蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

赤ちゃんのようなジャガイモとタマネギをカレーで煮て喰らう

2013-06-12 22:06:47 | マンジャーレ、マンジャーレ

梅雨入り、と言われてチョコッと雨が続いて、その後梅雨明けの様な晴天が続く。

そんな梅雨入り後の晴天は以前からもあって、何年か前の数年、6月の第1周か第2週は晴天の中、槍ヶ岳へ登って槍沢を滑ることにしていた。

024 これは’07年6月5日のもの。誕生日の一日前だったが、無事一つ歳をとることを槍のテッペンで確認した。

そう言う「オタンジョウビ」をその数年前から続けていた訳だが、最後は’09年。

071 翌’10年は5月下旬に涸沢から白出のコルへ登った後、急にやる気なくなって、その後も行く気が起こらず、今年もダルい、シンドい、もうエエわ、でひきこもっている。

さて、今日の天気、台風が東へ逸れて、外は梅雨明け(?)、イヤ台風一過の秋のすがすがしさ。
これなら6月第3週だって槍沢は滑れたハズ。タダ、ワタクシの元気がないだけ。

いずれにせよ、明らかに気象は異常です。

ひきこもりの日々、先週もファーマー“昔のトモダチ”サンから、タマネギ、ジャガイモを貰って、早速ポテトサラダなどを作ってそれをアテに呑んでいた。

そして今日はカレーでそれらを煮て喰らう事にした。

カレーは硬く安っすい牛肉を美味く喰らう方法であり、ヤサイを喰う為の「鍋」だと思う。

昔はルゥを使わない方法でやっていたが、最近は市販のルゥを使う。これもスーパーで並んでいる一番安いモノ。
硬く安っすい牛肉を柔かく喰えるまで長く煮るので、ヤスモンのルゥでも安モンの肉からダシが出て美味い。大体、ルゥのパッケージの裏に書かれている成分はどのメーカーのモノも同じだし。

で、とにかくパッケージに描かれた分量に従って煮るが、ナンセこれは鍋なのだ。
まず、分量より少し多めのタマネギと、親ゆび程度のニンニクとショウガをフードプロセッサーでミジンにする。
次に安モンの硬い肉を常温にして塩コショウし、アツアツの鍋で焼き色をつける。
そこにミジンにしたタマネギ他を入れて、グチュグチュ炒めて、テキトーに混ざったら、カレー粉を加え少し炒めて、カレーっぽい香りがしてきたら分量の水を入れ、沸騰したらアクを取り、月桂樹の葉ァを2枚ほど入れ、パッケージに描かれた時間より長めに煮る。煮ていたのを忘れる程、煮る。
煮ていたのを思い出した頃、火を消してルゥを溶かし、また忘れるほどまた煮る。
煮ているのを忘れていても、ガスレンジは1時間で止まる様に制御されているので安全です。

そしていよいよ「鍋」にする。

貰ったジャガイモ、包丁で皮を剥こうとすると、表面の薄いやわ肌がペロンと剥ける。エエッ!ナンデ?生のままヤのに。
そして赤ちゃんと言うかピチピチギャルと言うか、そんなツル肌が現れる。思わず頬ズリしたくなりそうになる。
これは包丁で分断してはいけない。そのまま「鍋」に放り込む。

次に小さいタマネギ。これも極力やわ肌を残して丸々放り込む。

そして忘れるほど煮ると、とても美味い「鍋」の完成。

Imgp5080 ジャガイモは表面の1割程にカレーが浸み、程良く煮られていた。
タマネギも同様にカレーが浸み、独特の甘さがにじみ出ていた。ヤスモンの硬い肉も数時間煮て、箸で千切れるほどに柔かくなっていた。

Imgp5082_2 前に貰ったキャベツとタマネギでコールスローも作った。

この夜のBGMは、ボサノバの美しきミューズ、「ナラ・レオン」、CDの最初の曲は“インセンシティブ”。
これ確か、「こんなに愛してル私の気持ちが判らないおバカさん(インセンシティブ)」とか言う意味だったと思う。

でも今回はワタクシ、赤ちゃんと言うかピチピチギャルの様な、柔いタマネギとジャガイモの気持ちは判りましたけど。
まだ「彼女達」タマネギとジャガイモは残っている。しばらく「鍋」のカレーは楽しめそうだ。


餃子と夜と音楽と

2013-05-31 12:05:13 | マンジャーレ、マンジャーレ

今年の残雪期は歯医者へ通っていたので、山スキーへは行かなかった。次回の予約をした後は、どうしても3000m近い稜線を目指すのにチョット気が引ける。
単独で、ほとんど人のいないウィークディなので、事故で戻れなくなってもキャンセル連絡出来ないからだ。携帯持ってないし。

そして、先週初めに歯医者通いは終わった。
まだまだ2000m以上のエリアには雪が残っている。しかし行けなかった。
出しっ放しにしている装備を車に積めば、すぐ出掛けられるのだが、毎晩酔い潰れ、眼が醒めるのは出発すべき時間。ダルい、シンドい、もうエエわ、アッと言う間に1週間が過ぎ、先日、板と靴は押し入れに仕舞った。

その後は相変わらず、毎晩17時を過ぎれば呑みながらアテを作り、そしてまた呑む。
アテのメインはファーマー“昔のトモダチ”氏から貰ったヤサイ。

最近は餃子の日々。貰ったキャベツをおいしく頂かないといけません。

作り方は市販の皮のパッケージ袋に書いてある通り。材料、調味料、分量全て忠実に従う。
フードプロセッサーを使うと、キャベツは外の硬い皮も芯に近い部分も、アッと言う間にミジンになる。そして、塩はキャベツに混ぜて水を絞りやすいようにする。また砂糖の代わりに甜麺醤を使う。
一番肝心なのは豚ミンチに調味料を入れ、とにかくそれをヒタスラ混ぜる事だと思う。パッケージ袋にも「白っぽくなるまで」と書いてある。
その時ミンチの赤と白がなくなり、調味料と融合しイイ香りがしてくる。
餃子と言うのは、ミンチを美味しく食べさせる一番の方法だな、と感じる時だ。
それにキャベツを混ぜると、1時間ほど散歩に出る。ボォーっと呑んでるだけの時もあるが、要するにしばらく寝かせる必要があるそうだ。

後は皮で包んで焼くだけだが、その時の酔っぱらい具合で焦がしたり、水を入れるタイミングや量を間違ったり、まぁ色んな作品が出来ますが、どんな状態でもそこそこウマい。

Imgp5038 これは上手に焼けた時の作品。

Imgp5054 この日のアテのもう一品は、先々週もらった最後のスナップエンドウを少量のコンソメで煮た。調味料は仕上がりにマーガリンをチョコッと。これだけで充分ウマい。

この日のBGMは、ブラジル出身のピアノを弾きながら歌うオネエチャン:イリアーヌのビル・エバンスの演奏曲を集めたCD。ナント、「Waltz For Debby」を唄っている。リピートにして流していた。

アテが出来て、テーブルへ持ってきて、ウィスキーを丹波の地酒に替えた時、曲は「You And The Night And The Music」になった。

この曲、「夜と音楽が終わってもアナタはアタシの側にいるの?」とか言う内容だそうだが、ワタクシはこの日も、音楽が終わり、夜が始まった頃、またキゼツしてました。


ソラマメさんはフカフカのブランケットに包まれ、おネンネしていた

2013-05-18 19:49:39 | マンジャーレ、マンジャーレ

まずは信州のお豆さんのお話し。

信州・雪山通いでお世話になっている定宿は、普段はお百姓サンで、お米と野菜は当然自家製。ママさんは毎晩これでもかと言う量の美味い料理を出してくれる。お蔭でこの期間、ワタクシ飢え死にする心配はありません。

4月は次の冬までのチョット“長いお別れ”、その後「おひとり様」の自炊生活が再開する。そのワタクシの飢え死にを心配して頂いたワケではないでしょうが、“別れの朝”には食べ物を頂く。

昨年はコンニャク、今年はお豆さんを貰った。

129 夕食にも度々添えられていた甘く煮たお豆さん。冷凍にして一袋、栂池の余韻を一週間程楽しんだ。

148 これは緑豆(?)、土に埋めるとまだ芽が出るそうだ。H24とは昨年収穫したものらしい。

149 一晩水に付けて戻し、「麺つゆで炊いて冷ましたらイイおつまみになるヨ」と言われた。確かにそう言うのも夕食に添えられていたことがあった。

150 しかし、トマトソースで炊いてみた。

ニンニクとタマネギのみじん切りをオリーブオイルで炒め、トマトの水煮を入れて潰し、チョビっとのコンソメと乾燥オレガノ、ローリエ1枚とこのお豆さんを入れ炊いただけ。
これでも充分美味いオカズになった。

次は明石のお豆さんのお話し。

先日、またファーマー“古いトモダチ”さんに野菜を貰った。その中には青いソラマメが一袋。

実はソラマメを自分で調理するのは初めてだった。

そして、サヤから出してオドロいた。ナント、ソラマメはフカフカのブランケットに包まれ、おネンネしていた。

196 サヤの白い内側は正にフカフカの毛布。

そこから出て来た青いツヤツヤのお豆さんは、ケガレなき“お年頃”のオジョウサンのようだった。

ウウッ、うまそう。

197 こう言うのは変に調理してはいけない。オジョウサンの「青い春」を汚してしまう。シンプルに塩茹でし、少し塩を振って頂きました。

「青い春」は心地よい歯ごたえで、とてもウマかった。

しかしこんなケガレなき“お年頃”のオジョウサンを、入歯・還暦エロジジィが頂いてイイんでしょうか。


青い季節の、青いヤサイの、青い夜とリカード・ボサ・ノヴァ

2013-05-07 20:22:56 | マンジャーレ、マンジャーレ

春・夏・秋・冬は、青春・朱夏・白秋・玄冬とも言うそうだ。

カンカン照りのクッソ暑い夏は朱(アカ)い、鉛色の冬の雪空は玄(クロ)い、と言われればそんな気もする。

しかし、秋はナンデ白いの?晩秋の枯れ落ちた灰色の森のイメージなのかしら。

Imgp5019 そして、春は確かに“青い”。ヤサイも根ェから地上の青いのに変った。

そんな青いヤサイを先日、ファーマーである“古いトモダチ”さんに持ってきて頂いた。

キヌサヤ、スナップエンドウ、キャベツ。タマネギも上の方が青い。
これらはより鮮やかに“青く”調理して、美味しく喰らわないといけない。

早速、スナップエンドウは牛肉との炒めモノにします。

牛肉は焼き肉用の厚いモノをスナップエンドウの大きさに合わせてカット。
ショウユと紹興酒とコショウで下味を付け、片栗粉と水をチョコッと入れてグチュグチュと混ぜ、中華ナベにお玉二杯ほどの油を熱し、揚げモノより少し低い温度にしてジュワと入れる。
箸でほぐし、サァ~っと色が変わったら火を止め、お玉ですくい出し、油も鍋からすくい出す。
油の残った中華鍋に再度火を点け、ショウガの薄切りを入れて香りを出したら、スナップエンドウを入れて、ジャッジャッジャッと鍋をあおり、被る程度の水と中華スープの素をジャンと入れて、蓋をする。
フゥ~と一呼吸、二呼吸、三呼吸、四呼吸、五呼吸(?)した後、すくい出した牛肉を鍋に戻し、ガッガッガッと混ぜ、カキ油を入れジャッジャッジャッジャッと鍋をあおり、ジャ~ッと言う音と共に皿に移す。

Imgp5020 おひとり様の量に対し、ショウユ、紹興酒、カキ油は大さじ各1弱、弱。トロミは牛肉に混ぜた片栗粉で付きますので、最後の水溶カタクリは不要デス。 

Imgp5021 キヌサヤは高野豆腐とシイタケの煮物にした。

なんとか鮮やかに“青く”調理出来た、でしょ。

そして、テーブルに移り、イタダキマ~ス。美味いっ!

この日、ディナーのBGMはナゼか最近お気に入りのハンク・モブレィ、CDは「リカード・ボサ・ノヴァ」をやり始めた。
オネエチャンが歌う「ギフト」もいいが、この2ホーン+リズムセクションの「リカード・ボサ・ノヴァ」もイイのです。

呑みながら調理しているので既にもうイイ気分。更にイイ気分になって、このまま死んだってイイ。

外はまだ暮れきれず、夜もまだ“青い”。イヤ、夜はまだ若い。

ふとミステリー“幻の女”の出だしが頭によぎる。

「夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の空気は苦かった」、この時のシュチエーションも、確か5月のはず。

~夜は若いのに、彼はもうジシイに近かった。が、夜の空気は甘く、酔い潰れた彼に心地よい“気絶”が近付いていた~


クリームシチューで大泣きした夜を思い出しながら、クリームシチューを喰らう

2013-03-30 14:59:23 | マンジャーレ、マンジャーレ

数年前、実家・布引谷の近所の男が自分の土地全てを売り飛ばして、南の温い土地に引っ越す、と突然言い出したコトがあった。
ワタクシより5歳上のダンカイ様だがほぼ同世代。余生は生まれ育った南国で過ごしたい、と言う心情は良く判った。

この男は先代サンの後妻に付いてやって来た。既に社会人になっており、麓の学校までハイキングコースを通った仲間ではなかった。そして何年か後、先代サンが亡くなって全てを相続した。

ただやって来てすぐ、近くの山に出来たゴルフ場が原因の大災害(昭和42年の神戸大水害)により、20人以上の住民が犠牲になったため、周辺一帯はその後、市街化調整区域となり、その土地の価値はなくなった。
残りのほぼ全ての住民はこの地を棄て、市街地に居を構えた。幼い頃からのトモダチもいなくなった。
ワタクシは棄てるつもりはなかったが、新しく出来る自分の家族は山で暮らせない事を悟り、垂水に低所得者救済マンションとでも呼べそうな安普請を仮の住いとした。

いずれにせよ、そんな因縁つきの土地、うまく売り飛ばせるのだろうか。
しかし直ぐ、男のヨメハンがやって来て「ワタシ、そんなン聞ィてヘン、大体南の国なんか行くン、ワタシいややわぁ」、と言った。
「そやけど、一人で行きはルかも知れませんよぅ、ナンセ、沖縄とか具体的な話し、してはったもン」
「イヤイヤ、そんなンムリムリ、大体あの人、一人でお湯もよう沸かされヘンの、お茶も一人で入れられへんモン」
男の南国移住計画には、相続した布引谷の土地が売り飛ばせるがどうか、と言う事よりも、ヨメハンがいなくてもお湯を沸かしてお茶を入れられるかどうか、と言う問題があったようだ。

炊事、洗濯、掃除はおろか、お湯も一人で沸かせない愚かなオヤジがいるらしい。
家事はヨメにやらしてルと、配偶者を家政婦の様に言っているオヤジの多くは、エラッそうにしてても一人でお茶も入れられないらしい。
そんなオヤジはいつまで経っても奥さんの掌の上から自由になれない。奥さんも掌の上のオヤジを廃棄して自由になれない。

ワタクシは炊事、洗濯、掃除を厭わず、お茶は一人で入れられるし、ゴハンを作るのも好きなので、自由になった。当然奥さまも自由になられた。
「ただヨメハンに逃げられただけやン」と言うトモダチもいたが、もう10年近く前から自由にやっている。

オフクロが亡くなる前の年の12月、「アンタ、こんなン食べへンか、今晩も一人でゴハン、作ンねんやろ」、とクリームシチュウの箱を差し出した。

実家・布引谷に食料品店が出来た事はない。あるのはハイカー相手の茶店だけ。
住民の食料調達は、熊内か二宮の市場へ行くか三ノ宮のダイエーへ行くしかなかった。車文化が浸透するまでは、調達した食材を提げて歩いて帰って来た。
そして、時々ではあるが、乾物や薬の行商がやって来たり、熊内から生鮮材をトラックに積んで売りに来る人もいた。確か大水害の後だった。
この人は売り口上も上手く、中々の人気モノで、住民のほとんどが利用していた。しかし水害で大半が亡くなり、残っていたのは10軒もなかったから、長続きしたかった。(そう言えばその頃、熊内で刺殺事件があって、この人はその辺もテリトリーだったので、トラックに載せている出刃包丁などを調べられたそうだ、まだ新神戸駅が出来る前の話し)

その後、いつ頃からか全く記憶はないが、コープ神戸の宅配が来るようになっていた。実家にはコープの雑誌とかカタログが積みあげられていた。
毎週やって来るコープのオニイチャンから色々薦められて、オフクロは食材以外にテレビやエアコンなども買っていた。コープのオニイチャンとのそんなやり取りも、それなりに楽しかったのだろうと思う。

オフクロが差し出したクリームシチュウも、コープのオニイチャンに薦められて購入したのだろう。
小麦粉を炒めて牛乳でのばしたソースを使う料理など、そもそもオフクロが作った事など一度もなかったし、大体クリームやチーズ等、乳製品を使うシャレた料理には全く縁のない人だった。そう言うモノの存在すら否定していたハズだ。「ワタシ、料理に牛乳使うようなン、キライや」

コープのオニイチャンに薦められて買ったものの、実はキライ、だからワタクシに押しつけたのだ、と思った。

しかし、茶色いソースの料理なら一から作るのは大変で、ルゥを使ってもイイかなと思う事もあるが、クリームシチュウなら市販のルゥを使わなくても作れる。
「そんなンいらんワイ、そんな市販のン使うンは、ワシにとって“屈辱”ちゅうモンやでぇ」と、ワタクシはシェフを気取って応えた。
オフクロは、「そうかぁ」と寂しそうに言って、それを棚に仕舞った。

その年末にワタクシは早期退職、会社からも自由になり、年明けから信州・雪山通いを始めた。
若干の不安は否めなかったが、直ぐに民宿の人達とも親しくなり、それは楽しい毎日だった。
一日中スキーをして、白馬乗鞍へも登り、宿へ帰るとお風呂が沸いていて、入浴後ママさんが作る盛り沢山のオカズをアテに地酒を呑み、酔い潰れ爆睡。
通うのはウィークディなので、他にお客さんはほとんどいない、貸し切り状態。気楽、極楽、“天国の日々”だった。

そして春になり、雪山遊びに終わりが近づいた3月14日、オフクロは亡くなった。ワタクシの夢枕に立つこともなく、ソッと逝ってしまった。
イヤ、別れを告げに白馬山麓まで来たのかも知れない。酔い潰れ爆睡していたワタクシが気付かなかっただけかも知れない。

064 08年3月13日の白馬乗鞍。

オフクロの日記は3月13日で終わっていた。15日の朝、定期的に巡回して頂いていた消防署員に、トイレの前で倒れているのを発見された。死体検案書の死因は急性心筋梗塞(推定)となっていた。
検視した刑事は、「13日夜から14日朝にかけて、トイレに行こうとして、ググッときて倒れて、眠る様に亡くなったンやと思います、苦しんだ様な痕跡はないし、大往生ですよ」、と慰めてくれた。 

白馬山麓での悦楽の日々は、六甲山麓・布引谷での哀哭の日々となった。シアワセは長続きしないものなのだ。

7週間は線香をあげ続けないといけない。28年振りに、布引谷の実家で寝泊まりする事になった。

「春は名のみ」のまだ寒い3月、庭にはサザンカ、スイセン、スミレが咲いていた。
山麓と言っても尾根に遮られ、百万ドルの夜景は見えない。夜は真っ暗。両隣の家とは数10m以上離れている。外灯は僅かに灯っているだけ。
漆黒の闇の中、聞こえるのは布引谷の堰堤を落ちる水の音だけ。
遺骨の前にオフクロが使っていたフトンを敷いて、毎日寝た。自由とはこういう事でもある。

実家にはオフクロが残した食材がそこそこあり、食べるには不自由しなかった。

そして、棚の奥にクリームシチュウの箱を見つけた。半分残っていた。キライとは言いながら、あの後仕方なく調理したのか。

その夜、“屈辱”ちゅうモンやと、言い棄てた市販のルゥでクリームシチュウを作った。中々美味かった。

ふとクリームシチュウのCMを思い出した。
寒~い冬の夜。灯りの洩れる一軒家。暖かいダイニングでは一家揃っての夕食。テーブルの上には温かいクリームシチュウ。美味しそうにそれを頬張る子供達、優しく彼らを見守るオカアサン。
団欒とは“暖”ランなのだ。

オフクロ達三姉妹は私生児だった。母親は呑み屋などもやっていたらしい。
子供の頃、夕食を一家揃って摂る機会などほとんどなかったのかも知れない。一家揃ったとしてもオヤジはいない。
オフクロが一家“暖”ランを過ごせたのは、ここへ移り住んでワタクシが街へ出るまでの20年程。その数年後にオヤジが亡くなり、その後亡くなるまでの24年間は一人暮らし。

そして、数か月前も、一人でクリームシチュウを食べたのだろう。一家“暖”ランのCMを眺めながらだったのかも知れない。

その時、急に大泣きした。55歳のオヤジが山の一軒家でクリームシチュウを喰らいながら、ワンワン泣いた。
あの時、「そんなンいらんワイ」などと言わず、むしろその日は泊って、一緒に“暖”ランを過ごしてやればよかった。ホントにひどいムスコだ。
5年前、まだまだ寒い3月の夜だった。

今週、栂池の定宿は貸し切り満員で泊れない。
久しぶりの週を通しての自炊。クリームシチュウを作ってみた。
当然、“屈辱”となる市販のルゥは使わない。使わなくても簡単に美味く出来る。

トリモモに塩、コショウし、熱した鍋で焼き色を付け、タマネギ、メイクィーン、ニンジンを入れて、それらが油でコーティングされたら、少し多めに小麦粉を入れよく馴染ませ、水を入れ、沸騰したらアクを取って、コンソメとローリエを入れ15分程炊く。ブロッコリーの芯も入れ更に炊いて、最後にブロッコリーとクリームを入れ、塩、コショウを加え、5分程炊くとオワリ。

Imgp4779 全ての材料は大きめだが、メイクィーン、ニンジンはチャンと面取りしてます。

Imgp4780 そして、クリームが残った鍋に茹でたスパを入れ、ガガカっと混ぜ、クリームパスタにして喰い尽す。

これはナベのシメのやり方と同じ。根菜も緑黄色野菜も沢山摂れてウマイ。

5年前の夜を思い出したが、もう大泣きしなかった。5年も経つとハラが立つ事なども思い出して、今年は命日も忘れていた。ひどいムスコです。