蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

有馬道を通って墓参りした夜、歯がガバっと抜けた年末

2012-12-28 23:56:38 | 一人ブラブラ

大晦日の前の数日間は天気が悪そうなので、晴れの昨日、お墓に行った。

年が明ければまた信州・雪山通いが始まるので、車検をその前に済ますべく、車は年内にディーラーへ「入院」させている。一昨年よりそのパターン。
車がなくても少しの荷物ならミニバイクで運べばイイし、多少の距離は歩けばイイ。

今回はJR住吉駅から歩くことにする。叔母宅の後片付けで、住吉駅周辺をウロウロしていて、有馬道の標識を見つけたので、一度歩いてみたかった。

この有馬道と言うのは、住吉谷から魚屋道を辿るルート、しかしいつも白鶴美術館から下は阪急御影へ逸れるので、一度住吉駅への道を歩いてみたかった。

Imgp4237 住吉駅を降りて、有馬道の幟が続く通りを過ぎて、山手幹線を渡ると、直ぐ昔の石碑があった。ここで一度左右に分かれ、また先で合流するらしい。

右へ進み、阪急の線路をくぐり小学校の東側を歩くとほどなく合流点に着いた。そこは阪急御影からの合流点でもあって、近くには住吉川の水を利用した水車のモニュメントがある。

153 この写真は’10年の年末風景。

住吉駅間の有馬道は案外短かった。

そこから先はいつもの道。白鶴美術館から西谷川沿いに歩き、更に大月地獄谷方向へ進み、車道ショートカットの階段を登りきると、いつも通り神戸港が見えた。Imgp4239

Imgp4242 売店で花一対買って、更に車道ショートカットの階段を登る。

墓に近付くとお隣さんにひとだかり。老夫婦と小中学生らしきおマゴさん二人が飾り付けをしていた。コウヤマキの切れ端が散乱している。
お隣さんに会うのは初めてだ。飾り付けられているのを見ることも少ない。
「コンニチワ」

夏はついでに両隣の雑草も抜いたが、冬は全て枯れきっていて、ただ落ち葉を拾ったら掃除は終わる。そして、小さい墓だからイヤでも隣の会話が聞こえる。

「これナンやろ、これナニぃ?」、可愛くオシャレをした女の子が訊いている。
「さぁナンやろねぇ」
直ぐ近くだから、こちらに訊かれている様な気がして、ウッカリ口を出してしまった。

「家紋、違いますぅ」
「イヤ、家紋は上の方で、下の方のヤツなんです」
確かに地面スレスレにも変なマークが付いている。「宗派ですかねぇ」

「そうそう、いろんな宗派があってねぇ」、オバアチャンは孫に話しだした。
「真言宗は空海が始めはって、弘法大師とも言うンよう、日蓮宗は親鸞とか ・ ・ ・ 」 (イヤイヤ、オバアチャン違うよう)
「弘法大師て、字ィ上手かったン?」、と男の子が訊いた。
「 ・ ・ ・ 」

オバアチャンが応えなかったので、またウッカリ口を出してしまった。
「コウボウも筆の誤り、の弘法サンやねぇ、字ィ上手いお坊さんも間違いするちゅうヤツやねぇ」
「 ・ ・ ・ 」

Imgp4243

4人はお経を唱えだした。これは何(?)、かなり長い、般若心経と言うヤツか。ほとんど喋らなかったオジイチャンも唱えている。おマゴさん二人も暗誦している。大したモンだ。

ワタクシ、オセンコに火を点けようとしたが百円ライターが点かない。彼らがお経を唱えているそばで、カチ、カチ、カチ、何回やっても点かない。
お隣さんから借りたかったが、中々お経が終わらない。ライターが目覚めるのが早いか、お経が終わるのが早いか。ワタクシ、ひたすらカチ、カチ、カチ。

最後にオバアチャンの「この一年、お守り頂いてアリガトウございます」で、お経が終わり、直ぐオジイチャンが近付いてきて「火ィ貸そかぁ」
「スイマセン、アリガトウゴザイマス、最近タバコ吸わへんので、ライター点けることなくて、壊れてても判りませんネン」
「ワシもタバコ止めたンやけど、ライターだけは持っとンねン」と、ジッポーを点けてくれた。

ワタクシは、念仏十念で終わり。浄土宗は簡単でイイ。ご先祖サンに守ってもらおうとも思わないし。

Imgp4244 帰りも急な階段を下る。


Imgp4245 白鶴美術館まで下って来て大阪湾を望む。


Imgp4246 分岐で行きとは別の道を行く。小学校の西側を歩き、阪急の踏切を渡ると庚申塚があった。

バイオリンケースを抱えた女子高生と行き違った。さすが高級住宅地。

14時前に住吉駅を出て、16時前に戻って来た。適度な散歩だった。

そして、夜、歯を磨いていたら、ン?、以前からグラグラの歯がまとまってガバっと抜けた。ブリッジで連なった下側の右半分。口の奥から金属と歯2本が塊で出て来た。歯の1本は残っている。
8月の終わり頃、以前より面倒を見てもらっている歯医者サンの定検で指摘されていた。「これもう、骨と繋がってないね、ようもって年内かな」
彼の予想は見事的中した。後は入れ歯にするしかないらしい。

 
出血はなく痛くも痒くもない。このまま暫く放置とする。大きく口を開けて笑わない限り、バレる事もない。

昔、おばあちゃんは「イレ歯せんでも歯茎で噛めンねん」と言っていた。
「ホンマ、イレ歯なくても歯茎でそこそこ噛めるわぁ、おばあちゃんの言うた通りやったわぁ」、とオフクロも言っていた。叔父さんも残った1本の歯だけでフツーに食事されていた。

ワタクシも歯茎でフツーに喰えるよう鍛えることにする。


彼らがいなくても、私はどこかにいる

2012-12-26 09:41:44 | 朽ちゆく草の想い

先週の総選挙、投票率は戦後最低だったそうだ。その前の戦後最低は96年。

96年と言えば、阪神淡路大震災の翌年。そして今年は東日本大震災の翌年。

そう言えば、阪神淡路大震災の時も東日本大震災の時も、その時の総理大臣は長い間政権にいたジミン党の総裁ではなく、一度もジミン党の党員でなかった人。

阪神淡路大震災の時の首相は、ズッと自衛隊が違憲だとしていた社会党の委員長。
東日本大震災の時の首相は、原発に懐疑的だった市民活動家。
そのせいもあってか、お二人とも対応がマズかった、と一時批判されていたが、実際は誰が首相でも結果は同じだった、と言う見方もあるそうで、ワタクシもそう思います。
しかし、何と言う時代のアヤ、マンの悪さ。
その当時のジミン党総裁だった人は、自分がソーリでなくてヨカッタと胸を撫でおろしているのかも知れない。

そして、震災翌年の総選挙の投票率は、どちらも史上最低を更新した。
震災で沢山人が死んで、復興もロクに進まず、結局政治なんて何の役にも立たない、と皆さん判断したンだろうか。

しかし96年も、今年も勝ったのはジミン党。

96年の事はよく覚えていないが、今回はあれだけ地震大国・日本での原発の怖さを知ったのに、投票に行った人は脱原発より景気回復を選んだ、と言うコトらしく、確かにアベノミクスで円は下がり、株は上がり、金融緩和でお金が借りやすくなり、お金の価値は下がるからインフレになって、このデフレ不況から脱却できるそうだ。
ホンマかなぁ。

いつの頃だったか忘れたが、数字上は好景気だが、我々レベルでは全くその実感がなくて、それが話題になったことがあった。

今回の円安、株価上昇もただ投資家が円を売って株を買っているだけでしょう。
ワタクシ、為替も株もやりませんので全く関係ない。ほとんどの人もそうでしょう。

我々レベルの景気は多分良くならないと思う。きっと、いや絶対。

何故なら、アベシンゾウとかジミン党とか言うのは、庶民とか商店主の気持ちが判る、判らないのレベルではなく、そもそも庶民や商店主の為に何かをしようとはハナから頭にない人、政党、だからだ。「お殿サマの血筋」とはそんなモンだろう。
彼らは、大企業の社長、エライさんの集まりの代理で、社員は会社のモウケの為に働くモノ、庶民は税金を払うモノ、オコボレは少しだけ与えましょう、と言う考えの人達。オカネ持ちとはそんなモン。

ナンデ、そんなンに投票するのか、「脱原発より、やはり景気やでぇ」と商店街のオジサンはいっていた。
結局庶民はアホなのか、とも思ったが、投票率が6割弱で、ジミン党の得票率は小選挙区で4割強、比例区で3割弱とかで、0.6 X 0.3~0.4 だから有権者の2割程度が投票しただけ。
大企業の社長やエライさんと、彼らに阿るドアホがトータルで2割程度いてもオカシクはない。阿るのはドアホだけではない。曲学阿世という言葉がある。賢い学者サン達もそんな世に阿るのだ。

いずれにせよ、人は今以上モノを買わないし、レジャーも行かないし、景気は良くならないと思う。
既にモノは溢れているし、既に遊びまくっている。既に楽しい毎日を過ごしている。今より良くなることはない。

ただ、問題なのは、有権者の2割程度しか投票していないジミン党が、間違った小選挙区制によって6割以上の議席を取ったと言う事だ。

アベサンは先輩のアソウサンから、次の参院選で勝つまでは、原発や領土、国防の話はするな、とアドバイスを受けているらしい。
と、言う事は、彼らがホントにやりたいのは別モノ(?)、次も勝って参院でも6割以上の議席を取れば、原発はドンドン増設され、領土で中韓と大モメし、自衛隊を国防軍にして戦って、それはトンデモナイやりたい放題をするのかも知れない。あぁコワ。

今回の選挙結果を見て、この国から出来るだけ遠くに離れたい、と言った女性評論家(大学の先生?)がいたらしい。もうこの国には呆れた、信じない、棄てたい、と言う事だろう。

戦中派と言われる一部の人達(もう今はご老人)は、軍国少年にさせられて、空襲でどエライ目に遭わされ、戦争が終わると、カミサンだと教えられていたテンノウは只の人だと再教育されたりして、それ以降は国と言うモノを信じておられないそうだ。
また終戦時大陸にいた軍国少年たちは、ソ連が攻めて来たのに軍や役人は先に逃げ帰って、もう国に棄てられた、と思ったそうだ。
つまり、この人達はそれ以降、国とかその施政者(=お殿サマの血筋)を信じない、逆に棄てたのだろう。

棄てたい、遠くに離れたい、と言っても引っ越しにはお金かかるし、海外の言葉も判らんし、まぁここにいて、おバカが選んだ別に何も変わらない、逆に悪くなった世の中を眺めるのも面白い。

ボサノバで、「(愛する)あなたがいなければ、私は(この世の)どこにもいない」、というステキな歌があるが、「かれら(愛する価値のない国や施政者)がいなくても、私は(この世の)どこかにいる」、とワタクシは歌ってます。


“松か井の水”近くの谷で藪を分け入り水を汲んでからの顛末

2012-12-23 15:33:12 | 車でブラブラ

今年の夏も猛暑で、熱帯夜に呑むウマイ水を、加美町の“松か井の水”まで、定期的に汲みに行っていた
冬になり、もうゴクゴクと呑む必要はなくなったが、久しぶりの「車でブラブラ」を兼ねて、先週汲みに行ってみた。

学園都市~ワイン城前~R175~西脇を経て“松か井の水”着、14時半。
寒い午後なのに、駐車スペースはほぼ埋まっていて、給水口は当然全部埋まっていて、どこもペットボトルや給水タンクがズラ~っと並べられている。しかも順番待ちが一人、二人。
オジサンを手伝ってキャップを閉めていたオバサン、「ワタシ、もう30分近くまってます」
そして、このオバサンも車に空のボトルを何十本も積んでいるのだろう。

ワタクシはいつも4リッターのペットボトル4本だが、ほとんどの人が半ダース入り段ボールを何箱も積んできている。
毎度の事だがこの人達、何者だろう。美味いコーヒーを出す店でもやっているのだろうか。

いずれにせよ、1時間近くは待たないといけないのかも知れない。さてどうするか。
そうしている間にも、1台、2台、車がやってくる。冷たい風も吹いている。

ヤメることにした。
どうせ「車でブラブラ」のついでに来ただけだ。近くの農産物売り場で何か買って帰ろう。

少し下ると、ホンモノの“松か井の水”への入り口がある。そこから高坂峠への旧道を1.5km程登るとホンモノがある。
そう言えば以前も、県道沿いの整備された“松か井の水”が激コミの時、ホンモノへ行ったことがある。
そうや!そこへ行けば良い。

細い急なワインディングロードをノロノロ登っていくと見覚えのある場所に着いた。小さな看板が今もあった。
ペットボトルを入れた布袋を担いで、石垣の小道を下る。
“松か井の水”を示す石碑はあったが、水はチョロチョロ。
そして周りはナンカ荒れている。ペットボトルで受けて汲めるような雰囲気ではない。ホントに以前ここで汲めたンだろうか。
しかし、ペットボトルを担ぎ上げた記憶はある。
しかし、今はまず汲めない。側の谷にもほとんど水は流れていない。諦めるしかない。

登り同様、ノロノロ下っていくとゴウゴウ流れている小さな谷に出た。
少し下に県道と高坂トンネルがある。トンネルを出入りする車の屋根が見えた。待避スペースに“荒谷”と書かれた看板があった。
そこへ車を停め、ペットボトルを持って藪を分け谷に入る。ゴロゴロした岩が続く急な谷の水流は直ぐだった。
多分、稜線まで数百mだろう。本流の水でもゴクゴク飲める谷の雰囲気だ。ここで汲むことにした。
小さな岩を登り、ペットボトルで受けれる様な流れの下に腕を伸ばす。腕が段々ダルくなる。

汲み終わりボトルの水滴を拭いて車に積もうとしたら、1本に杉の枯れた小枝が入っていた。チッ、クソッ、汲みなおしましょ。

後の床に動かない様にキチンと積んで、またノロノロ下る。

少し大きな谷に出て、ヘアピンカーブを曲がり、谷沿いに少し下ると、石垣から水が湧きだしているのが見えた。
登山口によくある給水地点の様な感じで、汲めるように口が付いている。何故、登っていく時に気が付かなかったンだろう。
石垣の上には県道と整備された方の“松か井の水”があるハズだ。ここも“松か井の水”の一部だと言える。

“荒谷”の水でも悪くはないが、やはり山で濾過された直後の方がいい。
全部汲み直すことにした。そこにも待避スペースがあった。

結局、“松か井の水”に着いてから30分以上経っていた。オトナシク待っていても良かったのかも知れない。まぁエエけど。

帰ろうとすると軽4トラックが1台、上がって来た。この旧道で初めて行き交う車だった。オジイサンが一人運転していて、荷台には農機具(?)、イヤそこは杉の植林エリアだったので林機具(?)の様なモノが見えた。
既に陽は落ちかけてた。稜線の上の方しか陽は射していなかった。こんな時間から作業を始められるンだろうか。大変だぁ。

その後、R427へ出て、お醤油屋サンの直売店で黒豆を買って、多可町の農産物直売所で生シイタケを買って帰った。

水汲みには少し手間取ったが、まぁまぁ穏やかな「車でブラブラ」の半日だった。


メール起動不能事故の顛末

2012-12-21 01:34:52 | 一人ブラブラ

今使っているパソコンは、07年にここへ嫁いできたが、会社であてがわれいたパソコンと同じ感覚で、ロクに取説も読まずテキトーに使っていた。

使うのはメール、インターネット、ワード、エクセル、デジカメ、そしてブログ。
CDやDVDの複製や年賀状作成、家計簿、囲碁将棋他のゲームは使っていないので、稼働率はかなり案外少ないのはないか、と思う。

いつ頃からだったか、定期的に「ディスクの空き領域が少ない」との表示が出るようになり、その都度クリーンアップをしたり写真をCDに移りたりしていた。
クリーンアップの後には、300MG以上空けろとの表示が出ていた。

しかし、数か月前位から、いくらそう言う対応をしても300MB以上は空かず、ナンデやろと思っていたら遂に先々週の12月5日、空きは0になりWindowsメールが起動しなくなった。

「メモリまたはディスクの空きが不足(0x80070002)」と表示され、OKすると「MSOE.DLLが初期化できないためメールが起動できない」との表示が出る。
クリーンアップをしても少ししか空かないし、CDに移すべき写真もない。どうしようもない。

以前から勝ち馬が判るとか、ロトが当たるととか、セックスフレンドになりませんかとかの、訳の判らんメールは多く、その都度迷惑メールとして処理していたが、数週間前から内容のないメールも届くようになり、ナンやろとウッカリ返事でもしようものなら、変なことに巻き込まれそうなので、そう言うノも迷惑メールとして処理していたが、それらも何か影響しているのだろうか、とにかくメールは見れなくなった。

しかし見れたとしても、届いていたまともなメールはほぼ全てがDMで、これまでのネット通販がキッカケのモノ。
知り合いからの便りやお誘いは無いに等しい。と言う事は、そもそもメールの存在意義などないのかも知れない。
メールが起動しなくてもワードやエクセル、デジカメは操作できるし、ブログも書ける。メールが無くても不自由はない。
ただ困ることが一つ。以前届いたメールの中にそこそこ大事な添付ファイルがあって、それらを別ホルダーに保存していないことだ。さてどうするか。

ネットで色々調べてみた。取説も一から読んでみた。
まず何と言ってもメモリの容量が少ない様だ。で、ボードを買いに行った。
しかし、512MBのものしかなかった。元から付いているモノと合わせて約1GB。
取りあえずそれを増設した。しかし、ダメ。

マイクロソフトのサイトに全く同じ現象についての相談のやり取りが載っていて、それに従って少しやってみたがダメ。
そのスレッドにはレジストリエディターをやってもダメで、結局聞いた事もないやり方で復旧したそうだが、それまでのデータは復元できなかった様な事が書かれていた。
WindowsLiveMailを使えばいい、との情報もあり試してみようとしたが、結局は容量不足で入らなかった。

再度取説を読み、Yahoo!知恵袋なども見たりした。
要するに一度再セットアップをして、ここへ嫁入りして来た時の状態にすれば良いらしい。
ついでにCドライブとDドライブの仕切りを移動して、Cドライブの領域を増やせば良いらしい。
大体、ナンデCが30GB弱しかないのに、Dが200GB強もあるのか前から不思議だった。

しかしそれをすると、バックアップしてCDなどにコピィしたデータ以外は全て消えてしまうらしい。
ワードやエクセル、写真は空き領域を増やす為、既にCDやUSBメモリに移動済みだ。
要はメールの送受信データだけだ。アドレス帳なども作っていない。送受信データがなければメールしたい人のアドレスも判らない。

もう諦めるしかないのか、と思ったが、別のパソコンで見ればいいのではないか、モバイルとしてのノートパソコンがあってもいいのでは、と思い直し、取りあえず量販店へ。

最近、この辺りは住宅街の開発ラッシュで、近くには量販店が、これでもかという具合に乱立している。
まず一番近い店へ。土曜日はナントカ歳末セール中。オニイチャンに事情を説明し、話を聞く。

最近はメモリが4GB前後、ディスクは1TB近いモノがアタリマエだそうだ。
しかし、そう言うパソコンを使っても見れるメールは今回のトラブル以降のモノで、結局ワタクシが欲しいデータは、あくまでもこのパソコンのディスクにあるらしい。

「でも今の新しいノは、“お引っ越し”ソフトが付いていて、前のパソコンからデータを取り出して、新しいノに簡単に移せるンですよ」
「へぇ~、ホンマかァ、そらエエやん、そやけどメール立ち上がらンままで、前のデータ、ホンマ取り出せるンかぁ」
「エエ、多分」
眼の前に並んでいるノートパソコンはWindow7の展示品でも10万弱。前のメールデータを取り出す為だけに果たしてそれだけの価値があるのか。
段々バカバカしくなった。

もう前のメールデータは諦めよう。それがなくても生きていける。イヤ、そもそもメールなど、どうでもイイ。どうせ大したやり取りはない。
大体、他者とのお付き合いがなくなってもイイ、と5年前ハラをくくったではないか。

改めてハラをくくって、先週日曜(9日)は気晴らしに布引谷・山の家へ行って庭掃除、落ち葉などを燃やした。

翌10日の月曜、パソコンには全く触れず、11月末から12月初めに掛けて叔母宅から回収して来たゴミ類を整理した。
しかし、何か引っかかる、スッキリしない、落ち着かない。

特に大事なものでなくても、それが視界から消えて見当たらないと、ナンカ落ち着かない。
別に使う機会がなくても、それが故障したままだと、ナンカ落ち着かない。
やはり、メールが動かないと落ち着かない。
年が明けると、信州・定宿とのやり取りが始まる。電話で済ますことも出来るが、ズッとメールでやっていた。
何とかメールを動かしたい。故障したままで放置するのはイヤだ。再セットアップをすればイイだけだ。

しかし、ホントにそれで動くのか。また10万弱は仕方ないとして、新型のパソコンを使えばホントにメールが立ち上がらない状態でデータが“お引っ越し”出来るのか。
ここはセカンドオピニオンが必要だ。
と言う事で土曜日に行った量販店から数百m先の別の量販店へ行ってみた。

さすが月曜日、店の中はガラガラ。見渡しても店員が見当たらない。
並んだ商品をよく見ると、確かに多くの機種には“お引越し”のソフトが付いている、と書いてある。
偶々通りかかったオネエサンに訊いてみた、メールが立ちあがらないパソコンのメールデータを“お引越し”できるのか、と。
「ワタシ、ケイタイの応援で来てまして、詳しいコト、判りません、スイマセン」と、判る人を呼んでくれた。

直ぐ、オジサンがやって来た。マスクをしていたが頭髪の具合から、多分ワタクシより年上のオジサンだろう。
「ディスクが壊れてなければ出来ます、イザとなったらディスク取り出して何とかします」
「と、言う事は分解してヤル訳ですか?」
「エエそうですよ」
「と、言う事は、今のパソコンのデータ、まず取り出して修理みたいなコトも出来ますか」
「ハイ、データ取り出して、メール動かす様にして、ディスクの空き領域が少ないのならパーティションを移動してお返しすることも出来ます、5年前、Vistaの頃は何でもかんでもDドライブで保管する様になっていて、Dの領域を多く取ってました、しかし、最近テレビとか容量の大きいのが増えて来て、その当時のCドライブでは少な過ぎるンですよ、今Cドライブはナンボあります?」
「Cは30ギガ弱、Dは200以上になってます、ほとんど使てへんのに」
「ああ、それなら取りあえず、Cを200位にしといたらどうですか、ただメールはライブメールになるかも知れません」
「ライブメールでも、何でもイイんですよ、実はライブメール入れようともしたンですが、容量不足で入らンかったんですワ、で、ナンボかかりますぅ?」
「七千円程です」
「エエッそんなンでやってもらえるンですか、どうしたらエエンですかぁ?」
「ここへ持ってきてもろたらやりますけど」
「直ぐ、お願いします、家近いンで直ぐ持って来ますワ、名刺下さい」
「イヤそれなら、先に手続きして下さい」
「ハイ」
と、言う事で何のことはない、パソコンの修理受付カウンターへ案内された。

そうか、電化製品感覚で修理すればいいのだ。
大体、パソコンなどと言う製品は、保証期間が過ぎれば修理出来ず、使い捨てるモノだと思いこんでいた。
サイトなどの情報を参考にユーザーがソフト面で対応し、それでダメなら買い替えるモノだと思い込んでいた。
それがパソコンの文化だと思い込んでいた。アア、アホクサ。

で、早速お願いし、土曜日遅く出来上がりのTELあり、今週日曜に引き取りに行った。5日間の“入院”だった。

やはりWindowsMailは起動できず、LiveMailになっていたが、以前のデータは全て復元されていた。
ただ、今までホルダーとは別の訳の判らんホルダーが沢山あって、月曜日その中身を順番にチェックしたり、またLiveMailのホルダーを作ったりしていたら、いきなり表示が消えた。
データを消す操作はしていないので、ただ表示が消えただけのハズ。どうしたらいいのか。

修理をお願いしたオジサンにTELした。

「データは残ってルはずです、メール画面の左上をクリックしたら新規作成とかズラ~っと出て来ますから、その中のインポートをクリックして次の画面でWindowsMailを選んで下さい」
やり方は直ぐ判ったが、インポートにはかなり時間がかかった。
大体、このWindowsMailのデータ自体はどこにあるのだろう。どう言う仕組みになっているンだろう。またオジサンにTELすれば、やさしくお教え頂ける、とは思ったが、遠慮した。オシゴトの邪魔をしてはいけない。
しかし直ぐ判った。Dドライブを何気なく見ていたら、WindowsMailがあり、それを展開していくと以前のホルダーと同じモノがズラ~っと出て来た。ナルホド、そう言う事でしたか。

と言う事で、現在Cドライブには170GB以上の空きがあり、全ては順調。
大事な添付ファイルは全て別ホルダーにコピィし、DドライブのWindowsMailデータはCDにコピィした。

そして、LiveMailの方には相変わらず、勝ち馬が判るとか、ロトが当たるととか、セックスフレンドになりませんかとかの、訳の判らんメールが届いている。
他者とのお付き合いがなくなってもイイ、とハラをくくっているので、そんなメールしか届かなくても、それはそれでイイ。

またこのブログへ、見知らぬどなたからのエロい内容のコメントが、今回のメール起動不能事故の前頃、頻繁に書き込まれていたが、それがスッカリなくなった。何故だろう。まぁそれもそれでイイ。


メールが使えなくなったので布引谷・山の家へ

2012-12-16 22:58:22 | 朽ちゆく草の想い

5年前、会社を辞めた。
それは同時に、それまでのほとんどの関係を断つことになる。ワタクシは多くの人とお付き合いがなくても生きていける「育ち」のハズだから、特に不安はなかった。

5年の間に、新しいお付き合いは発生せず、古いお付き合いはますます減っていった。それでも不安はない。

しかし、近所の顔見知りのオバサンにはキチンと声を出して挨拶はする。

「コンニチワぁ」
「イヤっ、きょうは自転車ちゃうのン?山ぁ?」
「チョット近くまで買いモンに」
「いつも山行ったり、自転車乗ったり、悠々自適でエエね、ウラヤマシイわぁ」
「それじゃまた」
「いや足止めてゴメンねぇ」

酒を買ってきて駐輪場に着いたら、別のオバサン二人が立ち話中。
「コンニチワ」
一升ビンを提げたワタクシを見て、「イヤっ、お酒ぇ?」
「エエ、大体週に1本です」
「エエッ?こないだもお酒、提げてはったやン」
「あれは一週間以上前ですよぅ、イヤ、一々チェックしないで下さいよぅ」
「イイエ、ワタシら二人で監視してるよゥ、イヒヒ」

こう言う会話を交わすオバサンとのお付き合いはなくならない。

そして、1日に数回、メールをチェックしている。
とは言え、届くのはDMめいたモノばかり。
お付き合いがなくなってもイイ、とは言いながら、ステキなどなたからのメールを期待している。ああ、ナサケナイ。

1ヶ月くらい前、いやもっと前からだったかも知れないが、内容のないメールが届くようになった。何やろ?と思って返信でもしたら、色々ややこしいことになりそうな感じ、直ぐ迷惑メールにする。
また、勝ち馬が確実に判るとか、ロト6が必ず当たるとかのメールが週に何回も届くようになった。これも直ぐ迷惑メールへ。

そんなしょうもないメールばかりチェックをしていた先々週水曜日(5日)、いきなりディスクの空き領域がゼロになり、メールが起動しなくなった。
メモリを増設したり、見覚えのないアプリケーションを削除したりして、空き領域を増やしたが、起動しない。何度やっても「メモリまたはディスクの空き領域不足」の表示と、その後「MSOE.DLLを初期化できないため起動できない」と表示される。
また空き領域を増やしても、ナゼか直ぐ減っている。

色々調べたら、このパソコン、5年前のモノだが、今となってはメモリ1GM、Cドライブ30GMがオハナシにならない程少ないらしい。

さてどうするか。もうパソコン社会とのお付き合いも断つことにするか。どうせ大したメールは届かないし。

そして先週のムッチャ、メッチャ寒かった日曜日(9日)、パソコンには一切触れず、久しぶりに布引谷・山の家に行ってみた。

Imgp4191_2 赤いモミジはもう散っていた。

Imgp4192_4 強風で庭はグッチャグチャ。

Imgp4193 イノシシも球根を喰いに来たらしく、グッチャグチャ。

1時間ほどかけて9月に刈った竹と枯葉を燃やして、櫻茶屋を覗きに行ったがもう閉まっていた。まだ4時前なのに。窓越しに電灯は点いてたので、レイコさんは中で生きているのだろう。

Imgp4196 世継山対岸の無名峰は夕映えの紅葉。

Imgp4198_3 布引貯水池も陽が落ちかけている。

幼稚園に入る前にここへ移り住んで、ズッとここから歩いて通っていた。
この道を通う同級生もいたが、中学3年の時の大水害の後、徐々に住民は減り、一人で歩いていた記憶の方が多い。一人で毎日、こう言う景色を見ながら帰っていたのだろう。

そして、ワタクシは人とのお付き合いがなくても生きてける様になったのだ、と思う。