蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

あの大災害の後の記憶

2014-07-31 22:40:01 | 神戸布引谷での出来事

47年前の7月10日は月曜日、しかし朝はゆっくり起きても構わなかった。

前日の土砂降り、豪雨で布引谷はグチャグチャに崩れ、あの状態では麓の学校へ行けないのは明白だった。

前日の昼前から始まった土砂降りは、布引谷を濁流、激流に変え、それは谷底から5m以上上を通っているハイキングコースまで到達していたが、我が安普請は更に20m上にあって、まず浸かったり流されたりするコトはないと確信していた。
しかし、ナンカ気味悪く、親子3人は2階で「川」の字になって寝た。布引谷はグォオオ~っと唸っていた。

朝起きて雨戸を開けると、雨はスッカリ止んでおり、車道を見降ろすと、作業服のオジサンが慌ただしく行き来していた。

様子を聞きに行ったオヤジが戻って来て、「昨日の夜、“奥”で鉄砲水が出て、みんな流されてしもたらしいでェ」と、言った。

我が家は布引谷、通称“市ケ原”の入口エリアにあり、他に2軒の茶店、1軒の民家と1軒の別荘があった。
少し上流、河原の手前に茶店と民家が1軒ずつ、河原を越えた所に民家が1軒、そしてその先、コンコンと布引ウォーターが湧き出ていた井戸とお地蔵さんを越えると、大きな茶店と駐在所、数軒の民家、別荘があり、そこはこの村の中心地と言うべき所になるのだが、我々はそこを“奥”と呼んでいた。

その5年前、小学5年の年、この村の人口は急増した。
世継山の南面から天狗道・稲妻坂に続く尾根沿いにゴルフ場ができ、そこの従業員が“奥”の東側に広がる斜面に住み始めたからだ。彼らの住居群は“飯場”と呼ばれていた。
同級生も2人増え、当時小中高生は20人近く住んでいたと思う。

しかしその日、“生きて”市ケ原にいた学生は多分ワタクシ一人。
大半は雨が降り出す前に市街地に避難、多分土曜の夜には既に戻っていなかったと思う。
当然、“飯場”にいたゴルフ場の従業員とその家族も避難していた。

そもそも住民の多くは、市街地に住んでいる親戚がいて、豪雨の度、至る所で土砂崩れが起きる市ケ原からそこへ逃げていたのだ。

そして市街地に逃げなかった“奥”の中学生1人と小学生5人は、前夜鉄砲水で流されていた。

前夜、雷が鳴り出し、9時頃雷鳴と共に停電となり、我々は2階へ上がり眠った。
その時の雷は、世継山頂上北側を通る高圧線の鉄塔に落ち、そのショックで斜面が一気に崩れ、世継山北面に点在する別荘何軒かを流し、更に駐在所と大きな茶店を流してしまった。

尾根沿いに谷越えのホールもあったと言う特異なゴルフ場は、異常な開発で作られたものであり、木々が伐採された斜面は、梅雨の長雨と土砂降りで脆弱になっており、落雷のショックでアッという間に崩落してしまった。

豪雨の日曜日の夜、当然別荘には誰もいなかったが、大きな茶店には周囲の住民が避難していた。
その時男達は、大きな茶店の近くにある民家が、布引谷支流の増水により流されそうになったため、土嚢を積んだりしていたそうだ。
そして、ドォ~ンときたらしい。真っ暗の中、何が起こったかは直ぐ判らなかったのだろう。
そして山が大きくずり落ちたことを悟った一人が、「ズッたぁ~!!!」と叫んだ。

土石流の中、駐在サンは奥さんに「オマエ、ここつかんでチャンと付いて来いよ」と言って、逃れようとしたそうだ。しかし奥さんはいつの間にか流されていったらしい。

鉄砲水は茶店の大部分を飛ばして行ったが、2階の一部が残っていて、その柱に茶店のオバアサンはしがみついて助かった。避難して来た人が増えたので、2階へ座布団を取りに上がり、その時ドォ~ンときたそうだ。

当時、茶店から100m程下った所に半鐘があり、土石流が治まった後、一人がそれをカン、カン、カンと鳴らしたそうだ。
しかし、400m弱離れた我が家には届かなかった。その頃もうスッカリ寝入っていたから、とも言える。

災害救援にやって来た自衛隊は、オヤジが通勤に使っていて、土砂に半分埋まった勤務先の3輪トラックを、アッという間に掘りだしてくれた。
しかし流された人達、21名は中々見つからなかった。

最初に発見されたのは茶店の孫、確か近大生だったはずだ。寝袋に入って寝ていて、そのまま見つかった。
若者の悪フザケで、避難して来た近所の人達を尻目に、さっさと買ったばかりのキャンプ用のシュラフに入って寝ていたのだろう。

「背負った“罪”がまだ軽いからでしょうナ」と、隣の茶店の主人は言った。

隣の茶店の主人は、神戸製鋼が鈴木商店だった頃、そこへ顔パスで入れるほど手広く商売をされていたそうで、子供は医者になったり、地位のある男の元へ嫁いだりと、そこそこの人物だったらしい。兄弟は三ノ宮で、パン屋や焼き鳥屋を派手に営んでいて、「あの大きな店がそうらしいわぁ」と、オフクロは言っていた。
家の廻りの樹木相手にチャンバラをして遊んでいるワタクシに、むやみやたらに木を折ったり切ってはいけない、樹木も自然も生き物で大切にしないといけない、と諭す中々の好々爺だった。

その好々爺と“奥”の茶店の主人はイトコ同士、しかし仲が悪かった。

“奥”の茶店の主人は、この集落の村長的立場だったが、その評判は、“市ケ原”入口エリアではあまり良くなかった。

ある日、隣の茶店の飼い犬がビッコをひいていた。脚の腱を切られていたらしい。
それは、“奥”の茶店の主人がハライセにやったモノだ、と憶測された。犬畜生にそう言うエゲツナイ事をするのは、あの男しかいないと。

「背負った“罪”がまだ軽いから」というのは、村長的立場の“奥”の茶店の主人は、彼の孫に比べると、重い“罪”を背負っている、という意味だった。

鉄砲水で飛ばされた21人は、布引谷まで流されたか、その間の10数mの斜面に埋もれていたハズだ。
布引谷まで流されればあの濁流に呑みこまれ、かなり下流まで探さないといけない。
また布引谷までの10数mの斜面は、木々や家屋でグチャグチャになっていて、手掘りでは大変だ。
という事で、斜面の捜索は、布引谷の濁流をポンプで吹き付ける方法に変わり、次々と見つかったそうだ。

しかし、見つかった場所は悲劇の現場だけではなく、やはり濁流に呑みこまれた人達は下流で見つかった。

“奥”の茶店を手伝っていたオネエサンは布引雄滝の滝ツボで見つかった。ふくよかでアイソ良く元気なオネエサンだった記憶がある。

美人のホマレ高かった“奥”の茶店の若女将は神戸港で見つかった。
この美人の夫、つまり茶店の若ダンナは、サラリーマンでガス会社に勤めていて、ナゼかその頃オヤジと親しくしていた。
そのせいもあって、オヤジは遺体の身元確認に付き添う事になった。
美人の恋ニョーボの変わり果てた姿を見て、若ダンナはまともに歩けなかったそうだ。オヤジはフラフラ、ヨロヨロになった若ダンナを支えて連れ帰ったらしい。

濁流と共にいくつもの堰堤を飛び越え、布引貯水池のバイパスラインになる暗渠をくぐり、その先の布引ダムと同じ高さの人工滝を落ち、更に布引の滝の蓮瀑を落ちて行った遺体とはどんな状態になるのだろう。
流された距離3km以上、濁流には土砂、木々なども混じっていたはず、それらとミキシングされながら流されていった訳で、当然衣服ははぎ取られ、頭髪の一部は擦り落され、顔は10ラウンド以上を殴り合ったボクサーより腫れあがっていたいたかも知れない。あの美人の若女将が。

オヤジも彼女の変わり果てた姿を見たらしいが、その様子については何も話さなかった。

ふくよかでアイソ良く元気なオネエサンといい、美人のホマレ高かった若女将といい、神サンはか弱い女性になんと残酷な運命を授けるのだろう。

そうやって19人は見つかった。

残りは廃品回収の様な事をしていたオジサンと、“奥”の茶店の主人。

2人は貯水池の水を抜いて見つかった。

廃品回収のオジサンは直ぐ見つかったらしいが、片足(片腕?)はなかったそうだ。
“奥”の茶店の主人は更に捜索が続き、最後の最後に見つかった。
「やはり背負った“罪”が重かった、という事ですナ」と、隣の茶店の主人は呟き、周りにいたみんなは頷いた。

何らかの事情で、高知出身の男性が布引谷に住みつき、山守の様な事をやり始めたのは江戸時代の終わり頃だそうだ。
その後布引貯水池のダムの工事が始まり、その男性はフルサト高知から仲間を呼び、その工事に従事。
1900年、ダムが完成した後も、一部の作業員がその上流に居続けたのが、布引谷に集落が出来るキッカケらしい。

その後、居留地の外人が毎朝、仕事前に神戸の裏に聳える山を歩きだし、そのハイキング文化が神戸のニホンジンにも浸透し、布引谷に住む高知出身の人達は茶店の商売を始めた。
その後、高知人以外も住み始めたが、ワタクシが布引谷に登場した’50年代の終わりでも、布引谷では土佐弁が飛び交っていた。

最初に住みついた男性の3代目(4代目?)は、ワタクシの小学校の20年先輩、同窓生名簿に昭和18年卒業と載っているが、この鉄砲水で両親と妻と4人の子供、計7人の家族を亡くした。

“奥”の大きな茶店の2代目の若ダンナも、同窓生名簿に昭和8年卒業と載っていて、この鉄砲水で、美人の誉れ高き妻、大学生の息子、姉夫婦、そして重い“罪”を背負っていたと言われていたオヤジ、計5人の家族を亡くした。

駐在サンは、土石流から一緒に逃れようとしていた妻と双子の小学生を亡くした。
先代の駐在サンの息子はワタクシの同級生、弱虫のヨッちゃんだったが、この双子のコトはほとんど知らない。カワイイ女の子が2人いた記憶はあるが。

そして、茶店を手伝っていた、ふくよかでアイソ良く元気なオネエサンと、廃品回収のオジサンが亡くなった。

他に4名亡くなっている事になるが、どなただったのか全く判らない。

一緒に通学し、遊んでいた仲間の関係は全て市街地へ避難していた。ゴルフ場の関係家族も市街地に避難していた。
あの大きな茶店に避難していたという事は、昔からこの村に住んでいて、市街地に避難できる親戚がいない人達が他に4人いた、というコトなんだろうか。

布引雄滝の落ち口から上流100m程は、ゴルジュ状になっていて、ハイキングコースの足元に谷底が見える。そこに顕著な大きな岩があった。長い歳月水の流れにさらされ、全体的に丸みを帯びていた。
それがこの豪雨で数10m下流に移動していた。
「ホンマに水の勢いというのは、スゴイもんですなァ」と、隣の茶店の主人は呟き、ワタクシはコクっと頷いた。

 

 

 


真夏になり、逝ったり還ったり

2014-07-28 12:22:29 | 朽ちゆく草の想い

3月下旬、白馬乗鞍から快適にに滑り降りてきて、その日遭遇したワタクシと同じ様なソロの山スキーヤーさんと、栂森のカフェテリアでビール片手にしばし歓談、最後の話題は、春が過ぎ山から雪が消えたら何をする?、というコト。

雪に覆われた山中では精悍、果敢な皆さんも、家ではタダのアラカン親父、奥さまに煙たがられ、するコトがない。5月中はまだ山で遊べるが、その後は行くトコがない。

いずれにせよ6月から12月まで半年強、アラカン親父はするコト、行くトコを見つけてヒマを潰さないといけない。大変ですね。

それでは、貴方はどうするのかと訊かれた。

ウチにはワタクシを煙たがる、所謂ニョーボという存在はない。しかし自分の炊事、洗濯、掃除は自分でしないといけない。するコトは、一応ある。
しかし、その様なケッタイなお独り様状態を説明するのが邪魔臭いので、「死んでますワ」と応えた。

5月になってナゼか山へ行く気がせず、残雪期はサッサと山スキーを片付け、炊事、洗濯、掃除をセッセとした。

相変わらず毎日、5時になったら呑みながら晩メシを作り、出来上がったらそれを肴に更に呑み、7時を廻るとキゼツして、日付が変わる頃生き還り、洗いモノを片付けた後フロに入り、その後は本を読んだりして数時間、未明に眠たくなって寝る。

そして相変わらず毎日、カタギの衆が働き出した頃眼が覚め、次の日が始まり、また炊事、洗濯、掃除。

CDから流れる、ジョルジュ・ブラッサンス、アンリ・サルバトール、ジョルジュ・ムスタキが、朝も昼も夜も心地よく、それを聴きながら古い写真を整理した。古いクレジットカードの請求書も整理した。
手帳に書き留めていた昔の記録など、いくつかをエクセルにまとめた。訳もなくダラダラと残しておいたゴミも捨てた。

そろそろ自転車に乗ろうと、タイヤに8気圧の空気を入れた。そして梅雨が明け真夏になった。

とにかく暑い。なにもする気がしない。なにもしない、出来ない。朝から汗だく、出掛ける前から汗だくで、出掛ける力が湧かない。
洗濯モノ、ゴミやチリがドンドン溜まっていく。

暑い中、それでも夕方には呑み始めるので、一応晩メシは作る。
しかしそれも面倒になる。暑い状況で中華ナベを強火で振る気がしない。冷蔵庫の中のモノに塩とコショウを掛けフライパンで焼くだけ、それも面倒になってくる。
呑むのはゴックンすればイイが、咀嚼するのも面倒だ。

今まで通り酔っ払って気絶はする。しかし暑いのですぐ眼が覚める。
この起きる時、生き還る時が一番ツライ。暑さでムリヤリ生の世界へ再登場させられるのが、とんでもなくツライ。

超有名なイギリスの劇作家サンは、主人公の王に、「ニンゲンは泣きながら生まれてくる」とかいうセリフを言わせたそうだが、ムリヤリ再度生まれるのも泣きたくなる程ツライ。このまま死んでしまいたい。

そして、眠れないので一日中寝不足。ある意味一日中寝ている、死んでいるのかも知れない。
3月下旬、白馬乗鞍で遭遇した山スキーヤーさん達に、言ったコト、まさにその通りになった。

「死んでますワ」

そんな中、昨年壊れたエアコンを新替えした事を思い出した。

そもそもここは海抜100mにある建屋の7階。風はよく通るのでそこそこ涼しい。エアコンの存在価値をそんなに感じたことはなかった。
エアコンが壊れたのは2~3年前だったかも知れない。なくても全く気にならなかったのだ。

それが昨年はそうはいかなかった。
温暖化もさることながら、トシいって暑さに耐える体力がなくなってきたのかも知れない。熱中症で亡くなるのも、多くはお年寄りだし。

もうガマンしません。
数日前からエアコンは点けっぱなし、タイマーのON/OFFも使わず、一応省エネの28℃設定、窓をガシッと締め、カーテンもピッチリ引き日差しを遮ると、薄暗い室内はチョー快適になった。猛暑の夏はこうでなくっちゃ。

生活のペースは元に戻り、溜まったゴミを捨て、溜まったチリを掃除機で吸って、脱いで溜まった衣服を洗濯した。

先週土曜日、あまりにも快適過ぎて、前夜キゼツした後、外が明るくなるまで生き還らなかった。

Imgp1030 登山用の腕時計を気圧モードにしてベランダに置くと、5時半なのに28℃だった。

Imgp1032_2 昼過ぎ、日差しは西へ去ったが33℃だった。暑い!!!


侵略者に寝返ったと言う説がある3本足のカラスを、シンボルにしたサムライブルーを見て想うコト

2014-07-08 09:25:49 | 朽ちゆく草の想い

高校の頃、しばしばサッカーボールを蹴って遊んでいた。

当時、布引谷でそんな遊びに付き合ってくれるのは、中学生のN君だけ。

’67年7月、集中豪雨による山腹崩壊が大きな茶店を襲い、そこへ避難していた21人が亡くなった。
そしてその元凶が、ゴルフ場開発による自然破壊であることがハッキリして、ゴルフ場は閉鎖。布引谷に住んでいたその従業員と家族は、当然いなくなり、ゴルフ場とは関係ない住民も徐々に布引谷から離れていった。

結局残った遊び相手は、N君だけになった。

その彼とボールを奪い合ったり、車道の石垣に向かってシュートのマネ事をしていた。
そのお陰で、体育の授業ではゴールラインからハーフライン辺りまでインステップキックで飛ばせるようになったり、ドリブルで同級生の2~3人は抜けるようになったり、リフティングも50回程度出来るようになった。

高校のサッカー部に入った事もあったが、高校から布引谷の家まではハイキングコースを歩いて1時間弱。クラブ活動が終わって夕方、教科書が入ったカバン、運動着、シューズを持って布引谷を登って帰る、それはキツく、結局、長続きはしなかった。

クラブ活動をヤメたからといって、成績が良くなるワケではない。
結局、勉強も運動も出来ないワタクシ、何の目標、夢も希望もなく、ダラダラと“青春”とやらを過ごしていた。

しかし、重いカバンを提げて通うハイキングコースに絶望はなかった。足元にも頭上にも“自由”は広がっていた。

ハイキングコースとは別に、麓から家の前までは舗装路で繋がっていたが、公共交通機関はない。歩かないと学校には着かないし、家には戻れない。誰も車に乗せてはくれない。それはN君も同じ。ただ“自由”はあった。

そして、布引谷へ戻って“自由”にボールを蹴っていた。ボールが谷に落ち、遠くまで拾いに行ったことも何度かあったが。

そうやって自由にダラダラ過ごしていて、日本史か世界史のテストで赤点を取ってしまって、落第しそうになった事がある。通知簿にその数値がハッキリと赤字で記されていて、かなりオドロいた。

そもそも、何時代の何年に、何とかと言う英雄や統治者が何をした、という事を覚えて何が面白いのか、何の意義があるのか。それは結局、イクサ、争いの結果であり、それに勝った側の都合で描かれているだけではないのか、そんなことを漠然と感じていた。

ある時、ある所に、支配慾が強い好戦的なアラクレ者がいて、気は弱いが力が強いおバカ達を家来にして、次々とお隣サンとコロし合いして、負けた方は“悪者”となり、そしてアラクレ者の中の一番狡猾なノが天下統一、歴史とはそう言うアラクレ者が起こした、タダのコロし合いの物語ではなかったか。
まぁ高校生の頃はそこまでハッキリした認識はなかったけど。

ではコロされた側とか、そんなイクサに巻き込まれた近隣者、フツーに生きていてそのイクサで“自由”を奪われた人達の歴史はどうなっているのか、それを教えてくれる授業だったら赤点は取らなかったかも知れない。

その後色々と本などを読んでいたら、そう言う知りたかったコト、カッコよく言えば、歴史の闇に消えていった人達のコトを、僅かではあるが知ることになった。

お米を作る人達だけが“オオミタカラ”と大切にされ、その米作のための道具を作る職人達は少し下にランクされ、“死”に関わる仕事をしていた人達とか、生産に関わらない“芸”をする人達は、酷い差別を受け生きていた歴史。
大阪や金沢にある大きな城があった場所には、その前には大きなお寺があって、悪人でさえ救うという阿弥陀仏を信じる人達から、支配欲が強いアラクレ者がその地を奪ったという歴史。

そして、最も刮目したのは、この国がヨソからやって来た好戦的な侵略者に征服された、という歴史。しかし征服された側は歴史を語れないので、“説”というコトになっているそうだ。

戦前、天皇というのは、天から降りてきた神の子孫で、天から降りてきた神は、東の方が争い事で騒がしいからそれを治めるために“東征”し、神武という初代天皇になって大和朝廷を作った、つまり天皇は国の現人神で、国民は天皇の赤子、天皇の為に戦って、イザとなれば死になさい、と教えられていたそうだ。

しかし、戦争で負けるとフツーのニンゲンです、と宣言して、それならその神と言われていた先祖はどこから来たの?と不思議だった。
そしてそれは、ヨソからやって来た侵略者、そう言う“説”を知って、ワタクシはナルホドと思った。

その侵略者は、馬に乗って武器を携えてやって来たそうだ。
自然に溶けこみ、海、川、野山からの恵みを頂いてノンビリ生きていた縄文人、陽と土と水を上手く利用して稲作で生きていた弥生人が、好戦的な侵略者に次々とやっつけられてしまうのはアタリマエ。

そして、その侵略者はやっつけた、特に先住民、縄文人(?)を、熊(熊襲)、隼(隼人)、近畿まで来ると蜘蛛(土蜘蛛)、さらに東にいるのを蝦(蝦夷)、と呼んで蔑んだらしい。
とは言え、先住民もやられっぱなしではなかったそうで、近畿辺りのチョット大きな勢力に激しく抵抗され、一旦中国地方に後退。
その後、しばらく準備して、今度は近畿を避け紀伊半島をグルっと迂回し、新宮あたりへ上陸。

そこでも先住民との戦いがあって、しかし武器と馬を持つ獰猛な侵略者はアッという間(?)にやっつけて、神話では「八咫烏」に導かれ、熊野から大和へ到着すると言う事になっているが、見知らぬ険しい紀伊山地をカラスが案内できるわけがない。
ホントは侵略者に寝返った先住民が、熊野から大和への険路をガイドした、そう言う“説”もあるらしい。

先住民の中にも邪険にされている者がいて、敵の敵は味方、という事で侵略者に寝返ったヤツがいても不思議ではない。そして先住民だから、侵略者はカラス:八咫烏と言う名を引き当てたンだろうか。

戦前の小学校等には、髭ズラでスックと立つ神武天皇の足元にひれ伏す先住民(?)がいて、神武の持つ弓(杖?)の先端にそのカラスがとまっている絵が掲げられていたそうだが、先住民側から見ると、それは恨めしい光景であり、裏切ったカラスは許せない存在。

しかも、征服された先住民の子孫は、奴隷として働かされ、オオミタカラがやりたがらないケガレた仕事をさせられたり、そしていつの間にかエタとかヒニンとか呼ばれる人達もいた訳で、今もそのカラスを心の奥深い所で恨んでいる人がいるとか。

さて、ワタクシの歴史はどんなンだったのか。
父方のオバアチャンは河内の出で常々、「エエか、お米には、陽ィの神サンと地ィの神サンと水の神サンが宿ってル、そやから一粒たりとも粗末にしたらアカン」と、言っていたのでオオミタカラだと思うし、苗字は奈良の寺内町と同じの名、母方のオバアチャンは広島の山奥の浄土真宗のお寺で、ジイサンはさすらいの絵師と思われ、要は浄穢、貴賤、色んな血が混じっていると思う。“オオミタカラ”の血も、先住“土蜘蛛”の血も混じっている。

だからそのカラスに特に恨みはありません。大体あまり物事にコダワリないし。
ただ、民族の怨念というか、今もそのカラスを恨んでいる人の存在も、否定はしません。

さて、そのヤタカラスをシンボルマークとして胸に付けたサムライブルーは、ワールドカップで1勝も揚げれずGL敗退、さすが世界のレベルはスゴイ。代表メンバーの多くは海外のプロチームで活躍しているのに。
それは“個”としては強いが、“国”になると弱いと言うコト(?)

確かに彼らは皆そこそこの面構え、サッカーというのは11人同士で行う格闘技でもあるので、そのメンバーは“悪童”の方がイイ。

しかし、その悪童は「八咫烏」を胸に付け、あの暗いメロディのキミガヨを試合前に歌っている。
今やキミガヨの「君」とは、天皇の事だそうで、その映像を見ると、神武天皇とそれが持つ弓(杖?)の先端にとまっているカラスとの絵を、ナゼか連想してしまう。そしてその“悪童”が、体制とか権力とかに恭順な“優等生”の様に見えてしまう。
そんな“優等生”が、海外の“悪童”に勝てるン?まぁどうでもエエけど。

しかし、世界のキッカー、スーパースター達は大体、「国」の為に戦っているという意識はあるのだろうか。
彼らスーパースターの年収、ン十億は、所属する他国のクラブチームから払われているのであって、君主国であれ共和国であれ、母国から払われているのではない。
何か、「国」という概念から自由な意識がある様な気がする。
そして、それはむしろカッコイイと思う。