フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月12日(土) 晴れ

2022-02-13 13:23:48 | Weblog

6時半、起床。

トースト、サラダ、紅茶の朝食。いつもより簡易バージョンなのは、食欲がないからでなく、時間がないからである。

朝刊の一面は平野歩夢の「金」。

7時半に家を出て、大学へ。1限の授業を担当していない私は朝の電車に乗ることはめったにないが、今日は土曜日なので電車は空いている。

この後のことはよく覚えていない。

代わりに、昨日届いた一冊の本のことを書こう。庄司薫編『家族としての犬と猫』(新潮社、1987)。35年前に出た本である。庄司薫の本は全部もっていると思い込んでいたのだが、この一冊だけ見落としていた。最近それに気づいてネットで中古本を探して取り寄せたのである。愛猫家であり愛犬家でもあった彼が犬や猫をテーマにした古今東西の作家の文章で編んだ本である。

 古今東西に及ぶ犬と猫に関わる文章を漁ってみた結果、思い白い事実に気がついた。犬と猫は人間の極めて古い友とされているけれど、われわれが犬と猫について自由にあれこれ語るようになったのは実はごく最近のことなのだ。ぶっきらぼうに断言すれば、産業革命に始まる社会の加速度的変化に比例して、われわれは犬と猫について多様に語るようになった。
 この過程は、言い換えれば犬と猫がその実用的価値を失っていった過程ともいえる。食料生産の機械化、組織化が狩猟犬や牧羊犬を追い払い、エジソンの発明以来の街燈や防犯ベルを供えた都市の発達が番犬の役をとり上げた。鼠を撮る能力一筋で人類の尊敬をかち得ていた猫に至っては、たちまちその鼠の撮り方自体を忘れ去る有様となった。そして彼らは、失職した労働者と同様とりあえず家庭に入りこんで寄食をする道を採用したのだが、これが結果的に大成功となった。
 その実用的価値を失うことで、彼らはかえって純粋な「家族」として重大な存在価値を持つようになったのだ。

 「ペットの社会史」というべき内容の文章である。話はここからさらに「ペットの家族社会学」というべき内容に進んでいく。

 結論を先に言うと、「夫婦」そして「親子」という家族の基本的構成要素の持つ心理的な隙間みたいなところに、われれの犬と猫は実に具合よく収まりこんで繁栄している、ということに改めて驚かされるのだ。

 ここからの先の文章は引用すると長くなるので、かいつまんで説明すると、ペットの特徴の1つは「交換可能性」の高さということになる。「夫婦」や「親子」という関係は相手を交換しにくい。しかし、ペットの場合は人間と比べて短命であるため「自然と」新たにペットを飼うということができる。ペットの特徴のもう1つは彼らが「いつまでも子供のままでいてくれる子供」であるということだ。人間の子供は成長するにつれ親の元を離れていく。ペットにはそれがない。こうした点を踏まえて彼はこう結論付ける。

 いわゆる核家族化の進行する現代においては、夫婦と親子を軸とする家族の間のニュアンスは量的に言っても単純化される方向にある。このような状況の中で、「家族としての犬と猫」の占める割合は今後とも多様にそして大きくなっていくことだろう。

 論文のようなクールな文章であるが、実は、この文章には「オチ」がある。

 この文章を書いて三年後、ぼくの買っていた巨大なシャム猫タンクが死んだ。享年十八歳一か月、人間でいうと百歳を越えたところだった。おそらくは周章狼狽のため、ぼくはたちまちにして彼についての一冊の本を書き上げたが、公表しなかった。ぼくの最初の「私小説」にしてもあまりにも私的と思われたから・・。そしておそらくは同じ根を持つ理由から、それから更に三年たった今でも、ぼくはまだ新しい猫を飼っていない。「とりかえのきく家族」などと書いておきながら、現実には「かけがえのない家族」風な辻褄の合わない話になって恐縮していることを、ここにつけ加えさせていただく。

ちなみに本書は「エッセイ おとなの時間」シリーズの一冊なんだが、なかなか面白そうなラインナップである。現在84歳の庄司薫以外は編者は全員鬼籍に入ってしまった。

大学を出たのは夕方。大隈講堂の上に月が浮かんでいた。

地下鉄の駅に向かう途中にあるケーキ屋「D-style TOKYO」で一服していくことにする。

イートインできるのだが、先客はいなかった。

チョコレートタルトと紅茶(ダージリン)を注文。

フォークは使わず、手に持ってかじる。

スマホの電源を入れたら(それまで切ってあったのだ)、卒業生のサオリさん(論系ゼミ1期生)からLINEが届いていて、2月1日に2人目のお子さんが無事生まれたと連絡が入っていた。長男で名前は絢斗(アヤト)君。写真からは将来スノーボードが上手な少年になりそうが気がした。

蒲田に戻ってくる。

ケンタッキーでフライドチキンを2つ買って帰る。

王将戦第4局は挑戦者の藤井聡太が勝った。4連勝でタイトルを奪取した。図は勝負所の局面。先手渡辺の2一歩成に後手藤井が3一の角を5三にかわしたところ。この局面は渡辺がやや優勢だったらしい。しかし、次の一手が失着で、形成が逆転することになった。渡辺は7七の銀を8八に引いたのである。

これに対して藤井が指した4四銀が攻防の好手だった(次に4五桂の攻めと、先手の2二とに対して4三金と逃げる手を用意している)。4四銀は渡辺の読みになかった手のようで、渡辺の手が止まった。では、先ほどの図で渡辺はどう指せばよかったのか。正着は7六銀と歩をとることだった。当然、同飛と取り返されて銀と歩の交換になってしまうが、後手の攻めの拠点である7六歩を外す効果が大きいのだ。AIによる評価値は8八銀は「‐300」、7六銀は「+200」となっている。ここから終局まではまだ手数がかかったが、藤井はしっかりと寄せ切った。かくして史上最年少の五冠の誕生となった。

夕食はオムライス、フライドチキン、サラダ、スープ。

食事をしながらカーリング女子日本対デンマーク戦のハイライトを観る。カーリングは石のぶつかり合う様子はビリーヤードのようだが、相手の手を考えながら自分たちの手を考えるという点では将棋に通じるものがある。妻が熱心なファンなので、私も付き合って観ているうちに、だんだん手が読めるようになってきた。

勝負は日本チームの最後の一投で決まった。

2点リードされていたのだが、最後の一投で3点を奪い、8-7での逆転サヨナラ勝ちとなった。偶然的な要素は少なく計算通りの(しかし難易度の高い)一投だった。お見事。

今夜はこれから日本チームはロシアを相手にもう一試合ある。妻は観るようだが、私はもう疲れた。

風呂から出て、昨日のブログの補足を書く(『カムカムエブリバディ』の感想)。

1時半、就寝。

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