蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

残った二人が布引谷に響きわたせた「タタリぃじぁ~っ」の夜

2015-08-23 14:01:31 | 神戸布引谷での出来事

50年ほど前、現在、布引ハーブ園がある世継山に、神戸カンツリークラブと言うゴルフ場の造成が進んでいた頃、布引谷・市ケ原には20人程の子供がいた。
ゴルフ場開発に伴って、我が山の家の前まで交互通行ができる巾の車道もできたが、子供達は片道4キロを歩いて通学していた。

昭和38年、ゴルフ場営業に伴い、その従業員が市ケ原に住み始め、子供は10人ほど増えた。瀬戸内地方からやって来た家族が多かったそうだ。
当時小学5年生だったワタクシの同級生は、2人から4人に増えた。

ゴルフ場は世継山の南面から頂上、更に北にのびる尾根に沿って造成され、それにより多くの木々が伐採され、保水力を失った脆弱な斜面は、昭和42年の梅雨末期の豪雨で、世継山の頂上付近から崩れた。
崩れた先には、村の中心エリアと言うべき、大きな茶店、駐在所等があり、その一帯は布引谷へ押し流され、21人が死んだ。

その中には7人の子供が含まれていた。5人は雲中小学校の生徒だった。

ゴルフ場の従業員の子供達はその日、街に避難していて、そのまま帰って来なかった。布引谷でも学校でも会うことはなかった。

21人が死んだ大災害は、ゴルフ場の開発造成による人災であり、ゴルフ場は閉鎖。
4年前、布引谷・市ケ原にやって来た従業員とその家族が、その後どこへ行ったかは判らない。

いずれにせよ、昭和38年に30人ほどにまで増えた子供達は、この土砂崩れで10人程に減った。

その後も子供は減り続けた。理由の一つには、女子がオトシゴロになったコトもあると思う。
茶店の姉妹、姉のヨッちゃんは既に女子高生であり、妹のノブちゃんも中三だった。その茶店の斜向かいに住んでいた、モモヨさんもキヨカちゃんも同じ世代。
オトシゴロの娘に、片道4キロの山道を歩かす訳には行かない。一人で帰らざるを得ない夕方も、あるかも知れない。変態ハイカーはいつの時代にもいるモノだ。

そもそも山の自然が好きでやって来た人達は、ほとんどいなかった。布引から谷を1時間ほど遡ったところ、市ケ原に、ビンボー人でも住める安普請があったからだ。
うちのオヤジも昭和32年に、勤務先があった二宮あたりの不動産屋で、木造平屋¥28、400.-を見つけて飛び付き、オフクロとワタクシを連れてやって来た。
下見に来なかったオフクロは、こんな辺鄙な場所に住まざるを得ない境遇を知って、しばらく塞いでいたが、お金がなかったからと諦め、フツーに生活が始まった。同世代の奥さんも布引谷には何人かいた。

しかし近所で21人も死ねば、何となく不気味でゲンも悪い、そして何よりイノチが大事。
そもそも街に身を寄せれる親戚がいた家族も多く、幼稚園から一緒に通っていたタダシ君も、いつの間にかいなくなった。

結局、大災害の翌年、布引谷で高校生になったのは、ワタクシ一人。
高校生はもう一人いて、阪急六甲の山手にある中高一貫の進学校に通うアキオくん。確かワタクシの2才上、彼は市ケ原ではダントツの秀才だった。
中学生はヒロユキくん一人。小学生はアキオくんの弟のヒデちゃんと、ウチの近所の一人息子のカズちゃんの二人。この小学生二人は親が車で送り迎えしていたと思う。通学路で会うことはなかった。
また、ヒロユキくんにも会うことはなかった。彼は布引谷の、今は目障りな砂防堰堤に埋没してしまった天狗峡で泳いでいて、水泳が上手く、水泳部の活動で遅くなり、夕方は親と一緒だったのだろうか。

通学でよく一緒になったのは、アキオくんと、ヒロユキくんの従弟のマァちゃんだった。マァちゃんは大災害の頃、父親に連れられ布引谷へやって来た。

ヒロユキくんとマァちゃん一家は、大水害で流された大きな茶店から、100mほど布引谷の支流を遡った所にある、大きな家に住んでいた。
二人のオジイサンが何を生業としていたかは知らない。展望台で茶店をされていたことがあったが、今はもう展望台にその痕跡はない。
オバアサンは、茶店で売る飲料類を運んでおられた事があった。今でもヘリが使えない山小屋でやっている荷揚げ、“ボッカ”だ。

年配の女性が、ビール瓶やジュースの木箱を背負子に積んで、それを背負い、地下足袋履きで山道を登る姿を見て、小学生のワタクシはオドロいた。
ある日、急坂を登るオバアサンの背負子を下から押したことがあった。オバアサンは驚いて振り返り、微笑んだ。
その後オバアサンと前後して家に着くと、オフクロが偶然家の前にいて、オバアサンは「今日はシロウちゃんに助けてもろてなぁ」、とワタクシから微力な援助を受けたコトを、オフクロに報告した。

ヒロユキくんとマァちゃんは、兄弟と言ってもいいような間柄だったが、ヒロユキくんは休みの日などは洒落た私服を着て、街へ遊びに行くようなことが多く、マァちゃんは市ケ原の河原で一人ブラブラしていた。
そしてワタクシと一緒に周りの山谷を掛け廻るようになった。

熊内から宇川に沿って車道を登ると、それがUターンするように曲がるかどに、今で言うコンビニのような店があり、そこで市ケ原の子供達は帰りに“買い喰い”をしていた。家まではまだ30分程登らないといけない。
大災害の後、そこで“買い喰い”をするのも、ワタクシとマァちゃんだけになった。

そこで我々は菓子パンを喰い、コーラを呑み、漫画やプレィボーイ、平凡パンチのヌードを立ち読みしてから帰った。
その先にある女子高の更衣室を覗いたり、車道のカーブでサボっているコカ・コーラのトラックからコーラを盗んだりもした。ビンの栓はガードレールの鋭角な角を探して押し当て、石で叩いて抜いた。
これらの犯罪の主犯が、ワタクシだと言うコトは言うまでもない。

やがて工事現場からトラロープを拾ってきて、岩登りのマネ事を始め、市ケ原の上流、トゥエンティクロスにあるミカサ岩の南東リッジのルート開拓もした。
そのリッジは取り付きから被り気味で、ハーケンを打ちながら登っていったが、最後の突き出た箇所で打ったハーケンが抜け、ワタクシはほぼ取り付きまで落ちた。マァちゃんは体勢を崩しながらもギリギリで止めてくれた。ヘルメットにはヒビが入っていた。
再度の挑戦も、同じ個所でまたハーケンが抜け、同じサダメとなり、三度目はマァちゃんが挑戦。
2度ハーケンが抜けたリスに、彼は太めのハーケンを打ち、そこを越えた。

帰って来ないハイカーの捜索で、真夜中に警官を摩耶山へ連れて行ったこともあった。
ワタクシは天狗道を、マァちゃんは黒岩尾根を案内したが、頂上までは行かなかった。「葺合署はここまででエエねン」と、数人の若いポリは引き返した。
不明のハイカーは、灘署の管理エリア、摩耶山から東へ6キロほど離れた五助谷にいたそうだ。
住吉谷の五助ダムを越えると、左側から合流する五助谷を住吉谷と間違って迷い込むハイカーが多い。ワタクシも高一の時迷い込み、五助滝を右側から巻いてそのまま尾根の藪を漕ぎ、石切道へ登りきったことがあった。

そんな風にワタクシとマァちゃんは、布引谷で遊び呆けていたが、 マァちゃんの従弟のヒロユキくんはいつの間にかいなくなった。

彼らの一家は何か複雑な事情があったらしく、マァちゃんの親父は若くして市ケ原を離れていた。
大災害で流され死んだ大きな茶店の主人が、その複雑な事情に関わっていたコトを知ったのは最近だった。それは市ケ原の最も古い家系のUサンが教えてくれた。Uサンはワタクシの雲中小学校の20年先輩だ。
ヒロユキくんのお母さんは、マァちゃんの親父の妹(姉?)で、ウチのオフクロとも親しかった。熱心な創価学会員で、ガンには罹らないと言っていたのに、大災害の数年後ガンで亡くなった。
“マスオさん”状態だったヒロユキくんのオヤジは、仕方なく彼を連れて市ケ原を離れたと言うことらしい。

アキオくんの一家も、ワタクシが大学生になった頃、いなくなった。

市ケ原でダントツの秀才だったアキオくんは、最低でも阪急六甲にある国立大に入ると思っていたが、結局は京都のR館大にしか入れず、それはワタクシが偶々入学できた岡本のアホボン大学と、偏差値も大して変わらず、就職はアホボン大学の方がイイ、と言うウワサもあり、それが耳に入ったのか、アキオくんは通学路で遭遇しても口を利かなくなり、いつの間にか消えていた。
この一家は、ワタクシが布引谷へ住みついた数年後やって来て、年齢も近い母親同士は直ぐ親しくなり、アキオくんとは一番長く遊んでいたが、ワタクシにヘンなライバル心を燃やしたりすることもあって、口も利かず消えていくものアリかなと思った。
体格もよく、健康優良児だったコトもあったらしいが、些細なことにハラをたてたり、つまらないことを妬んだりする面があり、アキオくんが「ガハハ」と笑った顔を見た記憶がない。
何年か後、「アキオくんなぁ、学校卒業してお父さんの仕事手伝うてんネンて」、とオフクロが言っていた。オヤジさんは、警察を辞めて服の行商(通販?)のような仕事をやっておられたが、街に店でも構えることになって、市ケ原を離れたのかも知れない。

昭和38年に、30人程いた子供達は、10年も経たない間に、ワタクシとマァちゃん二人になった。

とは言えその数年後、マァちゃんも選挙権を持つ歳になり、河原で遭遇しても、そのままフラフラと修法ケ原まで行き、池の畔の茶店でオデンをアテにビールを数本呑み、大龍寺の鐘をゴ~ンゴ~ンゴ~ンと衝いて、またフラフラと帰って来たこともあった。
二人ともゴルフやギャンブルには全く興味なかった。「あんなモン、なにがオモロいねん」

ある日、ワタクシは少し残業した後、元町の会社から歩いて帰っていた。当時、帰りはバスには乗らずフラフラ歩くことが多かった。途中には立ち寄る楽しい場所が多い。
しかしこの日、気が付けば加納町の交差点を越えていた。  

新神戸にある大きなホテルの場所には、昔、市民病院があって、加納町からの広い道路が病院の前で大きく曲がる手前に、カウンターだけの小さな餃子舗があり、餃子以外の献立も美味く、その日もそこでチョット喰って帰ろう、と思いついた。
そして何気なく道路の東側の歩道を見ると、マァちゃんが歩いていた。

彼は独学でどこででもバク宙ができた。
また、ハイキングコースに時々出没し、彼が「ジプシー」と呼んでいた野猿と格闘もしていた。右太ももに噛みついた「ジプシー」に、彼は右フックをブチ放すと、「ジプシー」はゴロゴロゴロと数m転がって、山の中に駆け登っていったらしい。
この“事件”は新聞社が取材に来たらしい。「よほど他に取材する“事件”がのうて、ヒマやったンやろナ」、と彼は嗤っていた。

その夜、ワタクシに気付いた彼は、6車線の車道を、野猿「ジプシー」の様にタタタッと駆け抜てけて来た。
我々は、当然の如く小さな餃子舗で色々喰って、ビールを半ダース以上呑んだ。

そしてイイ気分で布引谷へ歩きだした。とにかく家へは帰らないといけない。
布引ダムの手前まで来て、振り返ると、目線より少し高い対岸の尾根の車道に、その夜も車のライトが見えた。

 現在は木々が繁り過ぎ、暗く鬱蒼としていて、新神戸ロープウェイのゴンドラが支柱を通過する音しか聞こえないが、昔、40年ほど前、谷はもっと明るく開けていて、対岸が見渡せ、車道を通る車が見えた。

夜は車道から“百万ドル”の夜景が見え、尾根が突き出たカーブにはしょっちゅう車が止まっていた。その中にはアベックがいて、中で何をしているかは、市ケ原から通学していた子供達はみんな知っていた。

「チエッ、今日も止まっとるワ」と、マァちゃんは言った。「ホンマやなぁ、クソッ」と、ワタクシは応えた。

ワタクシもマァちゃんも背が低く、サル顔で、低所得で、多少頭が悪かった。要するに、女性にはモテず、車も持てず、それらを持つための術を知らなかった。

しかし二人とも、同じ登山グループに属していて、マァちゃんは既に北アルプスや南アルプスで、いくつかのビッグルートを登っていた。

ワタクシとも2年程前の9月、普段は一泊二日で登る黒部のルートを、1日で登りきったコトがあった。

いつものように大阪から青森行きの夜行列車で富山へ行き、宇奈月温泉でトロッコに乗り換え、欅平に着いて、11時に登り始め、18時に終了。 ワタクシは先に登った仲間からルートの要点をこと細かく訊いており、マコトに順調にそこを駆け登った。
その時間経緯を書いて山岳雑誌に投稿したら、その年の国内主要登攀欄に、「7時間のハイ・スピード登攀である」とのコメントがついて、それは載っていた。

またマァちゃんは、布引谷の滝を単独登攀もしていた。

ワタクシは学生の頃、岩登りの練習で、新神戸駅のウラから順番に石垣を登りながら帰っていた。それらはほとんどが谷の柵の外。
しかし段々飽きて来て、柵を乗り越えまずダムの横のバイパス流、オーバーフローが流れる人工滝を登ろうとした。水道局の職員に見つかれば、当然怒られる。
小ハングを左から廻り込み上半分を覗くと、何とか登れそうな気がしたが、スリップすると下まで20m近く落ちてしまう。最低でも大ケガをする。
やはり確保者がいて、上半分に出る手前でガチッとハーケンを打ち、ザイルを通したい。ワタクシは諦めてスゴスゴと下った。

その後、マァちゃんにそのことを話すと、彼は簡単にそこを登ってしまった。それどころか、布引の雄滝も左側の壁を登ったらしい。ホールドも多く、傾斜もそれ程ではなかったそうだが、やはりワタクシはノーザイルの確保なしで登る勇気はない。

後日、ワタクシは隣の茶店の好々爺、当時の最長老にマァちゃんの単独登攀の話をした。「ほほぅ、あの滝を登りましたか」、最長老も彼の勇気に感心していた。
野猿「ジプシー」と格闘してからマァちゃんには、野猿「ジプシー」が憑いていたのかも知れない。

その夜、マァちゃんは対岸に止まっている車に向かって、「タタリじゃ、タタリじゃ」、と叫んだ。
それは前年流行った映画のセリフだった。「ヤツハカのタタリじゃ」、と言うヤツだ。

野猿「ジプシー」が憑いている彼は、少し高いキーで「キャキャキャ」、と叫んでいるようだった。

「そんなン、アカンわ、もっとハラの底から唸らんと」、とワタクシは言って、「タタリぃじぁ~っ」、と唸った。小学校の時はコーラス隊、中学の時は演劇部のワタクシ、声だけは大きかった。
ワタクシは再度、「タタリぃじぁ~っ」、と唸った。彼も少しトーンを落として、「タタリぃじぁ~っ」、と叫んだ。ワタクシももう一度、「タタリぃじぁ~っ」、と唸った。彼も負けず、「タタリぃじぁ~っ」、と叫んだ。酒が入っているので、競うように声はデカクなる。

我々は布引谷に、「タタリぃじぁ~っ」、を響きわたらせた。

すると、対岸の車はスーッと消えていった。
それはコトが終わったのか、更に本格的にスルために、別の場所に行ったのかも知れないが、その「タタリぃじぁ~っ」の響きと消えたタイミングが絶妙で、我々は「ワハハ、逃げよった、逃げよった、オモロ、ボケッがッ!」、とハラを抱えて大笑いした。

その後も笑い転げながら、「タタリぃじぁ~っ」を繰り返し、布引ダムの横の急登“七曲がり”を登っていった。家までまだ徒歩10数分が残っている。

 当時、ダムの上には水道局の事務所があり、毎晩、宿直者がいた。

出勤で登ってくる水道局のオジサンと、通学で下る市ケ原の子供達とは、毎朝ハイキングコースのどこかで交差する。そして何人かのオジサンとはオトモダチになったりもした。
しかし、その子供達はいなくなり、残っているのはタダの酔っぱらい。しかもその夜は、「タタリぃじぁ~っ」と叫びながら登ってくる。

そしてその夜、宿直者数人、多分全員が外に出ていて、我々を迎えてくれた。オトモダチのオジサンはもういない。

無視して通り過ぎるべきか、それとも「お騒がせしまして申し訳ありません」、と謝罪すべきか、しかしほぼ同時に我々はボソッと、「コンバンワ」、言って通り過ぎた。オジサン達からは誰ひとり返事はなかった。

アベックの車を脅かしたのかどうかは判らないが、水道局のオジサンたちの静謐な夜を壊したコトは、間違いない。

数年後、ワタクシ街で所帯を持つことになり、マァちゃんもその数年後、街で所帯を持った。
ワタクシは、布引谷では子育てはしない、と決めていた。街を離れた辺鄙な場所での子育ては、親にも子供にもかなりの負担になる。

更に数年後、マァちゃんの親父が亡くなって、彼は市ケ原の中心地のあった大きな家も棄てた。

20年程前、まだ特殊機械の営業だった頃、市内のアンコ屋さんから引き合いがあり、行って見たらそこはマァちゃんの勤め先のごく近くで、アンコ屋サンへの営業が済んだ後、久しぶりに彼に会った。
彼は登山グループに入ると直ぐ、そのリーダーの働いていた会社へ転職、それから20年以上経っていて、その時は社長になっていた。

お互いもうハードな山登りからは離れていて、阪神淡路大震災の影響でSゴム工業の工場が東北に移る、とかが話題になった。
ワタクシはその工場の離形剤噴霧ラインに、数十台の特殊機械を納めていたが、彼の会社はそこから何かを購入していた様だった。

その後、マァちゃんとは会っていない。

いつだったか、大水害で流された大きな茶店の遠縁で、今も一人で茶店をやりながら、市ケ原を見守っておられるレイコさんが、「マァちゃんなぁ、今、岡山のイナカにおんねンてぇ、そこで子供らに釣りとか教えとうらしいわぁ、マゴもおんねンて」、と言っていた。
よく判らないが、なにかアウトドアのインストラクターでもやっているのだろうか。還暦にはまだ至っていないハズだ。

7年前オフクロが亡くなった後、ワタクシは山の家を改装して布引谷に戻るつもりでいた。

ある日、庭木を剪定していたら、車道に止めたクルマから出てきた男性が声をかけてきた。それはカマノ君だった。彼は昭和38年に布引谷・市ケ原にやって来た、ゴルフ場従業員の家族だった。 
偶々兄と姉の休みが一緒になったので、揃ってやって来た、と言っていた。そしてワタクシの家の前に車を止め、昔自分達が住んでいた辺りを見に行った。

そこはマァちゃんの家の少し上流にあり、“ハンバ”と呼ばれていた。
しかしよく判らなかったようだ。
当然“ハンバ”は40年以上前に撤去され、周囲の土地は神戸市が買い上げフェンスを建てていた。
かつての面影が消え去ったのは、通学路だけではなかった。それでもカマノ君兄弟は「なつかしい」、と言って帰った。

後日、その話しをレイコさんにして、「ところで、マァちゃんはここを出ていった後、帰って来たコト、ありました?」、と訊いてみた。
「いいや、ないと思う、土地も全部、神戸市に売ってもたし、来たら絶対ウチへ寄るはずやから」、とレイコさんは寂しそうに応えた。

布引谷の野猿「ジプシー」は、遥か昔にマァちゃんに憑くのをヤメたのかも知れない。