蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

映画 " 折り梅 " と叔母の痴呆

2010-12-31 21:03:49 | 一人ブラブラ

今年最後の想い、色々あるが、ナンカ変なコトの一つ。

人権週間の11月8日、芦屋市とそこの人権委員会主催の集いがあり、" 折り梅 " の上映と監督の講演会をやっていて、映画だけを見せてもらった。

近所の小学校の梅の木に「桜折るバカ、梅折らぬバカ」と言う札がぶら下げていたが、この映画で、この主人公の認知症の女性は少女の頃、母親から梅は生ける際、都合の良い様に折り曲げてもそれは枯れずにちゃんと咲くものよ、" 折り梅 " と言うのよ、と教えられる。
そのン十年後、 老いて痴呆になったものの、とある老人サークルに加わって絵を描き始め、それが入選したりして、主人公も 梅の如く、一度折れても再び咲くことになる。

しかし、この映画はナンカ変。
まず、主人公を引き取る息子役の、元中量級(?)ボクサーの漫才師。
この人、好感の持てる大阪下町のオニィちゃんで、毎週土曜のワイドショーでメインを務めておられる。 しかし、この映画で喋るのは標準語。全く似合わない。 演技が上手とか、下手とかの問題ではなく、ナンカ変。 容姿はいつもテレビで見るのと同じだが、雰囲気がナンカ変。 母親がおかしくなって泣くシーン、ウソ泣きめいて、それが逆に可笑しい。 ホンマに漫才やってるみたいで思わず笑ってしまった。

ストーリーは、一人暮らしの母親引き取った後、おかしくなって、家族は戸惑い、振り回され、認知症がどう言うものか段々判ってきて、それに母親が育った梅の名産地:和歌山・南部の思い出話が絡んで、後半では母親を連れて家族全員で その" 折り梅 " の地へ行ったりする。 最後には痴呆が更に進んだ症状が出て来て、それに優しく嫁は対応する。 ただそれだけでした。
痴呆の姑と介護する嫁。この二人がホントは信頼し合った良い関係だ、とほのめかすシーンは涙を誘うが、こんな嫁と姑も変、あり得ないでしょ。

ワタクシには、この映画の主人公よりかなり痴呆が進んだ叔母がいる。
この叔母は実の母親より口うるさく鬱陶しい2番目の母親だった。 10年くらい前から認知症だった様だが、ワタクシが頻繁に様子を見に行くようになったのは、6年くらい前から。
その頃にはもう、以前の口うるささは消えていた。 と言うか、50年近く前の優しいオバちゃんに戻っていた。 ワタクシが話す事を微笑んで聞いているだけだった。
洗面台の中には同じ銘柄の石鹸が10ヶ以上突っ込まれていて、洗濯機の横の棚には同じ銘柄のウール用洗剤が5~6本並んでいた。
そしてそれまで掃除がゆき届いていた家の中はナンカごみッぽかった、ヘルパーさん来てるのに。
小銭を勘定して支払い出来ないので、財布はいつもおつりの小銭でズッシリ、「これ持って帰ってぇ」。 ATMの硬貨投入口へジャラジャラと入れて数百円。 これはいただきました。

ボケてきて変な事をしたところで、そんなに騒がなくても良い気がする。歳をとれば自然とそうなる訳だし、あぁこの人もボケてきた、と思えば良いだけではないか。

叔母の何回目かの行方不明は警察犬を使ってまでの大捜索、大騒ぎだったが、ワタクシはいずれ誰かに保護されて帰ってくる、と考えていた。 と言うのも叔母の徘徊は初めてではなかったからだ。 怖がりなゆえに、全てに注意深く慎重な叔母は、小柄でもその生命力は多大なもの、とワタクシは信じていた。
その時は偶々電話したおバカがいて、家にいない事が判り、大騒ぎになった。そのおバカが電話さえしなければ、多分今まで通り、周りは生還した後その事件を知るだけだった。
この時は深夜まで一人、叔母宅で待機していたが、発見されたのはワタクシが引き揚げた後だった。保護して頂いた人が警察に届け、近くに住むケアマネさんに迎えに行っていただいた。
その後暫くは実家でオフクロと暮していたが、この徘徊時、大騒ぎしていただけのおバカ(洋装店を共同経営していたカタワレ)が、叔母の財産内容を確認して、超高級老人ホームに放り込んでしまった。ケアマネにはほとんど相談もせず、ワタクシには一言もなく、オフクロはただハンコを押すだけだった。

叔母はそこへ入れられて、2年後の年末にはもうワタクシの事が判らなくなっていた。 オフクロが亡くなる直ぐ前の年末だった。

色んな事を忘れる、奇異な事をする、周囲に迷惑をかけ、ええ加減にせいよぅ、ジハいたろかぁ、とまで思われる、 この様な状況になった人がいても、ワタクシはあまり驚きません。
酔って、ふざけて、冗談でそんなことやってル仲間、昔から沢山いた。

先日も叔母はその超高級老人ホームのベッドに横たわり、一人ブツブツ言っていた。 ワタクシの事は無視。 酔っぱらってベンチで寝込みだしたA君と同じ。
看護師さんに手をひかれ、そこの館内を散歩していたオジイさん、ワタクシと出会うと敬礼し、ワタクシが進む方向に片手を差し出し 「 どうぞ 」と言う。 昔の忘年会、二軒目のスナックの入り口でドアボーイの真似をしていたB君と同じ。
「いや、昔のオマエと同じや」 と言われる方たち、沢山おられると思います。そうですワ。

痴呆になったという事は、ある意味でもうすでに死んだという事ではないか。 
若くして痴呆にはならないはずだ。 事故などで意識が無く、何も応えてくれない肉親を持った人達は悲しいし、そのままでも生き続けて欲しい、と言う気持ちはよく判る。
しかし、そこそこの歳になって、もう色々忘れて身内の事まで判らないという事は、既にその人は死んでいると思う。その後生きさせるのには、肉体的か経済的な徒労だけが残るのだ。

叔母が入居している超高級老人ホームの費用は月25万だそうだ。 財産管理はそのおバカから後見人に移ったが、細かい事は知らないし、どうでもいい。 そして叔母は側にいるワタクシの事は判らず、一人ブツブツ言っている。  

しかし、そんな形で上手く廻っている、この世の中の一つの状況、何か変、だと思う。 


何とか3年生き延びた

2010-12-28 02:34:49 | 駆け抜けた一回性の記憶

3年前の12月25日、サラリーマンを辞めた。

学校を卒業し、’76年4月に " 会社"人となり、10年目の8月末に転職。 翌日9月1日、その後21年間務める機械メーカーに出社、’07年末まで在職するつもりだったが、給与計算の関係で25日で辞めてくれ、と言われた。

翌日にはほとんどのスーツと革靴を捨てた。

定年までまだ5年、定年後も乞われて70歳を過ぎるまで在職している人もいるのに、ワタクシは辞めた。
扶養義務が無くなったので、今後は森林整備等のボランティアをやりたい、表向きの理由はそう言うことにしたが、もうその会社にいたくなかったのが本音だ。

もう働きたくない、と言うことと勤めたくないと言うことは違う。

「会社辞めて、どうして喰うていくン、年金出るまでまだ何年かあるやろ、年金出てもそれだけでは喰うていけンし」、2~3歳年長の人達、団塊の世代の人達から、よくそう言われた。
「マンションのローンもう済んでルし、子供、二人とも独立したし、ヨメハン、介護の仕事フルにやって自活してルし、ボク、炊事、洗濯、掃除、嫌いやないし」
「ええなぁ、ウチはまだローン残ってルし、子供は出て行きよれへンし、ヨメハン、パートやし」
皆さん大変だぁ。

しかし、ローンぐらい、早目に計画的立てて返済したらいいのに。 今まで何しとったンやろ、アホっちゃう。
60歳になったら必然的に辞めされられるし、入ってくる年金額は判っているし。

昔からエラそうにしていて、営業部以外からもから嫌われていた統括部長、定年でスパっと潔く辞めるかと思ったら、経営陣に泣きついて60台半ばまでいた。 直前にマンション買い換えたとの噂、何と無計画なのか、あんなにエラそうにしていたのに。
「無理矢理クビにしたら、辞めてから会社の足、引っ張りよるかもしれんから、しばらく飼うとくしかない」と、経営陣は考えていたらしい。

ワタクシは失業者になっても、ローンは無いし、一人だったら5年位は何とか喰っていける程度の蓄えはあった。またそれが無くなっても何とかなるのではないか、と思った。
扶養義務が無い事が大きい。 そして、とにかくその会社にはもう勤めたくはなかった。 

その会社はある特殊機械の専業メーカーで、創業以来毎年少しずつ業績を伸ばして、経済誌の利益額1万社にランキングされるようになっていた。入社時、創業者は嬉しそうにそう説明されていた。
「前の会社での事は全て忘れろ。短期間で成績を上げようとなどど思わず、皆と同じことをしてくれ。一生懸命しなくて良い、とにかくマジメにやってくれ」と、指示された。

確かに皆さん、マジメだった。
営業はマジメに開拓し、技術部はマジメに開発し、製造部はマジメに改善していった。 
一つの判断をする前に、2歩も3歩も踏み込んだ思慮が要求された。つまり言い訳は出来ない。 しかし、それはそれで楽しかった。

バブルの恩恵は受けなかったが、崩壊の影響も受けず、空白の10年間はなかった。
ウチの常識は世間の非常識、世間の常識はウチの非常識。 そう言う勢いで負け知らず。
そして、21年前の入社時、既に優良企業であったそのメーカーは、100億近く売り上げて、20億近い純利益を出す、超々優良企業になった。

経営陣は社の独特の技術、その技術の高さが自慢だった。
しかし、その技術力を売ったいただけでは只の営業だ。 個人的には他のメーカーにない独自の営業をやっていた、と思う。
定時は9時、10時、土曜出勤は当たり前、ほとんどがモーレツに働きまくっていた。
その代わり 給与も良かった。40代半ばで年収は1千万を越え、年末に給与明細と共に渡される源泉徴収票を見るのが楽しみだった。

だかそう言う独自の営業方法を経営陣は好まない。 一営業マンの個性的な能力で商品が売れても、それではマニュアル化できないからだ。 経営陣は誰がやっても同じように売れるマニュアルを求めるものだ。

そう言うマニュアル化できない要素も取り入れて、いくつかマニュアルを作ってはみた事もある。 しかし、ほとんど使われなかった様だ。
「そんなン、一々見るヒマ、ありませんワ」、結局マニュアルは個々人の中にあった。
皆さん、個人のマニュアルに従って相変わらず動きまわっていた。

ある時期から、そう言う仕事がしんどくなった。

どんな引き合いでも断るな、と言われていた。 何でもできる機械だ、とも言われていた。
確かにそう言う歴史はあった。あらゆる客先の要求を高い技術力で乗り切ってきた、と経営陣は言っていた。
完全に信じ切っていた訳ではないだろうが、社員はその様に教育され、そう信じて進んだ結果、トラブルを背負って戻ってくる。

ある時期まで技術力が使える余地はあった、と思う。
しかし、余地は無限には広がらなかった。 右肩がいつまでも上がり続けるような余地など、誰が保証したのか。
使い切ったチューブからは、それをいくら絞っても何も出てこないのだ。

しかし、在社している限り、開拓、開発、改善に沿って進まなければならない。それらは大きな塊となって、ヒステリックに高まっていくばかりだった。

そう言う状況の中にいる事もしんどくなった。

また、毎年大手メーカーから受け入れていたキャリアにより、いつの間にか経営陣の雰囲気も変わりつつ感じられた。 非常識で良かった社の常識がいつの間にか変わり、世間の常識に近づいて行くように感じられた。
世間の非常識で良い、そう営業部を指導し、全てにおいて独善的な経営陣の一人に、盲従するのもイヤになった。

今でも時々、勤めていた時の夢を見る。 会議の中で色々議論したり、客と交渉したり、上司に報告したり、そして目が醒め、「あぁ、もうそういうことをしなくてええンや」、と気が付きホッとする。

退職して付き合いも減りつつある。
辞める数年前から名刺には「部長」と書かれていた。部下は一人もいないのに。
そう言う事情を知らない友達の一人はそれを見て、「へえ、部長かスゴイなぁ」と言っていた。 しかし、辞めた後、もう連絡はしてこなくなった。

人間は一人では生きて行けない、らしいが、取りあえず3年、生き延びた。


死んだオフクロが残したものは

2010-12-23 20:24:04 | 神戸布引谷での出来事

「私もボチボチ、要らんモン、捨てていこと思てんねン、いつ死んでもエエように」、亡くなる数年前から、オフクロはよくそう言っていた。 
普段、親には言いたい放題のワタクシですが、さすがにこの時は「そうやナ、手伝うおか」、とは応えなかった。

2年前の天気の良い3月、白馬乗鞍のテッペンから超快適に滑り下りて来て、定宿で酒呑んで爆睡していた夜、オフクロは突然亡くなった。
正月早々ケンカして、悪態ついて、その後一応謝った後だったのが、多少の気休めになった。

そして、沢山のモノが布引谷・山の家に残っていた。

大正生まれのオフクロはゴミの日にモノを出す、そう言う習慣を身につけていなかった。
紙くずは風呂釜や庭で燃やし、野菜くずは庭に埋め、魚の骨はノラネコの餌にしていた。
ビニールやポリの袋で包装された商品が増えて来ると、いつか使える時があるはずと思って、それらの包装材は綺麗にたたんでしまっていた。
しかし、どう言う基準なのか、スパっと捨てている類いもあった。 使う機会の少ない工業製品などはあっさり捨てたりしていた様だ。

オフクロだけではなく、モノはどんどん買って、どんどん捨てていけば良い、と言う文化はその世代にはない。そしてそれは、我々の世代にも多少残っているはずだ。

しかし、布引谷の一人暮らしの親が亡くなると、そんな同世代の子供たちは、数ヶ月も経たない内に業者を呼んで、親の棲家を空にしていった。
南隣りの家も、東斜面上の家もそうして空になった。
彼らは市街地に自らの家を構えており、わざわざ山中の家に戻りたいと思うほどの山好きではなかった。 そもそも山の土地や家にはほとんど価値はない。
親の世代も子の世代も、ここに住むのはホントの山好きか、市街地に家を持てない甲斐性なしだけで、我々の世代はほぼ全員が山を降りて行った。
だから彼らはどんどん捨てていけば良い、という感覚ではなく、とにかく親が亡くなったので、山の家を捨てるためだったのかも知れない。
捨てるモノは自分が大事にしていたモノではないし、初めてみるモノも多かっただろう。 どうせ使えないし。

「私が死んだら、アンタもそうしたらエエわ、20~30万でゴソッと持って行ってくれるらしいでぇ」 とオフクロは言っていた。
しかし、ワタクシはこの家を捨てる気はない。幼稚園から社会人になってもここから歩いて通っていたのだ。
山小屋風に改装し、駐車場をきちんと作って、戻ってこようと考えていた。

そのためにはまず、オフクロが残したモノを片付けるしかない。

亡くなったその年から、まず見覚えのある、つまり40年以上前ワタクシも使っていた鍋や調理道具、食器等を少しずつ捨てて行った。
物置の中のオヤジが残していった道具諸々も捨てていった。 どうせ使わないし。
その年の12月には風呂釜を入れ替え、40年以上前の家具類を順次解体し、それらを燃料にしてフロを焚いた。 どうせ使えないし。
家の周りに散在していた材木類も燃やした。オヤジは多少の室内改装は自分でやっていて、その時の材木がまだ残っていたのだ。

そして今年、3回忌が済んで、オフクロの衣類を捨てていくことにした。
家の3分の2は30年近く前、オヤジが改築したが、どう言う訳か押入れの湿気がひどく、衣類の大半はワタクシが20年以上棲息していた部屋に移されていた。
ワタクシが青春を過ごした部屋は物置になっていた。また2階は布団部屋になっていた。

タンスの他にワタクシの部屋を占領している衣類だけでもブリキの衣装ケース6箱分ある。さあどう処分するか。
神戸市のルールでは燃えるゴミ扱いになっている。
しかし極力、地域の資源集団回収に出して欲しいと言っている。
ウールはフェルトになって車の内装に、綿はウエスに再利用されると、何かのサイトで見た事がある。

ウールの衣類には、どう考えてもフェルトにするには勿体ないモノがあった。
コートやスーツ、ニットでほぼ新品のモノがある。 オフクロの趣味ではない様なモノもある。
どなたかの形見分けで、仕方なくもらったモノかも知れない。 まだ充分着れる、趣味が合えば。
結局、それらはタイのミャンマー難民キャンプの古着支援に使っていただく事にした。100リッター程度の段ボール箱、2箱になった。

次に木綿の衣類、これらは押入れにあったモノもさることながら、ワタクシの部屋にあったモノまで、独特の匂いがした。 家全体に漂っているカビ臭さではない。
段ボール箱を開けるとカメムシの死骸が一緒に出てきたりして、なんか青臭い、虫臭い。
しかし虫の死骸からは何も匂わない。 あっちこっち色々嗅ぎまわって、どうもそれは苔の匂いではないか、と思った。青い湿った苔の匂い。
そう言えばオフクロの日記の何カ所かに、「苔が嫌い」、と書かれていた。

苔の青臭い木綿の衣類(中にはオフクロのモノではなく、ワタクシが残して行った、シャツ、コットンパンツ、ジーパンもあった)は、ウエスにしてもらうしかない。
新品のタオル類は洗濯して使うことにした。大型のゴミ袋2つ分ある。多分タオルは一生購入する必要はないだろう。

ブリキ衣装ケース1箱には和服が詰まっていた。ウールと木綿の行先は決まったが、絹はどうするのか。
実はオヤジが残していった怪しいモノもあって、骨董品屋サンで引き取ってもらおうと色々調べていたら、骨董品屋サンは呉服なら買い取るそうで、早速御影のあるお店へ連絡。
「絹物だけですよ、ウールはダメですよ、呉服はとにかく安くしか買えませんよ」と言われたが、こちらはとにかくタダでも引き取ってくれればありがたい。
結局14枚、羽織3枚、長襦袢4枚、その他帯や紐、風呂敷に丸ごとくるんでそこへ持ち込み、そのまま買い取って頂いた。

叔母は洋装店をやっていて、オフクロはよく手伝っていた。
そして、生地が沢山残っていた。紺のフランネル(メルトン?)やレース、キュプラ、色々出てきた。 かなりの量だった。
どこかで買い取ってもらえないかと、古着屋サン、高価買取屋サン、数軒に訊いてみたが、生地はどこも買い取りません、との事、資源回収に出すしかない。

紙オムツと尿もれパッド。 開封されているモノは燃やしたが、未開封がゴミ袋2つ分。
叔母がデイサービスを受けていた老人ホームの連絡先が台所に貼ってあって、取りあえずそこへ連絡してみた。 「いただいて良いンですか」、快く引取って頂いた。

御影の山手にある老人ホームへ持って行った時、おばあちゃん達、集まって何か楽しそうに喋っておられる。 このおばあちゃん達の集まりに編み物サークルなどないのだろうか。
「あのぅ、毛糸要りません?沢山あるンですが、家族や近所に編みモンする人、いませんねン」 と言うと、「編み物やってル人います、近所のお地蔵さんの帽子とか編んではりますワ」、早速翌日1袋分、持って行った。
この老人ホーム、かなり高級な部類に入ると思うが、その後肌ブトンや毛布も受け入れてくれた。
「多分新品です、かなり古いのでカビ臭いンですが」と言うと、「洗濯して使いますから、ありがとうございます」。

こうして順次処分していって、最後にブリキの衣装ケースが7箱残った。 これ、考えようによっては骨董品ではないか。
しかし、数軒の古道具屋サンに訊いてみたが、タダの金属ゴミでしかないとの事。
解体して畳むと、7箱で約20kg、引き取りは有償。
結局大型ごみシール券を購入し、貼り付けて出すしかなかった。

そして8月中頃には、オフクロが死ぬ直前まで使っていた洋服タンスと整理タンスの少しを残して、ほぼ片付いた。
ワタクシの部屋はガラガラになった。古いタンスの引き出しも空になった。 

しかしその頃、昔と違う周囲の景色や布引谷の水が不気味になりだし、また永住出来る場所かどうかにも迷って、次に進めるはずだった家の改装は止まったままになっている。

死んだ女は、しおれた花と一人の子供を残し、着物一枚残さなかったが、死んだオフクロは、庭に沢山の花と、ミャンマーの難民への2箱の古着と、フェルトとウエスに再利用される22袋もの古着を残した。
燃えるゴミ6袋と燃えないゴミ13袋も残したが、これはオヤジとワタクシが残したものも含まれている。

先日の日曜日、庭に積もった枯葉を燃やした。

Imgp2351 ノラはエサを待っていたが、どこかへ消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


" 女の子ものがたり " -女の子のシアワセとは

2010-12-19 00:55:49 | 一人ブラブラ

先日、"女の子ものがたり" を観た。 神戸映画サークル協議会の12月例会だそうで、その案内は兵庫民報と言う新聞に出ていた。

公園で走りまわっている小学生の女の子、階段で並んで座って話しこんでいる中学生の女の子、バス停ではしゃいでいる高校生の女の子、みんな楽しそう。

しかし、昔からそんな女の子に全く縁のないワタクシ、女の子のことは何も知らない。 この映画はそんな女の子の楽しい何か、を教えてくれると期待して観たが ・ ・ ・ 。

原作者は最近有名な女性漫画家さんで、その作品の多くは映画やドラマになっているらしい。
主演は、今年海外の映画祭で大きな賞をもらった女優サン。 お二人ともよく知りませんが。
主人公の高校時代を演じる女の子とその親友二人、最近流行りのアイドルグループ?、 とてもカワイイ。 しかし、 どなたもお名前、知りません。

内容は、チョットやる気をなくした女性漫画家の、小学生から高校生までの“女の子ものがたり”。

舞台は海に近い川沿いの田舎の村、照葉樹の覆い茂る山も近くにある。
そこへ母親とその再婚相手、3人で引っ越しして来た小学生の主人公。
川のそばの小屋で遊ぶ女の子二人と出会い、一緒に遊ぶようになるが、3人とも家は貧しい。 またそれぞれの家庭は色々ややこしい事情を抱えている。

一人は生まれた時には父親がおらず、家の中がキタナイので中へ入ると靴下が汚れる、と言われ、もう一人は子沢山のアパート暮らし。
二人とも男子にいじめられたりする。 主人公は裕福そうな女の子から親切にされるが、それを振り切って結局この二人と親友になる。

この三人、そんな辛い環境を気にもせず、無邪気で楽しく、面白く、そしてたくましい。
山の中で迷っても焚火たいて、一夜を語り合い、川で遊んで、軽四トラックに乗って帰って来て、銭湯へ乱入する。 もうコワイモンなし。

しかし、この頃から、生まれた時父親がいなかった女の子は、不幸を背負い始めていた。
好きになった男は不良で、度々この娘は殴られる。 いつも顔にアザが出来ている。
この娘は焚火の夜、「私らいずれバラバラになってしまうンやろな」、とかこのまま3人でどこかへ行けたら、とつぶやいたり、最後に主人公と大喧嘩して、「あんたはここから出て行け、二度と帰ってくるな」、と言い放ったり、何故幸せになれないのか、幸せとは何か、とか物語のテーマに対する重要なセリフを吐く。 このシーンは泣けた。

ここから出て行け、とは、ここにいて私の様な不幸の道を歩むな、と主人公の背中を別の世界へ押したのだ、と思う。 そう言えば、主人公は、母親の再婚相手からも、おまえは他の人と違う、違う人生を送れ、とか言われていた。

もう一人の娘も高校生以降はロクな事はない。 兄弟(?)が起こした交通事故の被害者を遺棄した罪で、父親も一緒に逮捕され、幼い兄弟を養うため働き出して、そして結婚するが、夫からは暴力をふるわれ、包帯ネット(?)を被って、頭が痛い痛い、と言っている。 稼ぎが少ないから、と殴られたらしい。この娘も幸せではない。

主人公は故郷へ帰り、「ここから出て行け」と言われた親友の死を知り、その親友が生んだ少女が、昔自分が川の側の小屋に書いた絵の前で遊んでいて、自分と一字違いの名前を付けられている事を知ったりして、この親友たちの事を書く決意をし、映画は終わる。

この 映画のポスターに、「女の子の数だけ、シアワセの道がある」、と書かれていたが、その道を辿って全ての女の子がシアワセになれる訳ではない、とこの映画は語っている様に見えた。

この3人のうち、何とか職を持ち、自立し、それなりに自由に生きているのは主人公だけ。

それにしても他の二人は何故、ロクに働きもせず暴力をふるうオトコを相手を選んでしまうのだろう。 貧しくてもそれなりに優しく真面目な相手ならそれでシアワセなはずなのに。

そして、親は少女達に何をしたのか。何をしなかったのか。

AVに出たり、フーゾクで働いたりしている少女には、両親が離婚して居場所がなくなったり、育児放棄をされた経験のある娘が多い、と何かの雑誌で読んだ記憶がある。 

親は子供を放ったらかしにして、何をしていたんだろう。

高度成長の時代に自分たちもより豊かになりたい、少しでも裕福で不自由ない生活がしたい、子供の事など構っていられない。
そう言うことなのだろうか、全ての親がそうではないにしても。

結局、女の子の楽しい何か、は判らなかった。


疾走の果て、5年振りのスピード違反

2010-12-16 14:16:15 | 車でブラブラ

先日、近所のスーパーの店頭回収へアルミ缶、トレーを捨てに行って、そのままブラっと走ってしまった。 特に目的なし。

旧神明、西明石を迂回して大久保でR2へ出る。そのまま加古川へ。駅の前を通過、県道を北上、加古川堤防沿いに小野へ。 小野市街を通り更に北上。 社からR372。 ここからの道は適度に直線とカーブが混ざり合って楽しい。 今田から吉川、 グリーンピア三木、農業公園前、学園都市を通過し、そのまま真っ直ぐ走れば約2キロで自宅、時間は16時半。

そこでチョット探し物を思い出し、ホームセンター方向へ右折。 前に対向車線を左折したコンパクトカーが走っている、のんびりと。 コイツがどういう訳か更に速度を落として、路側帯を歩道ギリギリまで寄せて、しかし停まる訳ではなく変な走り方、別に煽ってはいないのに。 で、極フツーにパス、運転してたのは極フツーの主婦。 そして極フツーのスピードだったが、そのすぐ先でネズミとして捕まってしまった。

指定速度50キロを18キロ超過。 まぁそんなモンでしょ。 ワタクシ、スピード違反で捕まった時、逆らったり疑ったりしたこと、ありません。 先行車ない場合、70~80キロは多分出ている。 皆さんそうだと思いますけど。 Kサツがネズミ捕りする場所、ほとんどの車はそれ位で走っているはず。 そんな場所を60キロ以下で走っていること自体が不自然です。 大型特殊車両か、ヨボヨボのお年寄り、怖がりの奥さん、免許取りたての女子大生サン達は別にして。

しかし、この程度のスピード違反でラッキーだった。 あのコンパクトカーが前に走っていなかったら、田舎道をサンザン飛ばして来た勢いで30キロオーバー、即免停。

そう言えば昔、岩国の山陽道で45キロオーバー、即免停だった。 その時の赤キップが手元に残っている。 裏には主文 「被告を罰金7万円に処する」 と記載されている。 今から20年前、機械メーカーの営業だった頃、中国、四国エリアの工場他を走り回っていた時だった。 被告、と言うことはワタクシ、前科モン?
自慢ではないが、被告呼ばわりされたこと、もう1回あります。 その2年後、ミニバイクで帰宅中の午前0時10分、酒気帯び運転、即免停。
客先から帰ってきて、毎日遅くまで事務処理。 営業所長と言っても、部下と女性アシスタントが一人ずついるだけ。 その夜も出張から帰って来た部下と遅くまで働いた後、軽ゥ~く呑んで帰ろか、と言うことになって、気が付けばお互い最終電車。 ヘベレケで最終の地下鉄降りてミニバイクで走り出し、広い通りに出た所でパトカー、待ち伏せしてはりました。
その後、ワタクシは猛省。 呑んだ後は必ず、待ち伏せされていた辺りまでバイクは押して行って、 ポリースがいないことを確認後、バイクに跨りエンジンスタート。 ホントに懲りないおバカでしたね。

手元に残している青キップを見ると、その前の違反は平成17年だった。 その年は3回違反して違反者講習を受けさせられた。 3回とも仕事以外での、つまり遊んでいた時の違反。その前は平成13年。 この時は広島の安浦町、仕事での移動中だった。

4年間無違反で、その後遊んでいて3回違反。  今回は5年間無違反後、当然遊んでいた時の違反。 この後何回か続くのだろうか。
そもそも5年間無違反、と言うのが今までのワタクシにはあり得ない事。 今後もまた時々捕まって反則金を払う、これは目的もなく走りまわっている行為への罰なのかも知れない。 反則金は交通安全施設に使われるそうだし、何と言っても誰かを死なせたり、傷つけた訳ではないし、ネズミとして捕まってもアオダイショウに呑まれる訳ではないし。 この程度の罰は甘んじて受ける事にしますか。