数年前、実家・布引谷の近所の男が自分の土地全てを売り飛ばして、南の温い土地に引っ越す、と突然言い出したコトがあった。
ワタクシより5歳上のダンカイ様だがほぼ同世代。余生は生まれ育った南国で過ごしたい、と言う心情は良く判った。
この男は先代サンの後妻に付いてやって来た。既に社会人になっており、麓の学校までハイキングコースを通った仲間ではなかった。そして何年か後、先代サンが亡くなって全てを相続した。
ただやって来てすぐ、近くの山に出来たゴルフ場が原因の大災害(昭和42年の神戸大水害)により、20人以上の住民が犠牲になったため、周辺一帯はその後、市街化調整区域となり、その土地の価値はなくなった。
残りのほぼ全ての住民はこの地を棄て、市街地に居を構えた。幼い頃からのトモダチもいなくなった。
ワタクシは棄てるつもりはなかったが、新しく出来る自分の家族は山で暮らせない事を悟り、垂水に低所得者救済マンションとでも呼べそうな安普請を仮の住いとした。
いずれにせよ、そんな因縁つきの土地、うまく売り飛ばせるのだろうか。
しかし直ぐ、男のヨメハンがやって来て「ワタシ、そんなン聞ィてヘン、大体南の国なんか行くン、ワタシいややわぁ」、と言った。
「そやけど、一人で行きはルかも知れませんよぅ、ナンセ、沖縄とか具体的な話し、してはったもン」
「イヤイヤ、そんなンムリムリ、大体あの人、一人でお湯もよう沸かされヘンの、お茶も一人で入れられへんモン」
男の南国移住計画には、相続した布引谷の土地が売り飛ばせるがどうか、と言う事よりも、ヨメハンがいなくてもお湯を沸かしてお茶を入れられるかどうか、と言う問題があったようだ。
炊事、洗濯、掃除はおろか、お湯も一人で沸かせない愚かなオヤジがいるらしい。
家事はヨメにやらしてルと、配偶者を家政婦の様に言っているオヤジの多くは、エラッそうにしてても一人でお茶も入れられないらしい。
そんなオヤジはいつまで経っても奥さんの掌の上から自由になれない。奥さんも掌の上のオヤジを廃棄して自由になれない。
ワタクシは炊事、洗濯、掃除を厭わず、お茶は一人で入れられるし、ゴハンを作るのも好きなので、自由になった。当然奥さまも自由になられた。
「ただヨメハンに逃げられただけやン」と言うトモダチもいたが、もう10年近く前から自由にやっている。
オフクロが亡くなる前の年の12月、「アンタ、こんなン食べへンか、今晩も一人でゴハン、作ンねんやろ」、とクリームシチュウの箱を差し出した。
実家・布引谷に食料品店が出来た事はない。あるのはハイカー相手の茶店だけ。
住民の食料調達は、熊内か二宮の市場へ行くか三ノ宮のダイエーへ行くしかなかった。車文化が浸透するまでは、調達した食材を提げて歩いて帰って来た。
そして、時々ではあるが、乾物や薬の行商がやって来たり、熊内から生鮮材をトラックに積んで売りに来る人もいた。確か大水害の後だった。
この人は売り口上も上手く、中々の人気モノで、住民のほとんどが利用していた。しかし水害で大半が亡くなり、残っていたのは10軒もなかったから、長続きしたかった。(そう言えばその頃、熊内で刺殺事件があって、この人はその辺もテリトリーだったので、トラックに載せている出刃包丁などを調べられたそうだ、まだ新神戸駅が出来る前の話し)
その後、いつ頃からか全く記憶はないが、コープ神戸の宅配が来るようになっていた。実家にはコープの雑誌とかカタログが積みあげられていた。
毎週やって来るコープのオニイチャンから色々薦められて、オフクロは食材以外にテレビやエアコンなども買っていた。コープのオニイチャンとのそんなやり取りも、それなりに楽しかったのだろうと思う。
オフクロが差し出したクリームシチュウも、コープのオニイチャンに薦められて購入したのだろう。
小麦粉を炒めて牛乳でのばしたソースを使う料理など、そもそもオフクロが作った事など一度もなかったし、大体クリームやチーズ等、乳製品を使うシャレた料理には全く縁のない人だった。そう言うモノの存在すら否定していたハズだ。「ワタシ、料理に牛乳使うようなン、キライや」
コープのオニイチャンに薦められて買ったものの、実はキライ、だからワタクシに押しつけたのだ、と思った。
しかし、茶色いソースの料理なら一から作るのは大変で、ルゥを使ってもイイかなと思う事もあるが、クリームシチュウなら市販のルゥを使わなくても作れる。
「そんなンいらんワイ、そんな市販のン使うンは、ワシにとって“屈辱”ちゅうモンやでぇ」と、ワタクシはシェフを気取って応えた。
オフクロは、「そうかぁ」と寂しそうに言って、それを棚に仕舞った。
その年末にワタクシは早期退職、会社からも自由になり、年明けから信州・雪山通いを始めた。
若干の不安は否めなかったが、直ぐに民宿の人達とも親しくなり、それは楽しい毎日だった。
一日中スキーをして、白馬乗鞍へも登り、宿へ帰るとお風呂が沸いていて、入浴後ママさんが作る盛り沢山のオカズをアテに地酒を呑み、酔い潰れ爆睡。
通うのはウィークディなので、他にお客さんはほとんどいない、貸し切り状態。気楽、極楽、“天国の日々”だった。
そして春になり、雪山遊びに終わりが近づいた3月14日、オフクロは亡くなった。ワタクシの夢枕に立つこともなく、ソッと逝ってしまった。
イヤ、別れを告げに白馬山麓まで来たのかも知れない。酔い潰れ爆睡していたワタクシが気付かなかっただけかも知れない。
08年3月13日の白馬乗鞍。
オフクロの日記は3月13日で終わっていた。15日の朝、定期的に巡回して頂いていた消防署員に、トイレの前で倒れているのを発見された。死体検案書の死因は急性心筋梗塞(推定)となっていた。
検視した刑事は、「13日夜から14日朝にかけて、トイレに行こうとして、ググッときて倒れて、眠る様に亡くなったンやと思います、苦しんだ様な痕跡はないし、大往生ですよ」、と慰めてくれた。
白馬山麓での悦楽の日々は、六甲山麓・布引谷での哀哭の日々となった。シアワセは長続きしないものなのだ。
7週間は線香をあげ続けないといけない。28年振りに、布引谷の実家で寝泊まりする事になった。
「春は名のみ」のまだ寒い3月、庭にはサザンカ、スイセン、スミレが咲いていた。
山麓と言っても尾根に遮られ、百万ドルの夜景は見えない。夜は真っ暗。両隣の家とは数10m以上離れている。外灯は僅かに灯っているだけ。
漆黒の闇の中、聞こえるのは布引谷の堰堤を落ちる水の音だけ。
遺骨の前にオフクロが使っていたフトンを敷いて、毎日寝た。自由とはこういう事でもある。
実家にはオフクロが残した食材がそこそこあり、食べるには不自由しなかった。
そして、棚の奥にクリームシチュウの箱を見つけた。半分残っていた。キライとは言いながら、あの後仕方なく調理したのか。
その夜、“屈辱”ちゅうモンやと、言い棄てた市販のルゥでクリームシチュウを作った。中々美味かった。
ふとクリームシチュウのCMを思い出した。
寒~い冬の夜。灯りの洩れる一軒家。暖かいダイニングでは一家揃っての夕食。テーブルの上には温かいクリームシチュウ。美味しそうにそれを頬張る子供達、優しく彼らを見守るオカアサン。
団欒とは“暖”ランなのだ。
オフクロ達三姉妹は私生児だった。母親は呑み屋などもやっていたらしい。
子供の頃、夕食を一家揃って摂る機会などほとんどなかったのかも知れない。一家揃ったとしてもオヤジはいない。
オフクロが一家“暖”ランを過ごせたのは、ここへ移り住んでワタクシが街へ出るまでの20年程。その数年後にオヤジが亡くなり、その後亡くなるまでの24年間は一人暮らし。
そして、数か月前も、一人でクリームシチュウを食べたのだろう。一家“暖”ランのCMを眺めながらだったのかも知れない。
その時、急に大泣きした。55歳のオヤジが山の一軒家でクリームシチュウを喰らいながら、ワンワン泣いた。
あの時、「そんなンいらんワイ」などと言わず、むしろその日は泊って、一緒に“暖”ランを過ごしてやればよかった。ホントにひどいムスコだ。
5年前、まだまだ寒い3月の夜だった。
今週、栂池の定宿は貸し切り満員で泊れない。
久しぶりの週を通しての自炊。クリームシチュウを作ってみた。
当然、“屈辱”となる市販のルゥは使わない。使わなくても簡単に美味く出来る。
トリモモに塩、コショウし、熱した鍋で焼き色を付け、タマネギ、メイクィーン、ニンジンを入れて、それらが油でコーティングされたら、少し多めに小麦粉を入れよく馴染ませ、水を入れ、沸騰したらアクを取って、コンソメとローリエを入れ15分程炊く。ブロッコリーの芯も入れ更に炊いて、最後にブロッコリーとクリームを入れ、塩、コショウを加え、5分程炊くとオワリ。
全ての材料は大きめだが、メイクィーン、ニンジンはチャンと面取りしてます。
そして、クリームが残った鍋に茹でたスパを入れ、ガガカっと混ぜ、クリームパスタにして喰い尽す。
これはナベのシメのやり方と同じ。根菜も緑黄色野菜も沢山摂れてウマイ。
5年前の夜を思い出したが、もう大泣きしなかった。5年も経つとハラが立つ事なども思い出して、今年は命日も忘れていた。ひどいムスコです。