蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

逝った人達に惹き起こされた、思い出の諸々

2016-09-30 15:37:17 | 朽ちゆく草の想い

学校を卒業して始めて就職した、船室艤装品メーカーの技術部の課長(当時)とは、30年以上、年賀状だけの付き合いが続いる。

その会社を辞めてからも、神戸の営業のメンバーとは定期的に呑み会などやっていたが、技術部は大阪工場にあって、ワタクシが大阪の呑み会に行くことはなく、その課長が神戸の呑み会に来ることはなかった。神戸・大阪合同で、と言う雰囲気になったこともあったが、何となくまとまる実感がわかず、立ち消えてしまった。
結局その課長とは、年賀状だけの付き合いとなってしまった。

課長の年賀状には毎年、数行の添え書きがあって、ワタクシも毎年、チョコっと書いて送るので、そんなやり取りも30年以上続いている。

そして今年の課長の添え書きは、「昔の仲間が一人、また一人あの世へ旅立ってしまい、辛く寂しい」、という内容だった。

課長は5歳程年長だったハズ、もう70歳前後になるハズだ。そのオトシゴロになると、昔の仲間が次々とあちらへ逝ってしまう、ということなのか。
最近は、親が亡くなったとの喪中ハガキが、毎年のように届くが、後5年も経てば、本人が亡くなりましたとのハガキに替わっていくのかも知れない。

思えば、本人が亡くなりましたとの最初の知らせは、6年前、大学の卒論を書いた研究室の教授の奥様からだった。
先生は88歳で亡くなられたそうだ。それはオフクロとほぼ同じの寿命、大往生。
ハガキには、先祖が眠る京都のお寺へ納骨も済ませた、とまで書いてあった。我々卒業生以外に、多くのお弟子さんがいたハズ、彼らへのメッセージだったのかも知れない。

その翌年、船室艤装品メーカーにいた時のお客さん、大阪は心斎橋にある百貨店の船舶内装部で、工務をやっておられたTさんの奥さんから喪中ハガキが届いた。

大阪では、難波と心斎橋にある百貨店2社の内装部門が、フェリーやクルーズ船、豪華ヨットなどの内装工事を大々的にやっていた。
大手造船所の堺工場が建造する、石油掘削リグの居住区の内装工事なども、彼らが稼ぎを得る場だったが、80年代後半にはそれも減っていき、ワタクシが船室艤装品メーカーで最後に担当した仕事は、アラスカ沖の石油掘削現場での海上居住施設、要は、掘削作業員向け海上ビジネスホテルだった。
しかしその居住施設の防火ルールは、船のルールが適用されず、陸のルール:ULになっていた。
陸のルールに慣れていない大手造船所・堺工場は、仕方なくそれを某スーパーゼネコンに丸投げし、その結果、その造船所を根城にしていた内装工事業者なども全て、手を引いた。
ワタクシは仕方なく、そのスーパーゼネコンの本町の仮事務所を訪ね、船室艤装品と言うか一番売上になる防火扉の営業を行った。
ただそのゼネコンも、ULルールの防火扉の詳細は知らず、結局ゼネコンと協同で、千里にある建築試験場で耐火試験をして、ULルールをクリアしていることを確認、無事納めることが出来た。
親しくなったゼネコンからはその後、折り畳み式鋼製補助ベッドの発注を受けた。引き渡し前の追加工事で要求されたモノらしく、ありがたいタナボタ、しかし取り付け工事込みだった。それがゼネコンのやり方らしい。
しかし船では通常、艤装品メーカーは取り付け工事までやらない。工事業者を探さないといけない。さてどうするか。
そんな事を考えながら、堺の現場から難波駅へ帰って来て気が付いた。何もワタクシが工事業者を探さなくても、昔から堺の造船所で内装工事を行ってきた百貨店に振ればイイだけだと。ワタクシは従来通り、鋼製補助ベッドを百貨店に納めるだけで済む。
ただ難波にある百貨店は、そんなワタクシの申し出に乗る雰囲気は無かった。総額で1千万には届かない仕事、彼らが扱う額とはケタが違う。しかも自分達が手を引いた物件、そしてハナシを持って来たのは下請けメーカー。

しかし心斎橋の百貨店には、いつも気安く接してくれるTさんがいる。あの人なら下請けメーカーのワタクシが持ってきた話にでも、乗ってくれるのでは、と思った。
「そんなン、ありがたいけど、ホンマ、ウチで貰うてもエエのン?」
「エエ、ぜひお願いします、ボクが堺で工事出来ませんし、ゼネコンにはよう説明しときますから」、ワタクシはゼネコンの現場事務所の連絡先を、Tさんに伝えた。

その後Tさんと顔を会わせる度に、「オッ、今日も何かエエ仕事、持って来てくれたンかぁ」と、からかわれた。

アラスカ向けの居住施設建造が終わった後、堺の大手造船所での仕事は途絶え、他の造船所の仕事も減り、ワタクシは船室艤装品メーカーを辞めることにした。
退職の挨拶に行くと、「船はもうアカンし、仕方ないワなぁ、ボクもその内、“陸”に戻されるンやろな」、Tさんは寂しそうにそう言った。

その後、Tさんとも年賀状での付き合いが続いていた。

亡くなった年の年賀状には、(自分も)若い頃はロックガーデンでよく遊んだが、昨今は(出没する)イノシシと喧嘩しないように、との添え書きがあった。ワタクシが早期退職し、山とスキーで遊び呆けている近況を踏まえてのレスポンスだったと思う。

Tさんはワタクシより5~6歳年長だったハズ、まだ60歳代半ばだったと思う。大柄でいつも陽に焼け、逞しい風貌だったが、どこか悪かったのだろうか。奥さんからのハガキには、天寿を全うし、永眠した、としか書かれていなかった。
ワタクシは只々冥福を祈るばかりだった。

その後は幸い、本人が亡くなったとのお知らせハガキは届いていない。

ただ逝った人はいた。

我が“低所得者救済”マンションの北隣の部屋は、4人家族。
ウチと同様、完成して直ぐ入居、ヨメさんは同い年、ウチの長男と隣の次男も同い年、ご主人は確か川崎汽船で外洋船のチーフオフィサーをやっておられた。従ってオトウサンはほとんど海の上、家にはいない。
ウチの息子や、隣の兄弟がまだ小学生の頃は、しばしばサッカーなどをして遊んでやっていた。
ワタクシの広島単身赴任が終わった翌年、まだ広島への出張は続いていて、ある夜、帰宅すると隣の部屋の玄関脇に塩が盛ってあった。
「隣り、誰か死んだんかぁ」と、ヨメさんに聞いたが、そんなことある訳ないとの返事。
しかし、奥さんが亡くなっていた。リンパ系のガンだったそうだ。長い入院もなく急に逝ってしまわれたようだった。
奥さんは病気を誰にも言わず、ただ死んで何日か経ったら、ウチのヨメさんだけには伝える様、息子さん達に指示していたらしい。まだ40代半ばだった。
その後隣室はムスコさん達も独立し、時々主人が出入りするのを見掛けたりしたが、ほぼ空き家状態の様だった。まぁウチも空き家に近いけど。
昨年10月、久しぶりに隣に人の気配。
出掛けようとして、偶然、兄弟に出くわした。二人共もうただのオッサン、サッカーで遊んでいた頃の面影は、当然ない。
兄の方は以前、ヨメさんと赤ん坊を連れていたことがあったが、この日は弟がヨメさんを連れていた。
暫し立ち話し。
「ところでオトウサン、最近どないしてはルのン?」、と訊いたら、4年前ガンで亡くなったとの事。64歳だったそうだ。大柄で静かな人だった。
「オフクロもオヤジも早死にで、ボクらも多分、早死にやと思いますワ、ハハハ」、と兄弟は笑いあっていた。
隣はほぼ空き家状態ではなく、完全に空き屋になっていたのだ。

そして昨年末、9年前まで勤めていた特殊機械メーカーで、最後の約5年間、一緒に仕事をしていた技術部のMさんが、7月に亡くなっていたことを知った。ワタクシよりひと回り年上だったので、75歳のはず。

ワタクシが船室艤装品メーカーから特殊機械メーカーに転職したのは、34歳の時だったが、その数年前、Mさんも某ボイラーメーカーから転職してきており、その後、その特殊機械メーカーの、更に特殊な機種の担当責任者となった。

人当たりよく、入社したての私にも気さくに声を掛けてくれた。
また技術者らしく、日々の出来事は何事も細かく文書にまとめられていた。要は、後から誰が見てもそこそこ判るようになっていて、それに関わるモノはありがたかったし、これは営業であってもメーカーの社員として見習うべきモノ。
ワタクシも見積書などには、仕様、能力、条件等、細かく書き示すべきだと思っていたので、Mさんの手法とは通ずるものがあった。

ただ、細か過ぎると言うか、コリ過ぎる、ヤリ過ぎると言った面が、仕事でも趣味でもあって、それをワタクシはよく茶化していた。
車も好きで、カーショップにズラ~ッと並んでいる、「〇☓△が良くなります」と書かれた、ワタクシには胡散臭いとしか思えない部品を、次々と付けていた。
「イヤ、これエエです、出足がグ~ンとなるンですよ、ホンマに」、「確かに雑音は減った」、「ライトがハッキリ明るなった」、とかよく自慢していたが、いつも一度に複数の部品を付けるので、どれがどう影響したのかが判らない。アースチューンも、ワケが判らないほど張り巡らせていて、そう言うことに少し詳しい営業の若者には、「いくらなんでも、あれはやり過ぎですよぅ」、と嘲笑されていた。

納入した特殊機種がトラブった時でも、いくつもの対応、処置を一度にしてしまうので、どれが良かったかが特定できず、次のトラブル時の参考にならない。
それを指摘すると、「イヤ、ボクはとにかく、トラブルを長引かせて、こじらせたくないンですよ」、と何度も言っていた。

トラブルを早く解決したいのは、誰であれアタリマエ、 しかしそれらの処置にはコストが掛る。
また原因がこっちにあれば仕方ないが、客先に原因があれば、費用負担を求めないといけない。無償には出来ない。
まず最初にどれ位の費用になるのか、お客さんに示し、それをどうするか打ち合わせしないといけない。これは営業にとって一番厄介な作業になるが、逃れられない。
しかしMさんは、それを飛ばしてやってしまうようなことが多かった。これは開発要素がある商品に必要な支出として、会社TOPから認められているのか、とも思ったが、そんなコトはなかった。
いつの間にか、営業には何かワケが判らん情況になっている。

そもそもその特殊機種は、引き合いがある度にMさんがテストをして、進めるべきかヤメるべきかを決めるシステムになっていた。従って自然と、客先と打ち合わせするのは、営業ではなくMさんになっていく。営業は序々その特殊機種から離れていく。

また、その特殊機種を使うに当たっての条件と言うか、客先設備の方で改造、追加、新設してもらわないといけないモノが多く、それがキッチリ伝わっていないことも多かった。「打ち合わせでチャンと言うて、議事録にも書いてルのにィ」、Mさんはその度に、不思議そうに言っていた。
しかしそう言った事は契約条件でもあり、本来なら営業が見積にキチンと書いて、資材を通して伝えるべき事なのだが。

そして営業には、その特殊機種は、「関わると厄介な商品」、というイメージが定着し始めた。
特殊機械メーカーの一般機種は、優れた機能、特長、利点を持つ、なんでも出来る機械で、営業は売ればオワリ、後は新規用途やリピートオーダーを待つだけ。客先からの要求を断るコトもほとんどない。
しかしこの特殊機種は、引き合い自体を断るケースが多く、しかもトラブるウワサが多い。厄介だと営業が思うのもアタリマエ。

ワタクシもあまり関わりたくなかった。しかし会社のTOPから、Mさんの部屋に席を移す様に言われた。
そもそも、神戸の営業メンバーは、何年も前から、毎週月曜朝に行われていた、会社TOP、技術TOP、営業TOPに対するMさんの報告会に参加させられていた。
しかしその頃、神戸の営業メンバーは全て大阪に移っており、残っているのはワタクシだけ。いつの間にか、Mさんの特殊機種の営業専任として、やっていくしかない雰囲気は出来上がっていた。

Mさんと一緒に仕事をするのは、別にイヤではなかった。
Mさんは自分の部屋の入口側、Mさんの対面にワタクシの席を設けた。その間に二人の技術部メンバーと事務の女性、丁度イイ距離感だった。

ワタクシは、引き合いの都度、Mさんと打ち合わせしながら、営業担当に、見積に書くべき条件、注意事項等を連絡していった。
また、そう言う事柄を集約、パターン化し、客先提出資料として使えるよう、社内掲示板にUPしていった。当然カタログに準ずるPR資料も作っていった。

Mさんの部屋に移って数年経った時、そのメーカーの各機種ごとの収支を試算する動きがあって、この特殊機種は大赤字だったことが判明した。どう言う計算方法かはよく判らないが、それは当然の様な感じがした。要は売価が安過ぎる。
Mさんはトラブる毎に、制御盤や付帯装備を改善してそれを標準としていった。つまりコストはどんどん上がって行った。ただそれが価格表に反映されていなかった。
Mさんは、スペックアップ、オーバーデザインになった旨、価格表担当に伝えていたと言う。しかし価格表担当は知らないと言う。
ワタクシは価格表担当に、この特殊機種についてはこっちで改訂するから、と伝えた。

価格を上げた結果、翌年は黒字転換した。しかし、そんなに急に改善するのにも、違和感があった。
人件費配分に何らかの問題がある様にも思えたが、表面上は改善したのだし、また各営業担当が、Mさんと同レベルの打ち合わせが出来る様、多くの提出用資料も揃えたし、ワタクシはその特殊機械メーカーを辞めることにした。
子供が就職、独立して、扶養義務がなくなったことが、退職に踏み切る一番の要因だった。
以前から、辞める話しをしていたので、Mさんは特に騒がなかった。

9年前の年末に躊躇なく退職、しかし年明け早々、Mさんから、近所の酒蔵で元旦早朝搾った酒を買ってきているので、どこかで渡したい旨、メールがあった。
搾りたての日本酒は信州にもあって、ワタクシは信州・雪山通いの第1回目に早速それを買って帰り、その酒蔵の駐車場で待ち合わせ、お互いの“搾りたて”を交換した。その酒蔵は会員制の量り売りをしていて、Mさんに紹介してもらい、ワタクシもその会員だった。

何年か前に、「ついでに買ってきた」、とMさんからは何回か日本酒を貰っていた。貰うだけは申し訳ないと、ワタクシもついでに日本酒を買って帰るようにして、Mさんに渡していた。そんな“交換”がズッと続いていて、それは退職後も続いた。
また定期的な呑み会も、在職時と同じペースで続いていた。

そして3年目の8月の呑み会で騒いだ後、そう言うやり取りがピタッと止まった。呑み会の後のメールの返事が、来なかった。
何故かは判らないが、去る者は追わず、それでイイと思った。
どうもその年末に退職されたらしいが、メールは無かった。90まで働く、とよく言われていたが、結局70歳での退職となった様だ。

新たなメールが来たのは翌年、’11年8月だった。退職して毎日が日曜となり、料理教室とスケッチ教室に通っている、と書かれていた。
久しぶりに呑み会でもしますか、と言うハナシになったが、それが実現したのは2年後の1月だった。

70歳まで働いていたので、年金は1日1万貰っている、と言われていた。
料理教室、スケッチ教室はもうヤメたのか、むしろあちこちの温泉巡りを奥さんとやっているとか。
ただ以前のような陽気さは消え、元気もなかった。
呑み会が御開きになった後、二人で元町駅近くの喫茶店に寄り、前回の呑み会の後、メールを含めたやり取りが、ピタッと止まったのはナゼか訊いた。
しかし明確な答えは返って来なかった。それはむしろMさんらしい、と思った。

また呑みましょうと言って別れたが、Mさんを見たのは、それが最後となった。

そこそこ深い付き合いだったが、具体的な住所は知らないし、奥さんと話したコトもなく、亡くなった時の詳細は知らない。
ちっちゃいオッチャンのワタクシより、更にちっちゃいオッチャンだったが、持病と言うか、どこかが悪くて悩んでいる様なハナシは、聞いた事がなかった。
近所に息子さん夫婦が住んでいて、「ムスコのヨメが、しょっちゅう来て、呑む相手をしてくれて、こないだ貰うたお酒も、昨日一緒に呑んだンですよゥ」と、嬉しそうに話されていた。その後、お孫さんが生まれて、ダッコ出来たのだろうか。

お勤めは義務、長く働くことは楽しい、そうあるべきだ、そう言う考えが根底にあるような人だった。
しかし現実はストレスにまみれている。長く働ける楽しい職場などない。
ワタクシが早期退職を決めた時、Mさんはもう、90まで働くなどとは言わなくなった。
とは言え、働かなくなると人生はツマラナクなる。会社を辞めたらどうするのか。社会人最後の逡巡が始まるが、結末は決まっている。

「ボク、年収3千万なんですよぅ」と、Mさんが言う。
「エエッ!そんな少ないンですかぁ、ようそんなンで生活出来ますねぇ、最低でも5千万は貰わんと」、とワタクシが返す。酔えばそんな冗談をよく言いあっていた。
しかし、最後の呑み会ではそんな冗談も出なかった。

人生50年、それで働けなくなればオワリ。それが本来のニンゲンの姿かもしれない。
しかしMさんは70歳まで働き、5年後亡くなった。

ワタクシは55歳で早期退職し、その後9年間遊び呆けているが、最近ワクワク、ウキウキすることが少なくなった。
しかしMさんの寿命まで、まだ11年残っている。

さてこの後どうなるか、どうするか。