蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

16年前の記憶 " 天の恵み " の笑み

2011-03-28 20:45:38 | 駆け抜けた一回性の記憶

" 天の恵み" 発言で府議会議長を辞め、所属政党から公認も取り消された老政治家サン、老害とかの言葉が思い起こされて、もう引退しはったらと思うが、余計なお世話ですかねぇ。

"維新の会"の知事が強行しようとしている府庁移転先の建物が、この震災で破損したので、移転に反対している自分にとっては "天の恵み "だ、という、事務所開きの支持者(味方)に囲まれての発言なので、わざわざそれを取り上げ大騒ぎする程の事でもない様な気もする。それを聞いた東北の人達が気ィ悪ゥするだけだし。

しかし、ライバル企業が自然災害を被った時、それを "天の恵み " と喜ぶ会社経営者は多いと聞く。 今回の場合、被災エリアが広すぎて、資材調達先が東北にあったりして、西方の企業でも喜んでいる場合ではない様だが。

16年前の阪神大震災、幸いワタクシの家族、知人に被害なく、地震の翌々日から通勤を再開した。
しかし、電車はまだ不通、スーツの上に冬山用のパーカーを重ねミニバイクで通った。
支柱の鉄筋がむき出しの高速に沿って走りながら、脇の街々を覗くと、焼け尽きた闇が広がっていた。

瓦礫の片付けを手伝いたいと思っても重機を扱う技能はないし、演技、演奏で多量の義援金を集められる才能(=talent)もない。
今まで通り普通に働いて、売り上げをあげ、利益を出して、税金を納め、それを復旧、復興に使ってもらうしかない。

出社して直ぐ、広島や山口、愛媛のお客さんにTEL、当面のご注文は他営業所か、直接工場へお申しつけ下さい、と連絡した。 こんなに早く、被災地のど真ん中にある企業からの営業活動を受け、皆さん驚いていた。そして「アンタ、悪運強いね」とも言われた。
ガンバロウ!と掛け声を上げなくても、人はガンバルものだ。

その後、まだミニバイク通勤を続けていた頃、東京に席を置いている営業のTOPがやって来た。 夕方まで経営のTOPと打ち合せをしていた様で、帰ろうとしていた時に営業所に入って来た。

労いの言葉はなく、「もう神戸はアカンなぁ、こんなトコにおってもアカンでぇ、やっぱり早目に広島へ営業所出さンと」と言って、ニヤッと笑った。その笑顔は何んとなく卑しかった。

詳しい事は知らないが、嫡男である経営のTOPを、その営業TOPはライバル視していたらしい。 彼にとってはライバルがいる本社、神戸の震災は" 天の恵み" と言う事か。
アカンと言いながらのその笑みが、喜びを物語っていた。

ライバルの力を削ぐには、機能、人材を潰すか奪い取るかだ。 その営業TOPは以前から本社にある営業所を広島に移したい、と言っていた。
確かに神戸営業所の売り上げの半分弱は兵庫周辺、半分強が中四国。 兵庫近辺は大阪から通えるし、中四国へは広島から通うのが妥当だろう。 広島への進出は昔、失敗したこともあって、もう一度キチンとやりたい、との意向は経営のTOPにもあったようだ。
しかし、そんなに強いこだわりは無かったように思う。 現実、何年もの間、神戸から通って支障なかったし、広島へ出たからと云って、業績が飛躍的に伸びるとは思えなかった。

そもそも中国5県で日本の5%と言われていて、しかも日本を代表するプラントメーカーの広島の事業所では業績不振が続いていた。 当時、地元への数千億の発注が無くなった、と言われていた。

しかし、神戸はもうアカン、とにかく広島へ、何かにつけ営業TOPは言っていた。 転がり込んだ "天の恵み " 、逃さずにはおくものか。
そして、上司には逆らわないワタクシは単身赴任を条件に同意し、いつの間にか推進者になってしまっていた。
売上と経費の予測とその正統性を細かくまとめ、営業所として成り立つ旨の計画書を提出、経営のTOPは納得した。 営業所開設に伴う費用は確か三千万程だったと思う。

ほぼ全てがまとまった頃、その営業TOPがまたニヤッと笑って言った。「社長から、広島営業所を進めてルのはアンタだけや、と役員会でいわれてなぁ」

広島への出店はナント、経営陣全てのコンセンサスを得ていなかったのだ。
営業部内でこの人物は、言いたい放題、やりたい放題だった。 しかし、経営陣の皆さんも、彼のやりたい放題を何故許すのか、不思議だった。

その後、広島営業所は色々問題もあったが何とかやれていた、と思う。
しかし、3年弱で閉める事になった。 後継者がいない、との理由だった。 3千万の出店費用は結局、稼げなかった。
後継者になるはずだった人材は、その営業TOPが直接面接し、内定していた証券会社を断らせて引っ張り込んだ若者だった。 しかし、営業TOPのお見立て通りにはいかず、彼はプライベートでも仕事でも不祥事を起こし続けていた。

閉める事になっても、ワタクシには損害はない、単身赴任が終わるだけだ。得意先に迷惑をかける事もなかった。

ただ、一人の女性を失業させてしまった。
当然彼女に対し、出来るだけの事はするべきで、失業保険は会社都合扱いとし、2ヶ月分の給与が別に支払われた。 そして広島は終わった。

" 天の恵み" 発言でしょうもない事を思い出してしまった。

あの時、3年間弱、ワタクシの広島営業所を支えてくれた彼女は今、どうしているのだろうか。


ウォーターズ・オブ・マーチ

2011-03-24 21:45:11 | 神戸布引谷での出来事

The riverbank talks of the waters of march.It’s the end of the strain.It’s the joy in your heart 

この歌を作った人はブラジルの人だから、" the end of the strain " と云うのは夏の酷暑の終わりのことで、3月の川の水を涼しく感じて喜んでいる様を謳っているのだと思うが、北半球の我々の多くは、水温む3月を待ち望んでいるはず。

しかし、昨日の空気は冷たかった。

被災地の人達、本当にお気の毒です。
地震、津波、原発事故、そしてこの寒さ、なんでこんなにイジワルばかりされるンだろう。嗚呼。

庭はスミレが咲き誇っていた。Imgp2446

Imgp2447

ボケも負けずに咲き誇ろうとしている。Imgp2449

ウォーターズ・オブ・マーチはまだ冷たかった。


昔、好々爺は自然の怒り、天罰と言った

2011-03-23 07:32:33 | 朽ちゆく草の想い

43年前の7月の日曜日。
梅雨の末期、大雨が降って、谷を挟んだ対岸の山の斜面は次々と崩れていった。
家の数10m下を流れる谷は濁流で溢れ、我々の通学路:ハイキングコースにまで達していた。 今さら避難は出来ない。自然が荒れ狂うさまを茫然と眺めるしかなかった。

幸い近所での被害はなかったが、その夜9時ごろ、村の中心地と言うべき、500m程上流の大きな茶店を山津波が襲い、そこに避難していた21人の命を奪った。
村長的存在の老人も、美人で有名だった茶店のお嫁さんとその息子さんも、近くの河原でよく一緒に遊んだマリちゃんと幼い弟妹も犠牲になった。

その数日後、何カ所も崩れたハイキングコースを歩いて、中学校への通学は再開した。

16年前の1月17日月曜の朝、寝ていたのは7階で、この建屋が倒壊するのでは、と思うほどの揺れだったが、無事だった。
どうせ全ては停まっている。 通勤は出来ない。余震が続く中、午前中は朝寝していた。
昼になって、取りあえず会社の様子を見に行くことにした。

ミニバイクで30分弱。 須磨まで行くと沢山の戸建が倒壊していた。 長田まで行くと曇り空になった。街が燃える煙だった。いたるところから煙がたっていた。
会社の建屋は健在だった。 営業の室内もそんなに崩れておらず、机の上に倒れていたパソコンを起こし、電源を入れるとちゃんと立ち上がった。
前々日の土曜日、休日出勤して作った資料も残っていた。
会社の食堂には近所に住む、主に独身者達が集まっていて、お互いの無事を喜んだ。

その後、住吉の叔母宅へ行こうとした。叔母と連絡が取れない、とオフクロから連絡があったからだ。 陥没した加納町の交差点を通り、山手幹線を進んだが、王子公園で全く動けなくなった。路側帯まで車でビッシリ。
ガス欠になると帰れない。仕方なく引き返した。
兵庫、長田を通過する頃には、崩れた家々から火が出ていた。人が沢山、走りまわっていた。
何も出来なかった。何か手助けしたい、と思っても実際には何も出来なかった。
ただ燃えさかるさまを茫然と眺めるしかなかった。

翌日はグチャグチャになった室内を片づけた。
翌々日からはミニバイクで通勤を再開した。
何も出来ない自分は、とにかく今まで通り普通に働いて、今まで通り売り上げをあげ、利益を出して、税金払って、それを復旧、復興に使ってもらう。それが最善、と判断した。

叔母は家が全壊し、近所の小学校へ避難していたので、何日か後、実家のオフクロの元へ連れて行った。

2週間前の津波、今回は遠い東北の災害、幸い悲惨な光景を実況で見る事はなかった。
テレビは故障しているので、ハッキリ見えなかったが、海から大波が襲ってきて、工業、漁業、商業、役所、警察署、そして生活を呑み込んでいくさまは判った。
有り余る人工物と、それに慢心し享楽の極みに甘んじている人類、それらを破壊していく自然の猛威が、壊れかけたブラウン管に映っていた。
しかし、何と残酷な映像だろう。 あの波に中には、救われるべき沢山のか細い命もあるのに。

43年前、大水害の後、近所の好々爺は、これは自然の怒り、天罰だと言った。

天罰? しかし、中学生になったばかりのマリちゃんやその幼い弟妹がどんな悪い事をした、と言うのか。

生きている事が " 苦 " だと、お釈迦さんは言ったらしい。

生きている事が " 悪 " だと言う考え方もあるらしい。

人類は生きていくために、当然の様に沢山の動植物の命を奪っている。これは" 悪 " だ。

「いただきます」の意味も知らず、それらの命を食べ残し捨てていくおバカも多い。これはもっと" 悪 " だ。

そんな愚かなおバカを相手に商売にして利益を上げ、喜んでいる食品業界は、もっともっと" 悪 " だ。

"  想定外 " の自然の猛威が潰していった防波堤には、色んな利権、談合が絡んだモノもあるはずだ。 それらに関わった土木建設業界も" 悪 " だ。

それらの業界に土地、設備、資金を提供することにより利益を得て、その利益を元に更に膨らんでいく経済は、もっともっともっと" 悪 " だ。

それらに支えられているこの国は最も" 悪 " だ。

もうこの世は" 悪 " で溢れている。

当然ワタクシも" 悪 " だ。 沢山のヒドイこと、可哀想なことをしながら、60年近く生きて来たのだ。

しかし、自然は" 悪 " だけを選んで罰を与えるような細かい配慮は出来ないようだ。

43年前、マリちゃんやその幼い弟妹は、" 悪 "だけに与えられるべき天罰に巻き込まれたように思う。

今回もその様な、" 悪 " とは無関係な人達が沢山巻き込まれたはずだ、嗚呼。


涙、涙、涙、・・・

2011-03-22 20:25:39 | 朽ちゆく草の想い

沢山の人が、津波にのまれて亡くなられた。

20人程の中国から来ていた研修生を、彼女達がいる寮から高台の神社に避難させ、その後も他の人を助けようとして亡くなられた水産会社の専務さん。

役所に最後まで残り、「津波が来るから避難してください」と叫び続け、亡くなられた、若い女性職員。
逃げていた老女は、建物と一緒に波にのまれる彼女の放送を聞いたとか。

そんなスゴイ人達の、悲しい勇気ある犠牲を新聞等で知って、何もしなかったワタクシはただ泣くしかありません。

嗚呼、涙、涙、涙。


3年前の親不孝モノとオフクロの日記

2011-03-16 01:24:27 | 朽ちゆく草の想い

オフクロが亡くなって3年経った。

3年前の3月13日。 栂池高原は快晴。林道9:15出発、乗鞍頂上11:55着。

下りは南寄りの斜面から直接自然園へ、とても快適な滑降だった。062_2

定宿へ戻り、いつもの様に17時からお風呂、18時から夕食、白馬錦2合呑んで、20時前には爆睡、いつもの様に。

この夜、オフクロは亡くなった。 ワタクシの夢枕に立つこともなく、ソッと逝ってしまった。

翌日夜、神戸に戻り、翌々日は朝から洗濯、その後オフクロへ土産(信州のお菓子)を持って行く、これは毎度のパターン。 

しかし、15日朝、ワタクシが行く前、定期的に高齢者宅を巡回していた消防局の職員さんに発見された。 声をかけても返事ないので、たまたまカギが掛っていなかった玄関を開け覗くと、脇のトイレのドアの向こうで倒れていたとか。

ワタクシが実家に着いた時には、既に葺合署の刑事と鑑識が来て検死していた。
死後24時間以上経過、死斑の状況から、首を絞められた等の事件性なし、クククッと苦しんだ徴候もなし。夜中トイレへ行こうとして、いきなりグッと来て、眠るように亡くなったンでしょう、家の中もきれいに片づけられていて、大往生ですよ、と刑事は慰めてくれた。
神戸市は死因を確定するための解剖が原則らしいが、勘弁してもらい、その代わり神大・医学部で死体検案書を書いてもらった。死因は急性心筋梗塞。

オフクロは日記を兼ねた家計簿をつけていた。

12日は痴呆の妹(ワタクシの叔母)のところへ行ったらしい。新神戸ロープウェイの風の丘駅まで歩いて、新神戸からパスで三ノ宮、JRで本山へ、"超"高級老人ホームへはタクシー、そして同じ経路で帰って来たようだ。
その日の記述 「心臓の具合がわるい、しんどかった、しんどかった、休み休み歩いた、心配」
休み休み歩いた、と言うのはロープウェイまの駅までの車道、約800mだ。一人で杖をついて歩いては、コンクリートのガードレールに腰を掛けて休む、そしてまた歩く、そんな姿が目に浮かぶ。
「車で連れて行ってやるから」と何度言っても、「イヤ、アンタも忙しいやろぅ」と応じなかった。 息子が1時間もかけてやって来ることが大そう、と感じていたようだ。
13日も 「心臓、今日も苦しい」と書いていた。日記はその日で終わり。

日記にはバカ息子のことを案ずる記述ばかり。
生前には鬱陶しいかったそれらを読むたび涙、涙、涙、一人息子の、寡婦であった母の死はとてもこたえた。

ナムアミダブツで目を閉じると、何とも言えない笑顔で、膝をかばいながら部屋をうろつく姿が目に浮かんで涙、信州の土産を持って行った時の嬉しそうな顔を思い出して、また涙。
その年の正月にちょっとケンカした。と言うかこのバカ息子は老母に悪態をついてしまった。
その日の記述 「何かとお正月の用意もしていたのに、何やらいやなお正月でした」、でまた涙。

オフクロとその妹達は私生児だった。 妹の一人は戦後の混乱期に結核で死んだ。その母親はハンセン病の施設で死んだ。
しかしそれ以外、特に悲惨な経験はなかったと思う。 昭和42年の大水害でも阪神大震災でも悲しい想いをする事はなかった。
息子はアホだったが、孫は有名国立大学へ、孫娘は県内の公立大学へ入学した。 今までで一番うれしい出来事、生きてて良かった、と言っていた。
孫は夏には度々仲間を連れ近所でキャンプをし、その時には喜んで面倒を見ていた。若者に囲まれ楽しい一時を過ごしたはずだ。

しかしその後、孫はオトナになり、バカ息子は一人で暮らすようになり、妹は痴呆になった。83歳になっていた。
「この歳になって、こんなめェにあうて、やっぱりあの人(自分の母親)が、あんなエエカゲンな事(私生児を3人生んだ事)をした報いやろか、親の因果やろか」と、嘆いていた。
「イヤ、それは関係ないでしょ。大体ウチは浄土宗やし、阿弥陀仏は救済を求める全て、男女、善悪を問わず、ナムアミダブツと言うたら誰でも救ってくれはるンやから。 それにこれまでにエエことも色々あったやン」
家庭的に一人になり、その後会社を辞め、社会的にも一人になったバカ息子はのんきに応えた。
「そうやな、ナガイキしすぎたンやな」
そして亡くなって、今回の東北の悲惨な光景を見なくて済んだ。

正月からしばらく経って、その時悪態ついた事を謝った。その日の事がどうか判らないが、ワタクシが「 ・ ・ ・ と云って、笑いながら帰って行った」と、何やら和やかな雰囲気の記述が2月の中頃にあった。
亡くなる一週間ほど前の記述、「何を食べてもおいしくて、食べる事ばかり頭にある」

3年経ってもバカ息子は相変わらず一人で過ごす失業者で、信州へ遊びに通っている。 しかし心配する親は一人もいないので、もう親不孝モノではない。

そして、時々思い出したようにカビ臭いオフクロの日記を読んでは泣いている。