47年前の7月10日は月曜日、しかし朝はゆっくり起きても構わなかった。
前日の土砂降り、豪雨で布引谷はグチャグチャに崩れ、あの状態では麓の学校へ行けないのは明白だった。
前日の昼前から始まった土砂降りは、布引谷を濁流、激流に変え、それは谷底から5m以上上を通っているハイキングコースまで到達していたが、我が安普請は更に20m上にあって、まず浸かったり流されたりするコトはないと確信していた。
しかし、ナンカ気味悪く、親子3人は2階で「川」の字になって寝た。布引谷はグォオオ~っと唸っていた。
朝起きて雨戸を開けると、雨はスッカリ止んでおり、車道を見降ろすと、作業服のオジサンが慌ただしく行き来していた。
様子を聞きに行ったオヤジが戻って来て、「昨日の夜、“奥”で鉄砲水が出て、みんな流されてしもたらしいでェ」と、言った。
我が家は布引谷、通称“市ケ原”の入口エリアにあり、他に2軒の茶店、1軒の民家と1軒の別荘があった。
少し上流、河原の手前に茶店と民家が1軒ずつ、河原を越えた所に民家が1軒、そしてその先、コンコンと布引ウォーターが湧き出ていた井戸とお地蔵さんを越えると、大きな茶店と駐在所、数軒の民家、別荘があり、そこはこの村の中心地と言うべき所になるのだが、我々はそこを“奥”と呼んでいた。
その5年前、小学5年の年、この村の人口は急増した。
世継山の南面から天狗道・稲妻坂に続く尾根沿いにゴルフ場ができ、そこの従業員が“奥”の東側に広がる斜面に住み始めたからだ。彼らの住居群は“飯場”と呼ばれていた。
同級生も2人増え、当時小中高生は20人近く住んでいたと思う。
しかしその日、“生きて”市ケ原にいた学生は多分ワタクシ一人。
大半は雨が降り出す前に市街地に避難、多分土曜の夜には既に戻っていなかったと思う。
当然、“飯場”にいたゴルフ場の従業員とその家族も避難していた。
そもそも住民の多くは、市街地に住んでいる親戚がいて、豪雨の度、至る所で土砂崩れが起きる市ケ原からそこへ逃げていたのだ。
そして市街地に逃げなかった“奥”の中学生1人と小学生5人は、前夜鉄砲水で流されていた。
前夜、雷が鳴り出し、9時頃雷鳴と共に停電となり、我々は2階へ上がり眠った。
その時の雷は、世継山頂上北側を通る高圧線の鉄塔に落ち、そのショックで斜面が一気に崩れ、世継山北面に点在する別荘何軒かを流し、更に駐在所と大きな茶店を流してしまった。
尾根沿いに谷越えのホールもあったと言う特異なゴルフ場は、異常な開発で作られたものであり、木々が伐採された斜面は、梅雨の長雨と土砂降りで脆弱になっており、落雷のショックでアッという間に崩落してしまった。
豪雨の日曜日の夜、当然別荘には誰もいなかったが、大きな茶店には周囲の住民が避難していた。
その時男達は、大きな茶店の近くにある民家が、布引谷支流の増水により流されそうになったため、土嚢を積んだりしていたそうだ。
そして、ドォ~ンときたらしい。真っ暗の中、何が起こったかは直ぐ判らなかったのだろう。
そして山が大きくずり落ちたことを悟った一人が、「ズッたぁ~!!!」と叫んだ。
土石流の中、駐在サンは奥さんに「オマエ、ここつかんでチャンと付いて来いよ」と言って、逃れようとしたそうだ。しかし奥さんはいつの間にか流されていったらしい。
鉄砲水は茶店の大部分を飛ばして行ったが、2階の一部が残っていて、その柱に茶店のオバアサンはしがみついて助かった。避難して来た人が増えたので、2階へ座布団を取りに上がり、その時ドォ~ンときたそうだ。
当時、茶店から100m程下った所に半鐘があり、土石流が治まった後、一人がそれをカン、カン、カンと鳴らしたそうだ。
しかし、400m弱離れた我が家には届かなかった。その頃もうスッカリ寝入っていたから、とも言える。
災害救援にやって来た自衛隊は、オヤジが通勤に使っていて、土砂に半分埋まった勤務先の3輪トラックを、アッという間に掘りだしてくれた。
しかし流された人達、21名は中々見つからなかった。
最初に発見されたのは茶店の孫、確か近大生だったはずだ。寝袋に入って寝ていて、そのまま見つかった。
若者の悪フザケで、避難して来た近所の人達を尻目に、さっさと買ったばかりのキャンプ用のシュラフに入って寝ていたのだろう。
「背負った“罪”がまだ軽いからでしょうナ」と、隣の茶店の主人は言った。
隣の茶店の主人は、神戸製鋼が鈴木商店だった頃、そこへ顔パスで入れるほど手広く商売をされていたそうで、子供は医者になったり、地位のある男の元へ嫁いだりと、そこそこの人物だったらしい。兄弟は三ノ宮で、パン屋や焼き鳥屋を派手に営んでいて、「あの大きな店がそうらしいわぁ」と、オフクロは言っていた。
家の廻りの樹木相手にチャンバラをして遊んでいるワタクシに、むやみやたらに木を折ったり切ってはいけない、樹木も自然も生き物で大切にしないといけない、と諭す中々の好々爺だった。
その好々爺と“奥”の茶店の主人はイトコ同士、しかし仲が悪かった。
“奥”の茶店の主人は、この集落の村長的立場だったが、その評判は、“市ケ原”入口エリアではあまり良くなかった。
ある日、隣の茶店の飼い犬がビッコをひいていた。脚の腱を切られていたらしい。
それは、“奥”の茶店の主人がハライセにやったモノだ、と憶測された。犬畜生にそう言うエゲツナイ事をするのは、あの男しかいないと。
「背負った“罪”がまだ軽いから」というのは、村長的立場の“奥”の茶店の主人は、彼の孫に比べると、重い“罪”を背負っている、という意味だった。
鉄砲水で飛ばされた21人は、布引谷まで流されたか、その間の10数mの斜面に埋もれていたハズだ。
布引谷まで流されればあの濁流に呑みこまれ、かなり下流まで探さないといけない。
また布引谷までの10数mの斜面は、木々や家屋でグチャグチャになっていて、手掘りでは大変だ。
という事で、斜面の捜索は、布引谷の濁流をポンプで吹き付ける方法に変わり、次々と見つかったそうだ。
しかし、見つかった場所は悲劇の現場だけではなく、やはり濁流に呑みこまれた人達は下流で見つかった。
“奥”の茶店を手伝っていたオネエサンは布引雄滝の滝ツボで見つかった。ふくよかでアイソ良く元気なオネエサンだった記憶がある。
美人のホマレ高かった“奥”の茶店の若女将は神戸港で見つかった。
この美人の夫、つまり茶店の若ダンナは、サラリーマンでガス会社に勤めていて、ナゼかその頃オヤジと親しくしていた。
そのせいもあって、オヤジは遺体の身元確認に付き添う事になった。
美人の恋ニョーボの変わり果てた姿を見て、若ダンナはまともに歩けなかったそうだ。オヤジはフラフラ、ヨロヨロになった若ダンナを支えて連れ帰ったらしい。
濁流と共にいくつもの堰堤を飛び越え、布引貯水池のバイパスラインになる暗渠をくぐり、その先の布引ダムと同じ高さの人工滝を落ち、更に布引の滝の蓮瀑を落ちて行った遺体とはどんな状態になるのだろう。
流された距離3km以上、濁流には土砂、木々なども混じっていたはず、それらとミキシングされながら流されていった訳で、当然衣服ははぎ取られ、頭髪の一部は擦り落され、顔は10ラウンド以上を殴り合ったボクサーより腫れあがっていたいたかも知れない。あの美人の若女将が。
オヤジも彼女の変わり果てた姿を見たらしいが、その様子については何も話さなかった。
ふくよかでアイソ良く元気なオネエサンといい、美人のホマレ高かった若女将といい、神サンはか弱い女性になんと残酷な運命を授けるのだろう。
そうやって19人は見つかった。
残りは廃品回収の様な事をしていたオジサンと、“奥”の茶店の主人。
2人は貯水池の水を抜いて見つかった。
廃品回収のオジサンは直ぐ見つかったらしいが、片足(片腕?)はなかったそうだ。
“奥”の茶店の主人は更に捜索が続き、最後の最後に見つかった。
「やはり背負った“罪”が重かった、という事ですナ」と、隣の茶店の主人は呟き、周りにいたみんなは頷いた。
何らかの事情で、高知出身の男性が布引谷に住みつき、山守の様な事をやり始めたのは江戸時代の終わり頃だそうだ。
その後布引貯水池のダムの工事が始まり、その男性はフルサト高知から仲間を呼び、その工事に従事。
1900年、ダムが完成した後も、一部の作業員がその上流に居続けたのが、布引谷に集落が出来るキッカケらしい。
その後、居留地の外人が毎朝、仕事前に神戸の裏に聳える山を歩きだし、そのハイキング文化が神戸のニホンジンにも浸透し、布引谷に住む高知出身の人達は茶店の商売を始めた。
その後、高知人以外も住み始めたが、ワタクシが布引谷に登場した’50年代の終わりでも、布引谷では土佐弁が飛び交っていた。
最初に住みついた男性の3代目(4代目?)は、ワタクシの小学校の20年先輩、同窓生名簿に昭和18年卒業と載っているが、この鉄砲水で両親と妻と4人の子供、計7人の家族を亡くした。
“奥”の大きな茶店の2代目の若ダンナも、同窓生名簿に昭和8年卒業と載っていて、この鉄砲水で、美人の誉れ高き妻、大学生の息子、姉夫婦、そして重い“罪”を背負っていたと言われていたオヤジ、計5人の家族を亡くした。
駐在サンは、土石流から一緒に逃れようとしていた妻と双子の小学生を亡くした。
先代の駐在サンの息子はワタクシの同級生、弱虫のヨッちゃんだったが、この双子のコトはほとんど知らない。カワイイ女の子が2人いた記憶はあるが。
そして、茶店を手伝っていた、ふくよかでアイソ良く元気なオネエサンと、廃品回収のオジサンが亡くなった。
他に4名亡くなっている事になるが、どなただったのか全く判らない。
一緒に通学し、遊んでいた仲間の関係は全て市街地へ避難していた。ゴルフ場の関係家族も市街地に避難していた。
あの大きな茶店に避難していたという事は、昔からこの村に住んでいて、市街地に避難できる親戚がいない人達が他に4人いた、というコトなんだろうか。
布引雄滝の落ち口から上流100m程は、ゴルジュ状になっていて、ハイキングコースの足元に谷底が見える。そこに顕著な大きな岩があった。長い歳月水の流れにさらされ、全体的に丸みを帯びていた。
それがこの豪雨で数10m下流に移動していた。
「ホンマに水の勢いというのは、スゴイもんですなァ」と、隣の茶店の主人は呟き、ワタクシはコクっと頷いた。