等船室金物は全国展開でシェア9割だった。しかし、造船業界自体が斜陽産業になり始めていた。
そう言う中で、入社3年目に大阪・生野にあった工場で労組が出来、その結果、給与体系を見直し昇給することになった。

給与体系見直しの責任者が創業者の娘婿。
彼は中堅造船所を中途退職し、その艤装品メーカーに転職、同時に創業者の長女とバツイチ同士で結婚していた。ワタクシは経理として、娘婿の給与体系見直し作業を手伝った。
しかし、労組の要求を収めても、業界が縮小の一途を辿っていく状況で、メーカーの業績が良くなるはずはなく、最後は某空調工事会社から資本が入り、そこが経営することになった。
その空調工事会社も造船業界で仕事をしていたが、陸上への転換がかなり進んでいて、何といっても、物事を強引に進めることで評判が悪かった会社。

ワタクシは、そこからやってきた役員に、経理から営業へ転籍するよう指示を受けた。
娘婿は、部長としての役職のまま残っていたが、明らかに閑職。営業の手伝いなどをしていて、ワタクシも大阪の造船所での、最後の大きな仕事を手伝ってもらっていた。

その大きな仕事が終わる頃、創業者一族は舶用艤装品メーカーから完全に手を引いて、娘婿は新しく会社を興すことにした。
しかしまだ、その会社にワタクシを雇うほどの企業力はないので、同じ神戸にある特殊機械メーカーを紹介するがどうか、と言い出した。
某空調工事会社の経営に代わったても、中々うまくはいかず、結局、本社神戸の土地を売り払い、神戸の従業員は、空調工事会社と繋がりがあった、新大阪の貸しビルまでの通勤を強いられることになった。

明らかにそれがイヤならヤメろと言わんばかり、そんな状況にはもう未来はない。
ワタクシは直ぐ、紹介して貰った特殊機械メーカーへ、面接を受けに行った。
娘婿は、「ウチと違って、ちゃんと社是もあり、独自のシッカリした技術を持っている“良い会社”だ」と後押しした。

特殊機械メーカーも、昔は舶用向け機器を作っていたそうで、艤装品メーカーとは造船業界内での繋がりがあり、創業二代目:次期社長どうしも繋がりがあったらしく、ワタクシは特殊機械メーカーの嫡男: 副社長A氏を紹介された。

その“良い会社”の堅牢な4階建てのビルに着いて、副社長A氏を尋ねると、受付のオバサンから「まず社長が面接します」と言われ、ワタクシは恐縮した。

社長B氏は、その艤装品メーカーは一体今、どうなっているのか、ワタクシに尋ね、その後、自社が設計、製造、販売している特殊機械の原理、構造、機能、特徴、そしてその売り方などを説明し、それを専業にしている自社が、いかに“良い会社”なのかを説明した。

やがて副社長A氏が席に着き、社長B氏は、ワタクシが入社した後、挫折、つまりその特殊機械をうまく売れなかったらどうするのかとか、ワタクシの転職を帰納法で捉えるか、弁証法で捉えるのか、とかの議論を初め、ワタクシはさらに恐縮した。帰納法とか弁証法などのコトバは10年以上聞いたことがなかった。
社長B氏からは、もう一度よく考える様に、と言われその日の面接は終わった。

確かに艤装品メーカーが明日潰れて、直ぐ就職先を探さないと行けない、と言う状況ではない。
また、それまでは、造船業界だけでの、しかもメカニズムのない船室艤装品の販売であったが、転職すると、あらゆる産業界への、メカニズムのある特殊機械の販売となる。ホントにう
まく売れるのか。

しかし、「会社と言うのは急に大きくする必要はない、社員が食べていけるのに必要な分だけ、少しずつ大きくなればイイ」とか、「もし全く売れなくても、今は社員全員を1年程喰わせる蓄えはある」といった、社長B氏の前日のハナシを思い出して、ここへの転職を躊躇する理由はない、と思った。
大体「社員が食べていけるのに必要な分だけ、少しずつ大きくなればイイ」、そんな社会主義的なことを言う、経営者がいるのか。

ワタクシは翌日、副社長A氏にTELし、「入れて下さい」とお願いした。彼は「エエよ」と素っ気なく応えた。
社長B氏はもう、帰納法とか弁証法とかの難しいハナシはなしで、入社後のワタクシの給与額を提示した。それは艤装品メーカーの平均残業込みの給与額とほぼ同じだった。艤装品メーカーでは組合の関係で、営業でも残業手当が付いていた。
社員数も売り上げも、当時はほぼ同じ、しかし艤装品メーカーにはない、未来はある、と感じた。

副社長A氏からは、今までのこと、つまり艤装品メーカーでの経験、常識、価値等はすべて忘れろ、直ぐに大きな成果とか手柄を上げようとはするな、皆と同じ事をせよ、一生懸命する必要はない、真面目に真剣にやれ、と言われた。

ワタクシは8月末で舶用艤装品メーカーを退職し、9月1日、特殊機械メーカーに入社、翌2日から工場研修が始まった。

そして社長B氏からは「早く慣れて、C君の片腕になったってくれ」と言われた。それが採用の条件の様にも感じた。

C君とは、奇しくもワタクシのアホボン大学の4年先輩で、銀座にある東京支店に席のある取締役営業部長、要するに直属の上司になる人物。ワタクシはCの指示命令には絶対的に従わなければならない。
社長B氏は社会主義的なコトも言ったが、会社には民主主義はない。絶対君主制なのだ。営業部長Cの指示は、社長Bの指示、イヤなら辞めるしかない。

創業者・社長B氏を悪く言う人は、一人もおらず、皆サン“畏敬”の念をもって接していた。“良い会社”を起ち上げ、出身地に工場を建て、親類縁者を初めとして地元民100人以上の雇用を創出した、所謂「カリスマ」だった。
また、次代の幹部となるべく部下には、厳しく接し、ほぼ全員が怒られ、怒鳴られたらしい。B氏に怒られたことを、自慢げに話す人も多かった。
嫡男A氏も、社長B氏から厳しく育てられ、ワタクシを紹介した、艤装品メーカーの娘婿もそれを聞いており「オヤジから、クチビルを震わせて怒られたらしいよ」と言っており、「2代目のアホボンのカケラは微塵もなく、とにかく真面目な人だから、
全く安心していいヨ」、とも言っていた。

そして、営業部長Cは、アホボン大学では応援団長だったと聞いて驚いたが、フツーのビジネスマンだった。学生の頃、流行った“花の応援団”の“青田赤道”の、異様で暴力的な雰囲気を連想したが、そうではなかった。
30代で取締役営業部長になったスゴイ人だが、特にスゴサは感じられなかった。
社長B氏の片腕で、創業時の前営業部長が早逝した、と言う“幸運”もあったのか、また東京進出に真っ先(?)に手を挙げたためなのか、親戚なのか、いずれにせよ、30代の営業部長は
とにかくエラッそうにしていた。それは、“良い会社”の“品”にそぐわない様に感じた。

そして3ヶ月の工場研修後、配偶者と二人の子供を連れて、営業研修として東京支店へ転勤した。家族を連れての転勤者は会社初だったそうだ。

20人足らずの東京支店は、関西出身者も多く、ほぼ全員フレンドリーだった。また、スゴサは感じられず、ただエラッそうにしている営業部長Cの、“アンチ繋がり“で、皆サン仲が良かった。
ワタクシが、Cの大学後輩という事で、その繋がりで入社、との思い込みもあったようだが、副社長A繋がりだったことを説明し、ワタクシへの“警戒”は解けた。

しかし、中に入ると“良い会社”の、ネガティブな出来事を知ることになる。

入社時、社長B氏は、この会社がイヤで辞めて行った者は、一人もいなかった、と言っていたが、東京支店へ行って直ぐ、同じグループにいた若者が辞めた。工場がある地方の出身者だった。

また、従来より交通事故が多く、遂に死亡事故をおこしたサービスマンはクビにした、とも言っていたが、ワタクシが入社する少し前には、ナント!性犯罪を犯した営業マンが逮捕されたらしい。クビするどころの話ではない。

この性犯罪者は、サドの性癖があり、人妻を篭絡していたそうで、その女性の訴えで自宅を捜査すると、SM道具や女性に使ったサルグツワなどの物的証拠が見つかり、即逮捕となったらしい。
月曜の朝、朝礼が始まる前、いきなり警察手帳をかざした一団が突入して、「〇✕△の席はどこだぁ!」、犯罪者の机の抽斗が開けられ、フラッシュが焚かれ、「そらもう、Cさんも唖然とするだけで、大騒ぎでしたよぅ、ハハハ」、工場からサービスマンとして、東京へ転勤して数年目の若者は、嘲笑う様にその、トンデモナイ話を教えてくれた。
この犯罪者は県会議員の紹介で、副社長A氏はとても評価していたそうで、「ウチにとって何かスゴイ事をしてくれる人だ」と言っていたらしい。A氏の“人を見る眼”は完全ミスった訳で、「ホンマ、スゴイ事をしてくれたわぁ」と、C氏はバカ笑いしていたとか。
当初、副社長A氏から、東京転勤は単身赴任はダメ、と言われた。そして、この性犯罪者は単身赴任だった。それを聞いて、単身赴任ダメはナルホドと思った。
まぁ“良い会社”なので、色んな人が入社を希望する。 玉石混交、犯罪者が紛れることもあるのだろう。

一種のかん口令が出ていたのか、この話をしたのは、このサービスマンだけだった。
しかし、何年後かに、某メーカーから久々の引き合いがあり、訪問した時、そのメーカーの担当者から、「あの時はビックリしましたよゥ」と、この事件を話し出した。
その性犯罪者は、そこで打ち合わせ後、直帰し、その後で犯行に及んだそうで、足取り確認で刑事が
事情聴取に来たそうだ。世間は狭い。

その他、ネガティブな出来事は他にもあったが、いずれも些細なモノばかり、“良い会社”とは言えど、畢竟ヒトの集まり、世間は色々あるのだ。

東京へ来て、まだ担当エリアも決まっておらず、先輩方の手伝いをしていた頃、C氏から呑み屋に呼ばれた。
何だろう?、と言われた店へ行くと、C氏は友達らしき年配の男性と呑んでいた。

その男性は関西に本社がある、商社の社長。特殊機械メーカーとは同業界で、汎用機械のメーカーの、商事部門の社長で、この特殊機械メーカーの製品も売っていた。
同じ関西出身の古い友人的付き合いで、しょっちゅう呑み歩いていた様だ。
数年後ワタクシが関西へ戻った時、付き合う事になると、C氏はワタクシを紹介した。その後二人は世間話をしていたが、C氏は「ワシ、これで帰るから、後、話しとけや」と言って帰った。
商事部門の社長は、当り障りのない世間話を続け、ワタクシは頷き続けていたが、いきなり「アイツも、社長(つまりB氏)のムスコやぁ」と言い出した。「あぁそうなんですか」、ワタクシは抑揚なく応えた。

30代の営業部長には、そうなる為の何らかの事情があるハズだ。しかしスゴサが感じられず、エラッそうにしているだけならば、事情としては、親族しかない。非嫡出子ならナルホドとなる。騒ぐことはない。と言うか、どっちでもイイことなのだ。

ただ、あれこれ事情があったとしても、“良い会社”の営業部長、それなりに注目されるし、噂もされる。

“良い会社”はともかく、営業部員としては、営業部長からは指示を受ける立場。それなりに注目し、漏らさず聴かないといけない。
よって色んなメンバーから、「Cさん、こんなこと言ってたよ、やってたよ」と言った情報が寄せられる。殆どが、スゴさが感じられず、エラッそうにしているだけのC氏を、からかうニュアンスを含んでいた。
そして「なんでこんなオッサンが・・・」との感情が言葉の裏に垣間見える。しかし「こんなオッサン」とは体制なのだ。イヤなら辞めるしかない。

仕事での失敗が多いことで有名だった年配の営業マンは、C氏から聞いた話として、父親は小さい頃からいなかった、と言っていた。事故死とか病死ではないらしい、とも言った。何故そんな話題になったのかは、よく覚えていない。
また、東京支店の実質のリーダーであった、一歳下の男は「でもまぁ、“魅力ある”人だよねぇ」と、言っていた。

いずれも、何かスッキリしない、意を汲んでくれ、と言うのか、ヘンな喋り方だった。

ある日C氏は、「最近どないやぁ」と言いながら側に来た。ワタクシが色々応じると、C氏は机に腰を掛け、ワタクシを見下ろしながら話し続けた。机の上には客先から届いた仕様書を広げていた。その横にC氏の半ケツがある。ワタクシは、何と下品で失礼なヒトなのか、と思った。
ある年配の営業マンは、社長B氏は客先の設計室へ行くと、担当設計者の机に半ケツを掛けて話し込むので、困ったモンだ、と言っていた。担当設計者と言えど、お客さんである。この下品で失礼な狼藉は、社長B氏が始めた“文化”だったのか

そもそも客先の設計室は、カウンターの中へは入れないケースが多い。用があるなら、内線から連絡し、出て来てもらって、側の打ち合わせコーナーで済ませる事になっている。
しかし挨拶程度が多いワタクシは、ほぼいつも内線をパスし、ズカズカと入っていた。
担当設計者は「おぅ、来たかぁ」と、言った感じで向かい入れてくれた。内線で連絡せよ、とか、用がないのに入って来るな、と言われたことはなかった。
当然、ワタクシは担当者の机に腰掛けるようなことはしなかった。

C氏は学生の頃より、社長B氏を知っていて、卒業後直ぐ入社、「ワシの営業の師匠は、社長やぁ」と言っていた。
しかし、
社長B氏には、しばしば理不尽なことをされたらしく、未明の自宅に電話して来て、支店の女子社員の電話での対応が悪い!と怒られたとか。「朝の4時前やでぇ、もう堪忍して欲しいワァ」。未明の自宅にオシカリの電話が来る、“師匠”とはそんな仲なのだ、と言いたかったのか。
入社したての頃、社是もチャンとあって凄いですね、と言ったら、「社是?あんなン、社長が考えたモンではなく、三菱重工かどこかの、何かに書いてあったン、真似しただけや」、などとも話していた。
社長氏はC氏の1歳年下だが、C氏の何年後かに入社したそうで「アイツ、会社がキチンと出来た後で入ってきやがった」と、これは何度も言っていた。
これらのハナシを聞くと、C氏が社長B氏のムスコかどうかと言うより、何か微妙な関係の存在を感じる。

ではどうして30代で取締役営業部長になったのか。副社長A氏は「ゴマや」と言っていたらしい。

この会社では、役職を付けて呼ばなかった。先輩でも、上司でも、同年や年下なら、「君」付け、後輩でも年上は、「さん」付けだった。
これはいいルールだと思った。

そもそも役職呼称には意味がないと思う。会社がシッカリしていて、真面目に仕事をしておれば、社内ルールに従って給与や役も上がる。気が付けば、課だらけで、中には部下のない課長のケースもある。
能力があってエラクなるのでなく、時間が経てばエラクなる、そう言うモノなのだ。
前の船室艤装品メーカーでは、古株の真面目な課長に「〇✕△はん、そらぁアカンでぇ」とか言う無礼者が何人かいて、キチンと役職を付けて呼べ、と通達された事かあった。無礼者の存在が、「役職付けで呼べ」と言うルールを、改めて押し付けられた事になる。無礼者の指導、教育、究極は排除、で済む問題なのに。
ワタクシはこのルールも、“良い会社”の証しだと思った。

しかしC氏は、社長B氏だけは「社長」付で呼ぶべきだ、と“ゴマスリ”提案をしたらしい。
客先での打ち合わせ時、何度も社長を「Bさん」と呼んでいたため、ヘンな顔をされたから、とC氏はその理由を語った。これはー理ある。
色々あっても、
同族会社のメーカーの創業者なのだ。社長はあくまでも社長。世間の常識の多くは、その社長を「Bさん」と呼んでいる光景を、異様だと思ったのだろう。
とは言え、この会社には、「世間の常識はウチの非常識」「ウチの常識は世間の非常識」と言う矜持もあった。
それなら「Bさん」と呼んで良いのではないか、とも思う。

ただ副社長A氏が、ゴマスリと言っていたのは、ひょっとして社長B氏は、他の誰もがしなかった部長C氏の、この提案を喜んでいたのかも知れない。
まぁどうでもイイことだが、「世間の常識はウチの非常識」「ウチの常識は世間の非常識」と言う矜持も、“良い会社”の証しだと思った。

ある日、製品の事を全く知らない会社から、問い合わせがあった。ワタクシはまだ見習いで、売り上げノルマはなく、ただの説明で終わりそうな感じだったので、C氏の付き添いでワタクシが行くことになった。
ありきたりの説明を終え、世間話になり、C氏は、会社は関西で、自分の生まれも育ちも関西だが、元を辿ると東京の出だった、と話し出した。「私も東京ですワ」、とベタベタの関西弁で、C氏は言ったが、「どこが東京なんだよゥ」、相手の突っ込みが聞こえそうだった。

その後、色々話しているとC氏は、どうやら東京が好きなようだった。と言うか、芸能人が沢山いる東京が好き、という事らしい。
近所に歌手のダレが住んでいる、俳優のダレを見かけた、そんな話をC氏からよく聞いた。「それは良かったですねぇ」と話を合わすと、得意気になって、嬉しそうに話は続く。要するに“ミーハー”なのだ。

“良い会社”の営業部長は、ウチは技術力で売っている、と胸を張っていた。対外的にも、技術力の高い、真面目でカタい企業だと、認められていた。
しかし、営業部長本人は、カタいくもない、只の“ミーハー“でもあった。正に突っ込みドコロ満載、これはウケる。
東京支店の実質のリーダーであった、一歳下の男は「でもまぁ、“魅力ある”人だよねぇ」と、言っていた。確かにウケる。

特殊機械メーカーの営業は、客先要求に対し、適正な機種を選定し、それを有益に稼働させるための使い方などを工夫、提案することで、そもそも機械が好きだったワタクシにとっては、楽しかった。
ワタクシは、
副社長A氏から最初に言われたように、直ぐに大きな成果を上げることはなく、他の営業と同じことをした。

そして3年後、見習いを卒業し、神戸に戻った。

大阪にも営業所があったが、舶用営業時代の“燃え残り”が二人、神戸営業所として燻っていた。

一人は、社長A氏が別メーカーから独立し、この特殊機械メーカーを立ち明けた時について来たX氏。もう一人は、舶用機械を作っていた頃、その代理店にいて、そこが倒産したので拾われたY氏。

X氏は、ヘビィスモーカーを通り越して、煙突状態のエブリタイムスモーカー不健康極まりなく、死神の様な雰囲気。現に早死にした。まだ50代前半だったと思う。
カミソリと呼ばれた記憶に耽り、役に立ちそうにない独特の美学を持っていた。

Y氏は一応、国立の商船高専を卒業して、船長コースの船乗りだったそうだが、結局はケツを割って陸に上がり、舶用機器の商社に転職。しかしそこが倒産、この特殊機械メーカーに紛れ込んたらしい。
いつも不満げで、“良い会社”に拾われた事に感謝はなく、いきなりヒステリーを起こしたり、営業部長C氏に対する妬み嫉み激しく、C氏は社長B氏のムスコだ、と憚りなく言っていた。
会社やC氏をあれだけネチネチと批判していたのに、Y氏はスッキリに退職できず、C氏に頭を下げ、70歳近くまですがりついていた。

この二人は、昔から仲も悪く、早く営業から外すことが、当時の人事のテーマだった様で、神戸に戻って一年後の春、前触れもなくワタクシの所長任命の辞令が出て、二人はシマツされた。
しかし、この規模の営業所では、その所長はプレイイングマネージャーがアタリマエ、と言うかマネージャー的仕事は、まずなかったので、結局は所長になる前と何も変わらなかった。

とは言え、それまでは、このシマツされた二人ともう一人の中堅Z君、3人で廻していた営業所が2人になり、それなりにキツかった。
ワタクシは、月曜は神戸から姫路までの客先を廻り、火曜から木曜まで広島、山口、愛媛、高知へ出張、金曜はまた、神戸から姫路までを廻るパターン。
もう一人のZ君も、兵庫、岡山、香川、徳島を廻っていて、営業所は、アシスタント兼部品営業の女性が一人の状態が多かった。

それを、シマツされた二人は、「誰もおれヘン営業所になった」と批判していたらしい。
しかし営業所に客は来ない。営業は客先に行かなければ、商売にならない。むしろ営業所はカラの方が健全なのだ。
そういう感覚が判らなかったから、二人はシマツされたのでは、と思う。

いずれにせよ、定時は21時、土曜出勤はアタリマエとなり、営業は 誠意と熱意、それを支えるのは、気力と体力。
とにかく毎日が“ガムシャラ”で、それが楽しかった。

なぜ楽しかったと言うと、それは給料が高かったからだ。

この“良い会社”は給料が高かった。入社時、副社長Aは、給与は大企業並み、と胸を張っていた。確かに40代半ばで、年収は1千万を超えていた。これを維持するには、“ガムシャラ”を維持するしかない。

営業部長C氏は、相変わらずで、スゴサは感じられず、ただエラッそうにしていて、皆に嫌われ続けていた。と言うか、皆に好かれる優しい行為、言動をしてはダメだと信念を持っていた様だ。

ある年の年初会議は土曜にあった。皆は文句を言いながら、休日を会議で潰した。
そして休み明け、皆は旅費精算と同時に休日出勤手当を請求した。そもそも営業部員は全員、残業代込みで給与が取り決められているので、深夜残業も休日出勤も、給与で手当は出なかったが、“弁当代”とかの名前で、オコヅカイが出ていた。
それをC氏は、この年の年初会議に関しては、この手当を請求するな、と通達した。それは一理ある。
一部だけが休日を潰していたなら、当人にプレミアを付けるのは当然だ。しかしこの日は、全員が休日を潰していた。だから全員なし、それはそれでイイ、と思った。
しかし、それに対する不満がどう作用したのか、C氏の通達の少し後、総務部長名で請求しなさい、との通達が改めて出た。これはどうも、Z君あたりが、Y氏経由で総務部長にチクった様だった。
とは言え、C氏の通達が撤回された訳ではない。営業メンバーは営業部長C氏の指示、命令に従うのはアタリマエ。ワタクシは、Z君の請求に判を押さず総務へ廻し、ワタクシ自身は請求しなかった。
すると総務部長が、頼むから請求してくれ、と言ってきて、C氏の指示、命令に初めて背くことになった。
C氏は「この会社に蔓延った、何でもかんでも手当を請求すればイイ、との風潮に一石を投じたかった」、とワタクシには、よく判らない言い訳をした。

やがてこの“良い会社”も代替わり。副社長A氏は、社長A氏となり、社長B氏は会長B氏となった。

これは当然の出来事で、ワタクシには無関係の出来事である。
しかし、30代で取締役営業部長になったC氏は、そうはいかなかったらしい。

ある日、広島出張のワタクシにいきなり合流したC氏は、呑み屋で「ワシ、会長に、A君とは一緒にやれませんワ、と言うたってン」、と話し出した。ワタクシは「ああ、そうですか」と抑揚なく応えた。

ワタクシに何が言いたいのかよく判らなかった。
年下で、嫡男の新社長A氏には、従いたくない、よくあることだ。だから何ィ?
それを営業所長に告白して、だから何ィ?

「新社長A氏は気に喰わないので、別会社を興したい、一緒にやれへンか」、そう言う相談なら判る。
しかしそんな話は一切なかった。とにかくワタクシは黙っていた。

また、新社長A氏が提唱したことに、皆が合意したら、良いか悪いかは別にして、自分は絶対反対する、とも言っていた。

ある一人の思考、言動に、他の全てが同意し進んでいくと言うのは、独裁、ファシズムだ。
しかし会社には民主主義はない。そもそも独裁、ファシズムなのだ。イヤなら辞めるだけだ。

そんな中で、異議を唱えるのは、お騒がせな迷惑人に過ぎない。
スゴサは感じられず、エラっそうにしているだけの営業部長は、ミーハーに加えて、更におかしくなり出していた。

神戸へ戻って6年目、例の大震災が起きた。

まだ通勤手段も復旧されていない2月、ワタクシはスーツの上に雪山用衣装を重ね着し、ミニバイクで通っていた。途中の街はグチャグチャで、街灯も少なくほぼ真っ暗、何かあればタイヘンなので、早めに切り上げていた。
その日も陽が暮れて帰ろうとすると、C氏が部屋へ入って来た。役員会議でもしていたのだと思う。
C氏はワタクシを見ると、ニヤッと笑い「神戸はもうアカンなぁ」と言った。まさに他者の不幸を喜んでいる様な笑い、それは卑しい笑い。
家族は全員無事だったが、ワタクシだって一応被災者、それをC氏は喜んでいる、何という卑しさ。
そして「早めに広島へ店、出さんとアカンなぁ」と続けた。

C氏は、以前から、広島営業所の開設を目指していた。
広島営業所は会長B氏が現役の頃、X氏に指示して、自宅兼事務所を出したらしい。しかしX氏は直ぐケツを割って、逃げ帰り、ケツを割った証拠の円形脱毛症を、周りに見せ散らかしていたとか。
会長B氏とX氏の失敗を、C氏は、自分が成功させたい、そう目論みがあったのかも知れない。何かにつけ、神戸が済んだら、次は広島だと言っていた。

しかし、それが上手くいくのかどうか。費用対効果があるのか。ましてや、ワタクシ一人では、営業所としてはサビシイ。最低もう一人メンバーがいる。

九州出身の若いノは、広島要員として採用したらしいが、そもそも九州に良い思い出なく、むしろ西から離れたかった様で、最後は子供の病気の関係で辞めて行った。

次の若いノは、C氏と同じアホボン大学の、同じ法学部出身のS君
長身のバトミントン部の副主将で、広島要員を言いくるめられて入社した。彼は証券会社に内定していたが、それをC氏は引き抜いた。
そしてS君は震災の前年末に東京支店から、妻子を連れて転勤した。

これで人員は揃ったが、S君は1年後、広島に営業所を出す意味がない、神戸からの出張で十分対応できる、広島へは行きたくない、と言い出した。
そして技術部の女子契約社員と不倫し、挙句の果て、この“良い会社”を辞めるとまで言い出した。

この女性は他の派遣社員と違って、遅くまで残って仕事をする頑張り屋サンで、見積りに添付する図面が必要な時も、もう遅いのにワザワザ探して届けてくれる、アリガタイ存在。ワタクシも彼女のファンだった。
しかし技術部の男性とも不倫しており、その男が中々離婚に踏み切らないので、S君に“乗り換え”たそうだ。まぁ凄いオンナだった訳だ。

しかしC氏は、離婚に手こずっているS君に、飛んでもない助言、甘言、指示をした。

離婚したいなら、まず別居の事実を作れ、その為に二人で広島へ引っ越しし、そこで生活せよ、事務所が出来るまでは、神戸へ逆出張せよ、費用は全て会社が出したル、と言い出した。

これには驚いた。どうやったらこんな発想が浮かぶのか。

当時のC氏は、とにかく広島出店が最優先。その為にはS君の離婚でも何でも利用する。それはフツーの人間には持ち合わせていない、深い“業”のようなモノが、あったのかも知れない。

結局、何度も辞めると言っていたS君は、辞めずに広島へ行き、2年後、広島営業所とワタクシの単身赴任はスタートした。

しかしそんな経緯で出来た営業所など、上手くいくわけない。
自分の離婚を利用されたS君は、何事にも不満気。
懸命に営業所を支えようとしていた、アシスタントの女性にも、愚痴を言い出したりして、彼女もS君を嫌いだした。

C氏は、度々広島を覗きに来ては、胡町辺りのスナックで呑んでいた。年一回ヨーロッパを旅行すると話すと、スナックのママさんは「わぁ凄いんじゃねぇ」、慣れた口調で、「プラハ」を「プラア」と言ったら、ママさんは「ホォォ~、そう言うンかいねぇ」。
ワタクシは、「プラア」の豪華ホテルとは程遠い、ワンルームのウィークリーマンション暮らし。段々C氏に付き合う事がバカバカしくなって来た。

S君は、その後“手柄”を焦ったのか、とんでもないオーダーを受け、それがトラブって、技術部も巻き込んでの大騒ぎとなり、結局ワタクシと技術部の責任者が、客先へ謝りに行った。

営業所が出来て3年目、ワタクシの売り上げはそこそこ安定して来たが、S君の売り上げは全く振るわず、それは面倒な、やり難いテリトリーを、持たされているからだ、と言い出した。
前からアカン奴だったが、そこから抜けきることが出来ない、やはりアカン奴。

C氏は、ワタクシの次を引き継げる者がいない、との理由で広島営業所を閉鎖した。2年9か月の寿命だった。
ワタクシはどうでも良かったが、アシスタントの女性を失業者にしてしまったことが、辛かった。

神戸営業所は広島営業所が出来た後、大阪支店へ吸収され、ワタクシは大阪支店勤務となり、S君は福岡営業所勤務となった。

広島で応援してくれた商社は、ワタクシがどんな立場で大阪へ行ったか、気になっていたらしい。
自分たちが応援した担当者が、その後どう処遇されるのか、気になるのだ。自分たちが応援した担当者は、成功したのか、失敗したのか。

その商社の役員は、C氏とも懇意にしており、C氏も広島出店に関し、この商社を頼りにしていた。
しかしC氏は、閉鎖すると決めたら、まるで熱が冷めた様に、この商社に淡泊になった。あれだけ頼って来てたのに閉鎖するとなったらそれでオシマイ。
しかし商社としては、今後の付き合い方にも期待して、色々聞きたかったハズだ。
この特殊機械メーカーは
冷淡だ、そんなイメージが、この広島の商社に根付いた様な感じがする。

そもそもC氏は、ナゼあれほど広島出店に拘泥したのか。
不倫して辞めるとまで言い出したS君を、引き留めてでも、やる意義はどこにあったのか。
また当時、広島の三菱重工の業績がガタ落ちで、数千億の商売が消えていたそうだ。そもそも、特殊機械メーカーは、三菱重工との付き合いは全く無かったので、何の影響もなかったが、広島全体ではこの数千億が消えている。そういう事を吟味しなかったのか。

役員会では、広島営業所を推し進めたのは、C氏だけだったそうで、他の役員は全員反対。しかし反対されれば、とにかく押し通したいのが、C氏の性。
営業所設立の為の費用は3千万程だった。特殊機械メーカーは当時、100億弱の売り上げで、純利益が約20億あった。そんな会社にとって、3千万程の“無駄遣い”は、痛くも痒くもない、と言うことなのか。

その後ワタクシは、大阪から広島へ1年程通い、若い営業マンに引き継いで、広島とは縁が切れた。

そしてワタクシは、この特殊機械メーカーの、最も特殊な製品の営業担当となった。名刺の肩書は部長になっていたが、部下はいなかった。

この特殊な製品は、それゆえ簡単には売れない。そしてトラブルも多かった。
ワタクシは、使用例とそのフローや、トラブルの事前防止法など、様々なツール作りを始めた。
商談に合わせて、オンデマンドでそれらを印刷し出せる様、社内掲示板に次々とアップして行った。
これで営業マンが、ワタクシレベルの営業が出来るハズた。

そんなある日、C氏から、福岡勤務となったS君が辞めた、と連絡して来た。
S君が、福岡でも中々パッとしないので、「ガガガ、と叱ったら、辞表出しよった」と、言った。
ワタクシは「あぁそうなんですか」と素っ気なく応えた。一緒に広島営業所を起ち上げた部下とは言え、ワタクシが部下に取りたてた訳ではない。ワタクシはアカン奴をC氏から押し付けられただけだ。
結局、S君はクビになったのだ。ボロカスに叱咤し、ソイツがキレて辞表を出す、これもクビにしたことだ。
それならナゼ、不倫して辞めるとまで言い出した時に、辞めさせなかったのか。

S君は、C氏と奥さん(?)に何か失礼なことをしたらしい。C氏はそのことを根に持っていた様で、それの罰で辞めさせず、広島出店に利用して、最後にポイしたのかも知れない。
しかしC氏は、内定が決まっていた証券会社を断らせて、強引に引き抜いたのだ。
そしてクビにする、そんなに人の人生を翻弄して、バチが当たらないのか。

それと前後して、C氏はもう一人、オッサンМ氏をクビにした。
この男も、C氏が周りの反対を押し切り採用し、ワタクシに押し付けたアカン奴だった。

そもそもМ氏は大阪の機械商社にいて、特殊機械メーカーとは、担当として付き合い古く、その後、機械メーカーに転職し、退職。自分で商売でも始めようとしたが上手くいかず、C氏に泣きついて来たらしい。
ワタクシの一歳上で、既にオッサンだった。
彼が勤めていたメーカーの製品は、ワタクシが担当していた、最も特殊な製品と、同じ現場で使われていた。
つまり、同じ現場で使われる機械を扱っていた、このオッサンが、特殊な製品の販売やトラブル対策の何かに役立つ、とC氏は安易に判断した。
しかも最も特殊な製品は、社長A氏が技術部主導で進めていたので、営業部長C氏は自分の息が掛かった人材を、紛れ込ませておきたかったのだろう。

C氏はワタクシに、М氏は名古屋営業所長の古い友達だと紹介した。

名古屋営業所長とは、東北出身。電鉄会社の整備工として上京し、その後、この特殊機械メーカーに入社、大阪で成績を上げ、名古屋営業所を起ち上げた。機械に対する造詣深く、皆に尊敬される、ジェントルなナイスガイであった。

そんな人の古い友達を蔑ろには扱えない。ワタクシはМ氏の採用に同意した。

しかし名古屋営業所長にそのことを報告すると、「エエッ!、違うんだよ、Мさんは古い友達なんかじゃなく、只の商社の担当者としての付き合いだけなのヨ」、しかも、この会社の社風には合わないし、入社してもやって行けないからと、営業所長はМ氏に、名古屋駅でダメ出しをして、別れたらしい。しかしワタクシはМ氏の採用に同意してしまった。
社長A氏からは、ナゼ採用に同意したのか、と詰られた。

C氏は、М氏の採用の理由の一つとして、ワタクシとS君が広島へ行くと、神戸営業所はZ君一人になる。これでは神戸が維持できず、広島出店が出来ない。「広島へ店、出されへんぞ」と脅し気味に言った。

ワタクシは、このオッサン、ナニ言うとンやろ、と思った。
ワタクシは、広島へ店を出したいなど、言ったことは一度もない。
S君の離婚を利用して、会社を辞めると言い出したS君を引き留めて、役員全員の反対を押し切って、費用対効果の吟味もせず、無理矢理進めたのは、C氏さん、アンタでしょ。ワタクシがナゼ、「出されへんぞ」、とアンタに脅されないといけないノ?
C氏は、代替わりの後、ホントにおかしくなった、と思う。

結局М氏は、名古屋営業所長が言った通り、全く役に立たず、売上も上がらず、C氏は、度々叱咤していたらしい。しかしМ氏は他人事のように受け流し、ある日C氏は、М氏を掃除でも何でもさせて良いので、最も特殊な製品の、ワタクシの現場に引き取って欲しい、と言って来た。
ワタクシは、即、断った。
するとC氏は、「しようないなぁ、ガガガと叱って辞めされるしかないかぁ」と、言って電話を切った。

それから暫く経って、М氏は自宅で倒れ、寝たきりになった。

広島出店に関連して、C氏が強引に採用し、ワタクシに押し付けた二人は、結局C氏がクビにした。

ワタクシは本気でC氏から離れたいと思った。「C氏の片腕になったッてくれ」と言った、会長B氏は既に亡くなっていた。

C氏から離れる、という事は、大企業並みの給料からも離れる訳で、そもそも、それを維持するための、“ガムシャラ”の維持もしんどくなっていた。

またこの会社は、大企業からのキャリアを定期的に雇い入れており、技術部には神戸の名を冠した超大手製鉄会社から、溢れた人材を得ていた。しかしこの頃から、総務部用で、大阪門真にある超大手電機メーカーからの人材に切り替えていた。
いずれにせよ、経営者マターなので、ワタクシには何も判らないし、どうでもイイことなのだ。

しかし、超大手電機メーカーからの人材が入って来てから、ナンカ雰囲気が変わった。

ワタクシが“良い会社”の証しだと思った「世間の常識はウチの非常識」「ウチの常識は世間の非常識」と言う矜持が薄くなって、「世間の常識はウチの常識」になって来た。これでは面白くない。“良い会社”ではない。

また社長A氏は、最も特殊な製品の事業部制を検討していた。事業部制とはある意味別会社だ。
かし年商は1億前後、それが増えるとはどう考えても無理だった。
そもそも、最も特殊な製品の、扱う対象の製造方法が変わって、扱えないモノが増えだした。年商は益々減っていくのだ。

ワタクシは、この“良い会社”を辞めることにした。丁度、扶養義務も無くなって、ワタクシは蓄えが途絶えるまで、失業者でも良くなった。辞める唯一の理由は、C氏とはもう付き合いたくないからだ。しかしそうハッキリ言うのは、少し品がない。
ワタクシは、里山のボランティアを定年前の、まだ体力が残っている歳から始めたい、とウソをついた。

C氏はその頃、創立40周年(?)の記念誌の制作を始めだした。定期的に関係者を集めて、打ち合わせしていたが、ワタクシには、何の声も掛からなかった。
と言うのは
、C氏があれだけ深く関わった広島営業所のことを、何らかの形で書き残すのではないか、と思ったからだ。僅か3年弱の営業所だったが、社内外で、それなりの人を巻き込んだ“事件”でもあった。

広報の担当者にそれとなく聞いて見た。「広島営業所の事は、一切触れてません、社史なら全ての出来事を載せないとダメですが、記念誌は全てを載せなくてもイイんですよ」と、申し訳なさそうに応えた。広島出店に広報として、彼も多少は関わっていた。

その記念誌は、年初の工場に出来た新社屋の、披露イベントで配られたが、ワタクシは開くことはなく、机の奥に仕舞い込んだままにしていた。

退職の日、周りの文書を全てシュレッダーにかけ、自分の日記類は紙袋に入れ持って帰ることにした。

整理の最後に、この記念誌が机の奥から出て来た。ワタクシは取り合えず、紙袋にボソっと入れた。

そして皆に挨拶して、20年間務めた“良い会社”を出た。これで全て終わった。

しかし垂水のマンションについて、何か引っかかる。それは、取り合えず、紙袋にボソっと入れた記念誌だった。

ワタクシは昔から書籍、印刷物を、いつか読むことがあるかも、と思って、棄てなかった。これは自分でもイヤになる程、困った習慣なのだが、“知識”を棄てるようで、勿体なく感じて、だから書籍、印刷物が溜まり気味になる。

その時フト、駐車場の外れのゴミ集積場に眼が行った。
コンテナが沢山並べられている。燃えるゴミ用だ。書籍、印刷物は資源回収に出すのがルール、しかし燃えるゴミに出しても構わない。

ワタクシは紙袋からその記念誌を出し、一番奥の、まだゴミ袋が入っていない、空のコンテナの蓋を開け、それを投棄した。コンテナの真っ暗な底に、それは落ちて、ゴトっと音がした。

そして、歳が明け、年始休みが終わり、信州雪山通いを始めた。

その10年後、信州安曇野の原野に小屋を建て、今年3年目。ほとんど他者との、接触はないが、幸い、病院との接触もない。

当然だが、“良い会社”にはもう何の関わりもなく、HPを見ることもない。 

 
12月になって、稜線は雪に覆われて、後立山は見事な雪景色だが、まだスキー場の積雪は1mに届かない。それだけが不安だ。 

 

 

 

 


壊れ行く頭と頸

2019-12-09 11:10:01 | 信州安曇野での出来事

今年は雪山シーズンが終わって直ぐ、次のやるべき事に取り掛かった。ダラ~、デレ~っとなる前に、始めないと、終わらない。

先ずは、隣人の杣人・Mさんに「やっといた方がイイ」と言われた山ウルシの伐採。
山ウルシは雪融け時は目立たないが、その後若葉の季節に勢いよく生えだし、夏にはウッソウとした低木の群れとなる。ワタクシは次年も生えないように抜根した。しかし、ヤツらは抜かれる前、ふんだんに種をまき散らしているので、どうせ1年後には小さい芽を出すのだが。
次は残っている2つの切株。ナンセこれを片付けないと落ち着かない。それが終わったのは8月半ば。3年越しで、切株を全て解体し燃やし切った。

ここまではヨカッた。

しかしその後は雨続き、雑草は生え放題、虫は湧き放題。次にすべきコトは、まぁ色々あったが、結局ダラ~、デレ~っとなってしまった。
昼前に起きて、その後もウトウトし、ワタクシは死んでいるのか、生きているのか。判らないまま死んでしまっても、それすら判らない。

取りあえずは、死ぬ前に棄てれるモノは棄てよう。

しかし、元来モノが棄てられない性格。いつか使うコト、見るコトがあるかも、と思って仕舞ってしまう。ただ“仕舞う”と言うのは、“忘れる”コトでもあり、結果的に棄てたと同じになってしまう。

棄てる為に色々整理していると、棄てたと思ったものが出てきたりもする。バカバカしいハナシだ。
棄てたという認識は、棄てる場面を覚えているコトだった。つまり、その場面を覚えていないのは「どっかいった」というヤツで、モノが勝手に何処かへ行くことはないので、仕舞った場所を忘れているだけのハナシ。最近は特にそれが多い。

9月下旬、「どっかいった」モノが2つ出て来た。もう棄てたことにしていたモノだ。どちらも棄てた場面を覚えていない。しかし、ないので、棄てたコトにしていた。結局ヤツは出て来た。
申し込んだ記憶がなかった、インターネットバンキングのカードも出て来た。銀行から送られて来た書留の封筒に入ったまま、10年以上経っていた。

実はここへ引っ越す時に、かなり棄てたつもりだった。しかし時間切れで、段ボールに放り込んで信州まで来たものが2箱あった。その中には12年前まで勤めていた、特殊機械メーカーから与えられたモノが多かった。
11月初旬、それらは棄てると言うか、燃やした。少しはスッキリした。

そしてその日、ここへの引っ越し時に棄てたのかも、と思っていたヤツに気付いた。
それは20年ほど前から使っている外来語辞典。B5サイズのペーパーバック、チョットやソットでなくなるモノではない。数センチ厚のハデな赤の背表紙なので、本棚でもなかりの存在感だ。
それが数ヶ月前(?)から、ない。アチコチ何度も探したのに、ない。
今や判らないコトバは、辞書を開かなくてもネット検索で済む。それがなくてもなにも困らない。よって引っ越し時に棄てたことにとしていた。
それが本棚の下段の隅に“鎮座”しているのに気付いた。ここは数ヶ月前(?)から何度も探した所であった。

箱の中や袋の中にあれば、出て来た、見付かったとなるが、これは眼が届く場所にあったのだから、気付いた、となる。なんで今までソイツの存在を認識できなかったのか。ワタクシの頭が壊れて、認識する能力がなくなったのか。

探していた時にあれば、出て来た、見付かった、ヨカッタとなるが、この一連の事象はないと諦めたモノがあった訳で、ヨカッタ感覚など全くなく、腹を抱えて笑うしかなかった。
棄てようとしている場面なのに、棄てたはずのモノが出てくる。逆にモノが増えるのだ。ワタクシは一体何をしているのか。ワタクシは棄てたハズのモノに埋もれて死んでいくのか。 

 11/18、クヌギが散り始めた。

 11/19、葉が落ちれば、北側の何本かを南側に移植したい。

 シロウトが移植出来るのは、高さ3m程までらしいが、広葉樹は根元で切っても萌芽するので、バッサリ切って植え替えて見ようと思う。

11/20、やはりワタクシは頭が壊れていて、認識能力が欠如していた。

定期的に買い出しに行く近所のスーパー。これまではカゴを提げて、少々大きいモノ、重いモノも抱えて、支払いし、車に積み込んでいた。
それが数ヶ月からカートを使うようにした。それは楽だった。周りの客も、老弱男女、全てカートを押している。
その日も、カートのカゴに色々放り込んで、酒瓶はカゴに入らなくなったので、カートの枠に寝かして置いた。枠から外れると床に落ちるが、落ちない置き方があるのだ。
そうしてセルフレジへ行き、普通にレジを済ませ、またカートの枠に酒瓶を寝かせた。すると「ゴン」、酒瓶は枠を外れ床に落ちた。
「ナ、ナンで?」、ナンで落ちない置き方をしなかったのか、ナンでそれを認識しなかったのか、ナンで?

酒瓶は薄い化粧紙袋に覆われていたので、瓶が割れたかどうかはすぐ判らなかった。しかし持ち上がるとボタボタ漏れて来た。
ワタクシは再度、枠から落ちないようカートに置いた。レジの順番を待っている後ろのオバサンが、「モッ、漏れてますよ!」と騒ぎだした。レジ周り、床は漏れた酒まみれになりだした。

出口の係のオバサンに、「これ、どうしたらエエですかねぇ」と酒まみれのカートを指した。
「アラ、大変!」、セルフレジのアチコチの客がオバサンを呼び始めた。
オバサンはレジ周りを拭きながら、アチコチに連絡し始めた。モップを携えて掃除のオバサンがやって来て、直ぐ床を拭き出した。
別のレジ係のオバサンがやって来て、漏れ出している酒瓶を段ボールに入れた。しかし直ぐ浸みて段ボールも酒まみれになった。
もう一人のオバサンも駆けつけ、身を屈めて床を拭き出した。「今日はタイヘンだねぇ」と客のオッチャンが声を掛けて行く。
マネージャーと思しきオニイチャンが、別の方向から飛んで来て、オバサンに「代わりの品、持ってきて」と指示され、酒まみれの瓶の銘柄を確認し、倉庫へ飛んで行った。

さてこの事態は、どのように収拾されるのか。その原因を作ったワタクシは、ボォ~っと皆さんの動きを眺めていた。客は手を出すことは出来ない。

やがて、マネージャーと思しきオニイチャンが酒瓶を抱えて戻って来て、「どうぞ、お持ち帰りください」、「エエの?、コッチの不注意でもあるけど」、「イエ、お持ち帰りください、どうぞ」、足元では数人のオバサンが、身を屈めて床を拭き続けている。ゴメンナサイネと声を掛けて車に戻ると、場内放送が聞こえて来た。「レジ応援お願いしま~す」、床を拭いていたオバサンは、レジのオバサンだったのか、レジへ戻れとの業務連絡の様だった。

とんだ騒動をやらかしてしまった。

自分が何をしようとするのか、何をしているのか、それが認識出来ない時は、出歩かない方がイイかも知れない。行為の認識が出来なければ、注意事項も判らない。

 11/21、落日に透かされたクヌギも美しい。

 11/23、落日に照らされたクヌギも美しい。

移植するクヌギはもっと小さいので、作業はできるが、実は10月中頃から頸が痛い。反らすと痛い。立ったまま、何かを覗き込む様な姿勢を取ると痛い。座っていても、腰を屈んだ姿勢でパソコンを操作すると痛い。
この症状は何年か前にもあった。とにかく首を反らすと痛いので、ロードバイクに乗れなかった。
その後、山スキーシーズンとなり、ホワイトアウトの自然園を滑っていて、左側の段差に気付かず、左肩を下にしてドスンと落ちた。
柔い衝撃の後、ホワァ~ンと肩周辺が温かくなり、その後首は痛なくなった。理由は判らない。気のセイかもしれない。

いずれにせよ、移植作業は12月に入ってからすることにする。

11/24、枯れ落ちた枝を集めて燃やしていると、南側の私道から軽トラが入って来た。中から出て来たのは民生委員のオジイサン。
やっとたどり着けた様子で近付いて来て、首にぶら下げた身分証を見せ、安曇野市からの依頼で、一人暮らしの高齢者の、連絡先を調査しているとの事。
高齢者と言われ、直ぐにはピンと来なかったが、65歳になれば高齢者だそうだ。調査票を渡され、強制ではないらしいが、要するにワタクシが孤独死した時に、葬式をする親族(?)を書けばイイらしい。後日回収に来るとか言われたが、オジイサンに2度手間は気の毒なので、その場で神戸の連絡先を書いた。

これでいつ孤独死しても、一応配偶者には連絡される、という事なる。


美しく枯れる森

2019-12-05 17:07:32 | 信州安曇野での出来事

配偶者とは2年以上、TELもメールのやり取りもない、そんな話をすると、ほとんど人から「エエっ!そんなンで寂しくないノ?」と訊かれる。
「ハイ、おったらおったで、ウットしいですヤン」と応えると、これまたほとんど人が、一瞬、間を置いて「確かにそうだ」と頷いた後、ハハハと笑う。そこには、諦め、悟りが混じった、ホッとした雰囲気が漂う。

惚れぬいた相手でも、20年も一緒におればお互い飽きるし、そこそこ歳いくと、絶世の美女が「側にいてあげる♡」とか言ってくれても、かまうのもシンドい。ひとりがイイのだ。林住期とはそう言うモノなのだ。

ワタクシには兄弟がおらず、市街地から歩いて1時間弱の神戸・布引谷で育ち、一緒に通学する仲間もいたが、中3の時の、大雨による山腹の崩落で、多数の犠牲者が出た後、多くの仲間は街に引っ越しし、高校からはひとりで通学するようになった。
そもそもいつもフザケていて、仲間を笑わせるのが好きだったが、授業が終わるとひとりで布引谷へ帰り、翌朝までひとり。学校が終わって仲間と三宮へ出歩くこともなかった。

そのような環境で育ったためか、生まれつきの異状なのか、ひとりがイイのだ。ひとりでも小屋の周りの森の移ろいは、ワタクシを楽しく、うれしくしてくれる。特にこの時期は。

 11月になり、朝の気温が一桁になり、5日、石油ヒーター使用開始。

 11/9、朝の気温は4℃。

 周りはますます金色に染まる。

 サクラは散り落ちたが、クヌギの黄葉はまだ元気だ。

 11/18、黄葉は枯葉に変わって来た。

 田んぼの果ても黄葉の森、あの先はまだ探検出来ていない。

 11/19、稜線の雪は、そんなに増えていない。チョット気になる。

 枯葉の森も美しい。

 11/26、ほぼ散った。枯れ枝の森も美しい。

 あの森の近くで夏頃、愛犬と散歩中の杣人・Mさんは、デカイ青大将に遭遇したそうだ、「おっかねェ」。しかし今は寒くなってもう出ないだろう。

 11/29、田んぼの端まで行って振り返る。有明山も燕の稜線も雲がかかっていたが、初冬の山だ。風は冷たい。初冬の安曇野は心地よい。