フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月6日(火) 晴れ

2018-03-08 22:31:01 | Weblog

8時、起床。

トースト(レーズンパン)、ハム&エッグ、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。 

昼食は「phono kafe」に食べに行く。ところが閉まっている。臨時休業だろうか。 

あっ、そうか。今日は火曜日(定休日)だ。月曜日だと錯覚していた。授業がなくなると、曜日の感覚が希薄になる。

気を取り直して「吉岡家」へ。 

いつもの野菜天もりを注文してから、卓上にあるメニューを眺めると、つまみ系のものが並んでいる。「これ、昼でも注文できるのですか?」と聞いてみると、「できますよ」とのこと(「五郎八」では夜のメニューだった)。「初カツオのたたき」を追加で注文する。 

 初カツオのたたきが最初に運ばれてきた。

この時期の初鰹ということは九州方面で獲れたものだろうか。 今年最初に食す初鰹だ。

野菜天もり。 

「吉岡家」のご主人は私の保育園時代の同級生だが、今日は厨房にいるのは息子さんで、店の方にでいるのはそのお嫁さんだろう。若夫婦にバトンタッチしたのだろうか。自営業に定年はないが、息子さん夫婦が継いでくれるのであれば、バトンタッチしてもいい時機かもしれない。後継者がおらず自分の代で終わりというお店がたくさんある中で嬉しい話ではないだろうか。 

食後のコーヒーは「あるす」で。 

 いつものモカを注文したら、モカは切らしているという。「あるものでかまいません」と私がいうと、いくつか缶を開けて、「フレンチローストでよろしいですか」とおっしゃる。珈琲の焙煎の仕方には8段階あり、フレンチローストは上から二限目の深煎りだ。豆はなんであるか確認しなかったが、「はい、それでお願いします」と答える。 

奥様の淹れるコーヒーは私には薄めのことが多いのだが、今回はいい感じだった。 しばらくはフレンチローストでいこう。

「どうぞ。お口に合いますかしら」とサラダ煎餅を勧められる。奥様がこれがお気に入りのようである。 

私が煎餅を食べてしまうと、追加の煎餅が補充され、おまけにのど飴が添えられた。  

店を出るとき、庭で獲れた夏みかんを3つ持たせてくれた。 

「あるす」の並びの花屋で神棚用の榊を買って帰る。

 帰宅すると屋根に上っていたナツが一目散に降りてきて、私と一緒に玄関から中に入り、私より先に二階に駆け上がった。

夕食はメロの西京焼き、大豆とひじきの煮物、サラダ、味噌汁、ご飯。 

 ホックリと焼きあがった美味しい西京焼きである。

 2時、就寝。


3月5日(月) 雨

2018-03-08 01:17:57 | Weblog

7時半、起床。

昨日の晴天から一転して今朝は曇天である。

それでも最初のうちは山々の姿が見えていたが、しだいに見えなくなり、雨が降ってきた。

ホテルの朝食兼(1階の「ガスト」で食べる)は使わず、コンビニに朝食を買いに行く。雨が降ってはいるが気温は昨日同様高いままである。春の雨。菜種梅雨という感じなり。

おにぎり1個(しゃけ)、サラダ、味噌汁、レモンティーの朝食。ホテルの朝食(ビュッフェ形式)だとついつい食べ過ぎてしまうので、このくらいがちょうどいい。朝食券は1200円相当の食券として夕方に使うつもり。

チェックアウトの時間まで昨日撮った写真の整理(ブログで使う写真をチョイスして画像フォルダに読み込む)。

12時にチェックアウト(通常は11時だが、会員は12時までOK)。荷物はフロントに夕方まで預かってもらう。自分の傘は折り畳み傘なので、ホテルのしっかりした傘を借りる(無料)。

このころ雨脚はまだそれほど強くなかった。

「高見書店」で『ドマーニ』の今月号を探す。卒業生がインタビューされた記事が載ったそうなので読んでみようと思ったのだが、『ドマーニ』は扱っていなかった。東京に帰ってからだ。 

個人経営の本屋(古本屋も)に入って何も買わずに出てくるというのが私にはできない。それはたとえば食堂に入ってぐるっと一周して出てくるようなものだ。挨拶代わりに雑誌を一冊買う。『ブルータス』3月号(特集「東京らしさ」)。

女鳥羽川沿いを歩く。このランドマーク的な建物は旧松本市役所(現在はポーランドの食器・雑貨を扱う「セラミカ松本」)。

コンフィチュールの専門店「シェ・モモ」。ここで妻へのお土産を買う。

甘夏とレモンとラムのコンフィチュール。

二日目の昼食はここでとろうと松本に来る前から決めていた。

高砂通りにある「源智のそば」。11月に松本に来たとき初めてこの店に入ったが、そのときご主人が「新そばももちろんいいですが、2月頃のそばが風味が安定して一番美味しいんですよ」と言ったからである。

桜エビのかきあげ天そばを注文。暖かいので天ざると迷ったが、かきあげを食べるならかけそばにのせて食べたかった。

桜エビのかきあげは別皿で出てきた。

サクサクしたのを食べたいという客もいるからだろう。

私は迷わずそばの上にのせ、箸上から押して、衣に十分汁を吸わせる。食べているうちに衣がとろとろになって、汁に旨味が溶け込んでいくのがいいのだ。

かたわらの黒板を見ると、「ふきのとうの天ぷら」と書かれている。迷わず追加注文する。

春を感じる美しい緑色である。白い四角は何だろう(餅か?)と思ったら、山芋の天ぷらだった。

ごちそうさまでした。

さて、昨日に続いての「栞日」である。

昨日はAさん同伴のおしゃべりカフェであったが、今日はものおもいカフェである。

昨日はバイトの子だったが、今日は奥様がいらした。菊地さんも奥さんも松本の人ではないので、冬の寒さはいつも堪えるという。とくに今年の寒さは格別で、「心が折れそうでした」とのこと。東京でも久しぶりに朝に氷が張ったときのことである。

菊地さんは二階で本の整理をしていた。こんにちは。

「昨日はずいぶん繁盛でしたね」「昨日は特別ですね。ふだんはこんなもんです」

昨日と同じシナモンドーナツとホットジンジャーを注文。

席は全部空いているが、私の一番のお気に入りは昨日と同じこの窓際の机だ。

滞在時間は2時間に及んだ。今回読んだ本で一番はこれ。

黒田三郎の詩集『小さなユリと』(夏葉社、2015)。1960年に昭森社から出た詩集の復刻本だ。ユリとは黒田の娘の名前。装画はユリが描いた父の絵である。

12篇の詩の中から1つ紹介しよう。「小さなあまりにも小さな」

 小さなあまりにも小さな
 ことにかまけて
 昆蟲針でとめられた一羽の蝶のように
 僕は身動きひとつできない
 僕のまわりを
 すべては無声映画のように流れてゆく

 両国の川開き
 徳球北京に死す
 砂川の強制測量開始
 台風二二号北進
 すべては
 無言で流れ去るばかりだ

 自己嫌悪と無力感を
 さりげなく微笑みでつつみ
 けさも小さなユリの手を引いて
 僕は家を出る
 冬も真近い木洩れ日の道
 その道のうえを

 初夏には紋白蝶がとんでいたっけ
 「オトーチャマ イヌよ」
 「あの犬可愛いね」
 歩いているうちに
 歩いていることだけが僕のすべてになる
 小さなユリと手をつないで


(この写真は復刻本の別冊の解説に載っていたもの)

徳球こと徳田球一が北京で客死したのは1953年のことである。砂川闘争(東京都砂川町の米軍基地拡張の反対運動)はその数年後のことである。戦後の日本社会が政治の時代から経済の時代へと移行しつつある時代である。私は1954年の生まれであるが、上の写真にあるような黒く(茶色だったか)塗られた板塀がしだいにブロック塀にとって変わられる時代であったことを記憶している。急速に変わっていく世の中で、そこだけは無風のような、 娘との時間を描いた「私詩」(黒田の造語)である。

「あとがき」で詩人はそうした至福の時間の終りについて書いている。

**********

 ここにささやかな私詩をあつめて詩集をあんだ。おしまいに「産婦室十号」という詩をつけて、しめくくりにしようと思うのだが、その「産婦室十号」が一向に出来上がらないのである。

  それはもう笑い話になってしまった。
  バスに轢かれて
  救急車で病院へ送られた
  翌朝
  かんかんに怒った妻は
  即日退院して青白い顔でやってきた
  それ見たことかという見舞客たち
  こうなればもう何も何もかも笑い話にするほかはあるまい。

 空室がないので「産婦室十号」にかつぎこまれたところで、僕の「小さなユリと」の生活は終った。
 ボーナスをもらった土曜日の午後、小さなユリのオーバーやスカート、靴下など、それまで買おうと思って買えなかったものをいぺんに買って、一杯のんでいい機嫌で、そいつを玄関口にほうりこみ、ユリを迎えに出たところで、轢かれたのである。預け先で遊んでいたユリは「よっぱらいがバスにひかれて死んだんだって」とニュースを知ったという。
 「産婦室十号」がそれから四年たってまだ出来上がらないのは、「こうなればもう何もかも笑い話にするほかはあるまい」と考えながら、一向に「笑い話にする」ことができないからである。私詩といっても、もとより心の記録で、必ずしも「小さなユリと」の生活の記録ではないからかもしれない。

**********

 当時、黒田の妻光子は結核で入院しており、黒田は娘のユリを幼稚園に送り届けてから会社に出て、夕方、会社からの帰りにユリを近所の小母さんのところから連れて帰った。そして、夜、ユリを寝かしつけてから、飲み屋へ出かけた。そういう日々に書かれた詩を集めた詩集が『小さなユリと』である。そういう生活も黒田がバスに轢かれて大けがをして終わったのである。

 「栞日」を出る頃、雨脚はだいぶ弱まってきた。「まるも」へ向かう。

「まるも」は一つ橋の手前にある。

 

テーブルと椅子は松本民芸家具で統一されている。

店内にはクラシック曲が静かに流れている。ここも私にはもの思いカフェである。

ブレンドコーヒーを注文。この店のモーニングを朝食にしたいと思いつつ、まだ実現していない。

「栞日」では『小さなユリと』のほかに、もう一冊、伊丹十三の単行本未収録エッセイ集『ぼくの伯父さん』(つるとはな、2017年)を購入した。没後二十年とあるが、彼が亡くなった(自死だった)とき彼は64歳だった。私は来月、彼が亡くなったのと同じ歳になる。

 

『ぼくの伯父さん』という書名は、収録されているエッセイの1つ「ぼくのおじさん」に由来するものだろう。「ぼくのおじさん」は雑誌『モノンクル』の創刊を前に『文藝春秋』1981年7月号に書いたものである。『モノンクル』は好きな雑誌だったが、6号で休刊になった。書庫をさがせばあるはずである。「ぼくのおじさん」から引用する。

 「少年である僕がいるとしますね。少年は当然親の押しつけてくる価値観や物の考え方に閉じこめられている。これはもう生まれた時からずっと閉じ込められれているわけですから、当人にとってはいわば自明のことであって、従ってあんまり当たり前すぎて閉じ込められているということにも気づかずにいるわけですかが、でもなんだか毎日がうっとうしい。
 そんなところに、ある日ふらっとやってきて、親の価値観に風穴をあけてくれる存在、それがおじさんなんですね。「男なら泣くな」なんて親ならいうところを「人間誰だって悲しい時には泣くんだ。悲しけりゃ泣いてもいいんだよ」みたいな、親のディスクールと違ったディスクールで来る人、それがおじさんなのね。あるいはカーブの投げ方教えてくれたり、コーヒーなんか飲ましてくれるかもしれないよね。おじさんは遊び人で、やや無責任な感じだけど、本を沢山読んでいて、若い僕の心をわかろうとしてくれ、僕と親が喧嘩したら必ず僕の側に立ってくれるだろうような、そういう存在ですね。おじさんと話したあとは、なんだか世界が違ったふうに見えるようになっちゃったㇳ、そういう存在が、まあ、僕におけるおじさんというイメージなんですよね。(中略)
 でね、そういうおじさんの役割を果たすような雑誌を作ろう、と僕は思い立ったのであった。」(222-223頁)

たぶん私はこの文章をリアルタイムで読んでいる。当時、私は27歳の大学院の博士課程の学生だったが、「おじさん」という斜め45度の関係は、将来、自分が大学教師になったときの学生との関係における理想的なポジションではないかと思ったものである。

「まるも」を出て、中通りを「chiiann」へ向かう。最初と最後は同じカフェで。 

 

昨日の夜、私は「ガルガ」に行っていて行けなかったが、「栞日」で「松本の冬と小商い」というトークイベントがあった。3人の店主さん(「chiiann」のご主人もその1人)の座談会で、「栞日」の菊地さんが進行役だった。

「トークイベントはどうでしたか?」と私が尋ねると、ちょっと渋い顔をされて、「いまひとつでした」と答えられた。一般の(関係者ではない)参加者が少なかったそうだ。渋い顔のご主人のかたわらで、奥様が「まあ、まあ」とほほえんでいる。

カステラと紅茶を注文。

2人連れの女性客が入ってきたのを潮時に席を立つ。

「次は5月ころでしょうか?」と奥様が言われた。奥様にそういわれると、そうしないではいられない気がします。

預けている荷物を受け取りにホテルへ。

ホテル1階の「ガスト」で朝食兼(1200円相当)を使って早めの夕食をとる。18時35分発のスーパーあずさ号までの時間をここで過ごすのだ。

鮪のたたき定食。このところ松本での最後の食事はこのパターンだ。

+200円で鮪が1.5倍に増量になる。

 食事を終えて、ホテルのフロントで荷物を受け取り、松本駅へ。

定刻より少し遅れて、21時15分頃、新宿着。

10時、帰宅。玄関でなつが出迎えてくれ、一緒に家の中へ。

ただいま。

1時半、就寝。