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原爆・・・・

2010年08月08日 19時24分39秒 | 戦い
油の浮いた水ひたすら飲んだ 「平和の泉」手記少女の弟・山口さん



平和の泉を訪れ「あの時はただ『飲みたい』という気持ちが強かった」と話す健行さん=長崎市、平和公園
 「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」-

 長崎市の平和公園内にある平和の泉には、当時9歳で被爆した橋口(旧姓・山口)幸子さん(74)の手記が刻まれている。一緒に被爆した弟で、当時5歳だった山口健行さん(70)も65年前、油の浮いた川で幸子さんと一緒に水を飲んだという。「あの時はただ『飲みたい』という気持ちが強かった」。そう振り返る。

 平和の泉は1969年、水を求めて死んでいった原爆犠牲者を慰霊しようと、核兵器禁止世界平和建設国民会議(核禁会議)などが浄財を集めて造った。そして、永井隆博士らが出版した「原子雲の下に生きて」に収録されていた幸子さんの手記が碑に刻まれた。

 健行さんによると、原爆投下前の7月、母が妹を出産。一家は両親と幸子さん、健行さん、妹2人の6人になった。戦争が激しくなったため、浦上天主堂の近くから同市本原町3丁目(当時)に疎開。爆心地から2キロの小屋で被爆した。

 三菱兵器大橋工場にいた父が行方不明になり、一家は山にあった防空壕(ごう)に避難した。着くまで歩き通し、のどはからから。健行さんは幸子さんに連れられ、防空壕から約200メートル下った川に水を飲みに向かった。

 周囲には倒壊した家々があった。川面には油が浮き、飲むのを一瞬躊躇(ちゅうちょ)した。でも「どうしようもないくらいのどが渇いていて水が欲しかった」。

 幸子さんと無言でひたすら飲んだ。「今考えるととんでもないが、飲まずにはいられなかった」と振り返る。

 その後、けがをした父と再会。しかし、原爆は家族の命を次々に奪った。一番下の妹は25歳で白血病を、父は63歳でがんを患い、亡くなった。幸子さんも入退院を繰り返し、現在も闘病中という。

 健行さんは今、市立山里小の原爆資料室の案内人など、子どもたちとかかわる活動に携わっている。根底にあるのは「自分と同じ経験をさせたくない」という思い。「あの惨状を手記という形で伝えた姉を尊敬している。私も姉に代わって子どもたちに直接訴えたい」

 平和の泉の水は、9日の平和祈念式典で献水に使われる。7日、健行さんは久しぶりに平和の泉を訪れた。「(犠牲となった被爆者には)当時の油の浮いた水ではなく、この泉のきれいな水で安らいでもらいたい」。幸子さんの手記が刻まれた碑を見詰め、深々と頭を下げた。


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