蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

国民の大半が、“お上”には逆らわず、先の大戦の反省をしていないと、改めて感じた8月、安曇野では基礎工事開始

2016-08-31 04:07:54 | 朽ちゆく草の想い

長崎の原爆の日の平和祈念式典に於いて、米国のために海外で武力行使出来る集団的自衛権行使を容認し、その為の“戦争法”を制定し、今度は解釈改憲しなくても戦争出来る様、憲法を“改悪”しようとする、総理大臣アベに対し、「改憲反対!!!」と叫んだ男性がいて、周りの参列者は拍手したそうだが、この男性はKサツに連行(?)されたらしい。別に集団で押し掛けてヤジった訳でもないのに。
また東京では、「9条」とか「平和」(?)とかがデザインされたTシャツを着ていると、Kサツから呼び止められることがあるらしい。

40年以上前、このクニにも、例えば社会主義革命を起こそうとしていた過激派がいて、彼らはタオルで顔半分を覆い、ヘルメットを被って、片手にはゲバ棒、片手には火焔ビン、当然Kサツに見つかると逮捕、最低でも呼び止められた。当時ワタクシなども、夕方布引谷・山の家へ向かって、熊内辺りを歩いているだけで、何度か呼び止められた。多分長髪でアヤシイ雰囲気だったからだと思う。

そもそも社会主義を目指すと言うのは、貧富の差、今で言う格差のない社会を目指す、と言うモノで、全くアヤシくは無いのだが、富を持つ支配者にとっては許せない、従って社会主義者を目指すモノは弾圧される。
その後、ソ連が崩壊して、このクニでは社会主義は消えてなくなった雰囲気だが、今でもそれを目指すクニはいくつもあって、アメリカでもサンダースを支持する多くの若者は、社会主義を目指している。
今はゲバ棒を振り回して、火焔ビンを投げなくても、選挙でそれは出来るのだ。民主主義があっての社会主義だから。

いずれにせよ、この長崎の男性や、東京の若者は、社会主義革命を叫んでヘルメットを被っていた訳ではなく、長髪のアヤシイ雰囲気でもなく、ただフツーの人物だったハズ。Kサツのご厄介とは無縁の人達だったハズ。
ただ、戦争はイヤ、9条は守るべき、と言っているだけ。
それがナゼか悪いコトをしているような扱いをされる。エライ時代になったモンだ。

「戦争は?」と訊かれると、ほぼ全員が「イヤ」と応える。 しかし「9条を守る、ワタシゃ反戦派」と言うと、厄介なヤツ扱いされる。ナンデ?

「戦争はイヤやった、夜、灯火管制と言って灯り付けられヘンのがイヤやった」、オフクロはそう言っていたが、ワタクシが、「ベトナム反戦、アンポ反対」と言うと、眉をひそめていた。
徴兵され、戦場へ行っても、ナゼか鬼畜米英とは戦わず、上官にビンタ打ちばかりされ、ニホン軍を憎んでいた近所のオジサンも、そんな若者を咎める雰囲気だった。
戦争はイヤだが、“お上”に逆ろうたらアカン、例え戦争に進もうとしていても、“お上”に逆ろうたらアカン、そんな感じだ。

多くは餓死だったそうだが、徴兵され戦場で死んだのが200万人程、空襲や原爆で死んだのが100万人程、当時も1億近くいた訳だから、先の大戦の犠牲者は全国民のたった3%、という計算になる。
そして、死んだ彼らの親戚、知人が一人当たり10程いたとすると、その死を心から悲しんだのは国民の3割程、と言うコトになる。

オヤジを含め3人の兄弟は徴兵されなかった。グラマンが飛んできて、機銃掃射で近くにいた女工がバタバタバタと倒れて逝ったのを、オヤジは見たそうだが、知人、友人、親族で亡くなった者はいなかったそうだ。
「ウチにはあの戦争で誰も死ななかった」と、親しいトモダチの母親は、ナゼか自慢げに話していた。 

最近、戦争を経験した政治家、代議士センセが徐々に亡くなって、その子供やマゴの世代は戦争の悲惨を知らず、容易にその方向へ行こうとする世襲議員が多い、とかよく言われるが、そもそも身内が爆死、餓死、焼死した国民は3割程、大半は何のエグい体験はしていないワケだ。
そんな国民が先の大戦を反省する訳がない。そして世代が変わっても、“お上”には相変わらず逆らわない。
またこの国が始めた戦争でアジアでは2000万人死んだそうで、それに対する加害者意識なども、このクニの国民には微塵もないらしい。
自分達がエライ目、ヒドイ目、エグい目に遭ったコトより、こっちの方が重要だと思うけど。

7月、永六輔サンが亡くなった後、程なく大橋巨泉サンも亡くなった。
大学生になって、JAZZを聴き始め、色々知りたくて、評論集とか本も読んだ。
最初の頃読んだ本の中に、ビリー・ホリディ自伝「奇妙な果実」と、言うのがあって、訳したのは油井正一サンと大橋巨泉サン。
CMでは「ボイン」、「ウッシッシィ」と言ってふざけ、 TVの深夜番組で、麻雀、ゴルフ、釣り、競馬など、オトナの娯楽を色々紹介、解説していた巨泉サンは、硬派のJAZZ研究者でもあったと思う。
そして永六輔サンと同じ、反戦、反権力の人でもあった。

巨泉サンは、亡くなる直前の雑誌の連載では、参院選での野党への投票を呼び掛け、「アベシンゾウに一泡吹かせて下さい」と、遺言を残したそうだ。
しかし、TVではそのことがほとんど報道されず、それどころかワイドショーで、巨泉サンの弟子と公言する有名司会者は、その遺言を一切黙殺したらしい。
師匠を裏切ったコイツも、結局は“お上”に逆らわないおバカ、逆らえば仕事がなくなる、悲しいおバカ。
TVはそんなおバカばかりらしい。TVはズッと前から見ていないので、別にエエけど。

安曇野では基礎工事が始まった。取りあえず、8月終わりの土日、ご近所さん2軒に、ゴアイサツに行った。

 高速の深夜割引の都合で、いつもの様に3時半出発。しかし2軒へのゴアイサツだけなので、時間は充分ある。中央道は多治見ICで降り、R19をひたすら走り、藪原から奈川方面へ。

 奈川の道の駅(?)の様な所は、バイクツーリング集団で満員。仕方なく、役場で暫し休憩、土曜なのでヒッソリしている。

 その後、乗鞍高原へ。こんな天気でも、ロードバイクを準備して来ているサイクリスト達がウジャウジャいる。

 その後、白骨温泉へ下る。

 30年程前、乗鞍夏スキーの帰り、初めてこの温泉へやって来て、下に見える谷が、山腹を突きぬけている様に流れているのを見て、オドロいた。

 「隧通し」と言うらしい。補修中、ホントに自然のままの様に戻せるのか。

 沢渡駐車場、6年振りになる。その頃は毎年、5月の終わりに槍沢、11月の初めに奥穂に通っていた。

 少し下流に新しい駐車場が出来たらしい。

 沢渡でバスに乗り換えて、上高地、穂高、槍へ行く訳で、以前から大きな駐車場があったが、更にデカイ駐車場、ここらが全て埋まると、上高地はどんな混み具合になるのだろう。

安曇野・穂高有明に着いて、早速ご近所さん1軒目へゴアイサツ。ほぼ同世代の男性に、「神戸から移住します」と、言ったら、仕事で大阪から飛行機で帰ってきたばかり、との事。「ここはイイ所ですが、最近はクマが出だして、散歩の時は鈴を鳴らしながらです」とか。
もう一軒はお留守の様子。

 基礎工事は始まったばかり。

 工事のために、伐採、抜根した幹、枝、根が積み上げられていた。これを裁断し、土に戻すのは、移住後のワタクシの仕事。

 一戸建ての住宅を新築すると言う標識。 

 水道メーターが付いていた。

 南半分はまだ原野のままが残っていてホッとした。

 色々見て廻って、1時間程経ったが、留守のお隣さんはまだ帰って来ない。

まだ14時過ぎ、まだまだ陽は暮れないので、前から気になっていた「あずみのアルプス公園」なる所へ行ってみた。
乳川に沿って緩い、ほぼ真っ直ぐな坂道を登っていくと、広い駐車場があった。

 入園料が要るらしい。何があるのかよく判らなかった。ここでも、「クマ出没」の注意書きがあった。

 更に坂道をつめると、キャンプ場などがあり、その先に餓鬼岳の登山口があった。北アルプスの懐にいる実感、イイ雰囲気だ。

その後、設計事務所へ住民票を届けに行った。長野県産の材木を使うことによる補助金申請に要るらしい。

翌朝、もう一軒のお隣サンを訪ねてゴアイサツ。後は白馬、栂池、糸魚川へ出て、北陸道経由で神戸へ帰るだけ。

前日はBMW主催のオートバイのお祭りが白馬であったとかで、大きなバイクのツーリング集団がウジャウジャいた。

 鐘の鳴る丘ゲレンデに陽が射しだした。

定宿の前庭には、パラソルと水をはったプールが準備されていた。爽やかな山麓の夏の日曜の始まりだ。