フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月6日(火) 晴れ

2024-08-07 14:11:00 | Weblog

8時半、起床。

チーズトースト、目玉焼き、ソーセージ、サラダ、牛乳、珈琲の朝食。昨日は体重コントロールを考えて目玉焼きを抜いたが、やっぱり「目玉」を欠いては朝食らしくない

家裁の廊下で寅子と美佐江が対峙する場面に娘の優未がやってくる。思わず優未を美佐江から守るかのような仕草をしてしまう寅子。その母子の姿をちょっと驚いたかのように見つめる美佐江。怖いシーンだった。

「金」よりも「株」が前面に出ている朝刊一面。私自身は投資とかはやっていないので、冷静に記事を読んでいられるが、しかし、投資をやっているにしろいないにしろ、株価の暴落は社会を不安定なものにするから、他人事ではない。

桂米丸さんの訃報が載っていた。「落語会最長老」の99歳。6年前に81歳で亡くなった桂歌丸は弟弟子であり、門下生でもあったが、米丸の方が若く見えた。「電車風景」や「食堂風景」といった新作落語は日常生活の観察から生まれたもので、社会学者のゴフマンや漫画家の東海林さだおに通じるものがあった。ご冥福をお祈りします。

10時から正岡先生を偲ぶ会の打ち合わせ(オンライン)。

昨日のブログを書いてアップする。

机周りを整理し、原稿執筆モードに入る。

2時半頃、昼食を食べに出る。玄関先の薔薇の蕾に半透明の翅のシジミチョウが止まっていた

「プリミエールカフェ」に行く。

生パスタのポロネーゼ(ランチセットなのでサラダとパンと珈琲付き)。

珈琲は食後に。

キンドル・スクライブをテーブルの上に置いて『村上春樹 雑文集』を読む。作家論のセクションから、グレイス・ベイリー、レイモンド・カーヴァー、スコット・フィッツジェラルド、カズオ・イシグロについて書かれた文章を読む。とくにカーヴァーについては全作品を翻訳するという熱の入れようである。正直、私にはなぜ彼がカーヴァーの作品にそれほど入れこんでいるのかがわからない。しかし、村上春樹がレイモンド・カーヴァーについて語るときの語り口にはとても惹かれるものがある。

「考えてみれば、僕は小説を書くための師も持たなかったし、仲間も持たなかった。二十九歳のときにふと小説を書き始め、それ以来ずっと一人で小説を書き続けてきた。天涯孤独とまでは言わないが、かなり孤立した場所で、小説家としの仕事をしてきた。もちろん個人的に敬愛し、親密さを感じる作家は何人かいたけれど、彼らはみな物故した作家であり、遥か格上の作家であり、文章を通して高く仰ぎ見るだけの存在だった。しかしレイモンド・カーヴァーは僕より十歳年上なだけで、実際の顔を合わせて会って話をし、進行を結ぶこともできた。雑誌に発表されるそばから(誇張的表現を使わせていただくなら、インクもまだ乾かなぬうちに)その作品を読み、自分の手でそれを日本語に翻訳することもできた。それは僕にとってはすごく貴重な体験だった。「師」とか「仲間」とかいう表現はどうもぴんと来ないけれど、僕にとってレイモンド・カーヴァーはいわば「時代を同行する人」だった。(中略)僕はカーヴァーという「同行する」作家を得たことで、ずいぶん励まされもしたし、温もりを個人的に受け取りもした。それは僕にとってすごく貴重なことだったと思う。」(「ただ一度の出会いが残してくれたもの」より)

この一節から、私は村上春樹の「孤独」がどれほど深いものであったかを知るのである。

昼寝をする。

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969=2012)を久しぶりで読み返す。エンタメとしてではなく、原稿を書くための資料としてである。新潮文庫版で読んだのだが、「解説」を苅部直(政治学者で日本政治思想史が専門)が書いていた。苅部は1965年の生まれで、庄司薫(1937年生)よりもずっと若い世代だが、庄司と同じく東京大学の教養学部文科Ⅲ類から法学部に進学していて、大いなる共感をもって本書を読んでいるのだが、庄司薫のいわゆる「饒舌体」とされるやわらかな文章が、後の世代の男性文筆家たち、たとえば村上春樹の(小説ではなく)エッセーの文体にも影響を与えていることを指摘し、「もしこの小説が登場しなければ、文学の世界は(いま以上に?)窮屈で地味な言葉で塗りこめられていたのではないか」と述べている下りはその通りだと思った。

広島の原爆忌も79回目。記事の見出しもすっかり定型化しているが、「核廃絶を世界に訴える」ということも形式化してはいないだろうか。

夕食は鰺、アスパラのベーコン巻、茄子の味噌汁、ごはん。

チャイは魚にはそれほど燃えない。

食事をしながら『ブラックペアン』第5話(録画)を観る。オリンピックの放送は観ていてときに息苦しくなる。そういうときは胸がスッとするドラマがよい。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』読了。最後の3つの章、8章、9章、10章が私にとって、私の原稿にとってというべきか、とても興味深かった。この小説が発表され、芥川賞を受賞したとき、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎隆訳)との類似がさかんにとりざたされたようだが、「饒舌体」という点ではそうかもしれないが、扱われているテーマは全然別である。テーマとしてはむしろオルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(1930)の系譜に連なる大衆社会論であり(それと表裏一体の)エリート文化論である。

風呂から出て、日記を付ける。

2時半、就寝。