蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

雪はドンドン融け続け、短い冬は遂に終わる

2020-03-31 17:14:18 | 山とスキーでブラブラ

3月の前半は、頸髄硬膜外血腫で、栂池から信大病院に入院し、10日後退院、栂池へ戻った。
そして鐘の鳴る丘には雪はなく、リフトも止まっていた。しかし、栂の森からは、ゴンドラ中間駅どころか一番下の駅まで、滑って降りれるとか。

それならば、もうしばらくは滑ることにした。
と言うか、首からの出血で、半身マヒとなり、入院して、そのまま風船が萎む様にダラ~っと、この冬が終わるのが、何かイヤだった。

この冬もダルい、シンドい、で始まった。
しかし、一定のピッチ、振幅で滑り続ける楽しさが蘇って来て、徐々に元気になって来て、どんな時でも、どんな斜面でも、そんな滑りが習慣づけれるか、が課題になって来た。この課題には直ぐに届くのか、それとも遥か彼方にあるのか。

いずれにせよ、気になるのは、半月程の病人・入院モードからスキーモードに戻れるのかどうか、という事。肉体的には一定のピッチ、振幅で滑り続けることは出来るはずだが、それを楽しく感じるかどうかが、肝心なのだ。

 3/24、朝は雪、雰囲気は真冬だが、明けるに連れて、アッと言う間に融ける雰囲気でもある。何しろエルニーニョ、暖冬であり、南半球では大火事で、CO2をドンドン排出しているのだ。

 フツーに真冬の景色だが、鐘の鳴る丘のリフトは営業終了で、ゴンドラで上がる。

 栂の森も真冬の景色。前回(3/3)はここで具合が悪くなり、ゴンドラで下った。滑るのに充分な雪がある季節での、初ゴンドラ下山だった。

 この看板は何か所にあって、この下からはハンノキ第3リフトに下るよう、ロープが張られていた。しかし、このまま中間駅に滑り降りれたし、最後は下の駅まで滑って降りた。

 3/25、親の原に残った(?)、残した(?)滑降コース。

 雪がウッスラ被っただけの鐘の鳴る丘。

 中間駅辺りもほぼ雪は融けている。中間駅へはそこそこ歩く必要があるかも。

 昨日は真冬の雰囲気だった鵯峰も、一日たてば穏やかな春。

 結局今年は、一度も上には登れなかった。

この後、松川村の写真家・Sさんに遭遇。3/3のお礼を言う事が出来た。
あの日、Sさんに宿まで送って頂いてなければ、ワタクシは路傍でヘコタレ、かなりヤバい状況になっていただろう。本当に助かった。

 ハンノキ第3リフトに誘導するロープは、前日よりガッチリ張られていて、中間駅方向へ下る雰囲気ではなかった。

 栂の森のリフト降り場の手前、ナンカ様子がおかしい。

 灌木が切り倒されている。

 リフトに干渉する場所ではない。
DBDのエリアだが、滑るのにジャマだから切ったのか。誰の仕業か?

結局この日は、栂の森~ハンノキ第3リフトまでを4往復したが、ハンノキも後半はかなりブッシュが剥き出しになっており、来週はもうオシマイかも。

 3/26、いよいよ今季も、今日でオワリにする。
ゲレンデで半身マヒになり、ドクターヘリで信大病院に運ばれたが、以前と同じ様に滑れることは確認できたし、それが楽しいことも確認できた。後は来季の雪を待つだけだ。

 ゲレンデ側の池塘のミズバショウはまだツボミ。

 ズラ~っと並べられている折り畳み椅子の様なモノは、いつも止まっているリフトのイスだった。いよいよ撤去されるのか。

 そして、‘20年はこれでオシマイ。


3/3から10日間入院の出来事

2020-03-29 10:14:32 | 信州安曇野での出来事

3/3、栂池を出た救急車は、河川敷の様なヘリポートに着いた。
首は起こしても反らしても痛いので、周りを見渡したりは出来なかったが、常念岳が少し南側に見え、山岳遭難などのニュースで、ヘリが飛び立つ映像でよく見る景色だった。
ドクターヘリは待機していて、15分程で信州大学病院へ着く、と説明を受けた。

病院へ着くと、まず最初にCTとかMRIの検査を受けた。
とは言え、ズッと寝かされた状態で、内部の詳細を知らない病院の、アチコチを運び廻される訳で、自分がどこにいるか,どこに行くのかは当然把握出来ない状況。いずれにせよ、お医者さん、看護師さん達に委ねるしかない。
とにかく寝かされた状態のワタクシが見えるのは、アチコチの天井だけ。その一部の天井は、新緑の森を見上げた様な、若葉の木々の写真になっていて、なかなか良いセンスだと思った。ただ他の病院の天井を眺めたことはないので、このセンスが信州大学病院だけのモノなのかどうかは判らない。

検査でアチコチ運び廻されて、最後は4階のHCUに運び込まれた。途中で壁の時計を見ると、18時20分過ぎだった。これがこの日初めての時間確認だった。
HCUとは「ハイ・ケア・ユニット」の略だそうで、主に手術を受けた直後の患者を治療する部署だそうだ。
部屋は細長く、ベッドが2列並んでいて、ワタクシは一番奥に寝かされ、3つ辺り隣までベッドがあった様だから、定員8名(?)、手術を受けた直後の患者相手なので、その程度のキャパなのか。
ワタクシはその部屋で直ぐ降圧剤の点滴を受けた。そして側にブラウン管TVの小型程のモニターが置かれ、ワタクシの血圧がグラフ表示された。ワタクシの血圧は200程あったそうだ。
この現場のリーダーらしき医師、つまりワタクシの主治医(?)が「こんなに高かったら帰せないよ、とにかく下げないと」と、看護師達に指示し、また「首の血管が破れて出血して、それが周りの神経を圧迫してこうなった」と、ワタクシにも聞こえる様に(?)説明した。

ワタクシは、スキーをしていた時の服装のまま寝かされ、フツーは当然のようにいる、付き添いなどはなかった。
山とスキーに没頭したい目的の、信州単身移住なので、近くに家族はいない、医師、看護師にはそう説明した。
と言うか、せいぜい数日で帰れるだろう、との自分勝手な思い込みもあった。手足も少しずつ動く様になっていたし。
しかし、スキーウエアのまま数日間で帰ることは出来ず、病院側から入院中の衣服他のレンタルを紹介され、看護師のオバチャンに言われるまま契約。

そして着替え。しかしワタクシは、右半分がマヒした寝たきり状態、着替えどころか何も出来ない。しかも雪山モードで何枚も気重ねしている。
結局、下は若い看護師のオニイチャン数人に「セェノー」で、オーバーズボンごとズボッと引き抜いてもらった。
次は上、バンザイ姿勢で上へ引っ張って貰えばイイのだが、上半身は起こせない状態なので、引き抜いてもらう訳にはいかない。
看護師達は、「服、切ってもイイですか?」と言って来た。しかし、服を切って脱がせる、と言うのは、死人から脱がせる行為だ。しかもワタクシが着ているのは、雪山用の服だし、それを切りたくない。
そんなやりとりをしていて、フト気が付いた。少しではあるが、右手が動くのだ。そしてワタクシはまず、フツーに動く左腕を袖から抜き、右腕を抜き、上半身もズリズリ動かして、上を脱いだ。
看護師達は「エエっ!そんなことが出来るンですかぁ!」と、言った雰囲気で喚声を上げた。
それと並行して、首を保護するためのカラー(襟)を巻かれた。これはポリウレタン製の肌色の、ムチウチ事故の被害者等が、よくクビに巻いているのと同じヤツで、これは病院の備品ではなく、レンタルでもなく、患者が都度購入するモノで、後日業者へ振り込む様、看護師のオバチャンから納品書を受け取った。そして首を動かさない様言われた。
その日は半身マヒで運ばれ、そのモードが続いていたので、ほぼ完璧な寝たきり。オシッコは管を入れますか?、尿瓶にしますか?と訊かれ、都度チ〇チ〇を尿瓶に突っ込んでもらい、ノドが渇くと、ストロー水を飲ませて貰った。

マヒしていた右手足は徐々に動く様になり、3/4朝にはもと通り動く様になっていた。
力も入る様になり、上から押さえつけようとした看護師のオネエチャンを逆に持ち上げ、周りの医師。看護師を驚かせた。

3/4の朝から食事が出た。病院の食事は、味が薄くマズいとよく聞かされていたが、そうでもなかった。食事中だけは上体を起こされたが、済むとまた寝たきり状態に戻った。
寝たきり状態と言うのは、ホントに辛い。しかも仰向けで首を動かすな、と言われると益々ツライ。「カラダを起させて欲しい」と、何度か看護師に頼んだが、「センセイに言っておきます」と、言われるだけで、寝たきり状態は続いた。

ワタクシの麻痺が治まって、フツーに力も出る様になったことを知らされたのか、昨日のワタクシの麻痺状態しか知らない医師が、代わり替わりで様子を見に来た。皆さん若く、感じのイイ若者ばかりだった。
退院まで、一番よく様子を見に来てくれた若い医師は、ここへ着いた時は、一生マヒになる一歩手前の状況で、非常にヤバかった、と言った。
もう一人の若い医師は、手術をしなくて済んだこともラッキーだった、切ればもっと厄介に事になっていた、と言った。また敗れた血管は塞がったが、また開くことがあり、塞がった事が97%確認できるのは1週間後との事で、つまり1週間はここにいないといけない、という事なのだ。
最後に姿を見せたのは、前日ドクターヘリに乗っていた、美人アスリートの様なショートカットの女医(?)だった。
彼女はワタクシの状態を見て脳卒中、と診断したが、問題が起きた血管は脳ではなく、首だった。
そして昨日ワタクシがあの状態になる直前に、何らかの大きな衝撃を受けなかったか、としつこく訊いて来た。しかし、木々にもニンゲンにも激突しなかったし、派手な転倒どころか、シリモチもつかなかった。
要は、衝撃は全くなかった。ワザワザ訊きに来られたことが、気の毒なくらい、素っ気ない答えだった。

その後、HCUから7階の一般病室に移された。
看護師さんに見送られてHCUを出ようとした時、しょっちゅうボードを抱えて滑りに行っている、と言っていた一人と眼があって、「それじゃ今度ゲレンデでねぇ~」と手を振ったら、「ハイっ、ワタシ、栂池のシーズンパス、持ってますので・・・」と応えてくれた。
行った先は、6人部屋だったが、その後リハビリ:歩行練習で、室内を歩き廻るので、個室に替わった。
しかし、そもそも歩行練習を行うには、個室は狭すぎる。結局、リハビリ担当のN君にそう言って、フロアを2周した。

そして公衆電話から、定宿にTELした。
定宿には一切の荷物を置いたままで、今どこにいるのかも知らせていない。ワタクシには携帯はないが、テレフォンカードは沢山ある。とにかく早く、信大病院に入院している事、入院は1週間以上掛かる事を連絡したかった。
一応、手足は動くので、一旦定宿に戻り荷物を引き上げ、家へ戻って入院の準備をして、再度出直すことは出来ないか、とか、看護師さんの携帯を借りれないか、とか、かなり非常識なお願いをしたが、結局は全てダメ。アタリマエだ。
しかしリハビリの途中でエレベーターホールに公衆電話を見つけたのだ。通常こう言う連絡は、付き添いがするのだろうが、そう言うのがいない身の辛さ、しかし何とかなるモノだ。

部屋には、信大病院の入院に関する小冊子が持ち込まれていて、その中に「入院診療計画書」なるものが紛れていた。
ワタクシの病名は「頸髄硬膜外血腫」、推定される入院期間は「2,3週間以内」となっていた。
一番よく様子を見に来てくれた若い医師はA氏で、彼が担当、昨日HCUで色々指示をしていたのはI氏、と言うらしい。

3/5、医療福祉支援センターの女性がやって来て、「高額療養費限度額適用認定証」の申請を代理で行って頂けるとのことで、言われるままにお願いした。入院医療費の限度額を超えた分が、保険から払い戻されるらしい。そういう事もワタクシは知らなかった。

室内を歩き廻るリハビリは必要ないので、また別の4人部屋に移された。この日のリハビリは、更にアチコチ歩いた。

この夜、破れた血管の炎症を止めるステロイド:ドキサートの点滴が外された。

3/6、10時頃、もう一つの点滴、降圧剤:ニカルジピン(ペルジピン)も外され、点滴から解放された。

それまでは、点滴をぶら下げたスタンドを引き摺っていたので、トイレに行くにもナースコールが必要だった。
深夜にそれが面倒だったので、一度コソっと行ったら、見つかって、「どんな場合でも必ずコールして下さいッ!」と怒られた。その帰り、一応声を掛けようと事務所に行こうとしたら、「ど、どこへ行くンですか?」と後ろからの声、彼女はトイレの直ぐ側で待っていてくれたのだ。ワタクシはもはや、夜中に徘徊する老人になっていた。

いずれにせよ、病院内では自由に動けるようになって、この日のリハビリは1階まで歩いて降りて、駐車場周辺をグルっと歩き、7階まで歩いて戻った。当然担当のN君同伴だ。

夕方、松川村のSさんに連絡していないことを思い出し、3日定宿に送って頂いた後、その場に倒れてドクターヘリで信大病院に運ばれ、今入院している事を報告した。

3/7朝一番、看護師さんがアムロジビン4錠、持って来る。前日、降圧剤の点滴を止めた代わりの処置らしい。それを飲むと血圧は137になった。

点滴が取れてから身軽になり、病院のアチコチをブラブラ、この日は1階のコンビニで歯ブラシを購入、4日振りの歯磨きを行った。
また、談話室の本棚にあった半藤一利サンの永井荷風の評論、五木寛之サンのエッセイを読んだ。

とにかく退屈だった。

3/8、この日から血圧、体温、血糖値の定期的な測定が始まる。朝一は血圧157、10時頃で165。血糖値は140程で、高い。
11時頃、A医師がやって来て、薬の量を増やしてみると言って、13時過ぎ、追加の1錠を飲む。

3/9、血圧、朝は160程、9時頃150程、薬がアジルバに替わる。2錠飲む。
午後はリハビリ、スクワット、つま先屈伸、自転車など1時間弱。
その後糖尿内科の、これも若い医師がやって来て、血糖値が高いのは、破れた血管の炎症を止めるドキサートのせいで、3/5に点滴を止めたが、その後も数日、この薬の影響は残り、血糖値は上がるとの説明を受けた。

どこへ行くにも、ポシェットの様にぶら下げていた心電図送信機は、この日の昼過ぎ外された。

3/10、食事は糖尿食になり、薬はアジルバ2錠と粉薬セバミットR細粒になった。
9時頃MRI、10時過ぎエコー検査、血圧は130程。

入院から一週間後のMRI検査、これで問題なければ、退院のハズ、薬もアジルバとセバミットになって、血圧も130だし。
病院の居心地は悪くはなかったが、やはり早くケリを付けたかった。

この日初めて風呂を勧められた。と言うか、そろそろ入った方がイイのでは?と言った雰囲気だった。
風呂についても、どうせ直ぐ帰れるから、まぁエエやろ、と気にしないでいた。数日前には看護師さんにカラダを拭いてもらったし。
その時の紙オムツを履いたままだ。もう一つチョウダイ、と言えるものでもない様だ。
ただ、入院の3日に履いていた下着はある。取り合えず風呂に入り、それに着替えることにした。どうせ後数日で終わるハズだ。
タオルは入院中の衣服他のレンタルに含まれていて、ロッカーの中に沢山残っていた。
履き続けていた紙オムツは、脱衣場のゴミの袋に捨てるよう、看護師さんに言われた。
そして1週間ぶりの風呂になった。空いている時間にしたので、昼ブロになった。その後は昨日の同じメニュウのリハビリ。

3/11、朝一の血圧は150程。
9時前A医師がやって来て、退院は13日、その後は大町総合病院へ通院となる、また首の保護用カラーは、もう外してイイと言われた。
10時頃の血圧は100程。
昼前、I医師もやって来て、13日退院と告げて行った。
早速、定宿へTEL、13日に退院し、その日は泊めて欲しい旨、連絡した。

3/12、朝一の血圧134。
8時過ぎより、10日のMRIとエコー検査の結果を、A医師から聞いた。
静脈を破り、溢れ出た血腫はほぼ消えていたとの事。主な話題はこれでオワリ、後は画像を見ながら、首のメインの血管はかなり太い、とか、脳に出血した跡が、いくつかあったとか、そんなハナシを聞いた。
そして大町総合病院への紹介状、ワタクシの検査データを受け取り、お礼を言って全て終わった。

昼からは最後のリハビリ、今まで通りスクワット、つま先屈伸、自転車などを行った。
思えば、リハビリ担当のN君とは、4日のリハビリ開始から9日間、毎日顔を合わせていた。フザケ過ぎるワタクシのギャグにも、調子を合わせてくれたナイスガイだった。
「もう戻って来ちゃダメですよ」、「イヤそれは判らんでぇ~」、そう言って彼と握手を交わした。

サインをしておいて下さい、と言われた書類を提出し、後日使うであろう診断証明書の申請をして、最後のフロ。

3/13、退院後の薬が届いていないので、看護師さんに督促、アジルバとセバミットが14日分届いた。
ドクターヘリで運ばれた時の雪山用ウエアを着て、同室の患者さんに「お先に失礼します」と挨拶、看護師さんの控室にも挨拶して、エレベーターに乗ろうとすると、看護師さんが追いかけて来た。
「あのぅ~スイマセ~ん!これ、ここでは廃棄出来ません」、それは首の保護用カラーだった。もう使わないし、荷物になるし、捨てておいて下さい、とお願いしたのだった。しかしダメ、多分廃棄分類に該当がないのかも知れない。
仕方なく、看護師さんに手提げ袋を貰い、スゴスゴと提げて帰ることになった。

1階の会計で請求書をもらい、支払機でそれを読ませ、カードを入れると、いとも簡単に支払いは済んだ。入院費は3割負担で7万程だった。
3食付きの10日で7万、これは高いのか安いのか、生まれて初めての入院だったので、ワタクシにはよく判らない。

信大病院を出たのは10時過ぎ、取りあえずは松本駅に行くことになるが、バスは数十分待ち。仕方なくタクシーに乗ったが、松本駅の大糸線は約50分待ち。タクシーはナンの時間稼ぎにもならなかった。
11時20分発の南小谷行きに乗り、白馬着は13時。
駅前のそば屋で何年振りかの外食。
栂池行きのシャトルバス探したが、直ぐにはない様子。またタクシーに乗る。

定宿の少し手前で降りて、全く雪のなくなった栂池の街を歩き、10日振りに宿に戻る。

夜は10日振りに酒を呑み、入院前のペースで過ごし、ホッとした。

 3/14、11日振りに安曇野へ着き、屋根の雪を下ろし、再度ホッとした。

 

 

 

 


スキー場で動けなくなり、ドクターヘリで信大病院へ救急搬送された3/3の出来事

2020-03-14 17:05:52 | 山とスキーでブラブラ

 3/3、鐘の鳴る丘の雪融けは激しく、リフトは左端の1本しか動ていない。

 下る時のルートを確認しながらリフトに乗るが、結局滑って降りる事は出来なかった。

 丸山から上も所々融けているが、フツーに滑れる状態。

 栂の森には、先週から見掛ける(?)上手なグループが集合していた。

その後、中間駅までフツーに2往復した。何の異状もなく一定のピッチ、振幅での滑りを繰り返した。

そしてゴンドラに乗ると、急に頸~肩辺りが痛くなった。寝違えた時のような鈍痛、よくある痛み。首を反らすとより痛くなるので、ゴンドラの中で背を丸めていた。

背を丸める姿勢、それは滑っている時に似通った姿勢なので、ゴンドラを降りて栂の森のリフトへは、そのまま滑って乗り込んだ。
リフトに座っている時も、背を丸めているのだが、支柱を通過する時のゴトン、ゴトンの度に、寝違えた時の様な鈍痛が、徐々に激痛に変わる。
このままスキーが出来るのか、頭が混乱してくる。

栂の森のリフトを降り、斜面上部に出る緩斜面の通路で、今までにないダルさ、シンドさになり、通路の法面に倒れ掛かるように停止。暫しうずくまってフウ、フウ、フウ、しかし状態は良くならない。
いずれにせよ、定宿に戻らないといけない。うずくまるのは、雪の中ではなく室内でなければならない。栂の森に着いて、そのままゴンドラの下りに乗らなかったことが悔やまれる。

帰るべく、フト顔を上げると、ゲレンデ斜面上端でタムロしている10数人が、こちらを見つめている。「あの人、ダイジョウブかしら」、との声が聞こえてきそうな雰囲気だった。早く動いてあの人達の心配を払拭しないといけない。
程なく髭面のイケメンが近付いてきて、「大丈夫ですか?パトロール、呼びますか?」と訊いて来た。彼はファットの板を脱いで両手に持っていた。つまり直ぐワタクシを、助け起こそうとしていたのか。
「イヤ、ダイジョウブ、気を使ってくれてアリガトウ」、ワタクシは礼を言って、心配そうに見つめていた集団の横を通り、滑って行った。

さてどうするか。この斜面を下まで降りてしまうと、ゴンドラ乗り場へは急な登りがある。ロープウェイの駅から廻り込むルートもあるが、緩い登りを、そこそこ歩かないといけない。
そんなことを考えているうちに、下まで降りてしまい、ゴンドラ乗り場を見上げると、例の鈍痛が激痛に変わり、とても登る気はしない。
となるとその下の緩斜面を滑り降り、リフトで戻るしかない。
そこは女の子達が、キャーキャー言いながら滑っている斜面。ど真ん中に座り込んでいるポーターもいる。もとそう言うノにぶつかると、ワタクシの今の肩と首は、バラバラになってしまうかも知れない。
何とかリフトに乗り、ゴンドラに戻るとホッとしたが、肩と首は益々痛くなり、モーレツにダルく、シンドクなって来た。

下の駅に着いて、ゴンドラ降り場から1階までの下り階段が一番怖かった。
板を左手で手持ち、杖代わりにして、ストックのストラップを通した右手で手すりを掴んだ。
そして一歩、一歩ステップを降る。ボーダーのグループが、サササっと駆け下りていく。しかしワタクシは、死にぞこないのジジィの様に、ヨボヨボ下る。それは永遠に続くと思うほどの、まどろっこしい長時間だった。
しかし焦ってコケて落ちては大事だ。とにかく慎重に手すりにしがみ付いて降りるしかない。

そしても、なんとか階段を落ちずに地上へ降りて、ホッとした。
後は定宿までの500m程があるだけだ。ここも、永遠に続くと思うほどの、まどろっこしい長時間をトボトボと歩くことになるのだろう。

そう覚悟していたら、ナント、松川村の写真家・Sさんに呼び止められた。Sさんはフツーに滑り降りて来て、板を脱いだところだった。
弱弱しい足取りで下りのゴンドラ出口から降りて来たワタクシを見て、「どうしました?」、「急に動けなくなって」、「取りあえずここに座りましょう」、チケット売り場の横に腰掛けた。
普段なら色々話すのだが、この時は喋るのもシンドく、会話もスムース出来ない。Sさんは「車、ここまで持ってきます」、と言ってワタクシの板も担いで、駐車場へ向かった。
いくら何でも、お迎え頂くのは申し訳ない。ワタクシもヨロヨロ、駐車場に向かって歩く。そして定宿まで送って頂いた。
しかし、もう脚はほとんど動かず、情けないハナシだが、降ろして頂いた。

定宿の玄関に降り立って、Sさんの車に手を振ったが、半身が動いたのはこれまで。定宿の引き戸が開けられない、玄関へ上がるステップか登れない。
ワタクシは玄関扉にもたれ掛かって、突っ立っているだけになり、誰かが出入りするのを待つだけだった。しかし誰も来ない、宿の人も中にいて気付かない。
結局、立っているだけすらも維持で出来なくなり、その場にクシャクシャと倒れ込んだ。ヘルメットを被っていたので、頭を打つことはなかった。
定宿の前はそこそこ広い車道だ。とは言えその時は、誰も通らず、倒れているワタクシが、気付かれることはなかった。
しかし午後の日差しは心地よく、コンクリートの上でも快適。ただ車道は南方向へ傾斜していて、その方向に倒れているワタクシは、少し気味悪い。
なんと言っても、右手右足が動かず、それが益々気味悪い。上半身を起こそうと、寝返りから、うつ伏せになれない。
意識がある状態での、身体麻痺と言うのが、こんなに気味悪いモノなのか。

結局、通り掛かった少年が気付いて、走り寄って来た。「とにかく起こしてくれぃ」、少年はワタクシを起き上がらせ、引っ張ったが、ビクッともしない。身体麻痺したニンゲンとは、異常に重いのだろう。
少年が、何とかワタクシを動かそうと苦慮していた時、定宿バイトの、山スキーヤー・W君が帰って来て、「ど、どうしたんですかぁ」と走り寄って来た。そして若者二人で、玄関ホールへメデタク運び上げられた。

定宿の部屋で横になっておれば、首と肩の痛み、右手右足の麻痺などは、その内マシになるだろうワタクシは気楽に考えていた。しかし、バイトのW君はワタクシの様子を見て、早く救急車を呼んだ方がイイ、と大女将に進言し、大女将も当然の様に119した。そして、ワタクシの状況を聞いた119は、ドクターヘリを手配している、と連絡して来た。そんな大袈裟な、ワタクシは相変わらず気楽に考えていたが、救急車を依頼した限り、あちらにお任せするしかない。

色々身に着けていると窮屈だろうと、オーバージャケットとブーツを脱がして頂いた。動けないワタクシはお二人の成すがままだった。

やがて救急車がやって来て、ワタクシはシート状のモノに寝かされ、首と肩の、寝違えた時の様な痛みと、首を反らすと特に痛い旨、説明した。

身分証明が必要との事で、大女将に財布を取りに行って頂いた。

そしてシート状のモノに寝かされたまま、セーノの掛け声で担架に移され、救急車に移された。バイトのW君はワタクシの足元に、スニーカーを持ってきてくれた。

やがて救急車が動き出し、救急隊員はワタクシに、痛み止めのようなモノを点滴してくれたが、痛みはなかなか治まらなかった。

常念岳が眺められる、ヘリポートらしき広場に着いて、待機していたドクターヘリに移された。行先は信州大学病院との事。

ヘリの内部は案外狭く、美人アスリートの様なショートカットの女医(?)が乗っていて、ワタクシは脳卒中だ、と宣告された。

そして信州大学病院に着いたが、そこがどんな所なのか、サッパリ判らなかった。

 

 

 

 


久し振りの3泊貸し切りの週

2020-03-03 00:12:28 | 山とスキーでブラブラ

何年も前から続く、ダルい、シンドい、もうエエワ、のモード、カラダがナマっているというレベルではなく、とにかく全身に力が入らない。
この小屋を建てるにあたって、伐採した木々の株を解体焼却した時は、それなりにズク出して作業したのだが、それが済むとダラ~っ、デレ~っとなってしまって、ダルい、シンドい、もうエエワ。せっかく信州移住したのに、山はダラ~っと眺めるモノになってしまった。
しかし雪シーズンになったので、取り合えず、ダルい、シンドい、もうエエワ、のモードのままスキー再開。しかし上へ登る元気はハナっからない。とりあえず、ゲレンデを一定のピッチ、振幅で滑り続けることに勤める。

ただ、シーズン当初は定宿に着いても、着替えるのもダルく、シンドく、もうエエワで、昼前まで部屋でダラダラ寝ていた。
しかしそれがナント、2月の初めころから10時過ぎには鐘の鳴る丘に出る様になった。
ダルく、シンドいのは変わらないのだが、もうエエワ、にはならない。サササっとは動けないが、確実にノロノロとは動けている。

そして、栂の森のテッペンから中間駅まで、一定のピッチ、振幅で滑り続けることに勤める、それが楽しいので、これは少し元気になった、イイ雰囲気だと思う。

 2/25、鐘の鳴る丘の地面の露出は相変わらず。

 丸山まで上がるとキレイに雪に覆われていて、上手いグループが集団滑走(?)している。

 栂の森は、いつもの冬の雰囲気。

 ナゼか馬の背は閉鎖。

 シンシンと降り始めた。

 2/26、前夜の降雪で、露出した地面が隠れつつある。

 いつも動いていないリフトにも、良い雰囲気に積もっている。

 細かい雪が降り続く栂の森。

 木々もスッカリ雪に覆われた。

 2/27、鐘の鳴る丘で地面が露出している箇所はなくなった。

 丸山では、上手なグループが力有り余るフォームで飛ばしている。

 ゴンドラの下で、どこかのグループが何やら騒いでいる。かなりの大集団、幟旗を振り回している輩もいる。

 馬の背経由で白樺ゲレンデまで下ると、先ほどのグループとは別(?)のグループが検定とやらをするらしい。

この日は馬の背を3往復したが、なかなか一定のピッチ、振幅で連続して滑れない。急だからターン毎にカチッとブレーキを掛けないと、飛んで行ってしまう。そしてこのブレーキが、次のターンのエッジングになるのだろうが、それが素早く出来ない。情けないが脚力足りない。
いずれにせよ、繰り返し練習しかなく、その元気は少し出て来たと思う。

 2/28、久し振りの除雪。この週は定宿の、久し振りの貸し切りでもあった。


積もっては直ぐ融けるゲレンデ

2020-03-02 11:59:54 | 山とスキーでブラブラ

ヨーロッパアルプスでは、村のシンボル(?)と言われていた氷河が、融けて消滅しかけているので、村人たちが氷河の末端で、"別れのイベント"(?)を行ったとか。また標高1300m(?)以下では雪が積もらず、高所からヘリで雪を降ろしたスキー場もあったらしい。

栂池も、鐘の鳴る丘は、積もっても直ぐに融け、雪が残ったスペースを繋いで下ってくることもしばしば。
ワタクシは栂の森のテッペンから中間駅まで、ストレスなく往復出来ればそれでイイので、特に問題ないが、鐘の鳴る丘が滑れなければキャンセルする客も多いそうで、宿にとってはこの状況、いずれ死活問題になるかも知れない。

いずれにせよ、地球の温度を上げ続けているヤツ等、つまり温室効果ガスを排出しているヤツ等が、このままそれを続ける限り、この傾向は続くのだろう。そしてヤツ等のエグい行為は大規模で、アマゾンでは、それに反対する先住民をも駆逐、虐待しようとしているらしい。

何とも嘆かわしいハナシだが、ワタクシには、先住民や彼らを支援するグループにカンパする程度しか出来ないし、この国においては、ヤツ等に似通った考えの政治家とか言う輩には投票しない、それは絶対だ。

 2/18朝、安曇野では雪が積もっていた。

 雪は降り続き、中綱湖の手前辺りでは路面も白くなってきた。

しかし白馬辺りから止み始め、栂池定宿に着くとほぼ止んでいた。大女将の話では、朝チョット降っただけだったそうだ。

 しかし鐘の鳴る丘に、地面が露出した部分はなかった。

 強風でゴンドラは休止。

 栂の森のリフトも止まっていた。

 その後もリフトは上から順に止まって、丸山辺りにまでみんな集まって来た感じ。

低気圧通過後の強風、よくあるパターン、結局この日はロクに滑れなかった。

 2/19、風もなくイイ天気だ。

 唐松沢が真正面に見えた。

 丸山では、スキーインストラクター達がレッスン中(?)、彼らも教える為に練習が必要なのか。

 栂の森からの眺め、しかしまだアッチへ登る元気はない。 

 栂の森から中間駅まで6往復して、宿に戻る前に丸山へ寄ると、インストラクター達はまだ練習していた。

 2/20、鐘の鳴る丘は一気に融けていた。どこを通って戻れるのか、見極めながら上がる。

 丸山は右半分を仕切って、どこやらの学生スキー部、スキークラブが練習していた。

 この日は馬の背も滑ってみた。降り口に向かう道が、雪不足で、今までより低くくなっていた。

馬の背は雪不足で、大きな凹凸なく、しかしワタクシが目指す、一定のピッチ、振幅で滑ることは出来なかった。

 2/21、いつも寄る松川畔の酒屋から、見事に五竜が見えた。